2009/11/14(土)16:48
構成-撮れたモノがすべて。
脳内イメージを具現化せねば
取材がある程度進むと、ディレクターに取材テープをDVDにダビングして送ってもらいます。
通える局ならばぼくが足を運び、局の編集機で取材テープを拝見します。この作業を「プレビュー」と呼んだりしますが、プレビューの機材が完備していたり、専用のコーナーを設けている局もあれば、編集機が日常業務にも支障を来すほどに数が少ない局もあります。
その場合、日常業務が終わったあとからプレビューを始めることになりますから、作業はどうしても夜となります。ヘッドホンをし、深夜までモニターと向かい合いながら見取り聞き取った取材テープの内容をパソコンに入力していく女性ディレクターの姿をときおり見かけます。
社外の人間であるぼくは、声をかけることはありません。
大変ですよね、がんばって…と、心の中で祈るばかりです。
機材の問題は、単純に資本の大きさの違いだったり、機材担当の人の考え方だったり、現場の力の強弱だったりしますが、撮ってきたモノを見直すことはとても大切なので、緊縮予算を切り裂いてでもプレビューがらみの機材は充実を図って欲しいといつも思います。
プレビューは単に大切というよりも、番組に使えるのは実際に収録してきた映像と音しかないのです。素材は撮れたモノだけ。それだけがすべてなのです。
たまに「こんな映像を撮ったはずなのに・・・おかしいな・・・」と首をかしげつつプレビューをしているディレクターがいたりしますが、現場に出ている彼ら彼女らは頭の中にイメージを抱きつつ取材にあたりますし、実際に撮るのはカメラマンなので、頭に浮かんだだけのイメージを撮れたモノと思い込むことが時々あるようです。
頭にあるイメージは取材現場で具現化すること。それが大切ですし、でも、難しい。事前に台本を作ってその通りにやってもらうことは、ドキュメンタリーでは基本的にやりませんから。
どんなにいいイメージが頭の中にあったとしても、それが映像化、音声化されてないとそれは無いモノと同じになってしまいます。これがキビシイ。
ちょっと恋愛に似てるでしょうか。心でいくら思っても、相手に届かないとそれは思ってないことと同じ。
違うかな?
何にしろ、番組に使えるのは撮れたモノだけ。それだけで番組は組み立てられていきます。
目を凝らし、耳をそばだてる
ぼくの元に送ってくるDVD、それが番組作りに使用できる映像と音のすべて(資料映像や編集後に入れるナレーションとBGMなどの効果関係は別です)となります。
料理にたとえると、それだけしか材料がないのです。それが活きのいい素材なのか、ちょっと食すにはためらわれる質のものなのかにかかわらず、材料はそれしかありません。
その限られた素材をどう料理するか、それが構成係のぼくの役割であり、与えられた使命です。
なので、ぼくがまず第一に始めること。それは、DVDにダビングされて送られてきた取材テープを隅から隅まで見ることです。
その際、特に気にするのは「ノイズ」と呼ばれる、取材テープに収録された何気ない音です。それはマイクを向けられていないときの取材対象者のリラックスした言葉だったり、鳥のさえずりだったりしますが、そうした「ノイズ」を活かすことによって、番組がグンと視聴者に近くなることがおうおうにしてあるのです。
最近、番組作りに参加して感じていることのひとつに、この「ノイズ」を大事にしない現場の人が増えてきているということ。
取材対象者の言葉も、マイクを向けたりした、きちんとしたインタビューのみで終わらせようとしたり、取材現場周辺の音の収録をしていなかったり。
そうして撮ったインタビューは紋切り型になりがちですし、映像は情感のないモノになってしまう気がします。
しかし、「ノイズ」を探すのは大変です。
特に最近は機材の性能がアップし、1本で1時間以上撮れるテープが登場。その上、現場ではがんがんテープを回す風潮があるので、ひとつの番組でまわったテープの数が50本、100本というのも別に珍しいものではないようになってきました。
映像と音の収録は、カメラマンやディレクターの思いが入りますが、記録するのは機材です。でも、収録した素材を見直し、「ノイズ」を探すのはヒトの目と耳。これしかありません。
収録時間の2倍、3倍かけ、目を凝らし、耳をそばだてて、こつこつ探す。
そんな、とてもアナログな作業が、構成作業のスタートです。
<この項は続きます(ときおりですが)>
→ 2009.05.01 「構成-スタート」
→ 2009.05.02 「構成-打合せは大事だけれど。」
→ 2009.05.05 「構成-取材対象者には会わない。」
→ 2009.05.028「構成-取材前に台本?」