詩誌AVENUE【アヴェニュー】~大通りを歩こう~

2016/01/19(火)18:43

1 ORDINARY WORLD° 4/5 詩:田中宏輔さん 『全行引用詩・五部作』より

Atsusuke Tanaka 【全行引用詩1】(5)

  「いや、シェイクスピアの再来かもしれない人間は、この劇団にはひとりしかいない。それはビリー・シンプスンだ。そう、小道具のことだよ。彼は聞き上手だし、どんな人間ともつきあう方法を心得ているし、さらにいえば心の内側にせよ外側にせよ、人生のあらゆる色と匂いと音をネズミとりのようにとらえる心をそなえている。それに非常に分析的だ。ああ、彼に詩の才能がないことは知っているよ。でも、シェイクスピアが生まれ変わるたびに詩の才能をそなえているとはかぎらない。彼は十人以上の人生をかけて、劇的な形をあたえた素材のひとつひとつを集めたのではないだろうかね。寡黙で無名のシェイクスピアが、つつましい人生を重ねながら、いちどの偉大な劇的なほとばしりに必要な素材を集めたという考えには、なにかとても胸を刺すものがあると思わないかね? いつかそのことを考えてみたまえ」    (フリッツ・ライバー『『ハムレット』の四人の亡霊』中村 融訳)  フェンテスは彼の方法の鍵を私たちに与えています。「ひとりの人物を創るためにはいくつもの人生が必要だ」、というのがその鍵です。 (ミラン・クンデラ『小説の精神』第3部・諸世紀の空のもとに、金井 裕・浅野敏夫訳)  「犬、たぶんくたびれて寝てるんだね」とゾフィアはあたしに言った。「悪夢だってたまには眠らないとね」 (ケリー・リンク『妖精のハンドバッグ』柴田元幸訳)    リタは、思い出のなかにうかびあがってくるのはちいさなこまごまとしたものなのだ、とおもった。わが家のちいさなものはどれもいとおしい。ちいさなものひとつのほうが、テーブルのうえの半ダースもの品々よりも、たくさん口をきいてくれるから。    (アン・ビーティ『愛している』26、青山 南訳)  わたしが裏口から通りに出たとき、トランクの中で音がし、バァーという声がした。アルベルト・キシュカはかくれんぼをしていた。 (イヴァン・ヴィスコチル『飛ぶ夢、……』千野栄一訳)  ジェラールに軽々しく扱われたのは、自分で自分を軽々しい扱いに値いする人間にしていたからだ。 (P・D・ジェイムズ『原罪』第五章・63、青木久恵訳)  足音がジャーミン通りをゆっくり近づいてきた。そしてはたと止まった。パワーズ船長は目くばせし、シオフィラス・ゴダールはわずかにうなずいた。足音はまた聞こえ始めた。道路を渡ってキーブルの家のほうに向きを変えた。 (ジェイムズ・P・ブレイロック『ホムンクルス』1、友枝康子訳)  するとスクラトン先生が通りかかった。この人はまったくいいおやじだ。この谷間じゅう捜したってスクラトン先生よりすばらしい男はいやしない。先生のけつは脱腸なんだ。ねじこんでもらいたいときには腸を三フィートものばして相手に渡すのさ…… また、その気になれば腸の一部分だけを落っことして、自分の事務所から遠く離れたロイのビヤホールまで行かせることだってできる。腸は蛆虫のようににょろにょろはいまわってピーターを捜しにゆくんだ…… (ウィリアム・バロウズ『裸のランチ』普通の男たちと女たち、鮎川信夫訳)  リーは身動きした。とじたままでいようとして、まぶたがぴくぴくした。しかし意識と明るくなる光とが、むりにその目をあけさせた。 (ゼナ・ヘンダースン『果しなき旅路』1、深町真理子訳)    ──あの畜生みたいな男の相手をして、さぞ困ったでしょう?」とたずねても、セヴリーヌは答えずに、かえって、熱っぽい笑いを見せた。アナイスの家の女たちは驚いてお互いに顔を見合わせた。彼女たちは今、昼顔が、そのときまで、一度も笑ったことのないのに気づいた。    (ケッセル『昼顔』六、堀口大學訳)  ヘーゲルにとって、全体とは、各部分の総合以上のものだった。実のところ、各部分の意味がよくわかるのは、それが全体に属しているからなのだ。ヘーゲルはそれをこう定義している。「真理は全体である」 (ジョン・T・ウィリアムズ『プーさんの哲学』6、小田島雄志・小田島則子訳)  「個人的には」と、ホーガン社長はいった。「わしは寄せ波にプカプカうかぶプラスチックびんを見るのが好きだ。よくわからんが、なんだか自分が、永久に残るものの一部になったような気がする。きみに伝えてもらいたいのは、この感情だ。さあ、もどって短報の仕事を片づけろ」 (フレデリック・ポール&C・M・コーンブルース『ガリゴリの贈り物』浅倉久志訳)    そう言ったあと、彼はサモサタのルキアノスが『本当の話』のなかで語っていた言葉を思い出した。”私は、目に見えず、証明もできず、ほかにだれも知らないことを書く。さらには、絶対に存在しないもの、存在する根拠のないものについて書く。”いやでも頭にこびりついている文章だ。  (フェリクス・J・パルマ『時の地図』第一部・12、宮崎真紀訳)  ピートは人間すべての手をポケットに深く突き入れると、ゆっくりした足どりで外野席に引きかえしていった。 (シオドア・スタージョン『雷と薔薇』白石 朗訳)  (あらゆる人間と同じように)アレハンドラが具えていた多くの顔の中でも、その写真の顔はマルティンにはもっとも近しい、少なくとも近しかった顔だった、それは深みのある表情、手に入れられないと初めから分っていながら求めずにはいられないでいる人間のいくぶん淋しげな表情だった、まるで切望(つまり希望)と絶望は同時に現れうるとでもいうような顔、先に絶望しているとはいえ願わずにはいられないというような顔だった。 (サバト『英雄たちと墓』第IV部・5、安藤哲行訳)  ヘアーは笑いだした。彼女がそれを隠すためにタバコを吸ったことが、かえってそれを明らかにしてしまったことがおかしかった。若い──彼女がもっと年をとり、経験を積めば、若さを暴露したりはしないだろうが、この朝の一瞬にはたしかにそうだった。若者たちにまじってトラックの排水口の上にすわっていると──注目されたいのにまだ注目してもらえず、欲望のあまり、生まれたばかりのやわらかい自我をいっそう明らかに、こちらの感覚にぴりぴりひびくように見せている若者たちにまじっていると──ふとヘアーは、この世界がどれほどうまくまとまっているか、人びとがそこにどれほどしっくり適応しているかを実感した。その継ぎ目のない行動場のなかに、この自分も不安をかかえたままでやはり適応しているのだ。自分がうまく適応していないという不安までが、結局はそこに適応しているのだ。 (ジョン・クロウリー『青衣』浅倉久志訳)    ジョシュアは、あたかも影それ自体が人間の姿をまとったかのごとく、影のなかからふいに出現した。    (ジョージ・R・R・マーティン『フィーヴァードリーム』12、増田まもる訳)  アルビナは彼にパン屑(くず)とチーズを食べさせはじめた。ミンゴラにはその中断がありがたかった。老人の描写に耐えられなくなってきたからだ。 (ルーシャス・シェパード『戦時生活』第二部・8、小川 隆訳)  スウェインは肩をすくめて、にっこり笑ったが、室内の人間より部屋全体に向けた微笑に見えた。 (P・D・ジェイムズ『死の味』第二部・5、青木久恵訳)  アギアには貧乏人特有の、希望に満ちてもいるし絶望的でもある勇気があった。たぶんこれは人間すべての特質の中で、最も魅力的なものだろう。そして、わたしにとって彼女をより現実的なものにする様々な欠点を見つけて、わたしはうれしかった。 (ジーン・ウルフ『拷問者の影』19、岡部宏之訳)  でも絵は見られてしまった、手からもぎ取られたような気分だ。この人は、わたしの心の奥にある内密なものを分けもつことになった。むしろそのことに対してラムジー氏やラムジー夫人に感謝し、この時間この場所にも感謝したかった。 (ヴァージニア・ウルフ『灯台へ』第一部・9、御輿哲也訳)  ふたりが並んで道を歩いているとき、バッリは自分の願望を口に出さなかったが、エミーリオは、このような友の気遣いによって気が楽になることはなかった。というのも、友が言葉にしなかった欲求が、エミーリオには実際よりも大きく思え、それに胸が苦しくなるほど嫉妬していたからだった。すでにバッリは、彼自身と同じくらいアンジョリーナを求めていた。このような敵からどうやって身を守ればよいのだろう? (イタロ・ズヴェーヴォ『トリエステの謝肉祭』11、堤 康徳訳)  夜風はリンゴみたいな匂いがする。きっと時間というのもこういう匂いなんだろう、とエドは考える。 (ケリー・リンク『しばしの沈黙』柴田元幸訳)    「きみを永遠に愛する」とジョナサンが誓った。 「あなたはもう、そうしたのよ」とエレナは答えて、ジョナサンの髪を撫でた。    (イアン・ワトスン&ロベルト・クアリア『彼らの生涯の最愛の時』大森 望訳)  共通の夢がふたりのあいだの空間に形をとりはじめるにつれて、アレックスは何度かつづけざまにまばたきした。「ワーオ」 (アダム=トロイ・カストロ&ジェリイ・オルション『ワイオミング生まれの宇宙飛行士』浅倉久志訳)  『イエイツはつねに誠実だ』これは随分はびこっていてね、批評家がある作家の誠実さについて語るのを聞くようなとき、わたしにはその批評家か作家のいずれかが馬鹿だとわかるんだ (ナボコフ『青白い炎』註釈、富士川義之訳)  さらに、おどろくことに、ハイデガーはこうことばを続けている。「歌は、歌になってからうたわれるのではない。そうではなくて、うたっているうちに、歌は歌になるのだ」 (ジョン・T・ウィリアムズ『プーさんの哲学』7、小田島雄志・小田島則子訳)    「顔よ」マータは楽しそうに言った。「あなたのために、いろいろな顔を持ってきてあげたのよ。男、女、子供。ありとあらゆる種類、身分や大きさの」    (ジョセフィン・テイ『時の娘』2、小泉喜美子訳)  おお ロバート──そして涙はない (ジェイムズ・メリル『ページェントの台本』下・コーダ、志村正雄訳)  彼らは会話を始めた。タミナの好奇心をそそったのは彼の質問だった。といっても、その内容のせいではなくて、彼が自分に質問をするというたんなる事実によってだった。まったく、人に何も訊かれなくなって何て長い時間がたったことだろう! 彼女はそれが永遠だったような気がした。ただ夫だけは絶え間なく質問をしてくれたものだった。というのも、愛とはたえざる問いのことだからだ。そう、私はそれほどよい愛の定義を知らないのである。 (ミラン・クンデラ『笑いと忘却の書』第六部・5、西永良成訳)  スペンサーがコーヒーを持ってきたので、叔母は言葉を切った。「あなたがディタレッジ・ホールで息子のオズワルドを池に落としたとか何とか、とんでもない話を信じ込んでいらっしゃるらしいの。まさかねえ。いくらあなただって、そんなことはしないでしょ」 (P・G・ウッドハウス『ジーヴズとグロソップ一家』岩永正勝・小山太一訳)  記述はオウルズビーの死ぬ前日で切れていた。セント・アイヴスは呆然とした。まるで突然それが乾いてしまった小さな害獣の死体にでもなったように、ノートをテーブルの上に取り落した。 (ジェイムズ・P・ブレイロック『ホムンクルス』4、友枝康子訳)  だがさしあたってはすべてとても平穏だ。快適な旅行馬車は走り、ニコラの母、エヴゲーニヤ・エゴーロヴナはハンカチで顔を覆ってまどろみ、その隣では息子が寝そべりながら本を読んでいる。そして道路の窪みは窪みの意味を失って、印刷された文字列のでこぼこや、行の跳ね上がりにすぎなくなる。そして再び言葉が滑らかに通り過ぎてゆく。木々が通り過ぎ、木々の影が本のページの上を通り過ぎる。さあ、いよいよペテルブルクだ。 (ナボコフ『賜物』第5章、沼野充義訳)    「オズワルドは、あなたに突き落とされたと言い張っています。サー・ロデリックがそのことを気になすってお調べになったものだから、亡くなったあなたのヘンリー叔父さんのことが明るみに出たみたいなのよ」    (P・G・ウッドハウス『ジーヴズとグロソップ一家』岩永正勝・小山太一訳)  ニーファイ・サーヴァントの顔は、彼の性格をよく表わしていた。その横顔は、クルミ割りか、やっとこの曲った顎のようだった。彼は自分の顔に忠実だった。 (フィリップ・ホセ・ファーマー『太陽神降臨』12、山高 昭訳)  そうしてわたしもヘオルヒーナの心の奥底で起きたことを、わたしにとってはもっとも懐かしい部分に起きたことを、いくぶん知ることができたのだった。 だが、それがいったい何になるというのか? 何になると? (サバト『英雄たちと墓』第IV部・3、安藤哲行訳)  アシル氏は幸福だ。まるでずっと前から幸福ではなかったみたいである。 (サルトル『嘔吐』白井浩司訳)  叔母は深刻な顔で僕を見やり、僕は神妙な顔でコーヒーを飲んだ。二人は一族の墓穴を覗き、ひとつの亡骸(なきがら)を眺めているわけだ。亡くなったヘンリー叔父は、ウースター一族の汚点ということになっている。 (P・G・ウッドハウス『ジーヴズとグロソップ一家』岩永正勝・小山太一訳)    ギャスとおなじ世紀に生まれて死んだ、哲学者であり、数学者でもあったバートランド・ラッセルなる人物は、こんなことを書いている。”言葉は思いを表明するだけのものではなく、思考を可能ならしめるものである。言葉なくして、思考は存在しえない”。しかり、言葉にこそ、人類の非凡なる創造的才能の真髄はある。文明の生んだ大いなる建造物にも、その文明を葬りされるほど強力無比の兵器にも、それはない。卵子を襲う精子のごとく、新しい概念を受胎させうるのは、唯一言葉だけだ。言葉/概念なるシャム双生児こそは、混沌とした大宇宙に対して人類という種がなしうる──なすであろう──なすべき──ただひとつの貢献なのだ。    (ダン・シモンズ『ハイペリオン』上・詩人の物語、酒井昭伸訳)  わざわざセント・アイヴスのために豆を一粒上げて見せた。まるでそれがふたりで検討できる魅力的な小世界だとでもいうように。 (ジェイムズ・P・ブレイロック『ホムンクルス』12、友枝康子訳)  ときどきティンセリーナは、留守番電話のメッセージのようなしゃべりかたをすることがあります。あまり何度もおなじ言葉をくりかえしたので、意味を忘れてしまったかのように。 (トマス・M・ディッシュ『いさましいちびのトースター火星へ行く』浅倉久志訳)    「それで、第三の意味は?」