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雀坊の納戸~文鳥動向の備忘録~

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全7件 (7件中 1-7件目)

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ジャクボーの納戸

2010年10月27日
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カテゴリ:ジャクボーの納戸

 餃子、冷凍でいいよあんなもの・・・。例の隣国産の冷凍餃子に、日本人を「鬼子」などと表現しているようなのが毒物を混入した事件が起きた際に、「おウチで餃子を作りましょう!」などという話題があったが、目玉焼きも焼けないような野郎どもにはわかるまいが、餃子を作るのなんて面倒なんだよ!
 さはさりながら、誤って購入した白菜とニラの存在をいかに解消しようかと考えれば、餃子の皮でも買ってくるしかないのである。そして、木枯らし吹く中を買いに行ったさ、合びき肉も買ったし、練りショウガも買ったさ、そこで力尽き、面倒なのでシイタケは買わず、それでもビールは買って帰ってきたのであった。
 あ~面倒くせぇ、と何回も口中に唱えつつ白菜とニラをみじん切りにし、親の敵などとる気はないが、自分の敵を自分でとれるならこうだ!という勢いで、布に包んでギューギューギューギューひねり上げ絞り上げして水気を抜き、あ~、白菜よりもキャベツの方が楽なんだよな~、とつぶやいたのであった。
 それで、合いびき肉を入れ、冷蔵庫の片隅で腐りかけていたしょうがを細かく刻んで入れ、ショウガをおろすのが面倒なので買ってきたチューブのそれをひねり入れ、塩胡椒調味料の入っているあれをふりかけ、どうせ舌は腐っているので、さらに胡椒のみを別途ふりかけ、「忌々しい忌々しい~」と呪いの言葉を唱えつつこね回したのであった。このコネコネの作業は、本来楽しいものだが、あいにく今現在右手の小指に血豆が発生しており、それどころではないのであった。何しろそれに物が触れると、生まれてきたのを後悔する痛みが遠慮会釈なく脳天を突き抜けるため、もはや苦行なのである。
 「うきゃ~、やっぱり面倒くせぇえよ~ぉ!!」と心の中で悲壮な叫び声をあげつつ、スプーンで上記の具材をすくって餃子の皮の中央に叩きつけ、指で皮の縁を半円に水を塗りつけ、半分に折って、折り目にひだを付ける作業を黙々黙々と続ける。
 ・・・冷凍でいいだろやっぱり。ここまでしてまだ食えないのだから、これは地球誕生以来存在する何ものかの悪意が働いているとしか思えない。...うむ、とにかく油で揚げてしまうのが楽だ。実行。・・・まだまだあるな(白菜四分の一、ニラ1把となると52個も出来てしまうのだ)。仕方ない焼くのか・・・。
 フライパンに油を敷き熱したところで、餃子を並べて置き、焦げ目が付いたら水を少々加え(片栗粉を少々加えると良いのだが、そんな面倒なことを俺に限ってするわけなかろうが!!)、フタをして水気が飛ぶのを待つ・・・、もう、気の遠くなるような作業だ。水が多すぎればふにゃらけてしまうし・・・。これをやすやすと行える世の中の良妻賢母は、もう尊敬より崇拝の対象になるべきだろう。へ?さらに途中作業を子供に手伝わせてるって?もう、目を合わせるのも憚れるね、それは!!
 はいはい、出来た出来た(綺麗に盛り付ける気など欠片もない)。これからは生協に間違って注文しないように注意せねばならぬ。

 

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Last updated  2010年10月27日 22時09分58秒
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2008年11月11日
カテゴリ:ジャクボーの納戸

 日本相撲協会が興行している大相撲は、「国技」などと言うわりには外国人力士がやたらと多く、トップランク、グランドチャンピオンの横綱が2人ともにモンゴル出身で、その一方は嫁いだ娘よりも頻繁に里帰りを繰り返す体たらくであり、また、ロシア出身の力士複数は大麻を吸った後に居直ってうんざりさせてくれています。
 そもそも昔から「エレベーター力士」が「星のやり取り」をしているのは暗黙の了解事項のはずで(勝ち越し負け越しで番付を上下に移動する力士が、負け越すと幕内を転落するような力士から金銭をもらって勝ちを譲る。八百長には相違ないが、賭けの対象ではないので、刑事罰の対象になるかは疑問。もちろん証拠は無い)、大関の「互助組合」も義理人情に属する範疇ではなかったでしょうか(個人的な怨恨でもなければ、相手が角番の時に勝ちを譲れない方が珍しい)。このあたりは、良いのか悪いかは別にして、日本的なあなあなが文化であったにはずです。ところが、程度が低すぎるマスコミの一社一雑誌が、何をとち狂ったのか、まさに現役時代に前頭の番付を上がったり下がったりさせていた人物を証言者にして、もっとも八百長の要素が低い取り組みに難癖を付けているのは(ガチンコで有名な部屋の当人の優勝決定戦、しかも相手は大横綱。・・・「土俵の鬼」の師匠で兄貴が星を買わせますか?横綱が数百万で売りますか?また、若く絶好調で無敵に暴れまわっていた横綱が、わざわざ星を買いますか?モンゴルで投資する金を無駄遣いしないでしょう)、実に不思議です。懸賞金が山ほどかかっていたり、優勝すればタニマチ筋からがっぽり入るような取り組みが、数十万や数百万で買えると思ってるなら、実にたいした庶民感覚と言うべきでしょう。
 相撲は真剣勝負でなくて良いこともあるから相撲で、金銭で星のやり取りなど薄汚いのは確かですが、嫌なら見なければ良いのです。「あいつ、三役以上を目指さずエレベーターか」とか、「今日はうまく負けてやったな」とか、「何も自分から後ろに動くことはないだろ」とか、突っ込みを入れつつ見るのも楽しく、反対に優勝がかかっていたり、上の番付を目指して果敢に勝負に臨んでいる姿もまた楽しいはずです。もちろんガチンコ(真剣勝負)の比率が少なければつまらないですが、すべてがそうであるのは、顔見知りの人間同士のぶつかり合いである以上、空想でしか実現しないでしょう。機械ではないのですから・・・、もともと勝負事以前に神事ですし。
 神事であれば、綺麗事とか型にはまったものを提供すべきでしたが、良くも悪くも勝負事にこだわったため、外国人が増えたと私は思っています。つまり、その雑誌社の主張とは逆に、情実で星をやり取りされることが減ったので、力の強い外国人を連れてくることが増え、勝って番付が上がりお金になるから、機嫌を損ねるような指導はしない、となったのではないかと思えるのです。実際、最近ははっきりエレベーターと見なせるような、三役格の力がありながら、番付を上下するような力士はいないように思います。

