テーマ:☆詩を書きましょう☆(8326)
カテゴリ:象の椅子
百人のダリが曲がっている。
中庭でベンチに腰掛けながら、ジョン・ダンの詩集を読んでいると、小さい虫がページの うえに、で、無造作に手ではらったら、簡単につぶれて、ページにしみがついてしまって、 で、すぐに部屋に戻って、消しゴムで消そうとしたら、インクがかすれて、文字までかす れて、泣きそうになった、買いなおそうかなあ、めっちゃ腹が立つ。虫に、いや、自分自 身に、いや、虫と自分自身に。おぼえておかなきゃいけないね、虫が簡単につぶれてしま うってこと。それに、なにするにしても、もっと慎重にしなければいけないね、ふうって 息吹きかけて吹き飛ばしてしまえばよかったな。ビールでも飲もう。で、これからつづき を。まだ、ぜんぶ読んでないしね。ああ、しあわせ。ジョン・ダンの詩集って、めっちゃ 陽気で、えげつないのがあって、いくつもね。ブサイクな女がなぜいいのか、とかね。吹 き出しちゃったよ、あまりにえげつなくってね。フフン、石頭。いつも同じひと。どろど ろになる夢を見た。 科学的探究心 きょうも、中庭で、ジョン・ダンの詩集を読んでいた。もう終わりかけのところで、昼 食の時間を知らせるチャイムが鳴った。ぼくは詩集をとじて、立ち上がった。ちょっとよ ろけてしまって、ベンチのうえにしりもちをついてしまった。すると、噴水の水のきらめ きと音が思い出させたのだろうか。子どものときに弟のところに行こうとして、川のなか でつまずいておっちんしたときの記憶がよみがえったのであった。鴨川で、一年に一度、 夏の第一日曜日か、第二日曜日に、小さな鯉や鮒や金魚などを放流して、子どもたちに魚 獲りをさせる日があって、なんていう名前の行事か忘れてしまったのだけれど、たぶん、 ぼくがまだ小学校の四年生ころのときのことだと思う。川床の岩(いわ)石(いし)につまず いて、水のなかにおっちんしてしまったのである。そのときに、水際の護岸の岩と岩のあ いだに密生している草の影のところの水が、日に当たっているところの水よりはるかに冷 たいことを知ったのだった。しかし、川の水は流れているわけだし、常時、川の水は違っ た水になっているはずなのに、水際の丈高い草の影の水がなぜ冷たいのかと不思議に思っ たのであった。ただし、ぼくが冷たいと思ったのは、川のなかにしゃがんで伸ばした手の さきの水だったので、水面近くの水ではなくて、水底に近い部分だったことは、理由とし てあるのかもしれない。水底といっても、わずか2、30センチメートルだったとは思う のだけれど。子ども心に科学的探究心があったのであろう。水のなかで日に当たっている ところと水際の草の影になっているところに手を伸ばして行き来させては、徐々に手のひ らを上げて、その温度の違いを確かめていったのだから。水面近くになってやっと了解し たのだった。水の温みは太陽光線による放射熱であって、直射日光の熱であったのだった。 すばやく移動しているはずの水面近くの日に当たっているところと影になって日に当たっ ていないところの温度は、太陽光線の放射熱のせいでまったく違っていたのだった。いま でも顔がほころぶ。当時のぼくの顔もほころんでいたに違いない。40年以上もむかしの ことなのに、きのうしゃがんでいたことのように、はっきりと覚えている。あっ、あの行 事の名前、鴨川納涼祭りだったかな。それとも、鴨川の魚祭りだったかな。両方とも違っ てたりして。 ゴリラは語る 弟の子どもの双子の男の子たちの勉強をみているときに、大谷中学校の2013年度の 国語の入試問題のなかに、山極寿一さんの『ゴリラは語る』というタイトルの文章が使わ れていて、その文章のなかに、おもしろいものがあった。「「遊び」というのは不思議な もので、遊ぶこと自体が目的です。」「ゴリラは、日に何度も、しかもほかの動物とは比 べものにならないほど長く、遊び続けることができるのです。」、「時間のむだづかいに も見える「遊び」を長く続けられるのは、遊びの内容をどんどん変えていけるからです。」 いや~、これを読んで、ぼくが取り組んでる詩作のことやんか、と思った。ゴリラとは、 ぼくである。ぼくとは、ゴリラであったのだ~と叫んで、弟の子どもたちとふざけて、部 屋じゅう追いかけっこして騒いでいたら、突然、部屋に入ってきた弟に叱られた。ちょっ とイヤな気がした。 死父 朝、死んだ父に脇腹をコチョコチョされて目が覚めた。一日じゅう気分が悪かった。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2015年05月06日 21時53分38秒
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