確率とは主観的なもの?

日学問、特に、科学関係の分野では、客観性が重んじられます。

例えば、偏りのないサイコロでは一つの目が出る確率は1/6である
と言います。本当にそうでしょうか。全知全能の神様が1を出そうとしたら、1になるのではないですか。そこまでは行かないとしても、人間でも、練習したら、出そうと思う目を1/6より大きい確率で出せる人がいるのではないでしょうか(「偏りのない」サイコロで)。

上の1/6という確率はなんでしょうか。これはサイコロの持つ「性質」なのでしょうか。そうではないでしょう。1/6だという人は、サイコロについても、その振り方についても何も知らない(知識を持っていない)と言えるでしょう、つまり、ある目が他の目より多く出るかどうか分からない、だから、それぞれの目が出る確率は同じであるとしか言えない、ということです。

天気だってそうです。明日の予報は晴れ70%だったとします。
しかし、農家の人が空を見ただけで明日は晴れと分かる(当たる率95%;70%とは少し意味が違うかもしれませんが)かもしれません。また、都会の人なら当たる率は50%かもしれません。物理現象から言うと、どうなるかは決まっているのでしょう。だから、きちんと解析できれば、100%の確率で晴れるとか晴れないとか言えるはずです。

つまり、確率とは、それを言う人の知識(信念でもいいでしょう)の度合いと言った方がよいと思います。その人の価値観とか人間性とかいったものまで含まれると思います。私は確率をそのように考えています。

いくつか例を挙げてみましょう。

ある人がある行為をしたとします。その人は恥ずかしいと思わないかもしれませんが、他の人にとっては恥ずべき行為と思われることがあります。また、ある国では非常に恥ずかしい行為になりますが、他の国では全くそのようなことはないというようなこともあるでしょう。

新製品の製造などで、あることをやるとこうなるに違いないと思う人と思わない人がいたとします。もしその現象が失敗につながるようなことだと、二人が感じる成功の確率というのは全く違うものになるでしょう。

もし、ある人が、コインを投げてから、落ちて止まるときまでのコインの運動を計算できるようにしたとしたら、その人は投げるときに、表か裏のどちらが出るかを予測できるわけです。また、いつも表を出せる機械を作ることもできるでしょう。一般の人はそういうことを知らないので、表の確率は1/2だと言うわけです。

明日、午前10時に私がAさんに会う確率はいくらでしょうか。私がもしAさんに会う約束していて、Aさんが約束を守る人だと知っていれば、私も時間は守るので、私がその確率を聞かれたら、95%とでも答えるでしょう。一方、何も知らない人がそれを聞かれても、分からないので、低い確率を言うでしょう。

研究で、新しい方法を見つけられるかどうかなどの確率も、いろいろな可能性を考えつくことができるかどうかということだけで、成功の確率が大きく違ってしまうのです。同じ頭(考える力)を持っている人でも、やる気があるかどうかによってもこの確率は変わってしまいます。仕事が楽しかったり、面白かったりするときも好奇心が旺盛になっているでしょうから、成功の確率は上がるでしょう。面白くないと思って、いやいやながらやっていては多分失敗でしょう。このようなとき、本人、上司、第三者、本人の家族などで確率がいろいろと変わってくるでしょう。

このような研究をやる場合、やることは分かっていて、道具は揃っている、という場合でも、誰がやるかによって、うまく行く確率(本人が感じる確率)が大きく変わってしまいます。面白い、楽しい、絶対やってやるんだと思う人にとっては、成功する確率も大きくなるはずです。第三者から見てもそうなると思います。

定性的には、このように言えますが、確率の値を計算したいと思うと、このような人間的な要素をどのように評価するかが問題になります。

しかし、多くの場合、このことを認識しているだけでも有利になります。私なんて、偉そうにこのことを言っていますが、いざとなると、他の人も私と同じような考え方をすると思い込んでしまって馬鹿な失敗をするのです。

統計学から学ぶ(まだ学べませんが)一番大事なことは、いろいろな可能性を洗い出すことで、その可能性が人によって大きく違うことがある(これも大きい意味の可能性)ということだと思います。(いろいろな場合の確率の定義を考えることと言えるかもしれません。)

いろいろな可能性を考えよう!!



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