 いわゆる八百長が減って真剣な勝負が増えたのなら、なぜ今行われている九州場所は、日なたの水溜りのように観客を減らしているのでしょうか。実際、内容はともかく朝刊しかないから素敵な産経新聞によれば、7,200人収容の会場に初日でも4,649人、2日目3,690人、3日目3,323人と、確実に干上がってきています。
 正直を言えば、最近の地方場所、特に九州場所を見る楽しみは、どれだけ客が入っていないかを見るのが、個人的には一番の楽しみなのですが(その場にそぐわないYシャツ姿の人間が多く見られたら関係者を疑い、幼稚園児のかわいい声に底意地悪く笑うのです)、今場所は地元出身の大関が欠場したので、水溜りが完全に消滅するのも夢ではないかもしれません。
 この不人気の原因は、やはり何の改革もしてこなかった興行主、大相撲協会にあるでしょう。せっかく御皇室の姫宮様がお相撲好きで見に来ているのに、赤い顔で恐い顔して後ろに控えることしか出来ない前理事長など、初めから客商売に向くはずがないのに、そういった人物が長期にわたって居座った体質が、すでに浮世離れしており、その感覚が新弟子のリンチ殺害事件とそれを隠蔽するような動きとして現れ、一般市民をあきれさせる結果となりました。
 リンチ事件の際に、理事長としては無能としかいえない前任者が、相撲部屋で起きたことは親方の責任として、自らの責任を認めなかったように、部屋ごとセクター主義にこだわり、相撲界全体の改革は皆無に等しく、結果、トレーニング方法も前近代的なら医療のバックアップも不十分で、当然けが人が続出して興をそぐことになったのではないでしょうか。
 第一、興行として観客を呼ぼうと考えるなら(タニマチなど不景気で霧消するでしょうし、景気が良くても相撲人気が下降の一途では増えることは無いでしょう)、一般のサラリーマンの就業時間では見られない平日の夕方などに取り組みを続けている感覚が、すでに異常だったことに気付くべきです。万難を排して、1、2時間ずらすのが当たり前なのです。
 また、今の九州のように観客が集まらないようなところで興行を打つなど愚の骨頂で、北海道なり東北なり北陸なり四国中国地方なり、熱烈に迎え入れそうな場所があれば入れ替えてしまうべきでしょう。そうすれば、慌てて観客を呼ぼうと努力するでしょうし、入れ替えのチャンスがあれば手を挙げる都市もあるはずで、争奪戦で盛り上がるでしょう。
 モンゴルのサーカス小屋に巡業も結構ですし、もちろん横綱がさぼっても地方巡業は有意義ですが、より明確に相撲の競技人口を増やさなければ、先細りは目に見えており、結果現在のような外国人力士ばかりの事態となったことを猛省すべきでしょう。
 また、相撲中継をするNHKの無能も、相撲離れの一因かもしれません。「解説者」と呼ばれている元横綱・元親方など、横丁の隠居さながらの腕を組んでの相撲見物で、独自の取材など欠片もせずに、アナウンサーに解説を求める始末です。しかも、アナウンサーなど実況するのが仕事のくせに、なぜか利いた風な口を利きすぎるから業腹なのです!取材しないので今の力士のことはまるでわからないなら、昔の力士と見た目で比較して薀蓄の1つでも語ってくれれば良さそうなものですが、一体あのような者にいくらお金を払っているのでしょうか。不可解なテレビ局と言うべきでしょう。どうせなら、やる気が無かったり、やる気があってもしゃべれない元力士など置かず、取材まで一所懸命こなす優秀なアナウンサーを一人解説者に置いた方がよほどましでしょう。元職の人など、さらに適任ではありませんか。

 私は横綱の貴乃花が引退した際に、なぜか積極的にやめさせようと差し出口をしていた某新聞社のあの年寄りを(この人物は相撲も野球もろくに見ていないし知りもしないはずだが、なぜか口出しをしたがる)、日本のプロスポーツ2つを破壊した人物として永遠に名を残すと思っていましたが、その年寄りがいなくなっても、事態は好転などしませんでした。
 有害な横審委員長も無能な理事長もいなくなったのですから、そろそろ本復を期待したいところですが、この干上がりそうな水溜りを見ても抜本的に改革できないようでは、10年持たないでしょう。ぜっかく積み上げられてきたものなのに、残念なところです。







Last updated  2008年11月12日 18時44分30秒
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2007年12月21日
カテゴリ:ジャクボーの納戸

