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雀坊の納戸~文鳥動向の備忘録~

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しらばくれた書きとめ

2022年05月09日
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 しばらく前、ウクライナから日本に避難された方の犬が、検疫のため180日にわたって飼い主から引き離され、さらにその間の飼養費が請求されるという報道があり、狂犬病についてはそれなりに知識のある私は、「そんなもの特例で処理しろアホが!」と思いつつ、一方で、東スポの​この記事​で橋下徹氏が主張するような、現状の過剰検疫を擁護する意見を仄聞して、心配していた。
 結果は、特例処置が実施され、専門家の穏当な意見も表だってに出るようになり、良かったのだが(​NHK記事​)、「数頭から(狂犬病が)一気に全国的に広がり、人間の死者も出て、その後大量の殺処分につながった事例もあるとのこと」とされた、専門外の橋下氏の伝聞はどのように理解すべきであろうか。
 もちろん、野良犬が徘徊する環境であれば、その心配も杞憂ではない。しかし、皆さんは、野良犬、見かけたことがお有りだろうか?小生、首輪のない犬など、30年以上見ていない。したがって、橋下氏は、野良犬が徘徊して彼ら同士で生存競争が行われ、縄張り争いで噛んで噛まれてが日常となる修羅の世界に対して必要な防疫処置を、まったくの別世界で適用させている時代遅れの我が国の行政の不作為を問題視せず、聞き覚えた生半可な知識のみで官僚の如き意見を開陳したに過ぎない、と思えてしまう。
 ところが橋下氏こそ、古臭く硬直化した行政の変革を標榜し実践されたとされる方なので、この反応は実に意外なものと言えよう。悪法でも法は法とするだけならば、弁護士は務まっても政治家の任には堪えないことは、誰よりも理解されていたはずが、この件に対しては教条化したのは不思議だ。
 外国で家族同然に育てられた室内犬を、「原始時代」の感覚で有無を言わさず取り上げて隔離するなど、未開国家同然の愚の骨頂であり、まったく不必要なことである。その不必要は論理的思考があれば理解できるはずで(検査する。ワクチン接種する。自宅で隔離する。現在の飼育環境では普通に行っているし避難先でも普通にできる)、過剰な検疫が不必要なことを理解しながら、法の順守を求めるだけなら、改革など出来るはずがあるまい。現実に即して対応し、その対応を前例として法改正をはかるのが無難、なと言えば、橋下氏には、まさに釈迦に説法のはずだ。
 さて、その橋下氏は、昨今、国連常任理事国のロシアによる国連加盟国ウクライナへの軍事侵略に対し、ウクライナの国民を守るためであればウクライナ政府は降伏を考えるべきといった意見に立たれているようだ。政治的な妥協で戦争を止めるべきとの趣旨だが、はっきり言ってしまえば、大きなお世話と言う他ない。
 こちらの​テレビ討論番組に関する記事​で、橋下氏もご指摘の如く、政府も軍隊も(通常は)国民を守るために存在し、実際に、ウクライナ政府もその軍隊も、そのために必死に戦ってる。さらに、自由民主主義を願うウクライナ国民の大半は、ほとんど挙国一致して他国の侵略に対する祖国防衛戦争に協力している。
 ところで、血まみれの祖国防衛戦争を戦っている当事者たちに、どこぞの極東の島国で能書き垂れるだけで飯を食っているような連中が、「そろそろ降伏したらどうよ」などと勧めるのは滑稽かつ無意味でしかない。降伏しないで済むように戦い、降伏しないで済むように国際的な援助を求めているのに、「降伏したらどうよ」はないだろう。降伏しないで済むように政治的な妥協は模索できても、政治的妥協で降伏できるような状況ではないのである(政府が武器を置けと言っても多くの国民は従わず、降伏する政府を裏切り者と見なす)。
 自由民主主義国家は、国連で認められている独立国家を、独裁者の勝手気ままなパラノイア妄想で侵略したならず者国家を許してはならない。それは、完全な法規違反だからである。法を犯した国家に対し、法の順守を迫っていかなければ、国際秩序は崩壊するだろう。ところが、いかなる無法者でもそれが実力者なら、暴発されては困るので、政治的な妥協を探るべきであろうか?
 かつて英国宰相チェンバレンは、次々と当時の国際秩序を破壊し民族主義で周囲を侵略するヒトラーに対し、政治的な妥協をはかり、その妥協がヒトラーを増長させ、結果的に世界大戦につながった。ここまでは違反して良いが、それ以上は許されない、それは法令順守を求める立場ではなく、政治的妥協により法令違反を問わない過ちの結果でしかなかった。