ドルカスは尋ねた。    (ジーン・ウルフ『拷問者の影』32、岡部宏之訳)  教えたり説教したりすることは、元来、人間の力に余るのかもしれない、とリリーは思った(ちょうど絵具を片づけているところだった)。高揚した気分の後には、必ず失望が訪れます。だのに夫人が夫の求めに簡単に応じすぎるから、家計に落差が耐えがたくなるんですよ、と彼女は言った。 (ヴァージニア・ウルフ『灯台へ』第一部・8、御輿哲也訳) おれの体は怒れる鳥たちがさえずり鳴く気違い病院だった。デービッドが身構えるようにあとずさり、レイチェルの耳に警告の言葉を囁いたとき、おれはスーパーマーケットの店先で立ちどまった。子供たちが足もとで騒ぎたてるなかで、おれは十羽あまりの小鳥や一羽のオオハシ、そして、もみくしゃにされたハヤブサを解放してやった。一声、嫌悪の叫び声を発して、ハヤブサはおれの肩からぱっと舞いあがった。身をかがめて、おれは背中から不格好なフラミンゴを押し出した。神経質な不具者のように、その不格好な鳥は長い脚を広げながらもがき出てきた。フラミンゴがおれの肩によじ登ってガソリンスタンドめがけて飛び去っていくと、子供たちはわあっと叫び声をあげた。おれは顔を隠し、そして、口から一羽のハチドリをひょいと出してみせた。ショーのフィナーレとして、残りの鳥を体じゅうからぱっと解き放ち、この商店区域を翼と羽毛の奔流でみたした。 (J・G・バラード『夢幻会社』27、増田まもる訳)  彼よりほかに知るよしもない、この部屋以外の、あらぬところをじっと見つめながら、イポリドは、三人の女が居心地わるい怯(お)じけた気持でいると見てとった。 (ケッセル『昼顔』七、堀口大學訳)  ルーシーとミンネリヒトの会話には、ブライアには呑み込めない事情、背景のわからない事柄がひしめいているようだった。 (シェリー・プリースト『ボーンシェイカー』22、市田 泉訳)  ルーシーはうなずいた。彼女もときどきしていることを、レスはいましていた。信じがたいのは分かるが、それは馬鹿げたやり口だった。事実を何回も口にして、そうやって時間を稼いでいれば、話のべつな結末が聞けるかもしれない、と考えるなんてことは。 (アン・ビーティ『愛している』27、青山 南訳)  ジェイクが外のポーチに座ってるすごくいい写真がある。笑っていて、出てくる笑いをつかまえようとしてるみたいに片手を口に当てている。 (ケリー・リンク『妖精のハンドバッグ』柴田元幸訳)  夫人のスピーチが終わって気がつくと、ダルグリッシュとマシンガムは居間に通されていた。 (P・D・ジェイムズ『わが職業は死』第三部・1、青木久恵訳)  ハトン氏は黙ってそのありさまを眺めていた。ジャネット・スペンスの様子は、彼の心に尽きせぬ興味をよび起こした。彼は、どんな顔でも内面に美や異様さを秘めているものだとか、女性のおしゃべりはすべて、神秘な深淵の上にかかったもや(、、)のようなものだとか、とそんなふうに想像するほどロマンティックではなかった。たとえば、彼の妻やドリスを考えてみればよい。彼女らは額面以上のなにものでもないのだった。だが、ジャネット・スペンスだけはどこか違っていた。彼女のばあいには、あのモナ・リザの微笑とローマ女ふうのまゆ毛の裏に、何か不思議な顔がのぞいていたのである。ただ一つの疑問があった──そこには正確のところ、何が隠されているのか、ということである。 (オールダス・ハックスレー『モナ・リザの微笑』龍口直太郎訳)    メリーは一昨日から意識がなかった    (ジェイムズ・メリル『ミラベルの数の書』0.4、志村正雄訳)  ジョンは引き返した。通路の中央を埋める岩は、かなり大きいが、経験のない彼の目には、異常なものとは見えなかった。彼は、その一つを取って、黄麻布の携帯嚢に入れた。灰色な斑点の群れが銀色に閃いたと思うと、また灰色に戻って、安全な距離をとりながら整然とした列を組んで浮かび、彼を慎重に観察した。たがいに正確な間隔を保っていて、またもや彼が近づくと即座に散って、彼の視野の外れでふたたび隊列を組み直した。彼らの泳ぎの正確さには、驚嘆すべきものがあった。そういう通常の事柄においては、数学がきわめてなにげなくエレガントに見える、と彼は思った。どうやって自然は、引っ張る流れに対する魚の間隔を指定し、どういう尺度で彼が近づきすぎたことを魚に教えるのか? それが彼を数学に引きつけたものだった。それが深遠だからではなくて、目に見えない現実に探りを入れるからだった。人々は数学が世間離れしていると言い、アインシュタインが正しい銭勘定もできないと騒ぎたてる。とんでもないことだ。アインシュタインは、関心がなかっただけだ。アインシュタインに興味があったのは、深遠で美しいものだったのだ。 (グレゴリイ・ベンフォード『時の迷宮』上・第二部・6、山高 昭訳)  そうした現実のうち、あるものは”高確率”で、あるものは”低確率”だとベク・グルーパーが呼んでいた。世界(ワールド)語には存在しないことばだ。なかには、存在していながら、それと同時に存在していない現実もある。デイヴィッド・ベク・アレンのようなひとが、純然たる意志の力で明らかにしないかぎりは見えなかったようなものが。 (ナンシー・クレス『プロバビリティ・ムーン』エピローグ、金子 司訳)  ジェイクのすごいのは、何をやってもかならず楽しめてしまうところだ。 (ケリー・リンク『妖精のハンドバッグ』柴田元幸訳)  見えすいた相手の思考がいちおう落ちつくまで、ガスはがまん強く待ちつづけたが、彼の心の奥底では、なにかがやりきれないため息をついていた。こうしたばつ(、、)の悪さは、これまでにもたびたびほかの人間を相手に経験して、すっかり慣れっこになってはいる。だが、慣れることと、気にもとめないこととは別物だ。 (アルジス・バドリス『隠れ家』浅倉久志訳)  マイラは、昔なじみのコンプレックスが、他人には絶対知られたくないコンプレックスが、浮上してくるのが、わかった。世間を遠ざけているのはじぶんが失敗者だからなのではないか。強さというよりは弱さのあらわれなのではないか。 (アン・ビーティ『愛している』15、青山 南訳)  マーサはすまして言った。「あなた、気がついてる、アルジー? 彼女はわたしより二十も年上なのよ。可哀そうなアニー。なんていう運命なんでしょう──史上最年長の娼婦とは!」 (ブライアン・オールディス『子供の消えた惑星』1、深町真理子訳)    「希望をお捨てにならないで!」とベティはこちらがぎょっとするほどの大声でいった。この人、クリスチャンかしら、とわたしは思った。二番目の夫と暮らしていたアパートに、やたらにクリスチャンが来たことがあった。それも、エホヴァの証人が。    (アン・ビーティ『一年でいちばん長い日』亀井よし子訳)  トルブコは笑みを浮かべていた。彼は顔を赤らめた。 (アンディ・ダンカン『主任設計者』VII、中村 融訳)  馬の肌に雨の匂いがした。黄色いスリッカーを着、黒いステットソンの帽子をかぶったスティーヴはガイと私に向かって手を振り、雨が灰色の壁のようになって降る中を馬に鞭をいれ、駆け足させた。 (ウィリアム・S・バロウズ『シティ・オブ・ザ・レッド・ナイト』第三部、飯田隆昭訳)  庭には花をつけた木が一本あった。いま、こうして近づいてみると、ちっぽけな猫がマザー・トムの大きな足の下で丸くなっているのが見えた。マザー・トムの手が上がり、花びらが一枚、木から落ちてひらひら舞いはじめた。マザー・トムの手が高く上がって振られる。花びらが地面に落ちる。マザー・トムがほほえみ、足もとの猫がのんびりと目を閉じる。マザー・トムが手を下げる。笑みが消え、手が体のわきにもどる。それから庭全体が、一瞬ぴくっと揺れたように見えた。マザー・トムの顔がむっつりいかめしく気づかわしげな表情になる。猫の目が警戒するようにぱっと開いた。マザー・トムの手が前とおなじように上がり、顔が明るくなって笑みが浮かび、猫の目が閉じはじめる──そしてまた一枚、木から花びらが落ちてくる。ぴったりおなじタイミングで。(…)マザー・トムが手を振る。猫が眠る。花びらが落ちる。小さな閉ざされた場所に永遠に閉じ込められたような、窒息しそうな感覚とともに、ぼくはそのときさとった。落ちてくる花びらはすべて、一枚の花びらなんだ。マザー・トムが手を振るのは、一回きりのことなんだ。そして、冬はけっして来ない。 (ジョン・クロウリー『エンジン・サマー』大森 望訳)  あと五分待って、スーザンに電話しよう。五分。そうしたらもう一度電話するのだ。時計の針は動いていないけれど、待つことはできる。 (ケリー・リンク『しばしの沈黙』柴田元幸訳)  「でも、ホームズ君、ぼくにはなんのことだか──」 (ヒュー・キングズミル『キトマンズのルビー』第十六章、中川裕朗訳)    この少女はハミダにちがいない。当時十二歳くらいのはずだが──この地方ではよくあるように──体が未熟な分だけ精神的にはませているという、不幸にとっては格好の条件を満たしていたのだ。    (ミシェル・トゥルニエ『メテオール(気象)』第十六章、榊原晃三・南條郁子訳)  フローラもよくそこにいて、デッキチェアに寝そべっていたが、ときおりそれを移動させて、いわば夫のまわりに円を描き、次々と散らかした雑誌で彼の椅子を取り囲みながら、彼のよりもさらに濃い木陰を探すのだった。流行の許容範囲内で最大限に裸の肉体を露出したいという衝動は、彼女の何を考えているのかわからない小さな頭の中では、ほんのちょっとでも日焼けしたら象牙色の肌が汚されるという恐怖と結びついていた。 (ウラジーミル・ナボコフ『ローらのオリジナル』若島 正訳)  「あんなふうに不愉快な目ざわりなものを見るたびに、あたしはニーナのとこの男の子をどうしても思ってしまうわ。戦争は恐ろしいわ」 (ナボコフ『青白い炎』註釈、富士川義之訳)  ニックの声はどこからともなくおれの知覚の中へ流れこんでくるような感じだった。気味の悪い、肉体から離脱した声だ。 (ウィリアム・バロウズ『裸のランチ』ハウザーとオブライエン、鮎川信夫訳)    野獣は奇妙な目つきでマーシュを見つめていた。彼のことばが理解できないか、知っていたすべてのことばを忘れてしまったかのようだった。    (ジョージ・R・R・マーティン『フィーヴァードリーム』34、増田まもる訳)  ルウェリンは身長が一メートル八十になるよりも小人にまで縮むよりも、変身してリスやフィロデンドロンの鉢になるよりも、はるかに大きく変わってしまっていた。 (シオドア・スタージョン『ルウェリンの犯罪』柳下毅一郎訳)    頭の上では羽がぶーんとまわり、うしろからは外の扉が閉じてかんぬきをかけるがーんという反響音がした。どこか近くで、ざらざらの石畳を靴がこする音がして、誰かがミンゴラのライフルをもぎとろうとした。彼はそれをふりほどき、ぱたぱたと駆けてゆく足音をきいて、会衆席の奥にとびこんだ。暗がりの中にさぐりをいれてみると、大勢の精神とコンタクトした。おそらく十数名か。    (ルーシャス・シェパード『戦時生活』第四部・13、小川 隆訳)  ファーバーはこの連中を避けるようにして中へ入った。 (ガードナー・ドゾア『異星の人』1、水嶋正路訳)  わたしはアルヴィのベッドの端に腰掛け、上の階のむきだしの板の上を歩くベラの足音に耳を澄ましていた。終日、彼女といっしょに過ごしていたが、彼女に対してなにか感じるような余裕はなかった。数々の記憶に圧倒され、この島に対する自分の印象に取り憑かれていたのだ。前夜はじめて味わったおずおずとした親密さ──彼女の髪、シルクのローブ、偶然かいま見た彼女の体、清潔な客室、空っぽなホテルの静けさ──それらはいまでははるか昔のことのように思えた。それは、いろんな記憶を思いだすきっかけとなったつかのまの出来事で、島に着いてから、残りの記憶をおおかた思いだした。いまやいっそう焦点が絞られた。このアルヴィの部屋で、わたしが怖れていたものがすべて出会っている。わたしの過去の影と、それがベラをわたしから遠ざけている理由、アルヴィの思い出とこの家を囲んでいる風と闇、朽ち果てた塔とセリとの不器用な性的接触。そして最後に、ベラという存在──アルヴィの部屋でわたしといっしょにいて、ふたりきりで、おたがいに対する関心がすでにはっきりしていて、まもなくいっしょにベッドに入る、その存在。 (クリストファー・プリースト『奇跡の石塚』古沢嘉通訳)  四日目に、セヴリーヌが、売淫の家から出ようとすると、また見るより先に、その影でそれと知れる姿が、彼女の前に立ちはだかった。いかにも魁(かい)偉(い)な姿なので、彼女にはこの姿が夕暮れの光をすべて奪ってしまうかと思われた。 (ケッセル『昼顔』七、堀口大學訳)  しかし、リュシュ氏は自分の考えにとりつかれて、ろくろく聞いていなかった。オイラーに不意にゴルドバッハが乱入してきたことで持ち札が変わり、彼の最後の結論が疑わしくなったのだ。 (ドゥニ・ゲジ『フェルマーの鸚鵡はしゃべらない』20、藤野邦夫訳)  男がそこにいることが我慢ならなかった。フィリッパの身内を怒りが流れた。彼女は噴き上げる憤りの炎に浮き立つように持ち上げられ、憤りとともにインスピレーションと行動がほとばしった。 「待って」と彼女は言った。「待ってよ」 (P・D・ジェイムズ『罪なき血』第三部・7、青木久恵訳)  すると、クロフォードは同時にふたつの場所にいた。いまも浜にいて五線星形とジョセフィンとブーツの下の熱い砂を感じていたが、船でこみあったリヴォルノ港にいるドン・ジュアン号の甲板の上にも立っていた。 (ティム・パワーズ『石の夢』下・第二部・第十七章、浅井 修訳)    宙を打つおれの左腕をグレンダがつかんで、支えてくれようとするが、おれは次から次へと痙攣に襲われる。世界が近づき、退き、分裂し、やがておれのまわりでも内側でもふたたびまとまる。   (ロジャー・ゼラズニイ『われら顔を選ぶとき』第二部・8、黒丸 尚訳)  ダンツラーは彼の背中のまん中に足をかけ、頭が沈むまで踏みつけた。DTはそり返ったり足をかきむしったりして、なんとか四(よ)つん這(ば)いに体を起こした。靄が目や鼻から流れでて、やっとのことで「……殺してやる……」という言葉がもれた。ダンツラーはまた彼を踏みつけた。踏みつけては体を起こさせ、それを何度も何度もくり返しはじめた。