 かくして、正月が近づき、日本酒の味などわからぬ親戚どもに、ササニシキ(お米としても粘りの強すぎるコシヒカリより個人的にな嗜好に合う)から醸し出された正しい辛口の日本酒の味を教えてやろうと思い立ったのだった。。
 そういえば、母方の祖父は、なぜか日本盛の昔で言うところの2級酒を愛した男であった。そいつを熱燗にして、湯豆腐とかクサヤを肴にちびちび飲むのである。値段が高い1級酒をもらっても喜ばず、2級に交換してくるように暗に要求する。何の呪いなのか知らないが、刺身を一切食わないし(貝毒にあたった経験でもあるのではないかと)、娘婿たちにも供しない。思い起こせば、かなり妙な人物と言える。墓参りの際は、仕方がないので日本盛のカップ酒を用意するが、残念なことに今は2級酒はない。
 この祖父の父も伯父も埼玉あたりの蔵元で使用人をしていた時期があり、後に大伯父の方は小売の酒屋を営んでいたようだ。従って、この祖父が日本酒党である点は理解できる。しかし、曽祖父は新潟の出で、二世代を通じて埼玉東京と南下してきたような人間が、何ゆえに関西は灘の銘酒日本盛、それも2級酒限定で好むようになったのであろうか。かつて突然その疑問に思い当たった際に(墓に供えてやろうと日本盛を調べていた)、日本盛こそが、灘の大手酒造会社で最初に2級酒を売り出したことを知った。HPの記載に、「1955年(昭和30年)灘の大手で初めて二級酒(当時)の販売に踏み切る」とあるのだ。
 ここで一応解説しておきたい。当時も奇奇怪怪であった酒税制において、日本酒は特級・一級・二級に分ける等級別制度がとられていた。この制度、名称だけ見ると特級がうまくて高級、二級はまずい安酒の印象を与えるが、実はただの税率の違いで、高い税率をメーカーが納めれば特級、安く売るため税率を抑えれば二級酒の烙印を押されるといった類のものであった。つまり、品質や味はまるで関係ない。従って、最高にうまい酒でも二級と表示されることもあったわけで、特級にして欲しければ国に余計に税金を払えとメーカーを脅す一方で、消費者を言葉のイメージで欺くといったあこぎな制度であった。おそらく灘の大手メーカーは、必要以上にブランドイメージを重視して、二級酒と呼ばれるのを避けたいために税金を余計に納めた結果、小売価格にはね返って高くなっていたはずで、戦後日本の庶民には手を出しにくくなったものと思われる。従って、日本盛が二級酒を発売したことは、ブランドイメージより大衆化を重視した、まさに「踏み切る」英断だったに相違ない。
 東京の下町で小さな日本画の画材屋を営んでいた庶民、4人の子供を抱える貧乏人であった祖父は、当然ながら贅沢出来る立場ではない。つまり、安酒しか飲めない東国人にとって、その名もゴージャスな「特級」ばかりの灘の酒は羨望の的だったはずだ。その高嶺の花の灘の酒が、「うれしいじゃねえか、2級酒出してくれるなんざ~」(このような話し方をした事実はない)てなもんで、感激して飲めば大概のものはうまく感じるのが道理なのだった。一度うまいと思えば、頑固親父は棺おけに入るまでその印象を守るのが世の常だ。
 住吉について、そういった思い入れたっぷりの感情はないが、大学生時代に鯉のうま煮を肴にコップ酒を仰いだのがうまかったのは確かだ。一度印象付けられると、なかなか抜けられなくなるものが人間と言う生き物なのだろう。

 口に合うか合わないかだけが評価基準とする限り何でも良い。誰もが認める究極にうまい料理だの酒などという物は存在しない。その真理を理解していれば、太平洋戦争の戦中戦後の米が不足した折に、醸造アルコールなどでかさ増しした三増酒(三倍増醸清酒、いろいろ混ぜて清酒を3倍増するわけだ)に慣れた結果、それを引き継ぎアルコールを添加した日本酒(本醸造)を有難がるのも非難しようがない。二級酒の好きな祖父のように、それが主観的に好きなのだから、他人がどうこう言っても仕方がないのだ。しかしながら、その混ぜ物の多いものにより、日本酒離れが若年層に広がったのも事実であった。慣れれば良いが、慣れる前にまずく感じてしまうわけだ。
 繰り返すが、日本酒はうまいかまずいかだけでうんちくなどいらない(にわか日本酒党にはしゃらくさい奴が多い)。しかし、それでは日本酒の中身の話にならないので、一応の区別について解説するのを許されたい。
 まず、純米とは水と米(白米・米麹)だけでつくられたいう意味。原料の白米の磨きの程度(精米率)が高くなるとこれに特別が付く。「特別純米酒」と言えば、精米率の高い米を原料にまじりっけなしにつくられた酒と言う意味だ。実にいさぎが良い。これに対し、純米と表示されない日本酒は、醸造アルコールなどを加えて味を調えており、基本は本醸造酒と呼ばれる。パックの手ごろな日本酒などは、だいたいがこれに該当するが、やはり中身は千差万別で、とりあえず安くするために許される上限いっぱいいろいろ混ぜたものも、味を調えるために醸造アルコールを少々混ぜたものもある。
 また、本醸造よりも原料の白米の磨きの程度(精米率)が高くして、低温発酵などの吟醸造りを施すと吟醸や大吟醸となる。
 ようするに現在の日本酒の基本形を本醸造酒と見なして、混ぜ物がなければ純米、製法が吟醸造りなら吟醸になるだけの話なのだが、原料と製法で味の違いまではわからない。例えば手間暇かけた純米大吟醸であっても、銘柄によって味はずいぶん違うのである。
 日本酒の味の違いを計る物差しとして、「日本酒度」がある。本来糖分の含有量を示すものなので、甘いか甘くないかの基準だが、甘口か辛口かはこれを目安にすれば大はずれはないだろう。ゼロを標準とし、マイナスが甘口、プラスが辛口となる。通常+3.5~5.9が辛口とされるが、「特別純米酒極辛口銀住吉」は日本酒度+7なので、超辛口となる。