 ウクライナの避難民から古びた国内法を盾にその愛犬を奪っても、法令順守を是とするだけなら正しい行動だ。もちろん、そのような謹直が信条の人であれば、ロシアに国際法の法令順守を求めるのも当然だろう。ところ実際は、同じ人物が、これに対しては政治的な妥協を求めているから、人間の主観的感覚は量りづらい。法令順守なのか法令の柔軟運用なのか、信条は絶えずぐらついてしまう。
 しかし、今回のロシアの侵略は、強盗そのものである事実を、忘れてはなるまい。その前提を置き忘れ、強盗の被害者に対して、「お宅はセキュリティが甘かった」「それどころか鍵を閉め忘れるなんて!」「自宅に現金を置きすぎるから・・・」、挙句の果てに、目つきが悪いので蹴り倒されたのは仕方がない、とか、抵抗しなければ殺傷されなかった、などと責めるのは、およそお門違いだ。もちろん、「盗人にも三分の理」はあるかもしれないが、処罰されるべきは加害者のみであることを忘れてはなるまい。
 おそらく、立憲民主党の小川氏などは、被害者と加害者の区別が曖昧なのだろう。「ロシアの立場になれば逆キューバ危機ですから」、などと加害者の「気持ち」を代弁してくれている。加害者の「三分の理」を、現在、『絶賛、土足で他人の家を踏みにじり中』、つまり加害行為進行中に行うなど、常識的にはズレた感覚だと思う。
 昔アメリカは、ソ連の核兵器が反米のキューバに持ち込まれるのを、海上封鎖により阻止した。一方現在のロシアは、核ミサイルがウクライナに持ち込まれる前に、ウクライナのNATO加盟やEU加盟をエネルギーを握る立場を利用してEU諸国に圧力を加えて阻止できる能力も、ウクライナ内部の親露派勢力を使嗾して政権転覆を画策する能力もあり、そもそも、すべてが裏目であってもウクライナのNATO加盟には数年は必要であり、さらに核兵器が配備されることなどは、かなり確率として低い、にもかかわらず、ウクライナの覆滅を目的に侵略を実行した。ロシアの立場など、有利かつ選択肢は数多ありながら暴挙に出ただけであり、およそその立場になどなれるものではあるまい。
 浅はかな知識で表層的に似た点を見出して、加害者の立場でものを考えるなど、笑止千万、盗人の三分の理など、戦犯法廷に引きずり出されてから聞いてやれば良い。その日が来ることを願いたい。






