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2018/10/11(木)23:58

自ら臣と名乗った極右仙台市議

政治家ホームページ・ブログ探訪記(84)

 ​以下、渡辺ひろし仙台市議FBからの引用です。「臣拓」には目が点になりました。「臣拓」が官軍戦没者の慰霊を拒むということなのであればどうも理解に苦しむ事態です。 ​​​​​(引用開始) 【戊辰戦争150年慰霊祭に際しての所感】 昨日早くに、150年慰霊祭が催行された。慰霊祭実行委員会の一部の者の恣意により「全」殉難者慰霊祭とされたことを否とし、私は参列を辞退した。なお、私の決算審査等特別委員会における弔魂碑横への「全」殉難者慰霊碑設置反対質問により慰霊碑設置許可が取り消されたことを契機として、仙台市長の参列が見送られたことは本市としては一見識であったと評価する。 しかし、御英霊に対する慰霊の念については人後に落ちるものではないとの自負があり、郷土の後進が一致して御英霊に対し感謝と慰霊の誠を捧げることが叶わなかったこと、実に断腸の思いである。御英霊に対して誠に申し訳の立たないことと、恐縮するのみである。 他方、慰霊祭冊子を入手しその表紙をみて、憤りを新たにしている。安易な「善意」(=思いつき)ほど迷惑なものはないと痛感する。以下、本件に関する所感を述べる。  今次慰霊祭において配布された表紙画像について、皇室の「菊の御紋」と徳川家の「葵の紋」を等しく並べて表記し、それを円で囲む構図は、対立した二者の和解を連想させることを意図したものとも受け取れるが、極めて不適切である。  まず、仙台藩を含む当時の東北諸藩は、別に徳川家のために戦ったのではない。ゆえに、東北諸藩を代表するものとして葵の紋を提示すべきではない。  より本質的に遺憾な点は、皇室と一大名にすぎない徳川家が、二項対立的に捉えられている点である。当時の政治的構図を「勤皇VS佐幕」と捉える向きがあるが、事実に反した俗流の解釈に過ぎない。徳川家にしても、朝廷に反逆する意思など毛頭なく、奥羽越列藩同盟(東北地方三十一藩)としても朝廷に対する謀反の認識などありようはずがないからである。当時の我が国では、「尊皇」(皇室への忠誠)は日本人としての大前提であり、皇室への謀反など想像もしなかったわけである。現に、同盟の盟主として輪王寺宮(北白川宮能久親王殿下)を仙台にお迎えしている。  この表紙の意匠は、こうした歴史的事実を歪曲するものであり、先人の精神を冒涜するものである。史実に忠実な正しい歴史認識を欠き、手前勝手で浅はかな自己主張のために歴史を利用するものであり、実行委員会の姿勢には強い憤りを感じる。  次に、「歴史的和解」の可否についてであるが、ちなみに、新政府軍と「本土決戦」を交えた会津と薩長との歴史的和解は、まだ道半ばである。  それでも、福島県会津若松市と山口県萩市は、すでに30年間にわたり和解のための多様な交流を積み重ねてきた。昨年12月には、「長州と会津の友好を考える会」主催で、ついに吉田松陰を祀る萩市松陰神社において、会津藩校日新館長が講演をした。  しかし、意義ある交流を積み重ねる両市交流団体間においてすら、「和解」との言葉が出るには至っていないことの重みにも留意すべきではなかろうか。  今回の、仙台における「全」殉難者慰霊を呼びかけた実行委員会の言葉は限りなく「軽い」。実行委員会は、自ら会津と山口の真摯な交流を超えるだけの交流を積み重ね、和解の気運を醸成してきたとでもいうのだろうか。その事実がないことは明らかである。安易な発想で「和解」を口にできるのは、歴史を真摯に引き受けていないからこそである。戊辰戦争150年の慰霊顕彰に水を差してしまった仙台藩志会を主体とする実行委員会の軽挙に猛省を促す。 独り、仙台藩ならびに奥羽越列藩同盟の友軍として、東北なりの大義を貫かれ陣没された御英霊に心より感謝と慰霊の誠を捧げる。        平成三十年十月七日                          臣拓 (引用終了) わけのわからない極右市議ながら、以下のFB記事における「郡市長は、相変わらず役人のメモを朗読するだけで、自分の言葉を持たない政治家だ」という指摘はもっともで、郡市長のFBを読めばそれは一目瞭然でしょう。 (引用開始)​​​​【議会質問全文】​ 一般質問を実施しました。郡市長は、相変わらず役人のメモを朗読するだけで、自分の言葉を持たない政治家だと実感しました。自ら「考え抜く」姿勢がなく無責任な政治家だと思います。後世に禍根を残す「あれも、これも」のバラマキ市政を是正すべく、決算等審査特別委員会も頑張ります! (引用終了) ​

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