 うんちく終了。入手しなければならぬ。ごくまれに、どうしてこのようなコンビニに売っているのか首をかしげたこともあるが、住吉はさしてメジャーな銘柄ではないので、そこらの酒屋では売っていない。売っていても、商品の回転の悪い酒屋や、暖房をがんがん利かせていたり直射日光にさらしているような店のものは、驚くほど飲めたものではなくなる。
 とりあえず樽平酒造のHPにアクセスすると、さして遠からぬ酒屋が小売店として名を連ねている。...あんな酒屋に売っているのか、半信半疑でのぞいて見たが、影も形もなかった。極辛口どころか、普通の住吉の一升瓶も樽平(同じ酒造会社の辛口でない銘柄)すらなかった。
 そもそも、一升瓶(1.8リットル)はかさばるので、720か900ミリリットルを数本買いたいのだが、それを扱う店など地元以外にはないであろう。そこで通販で買うことにした。樽平酒造の直販は送料がよくわからず高そうで、楽天で扱うお店に720ミリリットルはないようだった。探していたら良いお店を見つけた(最上醤油株式会社↓)。
 http://www.yamagata-sake.jp/
 受注してから蔵元より取り寄せるとのことで時間がかかりそうだが、その分鮮度は良いはずである。ノーマルな銀住吉(それでも日本酒度+5の辛口)1本と「特別純米酒極辛口銀住吉」を2本、面倒なので代引きで注文した。そして本日めでたく届いた。土日をはさんだにしては、1週間とかからなかった。
 それで、今1杯・・・2杯と味見をしている。コップはウイスキー用の幅広のやつだ。この日本酒はろ過せず琥珀色なので、ちょうど色合いが薄めの水割りのようになる。残念なことに肴はいわしの味付け缶詰しかなかった。貝や魚の100円缶詰を肴にするにはもったいない気がするが、これが妙に合ったりする。口当たり良くスルスル飲め、肴がないと後からカーッとしびれる辛さがやってくるが、肴をつつきながら飲むと感じない。くせのない良い酒だと思う。成人して機会があれば召し上がれ。

 樽平酒造のHP
  http://www.taruhei.co.jp/
 日本盛のHP
  http://www.nihonsakari.co.jp/







Last updated  2007年12月21日 21時52分30秒
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カテゴリ:ジャクボーの納戸

 酒席で家ではほとんど飲まないと言うと、たいてい信じてもらえない。しかし、事実である。ゆっくり晩酌するほどの精神的な余裕がないのと、特に好きではないからだが、アルコールなんぞなくても別に困らない。例えば本日只今禁酒法が発令されても、アル=カポネから闇酒買う必要はない。あれは、他人と円滑に話しやすくするためのものだ。お互い酔っ払っていることを前提にしないと話し難いことが多すぎる。
 それでもたまにビール及びそれもどきは家で飲む。いちおうアルコールに対する免疫を維持するためだが、個人的にこの苦いアルコール飲料を心底うまいと感じたことはないが、冷蔵庫に放り込んでおいたものをグラスに注げば良いだけなので便利なのだ。それならグラスに入れず缶のまま飲んだほうが面倒がないと思うむきもあるだろうが、間違いようもなくはっきり言えば、缶ビールを缶のまま飲むなど外道である。たださえさしてうまくないあれは、空気に触れて泡が出るからかろうじて旨みがあるのだ。缶のままでは、身の毛もよだつ最悪の飲み物と言える(と個人的には思う)。気が知れない。それを好む者など、舌が死んでいるのではないかとさえ疑う。
 銘柄、「ラガーは変わるな」などと今CMしているが、頭の固いラガー党のおっちゃんらの「ラガーは変わるな」という切ない思いを踏みにじり、「生」にする際に勝手に味を変え、スーパードライにシェアをかっさらわれてから、あわてて昔の味の「クラシック」を発売するメーカーなぞ、一番絞り以外はいらない(もともと無駄に苦いラガーは舌に合わない)。もちろんスーパードライなどと、わけのわからぬネーミングの辛いだけのあれは好かぬ。恩師でもある大学教授が、スーパードライが一番うまいと力説していたらしいが(現場に居合わせず)、その説には組みしない。薄っぺらに辛いだけではないかと思っている。そもそもビールとは、水と麦芽とホップだけで作られたものであって、余計なものを混ぜたらドイツ人はビールと認めるはずがない。とりあえずビールとソーセージとジャガイモくらいは、ゲルマン人の話も聞いてやるなら、メジャーなところではモルツでも飲んでおく以外にない。個人的にはそれが一番舌に合っているので理屈をつければそうなるが、しかし、毎日飲む気などさらさらない上にビール党ではないので、米が入ろうがトウモロコシが入ろうが、小麦やえんどう豆を混ぜこんでようと何だって良い。
 そもそも、原料に何が何パーセント入っていると税金が高くなるなどという税制がふざけきっているのだ。税金などアルコール度数に比例させれば簡単で良いはずで、そうすると焼酎のような「大衆」の酒が不利になるなどと考えるのはおかしい。そういった税制論議をする輩は、高級な焼酎がいくらするか知っているのだろうか。そもそも、安い芋焼酎をお湯割でかぱかぱ飲むような手合いにしても、それが少々(大いにではない)高くなったところで他の酒に鞍替えなどしないだろう。安いから飲んでいるのではなくうまいから飲むのである。焼酎を馬鹿にしたものではない。ただ、個人的には焼酎や泡盛は苦手だ。癖のある酒は好きになるまで突き抜けて飲み続ける必要があるが、幸か不幸かそれを経験する機会がなかったのだ。なお、チューハイと言う飲み物もあるが、あれはアルコールの入ったジュースだろう。酒とは言わぬ。
 考えてみれば、ウィスキーが好きだったのだが、3年以上ボトルを買っていない。銘柄、リザーブで十分だ。リザーブより癖があるがダルマでも角でも良い。レッドは安くても嫌だ。ストレートで飲むようなアル中ではないので水割りにするのだが、氷だの水だの用意するのが面倒なので買わなくなった。昔はジョニ黒などと言えばそれだけで平伏したものであったし、酒屋でボトルキープするのはダルマであった。今、ダルマを置きっぱなしにされたら場所代のほうが高くつくだろう。酒税の改正で安くなったおかげでウィスキーの有難みがなくなったわけで、飽食日本の酒は、安ければ売れると言うものではないのは明らかなのである。
 ワインは嫌いではないが、あんなものは色の付いた水と認識すべきと考える。ソムリエだとかわけのわからん人々がいるが、あれは趣味の世界で、安いワインをラッパ飲みしつつフランスパンでもかじるのが本来の姿であると信じる。ご飯には合わないからこれは避ける。
 日本酒も嫌いではない。当然熱燗にするなんぞしゃらくさい。自分で呑むために自分で燗をつけるなんざ、その姿を想像しただけでわびしいではないか。もちろん生の冷酒(れいしゅ)なんてふざけたものも却下である。「女性も飲みやすいフルーティな口当たり」などとと、まずくないだけに放り捨てたくなる。やはり辛口を常温でコップに注いで飲まねばならぬ。それこそが日本酒なのだ。理屈はない。そういうものなのだ。わからぬ奴は永遠にわからる必要はない。銘柄、コップ酒をあおるのに、高い酒は却下だが、水と米以外に混ぜ物をして、舌にベッタ~とからみつくパックの安酒など話にならない。ここはやはり山形県民の友人に敬意を表して、樽平酒造の「特別純米酒極辛口銀住吉」でいこう。