Last updated  2022年05月10日 00時36分53秒
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2022年02月09日
 順調に、むしろ想像以上に迅速に、危険性としてはインフルエンザ未満の疑い濃厚な「ただの風邪」と化したコロナウィルス、その見事なまでに感染力を進化させたウィルス君に対し、間抜けな知的生命体は感染者数が増えたと騒ぎ、免疫力が低下しているからと、3回目のワクチン接種を急かせている。
 そしてテレビの情報番組は、いつものようにアホづら下げて嘆いているではないか、「なぜ3回目の接種がはかどらないのか?」と。
​ 「​あの~すみません、3回目って2回目から半年たたないと接種してくれないんですよね?​だから、半年前の2回目の接種率以上の数値を期待するのは無茶、むしろ・・・、もう、うっかりさんだなぁ~(『ばーか!ばーか!』)」と、まともな人なら気づいても良さそうなものである。​
 では統計を見てみよう。半年前の8月9日の2回目までの接種率約35%。なかなか頑張ったね、オリンピック最中の我が国。だが、この数値を見て、現在の3回目接種率が約6%という現実を比べる人は、世間知らず、と言わねばならない。
 なぜか??だってぇ、ウチの自治体なんて年寄り用の接種券の発送を2回目接種の7ヶ月を過ぎてから行い、8ヶ月の年月日をわざわざ記載して、それ以降に接種するように命じているんですよ?そのとろくさい記載により、ウチの年寄りなんてとっくに接種できるのに、1ヶ月半を空費していた事実に、うっかりさんの私は今日気づいたりしているのである。
​ ついでに私本人の場合、接種券は1週間前くらいに届いたが、これには7ヶ月後の年月日が記載され、それ以降の接種を命じている。もちろん、6ヶ月後から接種可能に変わっていることも、それどころか5ヶ月後に前倒しされている世界的趨勢も、さらにはイスラエルでは3ヶ月後になっているらしいことも知っていたが、今が6ヶ月後なのか7ヶ月後なのか指折り数えていないので​、​印刷された年月日は6ヶ月後なのだろう​と、数時間前まで勘違いしていた。​
​ さて、7ヶ月前7月9日の日本の2回目接種率は約19%、6月9日となれば、約5%という現実を踏まえ、そして接種期間の見解が二転三転した事実と、ただでさえ非効率で救いがたく鈍い地方の役所の対処能力を鑑みれば、​今現在の接種率の低さは必然​、でしかあるまい。何が不思議なのか、不思議に思う方が不思議である。もちろん、昨年の秋には一日100万人接種が実現したと、あのガッカリ総理が威張っていたので、今現在の政府が100万人接種を目指すと言っても、それは当たり前、でしかない。昨年どおりにやれば良いだけ。​
 ただし、そのような必要がどこにあるのか、冷静に考えるべきだろう。今後、コロナより危険な感染症が現れるまで、数ケ月おきに「ただの風邪」に対するワクチン接種を、公費でまかなうつもりだろうか?そのようなことをする予算があるなら、毒性の強い次の感染症の出現に備えるべきではなかろうか。本当の危機感がないから、上辺っつらで右往左往するのだ、と思えてしまうな。






Last updated  2022年02月09日 19時29分38秒
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2020年08月20日
​​​ アメリカでは大統領選が本格化しており、現職の大統領のドナルド・トランプ閣下は相手候補のジョー・バイデン氏の悪口を繰り返し、一方、「フェイクニュース」のCNNは24時間トランプ閣下への非難を繰り返している。
 CNNが時折嫌味に感じられるのは、「フェイク」だからではなく​演出過剰​だからだと思うが、大統領閣下への非難は、ほとんどすべて「ファクト(事実)」なので、日ごろCNNの報道姿勢に批判的でも、擁護のしようがない。擁護?擁護どころか、閣下が画面に現れるや、頭の中では自作の歌が(少年少女合唱団のコーラス調で)ぐるぐる流れて辟易している。

 おっきなドナルド 言うことウソばかり
 でたらめドナルド 家族のもてあましぃ~ 地域の鼻つまみぃ~ 
 せ・か・い・の・も・の・わ・ら・い~~~

 彼がさらに4年政権を担うくらいなら、寝ぼけだか色ぼけだか知らないが、とりあえず上品そうな爺様のほうがはるかにマシだと思うが、新型コロナウィルスで20万人もの死者を出そうとしているにもかかわらず、「黒人の命も大事(ブラックライブズマター)」などと当たり前のことを喚いて、ただのオブジェに過ぎない古い銅像を壊して喜んでいる『民度』を見せつけられると、常識的な判断となるのか見当がつかない。