拷問のつもりではない。そうではないのだ。不意にアヤワマーコのきまりがどんなものかがわかったからだ。それは通常の法則に似たものであり、さらに自分の行動も錠に鍵(かぎ)をがちゃがちゃとさしこむときに似たものでなければならないことがわかってきた。DTは出口への鍵であり、ダンツラーはてこ(タンブラー)がぜんぶひっかかるよう確認しながらDTをがちゃがちゃと動かしているのだ。 (ルーシャス・シェパード『サルバドル』小川 隆訳)  「創作を志す者には、どんなに長い一生でもたりないんだよ、ロール。そして、自分自身を理解し、生のなんたるかを理解しようとする者にとってもね。それはたぶん、人間であることの業(ごう)だ。それと同時に、至福でもある」 (ダン・シモンズ『エンディミオンの覚醒』下・第二部・33、酒井昭伸訳)  「愛は、すべての意味を持つ、ただひとつの感情ね」とエレナはうなずいた。 (イアン・ワトスン&ロベルト・クアリア『彼らの生涯の最愛の時』大森 望訳)    ブルースがうなずく。「あるいは、ウォーレス・スティーヴンスが書いていたみたいに。”言葉の世界では、想像力は自然の力のひとつである”」    (ニーヴン&パーネル&フリン『天使墜落』上・10、浅井 修訳)  レスは首をつきだした。「なんだって?」 (アン・ビーティ『愛している』27、青山 南訳)  「人間は」、オリヴァー・クロムウェルが言った、「自分の行先を知らぬときほど高みにのぼることはない」。 (エマソン『円』酒本雅之訳)    だしぬけに、爆発のような音が轟いた。塔が崩れたあとの瓦礫の山から、何十羽もの鳩がいっせいに舞いあがったのだ。ビリー悲嘆王の王宮だった場所を巣にしているらしい。サイリーナスは、鳩の群れが酷熱の空に輪を描くのを眺め、驚きをおぼえた。こんな虚無ととなりあわせの場所で、よくもまあ、何世紀も生き延びてこられたものだ。(だが、わしにだってできたんだ。鳩にできんはずはあるまい?)    (ダン・シモンズ『ハイペリオンの没落』上・第二部・19、酒井昭伸訳)  「エレナ、人生は、あらゆる悲劇の母……いやむしろ、悲劇のマトリョーシカだよ。大きな人形を開けると、小さな悲劇が入っていて、その中にももっと小さな悲劇が……。究極的には、それが人生をおかしく見せるんだ」 (イアン・ワトスン&ロベルト・クアリア『彼らの生涯の最愛の時』大森 望訳)  エレナはまた笑った。「おかしな人」 (イアン・ワトスン&ロベルト・クアリア『彼らの生涯の最愛の時』大森 望訳)  「なんでお前ら、ちっとはまともなこと言えないんだ?」とバトゥは、体を回し顔を上げながら言った。そうやって床に座り込んで喋っているバトゥの声は、いまにも泣き出しそうに聞こえた。ピシャッ、とバトゥはゾンビをはたいた。 (ケリー・リンク『ザ・ホルトラク』柴田元幸訳)  アレックスは奇形ではなかった。すくなくとも、このわたしが奇形であるというような意味ではちがう。一対が必要な器官は一対、ひとつですむ器官はひとつ、ちゃんとそろっていた。しかも、すべてが機能していた。ちゃんと。すべての健康な赤ん坊が美しいという意味で、アレックスも美しいとさえいえた。しかし、彼の頭は並みはずれて大きかった。こめかみの上でキノコのようにふくらみ、中身がぎゅう詰めの袋のように外へ張りだしていた(…)彼の目は、顔面との比率からすると、おなじサイズの赤ん坊の平均より三倍も大きかった。しかも、黒目ばかりで、白目の部分は外から見えない。逆に、鼻は並みはずれて小さく、顔の中央にある鼻孔のついたひだとしか見えない。口は裂け目そっくりで、きちんと結ばれた薄い唇がついている。耳は穴のあいた小さく丸い蕾(つぼみ)そっくり。両手も風変わりだ。左右とも五本の指と親指があり、どの指も、手と不釣り合いに長い。 (アダム=トロイ・カストロ&ジェリイ・オルション『ワイオミング生まれの宇宙飛行士』浅倉久志訳)  「ミス・ブライア」ブライアを遮った声は、ちょうどよい音量をいくらか超えていた。 (シェリー・プリースト『ボーンシェイカー』22、市田 泉訳)    「パット!」少年は腹から声を発し、自分の名を告げた。    (ウィリアム・S・バロウズ『シティーズ・オブ・ザ・レッド・ナイト』第三部、飯田隆昭訳)  プレンティスは耳に刺激的な無音を感じて目を覚ます、    (ジェイムズ・メリル『イーフレイムの書』J、志村正雄訳)  彼は父が後ろを向き、階段のほうに遠ざかっていくのを見た。そして、姿を消すまえにもう一度向きなおり、死後何年かしてマルティンが絶望の中で思いだす、あの視線を向けたのだった。 (サバト『英雄たちと墓』第I部・7、安藤哲行訳)  冷たい汗をかきながら、彼は自分とフランシーンが間違いをおかしてきたことを、はっきり悟る。二人の暮らし方、ごくたまにしかゆっくりとくつろぐことのできない生き方が間違っていることを。自分たちが可能性を最大限に活かした生き方をしていない、と感じたからこそ、自分たちのことを絵の中に描かれた二つの小さな人物像と考えたのだ──精神分析を受けている人がみごとに自らの夢を分析するように、ふと彼はそう思う。動きがとれず、囚われの身になり、行く先のない生活をしてきたからこそ、自分たちをスノードームの中の小さなプラスティック人形だと思ったのだ。いままで自分たちは、われわれは冒険心に富んでおり、進取の気性に富んでいる、と思いたがってきた。しかし、いったいどんな冒険をしたというのだろう。 (アン・ビーティ『ねえ、知ってる?』亀井よし子訳)  愛には、たいして理由などいらない。デボラとの件でもそれはあらためて証明されたことだ。知識の欠落が感情の刺激剤となるということかもしれない、物事はほんとうというわけではないときに大きな魅力を発揮するということかもしれないのだ (ルーシャス・シェパード『戦時生活』第三部・11、小川 隆訳)  日曜日、両親は彼女を好きなだけ寝かせておく。午前中ずっとペドロがオペラのレコードをかけてもまるで目を覚まさない。彼女が目を覚ますのは、正午きっかりに、サント=クロチルドの鐘が鳴ったときだけで、そのとたん、彼女はベッドから飛び下り、窓を開ける。そしてありとあらゆる人形と一緒に外を眺めるのだ。 (ブライス=エチェニケ『幾たびもペドロ』3、野谷文昭訳)    レミー・パロタンは愛想よく私にほほえみかけていた。彼はためらっていた。彼は私の位置を理解しようと努めた、静かに私を導いて羊小屋へ連れもどすために。しかし私は恐れなかった。私は羊などではなかったから。私は彼の落ち着いたしわのない美しい額を、小さな腹を、そして膝の上に置かれた手をながめ、彼に微笑を返すとそこを離れた。    (サルトル『嘔吐』白井浩司訳) 絵葉書には『ぼくは今、数知れぬ愛の中を、たった一人で歩いている』と書いてあったが、これはジョニーが片時も離さずに持っているディラン・トマスの詩の一節だった。 (コルタサル『追い求める男』木村榮一訳)    カストラートは本物の歌うオカマであり、ネルソン・エディではない。人間のつねでオカマもいつかは死ぬ運命にあるが、その死はめったに凄惨なものにはならない。ところがこのオカマの死には、きっとあなたも鳥肌が立つだろう。    (G・カブレラ=インファンテ『エソルド座の怪人』若島 正訳)  ディム・カインドは目をおおっていた手をおろした。「ええ、話さなかったわ。その理由を教えましょう。おまえたちがそういうものを思いつくまで、そういうものはなかったからよ。 (ジョン・クロウリー『ナイチンゲールは夜に歌う』浅倉久志訳)    〈クレイジー・カフェ〉に腰を落ち着けたときは心からほっとした。量産された意識のせいで、目に見えるものや感覚が嘘っぽいものになっていようが、椅子は椅子であり、疲労感は疲労感だからだ。彼女はいなかった。ドリス・ブラックモアはそこにいなかった。ちらっと見ただけでわかった。    (L・P・ハートリー『顔』古谷美登里訳)  淋しくないこと、びくびくしないこと──ボアズはこの二つが人生で大切なことだと考えるようになった。 (カート・ヴォネガット・ジュニア『タイタンの妖女』7、浅倉久志訳)  彼女が無感情なのは美が世界にたいするときの静かな自信の兆候であるように、ミンゴラには思えた。アルビナの中には美が存在し、それを傷跡が実証しているのだと思った。だが、彼女を利用したくはなかった。安心して利用できるようなたぐいの美ではなかったのだ。 「きれいな傷跡をしているね」 (ルーシャス・シェパード『戦時生活』第二部・8、小川 隆訳)  心の眼のなかで家族たちが薄れてしまうと、オルミイはみんなが返してくれた荷物をほどき、そのすばらしい中身を貪欲にとりこんだ。 それは彼の〈魂〉だった。 (グレッグ・ベア『ナイトランド─〈冠毛〉の一神話』9、酒井昭伸訳)  翌朝はからりと晴れ上がった空だったので、ジェット夫人には何かにつけてほっと心の休まることが多かった。牛乳配達がカタコト音を立てて過ぎるのを聞いているのもいい気持ちだった。朝日が、自分で刺繍した窓のカーテンを通して、微笑むようにさしこんできたが、彼女はそれに微笑み返す余裕ができていた。そのあとで、彼女は恥ずかしそうな顔をしながら、二杯のコーヒーを飲みに思い切って下に降りて行った。彼女はコーヒーを落ち着いて飲みながら、だれかれから、案にたがわず、飛び出してくるいろいろな言葉を受けていた。 (ファニー・ハースト『アン・エリザベスの死』龍口直太郎訳)    国境守備兵ゲーディッケが彼の魂を構成する諸断片のうちから狭い選びかたをしたか、彼がその自我を新しく組み立てるのにそれらの断片をいくつとりあげ、いくつ排除したかはとうてい判然としがたいことであって、ただ言えるのは、かつては彼のものだったなにものかがいまの彼には欠けているという気持を抱いて歩きまわったということだけである。    (ブロッホ『夢遊の人々』第三部・一五、菊盛英夫訳)    そのとき、クローンのモーナがビリー・アンカーのコントロール・ルームの壁に書かれたヒエログリフの行間から歩みでてきた。モーナのフェッチは実際の姿より小さくて安っぽいバージョンで、調子の悪いネオンみたいに瞬いている。ヒールが五インチもあって歩くとお尻がぷりぷり揺れる赤のサンダルに、膝下丈のラテックス製チューブスカート──色はライムグリーン──、トップスはピンクのアンゴラのボレロといういでたち。髪はうしろで二つにわけて、服と同系色のリボンを結んでいる。 「あら、どうも、ごめんなさい」クローンはいった。「ちがうボタンを押しちゃったみたい」    (M・ジョン・ハリス『ライト』17、小野田和子訳)  「知っておいてもらいたいことがあるの」アイリーンが言った。「あなたの中のわたしたちの思い出は、偽物だった。でもこのとおり、今はもう本物になったわ」 (ケン・マクラウド『ニュートンズ・ウェイク』B面20、嶋田洋一訳)  「まあ、とてもきれいな鉢ですわね!」とベティが叫んだ。 プニンはまるではじめて見るかのように、快い驚きをもってその鉢を眺めた。彼はそれがヴィクターからの贈物であることを話した。(…) その鉢は心やさしい偶然の神の微妙なはからいによって、プニンが椅子の数をかぞえ、パーティーの計画を立てはじめたまさにその日に到着したのだった。鉢を納めた箱はさらに別の箱に入っていて、その外側にさらにもうひとつの箱があった。おびただしい量の木屑と紙が鉢を包んでおり、それらがカーニヴァルの騒ぎのときのように台所じゅうに散らばった。なかから現われた鉢は──贈物をもらったとき、感動的な衝撃のために、贈られた人の心には、その贈物が寄贈者の心やさしさを象徴的に反映している輪郭のかすんだ純粋な光彩の炎のように見え、その現実的な実体は、いわばその炎のなかに埋没しているような、そういった種類の贈物であった。だが、その現実的な実体も、その贈物のもつ真の栄光を知らない局外者によって称讃されると、不意に躍動して、輝かしい姿を永遠に現わすようになるのである。 (ウラジーミル・ナボコフ『プニン』第六章・6、大橋吉之輔訳)  よどんだように静かで、荒涼とした風景だが、ジョカンドラにとってはホームグラウンドだった。そしてその静けさが彼女の心にも静けさを呼び起こし、熱っぽい額にあてられた冷たい湿布のように彼女の緊張をほぐした。 (ルーシャス・シェパード『緑の瞳』3、友枝康子訳)  エディにとってはただのピアノではなかった。ネディなのだった。エディはある程度の時間手にしたものには何でも愛称をつけた。それはまるで、馴染み深い海岸線や目的地が見えないと不安にかられる大昔の船乗りさながらに、名前から名前へと飛びうつっているかのようだった。もしそれをしなければ、名前もなく形もない混沌とした大洋を、なすすべもなく漂流してしまうようだった。 (フィリップ・ホセ・ファーマー『奇妙な関係』母・2、大瀧啓裕訳)  「人間は同じものにいろいろな名前をつけます」とメアリがいった。「〈混沌〉はわたしたちにとっては一つのことを意味するにしても、ほかのだれかにとってはまったくべつなことを意味するかもしれません。さまざまの文化的背景がさまざまの認識を生むのです」 (クリフォード・D・シマック『超越の儀式』23、榎林 哲訳)    何世紀も昔の哲学者ニーチェの文章を思い出した。(…)人間の心を蜜蜂の巣として描いている。われわれは蜜の収集家であって知識や観念を少しずつ運んでくるのだと──    (バリントン・J・ベイリー『知識の蜜蜂』岡部宏之訳)  ラムジー夫人はそれを巧みに結び合わせてみせた、まるで「人生がここに立ち止まりますように」とでもいうように。夫人は何でもない瞬間から、いつまでも心に残るものを作り上げた(…) (ヴァージニア・ウルフ『灯台へ』第三部・3、御輿哲也訳)  セアこそ、わたしの初恋の人だった。また彼女は、わたしが救った人のものだったから、わたしは彼女を崇拝してもいた。最初にセクラを愛したのは、彼女がセアを思い出させるからにほかならなかった。今(秋が去り、冬がきて、春がきて、年の終わりであると同時に始まりでもある夏がふたたびきて)わたしはふたたびセアを愛した──なぜなら、彼女はセクラを思い出させるから。 (ジーン・ウルフ『調停者の鉤爪』10、岡部宏之訳)  美しいものというのはいつも危険なものである。光を運ぶ者はひとりぼっちになる、とマルティは言った。