住吉の一番人気!樽平酒造 住吉 プラス7 純米酒 1.8L







Last updated  2007年12月21日 21時42分16秒
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2007年06月25日
カテゴリ:ジャクボーの納戸

11-3 希薄すぎる宗教意識

 ※以下宗教、特に仏教について生意気にも語ることになるが、私の知識など高校の倫理レベルに過ぎないので、もちろん教理の深いところなど知る由もなければ、知りたいとも思っていない。

 細木某という仁の存在は、幼い頃に聞いていた。「天中殺」なる実にまがまがしい言葉が一世を風靡していたからだが、その後何やらいかがわしい噂もあったそうで表舞台から消えた。そして学生時代の一時期、神楽坂にたびたび出没していた私は(年増の芸者とお座敷遊びをしていたわけではない)、その通りにこの仁の事務所か何かを見出して、珍しい動物を再発見したような深い感慨を覚えたものであった。
 その細木某が、一部で不見識の代名詞となりつつある民放様のお力で復権を果たし、現在のさばっているのだから、細木某個人のためには喜ぶべきことに、世の中わからないものだ。しかし、また消えてしまわれるだろうから、しばらくこの仁の姿を見ればチャンネルを替えれば良いだけだと思っている。
 それにしても、某野球監督夫人やら、某元大統領夫人とか、はたけばホコリが出るのは知れきった仁ばかり、ホコリのついたまま引っ張り出し、自分の行いを棚にあげた極論されて喜ぶマゾヒズムの趣向は、日本人に特有のものなのか、恐いもの見たさは万国共通のものなのか、これも実に面白いテーマと言えよう。
 ところで、以前「天中殺」を連呼した細木某は、現在「大殺界」なる言葉を連呼している由である。語感だけでも恐ろしげで、無知な婦女子(もちろん大人の男も含む)を脅えさせるに十分だが、言葉に対する畏敬の念がある小人にはとてもまねの出来ない技である。そもそも「殺」などと言う言葉を、軽々に他人に吐けるのは、おそらくヤクザのごろつきくらいのものではなかろうか?言葉というものは、言霊という表現があるように、口に出すこと自体に一種の呪文めいた意味合いがある。これが、この国の伝統であった。また、人を呪えば穴二つと言うように、他人を呪詛すれば、それが跳ね返り呪った者も滅びるといった抑制的な考え方も存在したはずである。本来、そういった縁起を気にするのは、毎日の暮らしに終われる庶民よりもゆとりのある貴族であって、彼らは安倍清明が有名な陰陽師などという職業をつくった。この陰陽師の技を伝承したのが、日本的な占いのはずで、当然ながら、本来「殺」などという言葉を軽々しくは使うはずがないのである(使うのは呪詛の時だけであろう)。
 その点、私は現代人であり、祖先も農民に違いないので、言葉の禁忌など気にすることもないのだが、その点細木某も同類なのだろう。まったく、下賎の者は余計なことに煩わされずに済むので気が楽ですな!・・・否、細木某の場合は、きっと他から「霊的」に超越しているので何を言っても良いのだろう。面の皮が厚いというのも美徳であり、実に尊敬に値する。
 すでにお亡くなりになったが、宜保某という霊媒師の仁も、世間の良識のある人々を笑わせてくれたものだ。「成仏しなっせ~」などと闇の中で言うのだから、まともな人間はとりあえず笑うしかないではないか!
 今、このお手軽なお悩み相談的霊媒師の役を、江原某なる仁が担っているようである。テレビ画面を通じて迷える婦女子(もちろん大人の男も含む)を救う活動には、これまた頭が下がりますな!もちろん私は姿を見た途端にチャンネルは替えねばならないのだが、ある時、あの名曲ヨイトマケの唄の美輪氏が、この江原某と一緒になって霊性がどうの、前世がああの、言っているのを見てひっくり返ってしまった。嗚呼、天才的歌手も老いては鈍するものか!と思ったのである。
 もともとご自分をアフロディテ(ギリシャ神話の美の女神)だとか、観音菩薩だとか、普通に考えれば実在しない存在(少なくとも人間ではない)の生まれ変わりなどと言ってはいたし、芸NO人仲間の相談にものっていたようだが、それと不特定多数の見ている前で迷える他人様の前世に口出しするのとは違う。
 とりあえず、この芸はあった仁が、霊媒師に成り上がったのか成り下がったのか知らないが、今や歌手でも舞台人でもなく、霊媒師と一般に見なさねばならなくなった。そして霊媒師としては、はなはだ不見識と言わねばならない。何が不見識なのか、それは星占い同様に、この手の話は不特定多数の前ですることがだ。なぜなら、それは朝の星占い以上にひとつの宗教観を前提としたものなので、その宗教観を理解していない者が耳にする場では慎まねば危険だからである。
