Queen of a Blue Dress

2011/10/24(月)09:05

昨日は

行ってきた(40)

法事でした。 法事と言っても親族が集まって、お墓参りをする程度のもので、卒塔婆を立てる訳でもなく、坊さんにお経を読んでもらうでもない・・・極簡略化したものでした。 故人をしのび、意味を理解していないお経を唱えるのもなにか釈然としないし、卒塔婆がなんの供養になるのかも判らない・・・では、形だけそうする意味はないように思います。 北野たけし氏は、「墓参りは墓に行く途中に意味がある。行く途中でいろいろなことを考え、思い出し・・・が重要」とさる番組の中で言っていました。 確かにそう言うことなのだと思います。 故人のことを考え、墓の掃除をし、花を供え・・・といった一連の動作の中に、それぞれの抱える思い出やら、故人に報告することを考えたりする・・・これ自体が「墓」に「参る」ことであって、手を合わせる瞬間には「参った」になっている。 そう考えると、私自身が「仏」を尊ぶことは肯定しても、「宗教」という観点から成仏とかには否定的で在るが故に、坊さんやらお経といった半ば形式的な「祭儀(もしくは、行事)」はぴんと来ない。 卒塔婆にしても、戒名といったものにしても、読経にしても・・・坊さんが儲かる(設ける必要はどこにもない)システムにほかならない。そんなことをしなければ、故人が浮かばれない・・・という道理はどこにもない。本来、仏に仕えるというのであれば、日常的に坊さんは檀家さんの墓を参り、読経をし、成仏を促すべきなのだろうし、そこに至っては「金」は無関係なもののはずだ。 要は、参る人間の気持ちなのだし、それが墓前であろうと、自分の家の居間であろうと・・・本来であれば、場所や時間なんかだって気にするものではない。そういう心を持つかどうか・・・の問題。 気持ちがなければ、いくら手を合わせたところで・・・だ。

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