ぼくなら、美を実践する者は遅かれ早かれ破滅する、と言うだろう。 (レイナルド・アレナス『夜になるまえに』刑務所、安藤哲行訳)    少女は少女の痛みを抱えて、モーリスは自分の痛みを抱えて、二人は芝生を並んで歩いた。    (P・D・ジェイムズ『罪なき血』第三部・9、青木久恵訳)  E・A・ロビンソンは彼の後半生において自分の詩以外はどんな詩もほとんど読まなかったと告白している。ただ自分の詩だけをくり返しくり返し読む。これは自己模倣の麻痺が、人生半ばにして多くの良い詩人を駄目にするという事実の説明にもなる。 (デルモア・シュワーツ『現代詩人の使命』2、鍵谷幸信訳)  自分は個性(パーソナリテイ)に欠けるというエドワードの意見は正しい。彼は実際に同席しているときより話題にされているときのほうが実在感があった。友だちがぼくを作っていると彼はよく言った。しかし、彼の存在が目に見えない秘密の通路を通ってぼくたちに流れこんでいたのだ。 (L・P・ハートリー『顔』古屋美登里訳)  ところがそれ以来、電話はかかって来なくなった。かつてエドマンドが初めて交換手に苦情を言った直後と同じだ。アトリエは今や昼も夜も澱んだ熱気と静寂に満たされており、絵の中の子供らはめいめい好き勝手に虚空を見つめている。 (ロバート・エイクマン『何と冷たい小さな君の手よ』今本 渉訳)    だが、ラシーヌが何を言おうと、死者たちの国へ降りてゆくための道はない。魂たちのかわりに、ここにあるのは飛ぶ種子、浮遊する蜘蛛の糸、羽虫だ。死者たちの国への入り口はケルトの伝説が語っているように一筋のまっ直ぐな道でできている。    (イヴ・ボヌフォワ『大地の終るところで』VIII、清水 茂訳)  「もし私が他の人たちより少しでも遠くをみたとするならば、それは私が巨人の肩にたっていたからだ」という言葉は、ニュートンの言葉だとされている。しかり、彼は巨人の肩に立っていた。その巨人のうち最大のものはデカルト、ケプラー、ガリレオであった。 (E・T・ベル『数学をつくった人びと I』6、田中 勇・銀林 浩訳)  「あなたたちはもう行かないと」アーリーンの声が言った。「話している時間はないわ。もちろん、そんな必要もないんだけど」 (ケン・マクラウド『ニュートンズ・ウェイク』B面20、嶋田洋一訳)   ジョン・シェイドの外貌はその男の中身とあまりにもそぐわないために、人びとはそれを粗野な偽装だとか、ほんのかりそめのものだと感じがちなのであった。と言うのも、ロマン派時代の流行が、魅力的な首をむき出しにしたり、横顔を省いたり、卵形の眼球のなかに山の湖を映し出したりすることによって、詩人の男らしさを希薄化することにあったとすれば、現代の詩人たちは、おそらく老齢まで生きのびる機会に恵まれているせいなのだろうが、ゴリラや猛禽類に似ているのである。畏敬すべきわが隣人の顔も、いっそのこと獅子だけとかイロコイ族(割注:北米インディアンの種族)だけを思わせるのだったならば、ことによると目を奪うようなものが何か備っていたかもしれない。しかし不運にも、その二つを合せ持ったために、その顔は要するに男女の区別の定かならぬ、ホガースの絵に描かれた飲んだくれを思わせるばかりなのだ。    (ナボコフ『青白い炎』前書き、富士川義之訳)  トインビーは、スパルタのミストラの丘の上の白のてっぺんに腰を下ろし、一八二一年にそこを壊滅させた蛮族が残した廃墟を眺めていた。まるで今にも、その蛮族たちが地平線の彼方からだしぬけにどっとあふれ、この街を滅ぼしつつあるように思われ、昔のことがありのまま(、、、、、)に起こったことに彼は打撃を受けた。 (コリン・ウィルソン『時間の発見』第5章・5、竹内 均訳)  あたしがジェイクに恋したのは、ジェイクの頭がよかったからじゃない。あたしだってけっこう頭はいい。頭がいいっていうのはいい人だってことじゃないのはあたしだってわかるし、学識があるってことでさえないのもわかる。頭のいい人が、いろんな厄介事を自分で招いてるのを見ればそれくらいわかる。 (ケリー・リンク『余生のハンドバッグ』柴田元幸訳)  クロフォードの背後の斜面の木々が折れたり倒れたりしている。丘そのものが目ざめて自分の器官である木の絨毯を投げすてているかのようだ。海が鍋のお湯のように泡だっている。空いっぱいに幽霊が勢いよく飛びかっている。 (ティム・パワーズ『石の夢』下・第二部・第十七章、浅井 修訳)  まぎれようもない態度を何か示すべきだ。だが、ハトン氏は急におびえてしまったのである。彼の身内に発酵(はつこう)したジンジャー・エールの気が抜けたのだ。女は真剣だった──おそろしく思いつめていた。彼は背筋が冷たくなるのを感じた。 (オールダス・ハックスレー『モナ・リザの微笑』龍口直太郎訳)  町が変わりつつあることは、ブリケル夫人にとってはべつだん驚くほどのことではなかった。小さいときからずっと見てきた子どもたちも、いずれ大人になって、それぞれ子どもを持つようになるはずだ。最近は、かつてのように都会に出て名をあげようとするのではなく、小さな町でゆったりと暮らしたい、という人も多くなった。そういう人たちは何かを経験しそこなうことにはなるだろうが、逆に得るものもあるはずだ。日々が連続しているという感覚や、帰属感といったものを。 (アン・ビーティ『貯水池に風が吹く日』8、亀井よし子訳)    スケイスは蛇口を締めて、その規則的な静かな滴りを止めたい衝動にかられたが、こらえた。    (P・D・ジェイムズ『罪なき血』第三部・6、青木久恵訳)  それじゃ宇宙は電子からなっているのね。その電子は、カ空間がとても小さく丸まってできた極(ごく)微(び)の輪なのね。そうなのね、ヤリーン? (イアン・ワトスン『存在の書』第三部、細美遙子訳)  アンジェリーナ・ソンコは今や二重ヴィジョンで世界を眺めており、第二の景色が現実の世界を明るく照らし、明晰化し、絶えず作り変えてゆく。 (イアン・ワトスン『マーシャン・インカ』I・7、寺地五一訳)  もうひとりの男はジェミーと紹介された。《長老》? そんな歳には見えない。だが、このひとたちにとって〈老〉ということばは〈賢明〉を意味するのかもしれない。その点では、かれにはその資格がある。多くの人間に見られる未完成なところが、このひとにはみじんも感じられない。彼は──そう、完璧だ。 (ゼナ・ヘンダースン『忘れられないこと』山田順子訳)  アメリカの上層中流階級の市民はいろいろな否定の合成物だ。彼らは主として自分がそうではないものによって表現されている。ゲインズの場合はそれ以上だった。彼は否定的であるだけでなく、絶対に目に見えない存在で、つかみどころのない、かといって非の打ちどころのない存在だった。シーツか何かの布切れをかぶせて輪郭を浮かび上がらせないかぎり姿を現わすことがない幽霊がいるが、ゲインズはそれに似ていた。彼はだれかほかの人間のオーバーを着たときに姿を現わすのだった。 (ウィリアム・バロウズ『ジャンキー』第六章、鮎川信夫訳)  こういう状況だというのに、ジョニイは力強さと生気をみなぎらせていた。こんな人間にはめったにお目にかかれるもんじゃない。