 彼ら二人は前世・現世・来世といった仏教の世界観を事実と信じていると思われる。もちろん個人が何を信じようと勝手であり、それが真実でないとする証拠は何一つない。また、スタジオ内で彼らに直接相談している仁にとって、お二人はよきアドバイザーであり救い主になっているに相違ない(どういった展開になる番組なのかは見ないので知らない)。しかし、良識のある仁であれば、仏教についての知識が欠片もない不特定多数のおもに若者が、安易に自分たちの語る内容を受け取ることの弊害を想像すべきだろう。
 すでに弊害は現実化していると私は見る。例えば、昨今自殺した未成年たちの遺書にある「生まれ変わったら~」という軽々しい字句にそれが如実に現れているだろう。彼らは、リセットボタンでやり直しが出来るゲームに慣れ、テレビで当然の事実のように語られる、前世や来世の存在を信じ込んでしまっているからこそ、死を恐れず安易に死を選ぶのだと思えるのだ。
 もちろん、本来、来世に生まれ変わると言う仏教的世界観は、来世により良い身分なり生活が出来るためにこそ、現世で苦労し功徳を積みなさい、といった教えが前提にあり、現世の苦労から逃げるように自殺することなど、まったく容認されないもののはずである。当然江原某にせよ、美輪氏にせよ、自殺などとんでもないと思われているはずだが、そういった彼らにとっの話の前提が、テレビ画面の前の無宗教的環境で育った若者には、全く欠如していることが多いのに気づくべきであろう。
 細木某の占いにせよ、江原某の霊視(スピリチュアルとか言うそうである)にせよ、それがまったく意味がないとは思わない。迷い苦しむ人がいて、その人に対し占いにせよ霊視にせよ、自信満々の態度で断定的に指針を与えるのが、救いになることもあるのは確かなのだ。ただし、それは救いを求めてわざわざそういった仁の元にやって来た信者にのみ、洞窟なり地下室で施せば良い御託宣に過ぎないことを自覚すべきではなかろうか。まるでその内容が一般に認められた事実であり、当然不特定多数が受け入れるべき真理のように、堂々と不特定多数の前で展開させれば、それは他の信仰や宗教観を抱いている者にとっては不快でしかなく、また何の宗教的免疫のない人間には断片的にのみ受け取られる危険が大きすぎるのである。それでも放映するのであれば、バラエティではなく、宗教番組としての前提をもたせなければおかしいであろう。現実として、来世があるんだなとのみ単純に考え、「何で、生まれ変わってやり直せるのに、今この世で苦しまなければならないのか?」といった、宗教的に言えば稚拙には相違ない考えを持った人間を、バラエティによる宗教的洗脳で、陸続と量産させる危険性を、真剣にお考え頂きたいところだ。本来アンダーグラウンドで、まさに地獄の地蔵菩薩のように、迷った人々を一人一人救っていれば有意義な存在を、何の考えもなく不特定多数の前に押し出すのは、不見識と言わざるを得ないのである。
 細木某などは、その遠い昔には某老哲学者との色恋沙汰があったようでもあり、容色も優れていらっしゃったに相違ないが、今現在、顔をゆがめて地獄行きを他人様に宣告する姿は、閻魔大王以外の何物でもない。これは、おそらく芸能界(低脳界とも呼ばれる)で「色物」として演出されている結果のように思われる。その点、宜保某も心霊スポットに行っては「恐い恐い」と逃げ回るような「色物」であったし、江原某なども、現役時代遊びすぎた天才運動選手が司会をする午前中の番組で、慣れぬ手つきで素人除霊などをさせられる和服着用の「色物」であった。
 視聴率稼ぎのため、こうした「色物」を使いたがる業界関係者を含む、冷静な判断力を有する大人であれば、「色物」が偉そうに御託宣する姿など、まったくのお笑いの種であり、それを有り難がる芸能人やら一般人など、虫けらのようなものにしか見えないかも知れない。しかしながら、そのようなひねくれた、もしくは訳知り顔の物の見方が出来ないからと言って、その素直な人々を危険に追いやる権利があるだろうか?寝覚めは悪くないのだろうか?天に恥じる気持ちの欠片もないのだろうか?利口ぶっても目先の儲けだけに踊って日々を過ごすむなしさはないだろうか?面白がってばかりいないで、前世だの来世だの、宗教的な世界観のお粗末な断片を垂れ流すテレビによって洗脳された者が易々と死を選んでいる現実を、エリートほど、社会的責任の上で今一度考えてもらいたい。
 頼む、拝む、占い師や霊能者たちを、地下に戻せ!!

お終い







Last updated  2007年06月25日 22時04分00秒
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2007年06月23日
カテゴリ:ジャクボーの納戸

11-2 お星様は物言わぬ

 まず朝起きてテレビをつければ、実にどうでも良い芸NO人の恋愛沙汰を云々したかと思えば、「今日の運勢」などと頼みもしないのに占って見せるてくれる情報番組ばかりやっている(朝は有料の国営放送をよろしく!)。西洋占星術を基本にしているようなものが多いが、西洋占星術などヨーロッパのジプシーたちが身すぎ世すぎのためにひねくり出したもので、ようするにいい加減な事この上ないことくらい、高校生に毛が生えたくらいに西洋史を知っていればわかる話である。定住する土地を持たず、他民族の地をさすらい歩く人々が、どういった手段で生き延びたか、そのたくましさにこそ思いを致すべきだろうに。
 当たり前過ぎることながら、人間がこの世に存在しようとしまいと天文は悠久に展開し続ける。それを人間ごときが勝手な理屈をつけるだけでもお笑い種といえる。それも大雑把に言えば、1年を12分割してグループ分けし、生年月日を当てはめて吉凶を云々するだけ、まったく児戯に等しいではないか。一分一秒の生まれ時刻の差で、どうして吉凶が変わるだろう。だいたい、いつを誕生の瞬間と見なすのか、今では帝王切開だってあるではないか!頭が出てきた時は凸凹座だが、産声を上げたのは午前0時過ぎで○×座ならどうするのか?
 朝の民放様はあきれ果てる丁寧さで、「ラッキーアイテム」などとその日の運勢を向上させる物まで言い募ってくれる。厚顔無恥以外の何者でもあるまい。いったい星の動きをどうやって見れば、今日はスパゲッティーを食べろとか、赤い靴をはけとか、わかると言うのか!そのようなものすべてが、個々の占い師の頭からその場限りに飛び出したものでしかないのは明白であろう。
 その場の座興ならいざ知らず(座興なら罪が無く面白い。ジプシーの手品と同じ、ご祝儀くらい出すべき)、本気でそんなものを信じるくらいなら、神様の実在を信じて祈っていたほうがましだと私は思う。ところが、案外いつも「ラッキーアイテム」を握りしめているだまされ上手なOL、オフィスレェィディの方々も多いに相違ない。しかしあえて言う。それはあたかも、文盲社会の「女子供」が流浪のジプシーたちの奇術に目を丸くしているのと同然である、と。
 21世紀の先進国で義務教育以上を無事済ませたはずの人間が、ほぼ100%と言う優秀なる日本人に、なぜ子供だましの星占いを信じる人が多いのか、これはまったく不思議な話と言わねばならない。
 しかし頭を冷やして考えてみると、実は信じてはいないように思えてきた。「ラッキーアイテム」をお守りにして、「これさえあれば安心」と自己暗示をかけているだけなのではあるまいか。それは「神様が見ていてくださるから安心」といった信心深い人々の気持ちと相通ずるものがあるかも知れない。神なき国の代替物、それが朝の占い・・・、ずいぶん安易な神様で情けない気もするのだが・・・。
 本来、星に人の運命を見る、吉凶を占うという行為は、12分して「はいどうぞ!」と言ったものではない。その時代の客観的情報を前提とした上で、ある特定の個人や社会状況を、空を見て判じるものである。それは一種の超能力予知であって、水晶玉に未来が見えると、「何とかの母」といった横辻、もしくは雑居ビル一角の占いオババが言うのと同じである(だから普通は当たらない)。
 ようするに、占う者が具体的な個別事象に対してインスピレーション、いわゆる第六巻を働かさねばならないもののはずで、多くは占われたい者を目の前にして成り立つものと言え、当然ながら全人類を天体の運行の法則を元にいくつかのグループに分けて、十把ひとからげに占えるといった、普遍的で大それたものではありえない。ましてや、グループ分けした不特定大多数に対して、一個人がインスピレーションで「ラッキーアイテム」など指定するなど、まるで正気の沙汰ではなく、天を恐れぬ不埒な行為と言って差し支えないと私は思う。もっとも、民放様と手軽なお守りが欲しいだけの視聴者の間で成立する馴れ合いのお遊びなら、「ご勝手に」ではあるが。

 ・・・と言いつつ、あれば気になる己の未熟さよ。







Last updated  2007年06月23日 08時18分25秒
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2007年06月21日
カテゴリ:ジャクボーの納戸

 血液型と日本人の情緒

 実はこの原文を書いたのは2004年秋であった。確かほとんど書いた時に次回を楽しみにしているといった主旨のメールがあって、占いなどをこれこれで否定するので、気に触る人も多いだろうといった返事をし、その後また忘れていたのである。当時は、テレビでやたらと血液型で性格を云々していたが、これは現在下火になっている。しかし、とっくの昔に終わっていた占いオババを引っ張り出して、たわ言を撒き散らせる極低脳なテレビ番組が盛んなのは相変わらずだ。なかなかしぶとい。
 とりあえず、2004年当時、やたら盛んであった血液型性格診断では、何と血液と性格がリンクする科学的根拠があるなどと言い出す「科者」まで出現しており、その愚かしさに憤りを飛び越え愕然としたのがこの話を書くきっかけとなったので、まずそれから始めたい。