説明はむずかしいが、いままでにも何度か、部屋にいならぶ大物たちが、ジョニイのような人物を中心にして、ひとりでに動きだすのを見たことがある。そんな感じをいだかせるのは、その控えめな態度や感性だけじゃない。ものを観察しているだけのときにも放射している、独特の力強さもそうだ。 (ダン・シモンズ『ハイペリオン』下・探偵の物語、酒井昭伸訳)  オードリーの首の中に脊椎骨がひょい(ポツプ)と現われる。アーンは舌をチッと鳴らす。オードリーがじっと鏡の中のトビーの虚ろな青い目を一心に見つめると、生まれたばかりの死霊のような乳白色の肉が自分の体に張りついているのが見えた。 (ウィリアム・S・バロウズ『シティーズ・オブ・ザ・レッド・ナイト』第三部、飯田隆昭訳)  飛行機の旅はよかったかとか、ブロンズの鐘を鳴らしたかとか、と彼女が訊いた。善良な老シルヴィア! 彼女は物腰の曖昧さ、なかば生来の、なかば飲酒したときの好都合な口実として培った無精な態度の点で、フルール・ド・フィレールと共通するところがあった。しかもあるすばらしいやり方で、その無精な点を弁舌癖とうまく結びつけていて、お喋り人形に話の腰を折られる訥弁な腹話術師を思い起こさせるのだった。 (ナボコフ『青白い炎』註釈、富士川義之訳)  雨のリズムにやがてミンゴラのほうも眠くなってきた。さまざまな思いがつぎつぎと、輪を描いて虚(こ)空(くう)を飛ぶ鷹のように意味も脈絡もなく、頭の中をよぎっていった。デボラのこと、自分の力のこと、タリーや、イサギーレのこと、故郷と戦争のこと。そしてそれらの孤立した状態から、根ぶかい分裂から、ミンゴラはこんな結論をだしていた。精神は成長したり進化したりするものではなく、ただのモザイクであり、安ぴかものやガラス片でできたコクマルガラスの巣と同じで、ときどきその中で稲光が走り、一瞬のあいだ全体を結んで一つにまとめ、人間という幻想を、人間の理性的感情確信の幻想をかたちづくるのだと。(…)けれど、この冷徹で瞑想的(めいそうてき)な姿勢でさえも感傷の罠(わな)にかかっているのだった。 (ルーシャス・シェパード『戦時生活』第二部・7、小川 隆訳)  カントが、われわれは世界を「カテゴリー」に分けてみる、と言っているのは正しい。カントの言う「カテゴリー」を、あなたの鼻の上にのっている目に入るものすべてが最も奇異な角度や位置にみえるような、へんてこな色メガネと考えてみよう。実はこれこそがわれわれの頭脳が把握している空間と時間なのである。 (コリン・ウィルソン『時間の発見』第5章・5、竹内 均訳)  薔薇の花輪がどの壁にもかかっていた。イーフレイムは来ているのか? (ジェイムズ・メリル『イーフレイムの書』H、志村正雄訳)    「ええ!」ヒギンズは熱烈にそう答え、たぶんカーライルの緊張を感じ取ったのだろう、少し譲歩した。「少なくとも今以上に、現実への深い洞察が得られるわ」    (ケン・マクラウド『ニュートンズ・ウェイク』B面12、嶋田洋一訳)  子どもだったワーズワースは、牧場や、森や、小川が「天上から光をまとっている」ように感じた。前部前頭葉のはっきりした目的を知っている人はいないように思われるが、大人の前部前頭葉がこわされても、いくらか粗野になる以外その人の機能にあまり変化は起こらない。/一方、子どもの場合、前部前頭葉がこわれると、顕著な知能低下を起こすので、子どもはこの前部前頭葉を利用していることがわかる。このことから、なぜ子どもは「まばゆいばかりに美しく、鮮やかな夢」を経験するのに、大人はそろいもそろって陰鬱な世界に棲み、こうした前部前頭葉の「幻想」機能を利用するのをやめてしまったかを説明できるのではあるまいか? (コリン・ウィルソン『時間の発見』第5章・6、竹内 均訳)    モーリスはあの時の、感情を害して気まずそうにしている彼女の顔を思い出した。そんな感情に気がつかなければよかった。    (P・D・ジェイムズ『罪なき血』第三部・8、青木久恵訳)  ヘアーは、靴のなかに小雨がしみとおってくるのもかまわず、都市の古い区域を歩きまわった。裸になったが温かい気分、青衣をぬぎはしたが、はじめてこの世界を歩いている気分だった。両足が、一歩また一歩とその世界を作りあげているようだった。自分がいったんその外へころげ落ちた世界、エヴァとボーイがそのなかへ去っていった世界を。ヘアーは笑いだした。その世界への恐れと憧れをこめて。 (ジョン・クロウリー『青衣』浅倉久志訳)  キャサリンはカールトンの部屋の荷物を出し終えていた。熊や鵞鳥や猫の形をしたナイトライトが、そこらじゅうのコンセントに差してあった。小さな、低ワット数のテーブルランプもある。カバ、ロボット、ゴリラ、海賊船。何もかもが優しい、穏やかな光に浸されて、部屋をベッドルーム以上の何かに翻訳していた。何か輝かしい神々しいものに、漫画ふう真夜中の眠りカールトン教会に。 (ケリー・リンク『石の動物』柴田元幸訳)    ジョニーは向こう側にいる──向こう側というのが正確に何を指しているのかよく分からないが──そんなジョニーがぼくは羨ましい。一目でそうと分かる彼の苦しみはべつとして、ぼくは彼のすべてが羨ましい。彼の苦しみの中には、ぼくには拒まれているあるものの萌芽があるように思えるのだ。と同時に、自分の才能を濫費し、生きることの重圧に耐えられず、考えもなく愚行を重ねては自分を破滅させていく彼を見ると、ひどく腹が立ってくる。しかしぼくは思うのだが、ジョニーがもし薬やその他のものを何ひとつ犠牲にせず、生活を正しく方向づけていけば、あるいは    (コルタサル『追い求める男』木村榮一訳)  「いやいや」〔と足を組みかえ、何か意見を開陳しようとする際にいつもそうするように肘掛椅子をかすかに揺らしながら、シェイドが言った〕「全然似ていないよ。ニュース映画で王を見たことがあるが、全然似ていないよ。類似は差異の影なんだよ。異った人びとは異った類似や似かよった差異を見つけるものなんだよ」 (ナボコフ『青白い炎』註釈、富士川義之訳)    私の周囲にあったものは、すべて私と同一の素材、みじめな一種の苦しみによってできていた。私の外の世界も、非常に醜かった。テーブルの上のあのきたないコップも、鏡の褐色の汚点も、マドレーヌのエプロンも、マダムの太った恋人の人の好さそうな様子も、すべてみな醜かった。世界の存在そのものが非常に醜くて、そのためにかえって私は、家族に囲まれているような、くつろいだ気分になれた。    (サルトル『嘔吐』白井浩司訳)  オードリーの目の前の少年は体内から光を発している。真下の床が落ちるのをオードリーが気づくや、少年の目に一瞬ぎらっと光が走る。オードリーが落ちると同時に少年の顔もいっしょに下へ。すると目がくらむばかりの閃光が部屋と、待ちかまえている顔たちを消滅させる。 (ウィリアム・S・バロウズ『シティーズ・オブ・ザ・レッド・ナイト』第二部、飯田隆昭訳)  アイネンが、形のくずれた靴から視線をもどす。 (ホリア・アラーマ『アイクサよ永遠なれ』15、住谷春也訳)  全行引用詩『ORDINARY WORLD°』 5/5 へ

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