 皆様、この世界は面白いですな。詳しく調べる気にすらなかったが、どうやら血液型によってかかりやすい病気、かかりにくい病気があることと、性格を混同させてしまっても、それが科学だと思える仁がいるのだから!
 万物の霊長であらせられる人間様も、この世の環境変化に種として生き残るために、多様性を持つべく進化しているのはすでに動かせない事実と言えよう。おかげで外見ではわからなくとも、いろいろな「変種」(DNAのごく一部の変化)は極めて多様に存在しており、おかげである凶悪な伝染病が流行して多くの死者がでてしまっても、それにかかりにくい体質の人間がわずかに存在し、その人々が生き残って繁栄してくれるといった塩梅になっている。例えばエイズなどは、今現在でも不治の恐ろしい病気だが、それにかかりにくい体質の人間の存在もしっかり確認されている。ありがたいですな、何十億も個体数があるというのは!
 さて、今現在、血液型によって特定の病気に罹患する可能性が、著しく異なることを裏付ける科学的データはないように思われる。しかし、人類はその進化の上で、赤血球上に存在する抗原のタイプを変化させる事で、特定の病気でのリスクを分散してきた可能性はかなり高いかもしれず、現在存在する地域による血液型比率の相違は、人類史的な時間の流れ(何万年単位)で考えると、血液型による多少の病気への対応力の相違の現れと見なすことも可能ではあるだろう。
 しかし、それと性格はまったく無関係である。否、むしろ無関係でなければならない。
 ここで仮にX型の人間だけを死に追いやる凶悪な病原体が出現し、悲しいかな地上からX型の人々が一人残らずお亡くなりになったとする。もし血液型と性格が関連のあるものなら、嗚呼神よ!X型の性格も地球人類からきれいさっぱり消滅させたもうか!?になってしまう。
 もしこれが本当であれば、多様性を可とする進化としては、はなはだ不合理なものと言えよう。なぜなら、例えばそのX型の人間に好奇心が強いという一般的な性格が付随し、一方生き残ったY型に慎重という一般的に共通する性格があったとしたらどうだろう。人類はX型を失うことにより、全体的に慎重になり、何らかの進歩は止まってしまうのではなかろうか。反対に血液型と性格が無関係であれば、X型が消えようと、Y型が消えようと、積極派と慎重派の比率は変わらず、人類の進歩に大した変化は無いはずである。
 もし多様性を求める進化という科学を認めるのであれば、血液型と性格を一体化させる必然性を論理的に探すことは出来ないと言える。もしわざわざ一体化させたら、人類の生き残り作戦上とんでもなく不都合になるのは明らかなのだ。
 結局、血液型と性格を一体化させる証拠など、「違って欲しい」という先入観からおこなった、非常に瑣末な非科学的データしかないのではなかろうか。もし自然科学的データを録りたいのであれば、幼い頃から否応無く血液型性格診断の呪縛をうけている日本人ではなく、そんなものの存在すら知らない外国人をサンプルにして行なうしかない。
 さて、なぜ性格とはまったく無関係なABO式の血液型分類に、世界で唯一日本人だけが着目し、そこから性格を大別出来ると思い込むに至っているのか、これは文化人類学や社会比較論において、重要なテーマとすべきものに相違ない。しかし、そんな学問など考慮する必要の無い立場の人間として推察すれば、それには日本人の大部分を構成する大和民族に、たまたま世界的には珍しいA型が多かったという科学的な事実があるように思われる。
 周知のように日本人の自己認識と言えば、「勤勉」「まじめ」「規律的」「責任感」などといった「お堅い」ものが多い。男性で言えば、夏でもスーツにネクタイをしめて外を営業して回り、冬の満員電車では眼鏡をくもらせ痴漢と間違えられながらも、不平も言わずに耐えているサラリーマンのイメージであろう。ところが、このイメージこそがそのまま血液型性格診断におけるA型の性格になっていることに気づかされないだろうか?
 日本人は自分たちのことを、ずいぶん特別な民族だと思っている。それ自体どこの民族も多少ともそう思っているし、極端な選民思想に陥らない限り悪いことではないが、その合理的な理由を考えたがるのは国民性の面白いところだ。
 例えば、郊外の住宅地に住むサラリーマンの某氏が、新聞を見ながら日本のありようを嘆息してつぶやくには、「A型の多い日本人のことを他国は理解してくれない・・・」だ。さらに会社にあっては、時間を守らず、叱ったところでまったく改まらない部下を見て思うのである。「こいつはB型に違いない・・・」
 これに科学もへちまも無いと、オツムの足りない「科学者」が何をぬかそうと私は断言する。血液型性格診断などというものは、日本人の多数派(A型)が、勤勉ながらきわめて情緒的に考えたものに相違ないのである。自分たちがA型なら、異なる抗原を持つB型は反対の性格であらねばならず、正反対のものを併せ持つAB型は二重人格であり、どちらも持たないO型は寛大だ。これは、きわめて単純非科学な妄想論理の帰結と誰もが気づくはずだが、あら不思議、実際の血液型性格類型を見てもそんなものばかりではないか!!
 科学的な血液型に、非科学的な妄想を結び付けてそれを科学と呼ぶのは、非科学であるからこそ意味のある宗教にさえ、科学的根拠(実に他愛の無いこじつけだが)を求め、それが教祖様から厳かな断定的な口調で与えられれば喜んでしまう者の多い、日本人ならではの事態と見なせる。信じる者は救われない事もあるので、気をつけねばなるまい。

 さて、もちろん私がB型であることは、紛れも無い事実である。しかし、血液型診断を信じるA型の非科学的な諸賢よ、詳しく見ればBO型なので、純粋なるBB型と異なる雑種なのだ。嗚呼、残念!







Last updated  2007年06月21日 22時40分27秒
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