 さて、そのおっきなトランプ閣下と親しい我が国の安倍首相は、休むことなく精励され、周囲から心配されている。何と、また合併だか合流したアレども(民主党の残滓たち)まで、国会に来て体調を報告するように要求する始末である(やっぱりバカでしょ?)。
 あの総理大臣閣下は、休むとなるとゴルフし始めてしまうのだが、それは遊んでいるように見られてしまうので、気の毒ながら、やりたくても出来ないのだと思う。しかし、世間一般に見れば65歳のお爺ちゃんなので、いい加減に『静養』を覚えるべきだろう。さもなければ、不運にして新型コロナウィルスに感染し、症状がないまま自主隔離生活をする人々に「寄り添」えまい。この際、分別して頂きたいものである。
 そもそも働けばいいと言うものではない。疲れているか元々馬鹿な働き者は、動けば動くほど無駄な手間を増やすだけで迷惑になる。例えば、帰省も自粛しなければならないブレーキ状況で「Go to」などとアクセルを踏む政策にこだわるなど、バランス感覚を欠いている。とうの昔に市中に使い捨てマスクが山積みになっているにもかかわらず、給食マスク(「安倍のマスク」と呼ばれるガーゼのマスク。昔から小学校の給食当番の児童が用いてきたもの)に固執し、親友のおっきな閣下同様に世界に笑いのネタを提供されても困るのである。しっかり休んで頭を冷やすべきかと思う。






Last updated  2020年08月20日 20時02分10秒
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2020年05月19日
今年の9月から、入学時期を変えるべき理由の第一は、来年の1、2月の受験シーズンに、新型コロナウィルスの大流行が懸念されているからである。一体、外出が制限される中、冬季で換気もままならぬ試験会場に受験生を集め、何時間も監禁するなど正気の沙汰ではあるまい。では、いかにして入試試験を実施できようか?入試を経ずに入学など有り得ず、大混乱となるのは必定である。
 ところが、9月入学を来年の9月からの話とシレっと置き換え、さらに学齢の起算方法を9~8月生まれに変更する必要があるかのように文部科学省は主張しているようだ(​NHKニュース​)。しかし、学齢など現状のまま4~3月生まれにしておけば良い。わざわざ変えて面倒なことのように見せて、制度改革を潰そうとするのは、愚かな官僚の常套手段であり、お腹いっぱいである。
 現状のままで、新型コロナウィルスが冬季に順当に再来すれば、受験生たちも学校関係者も悲惨なことになるが、文部科学省の役人などは正月返上の生き地獄になってしまうだろうと、傍は心配している。しかし、当人たちには危機感はないようだ。まったく、いつもながら、度し難い。

 一方で、桜のシーズンと卒業入学のシーズンが(日本のかなりの地域で)重なることから、日本人の情緒的側面からそれを変えることを避けるべきだとする意見も多く聞かれる。例えば九州大学の施教授は、「「国民の絆」を壊す9月入学論」とのご卓説を産経新聞に寄せられている(​記事​)。
 しかし、先生のお考えは、平時の変革に対する識見であり、詮ずる処(平時に変革は通常不必要なので)、現状維持の結論しか生まないものと思う。もちろん、変える必要のないことは変えなくて良いと思うが、本来の9月入学論は、緊急事態に対する予防的緩和策であり、平時の保守思考では済まない。
​ 九大の先生は、国民の結束には「記憶や体験の共有」が必要とされ、「現代日本では、「桜と卒業式や入学式」という結びつきは、世代を超え国民を結び付ける大切な記憶の絆、イメージの絆の一つである」とされている。しかし、この別離の卒業と新交の入学が、なぜか桜で一緒に経験的にイメージされてしまうのは、日本全体の事実ではない。かの1本の桜から生じた、いわばクローン植物である染井吉野(ソメイヨシノ)の開花は、暖かいところから北上して桜前線などと呼ばれるのは周知の事実で、山間や東北地方以北では、入学シーズンから一か月ほど経ってようやく開花する。つまり、入学式に咲く桜を見ることがなかった人たちは、「世代を超え国民を結び付ける大切な記憶の絆」を持たないことになってしまう。
 確かに、日本人の情緒は、桜に対して華やかなイメージと儚いイメージという相反するイメージを抱く。満開に咲き誇る桜、散っていく桜吹雪、盛衰、これは卒業入学など無くても、桜を愛でるのが、九大の先生の言うところの「国民の絆」以上に本質的な「民族の絆」だからである。
 日本人の文化的な美意識は桜と結びついている。それは、平安・鎌倉時代の西行法師が「願わくば、花の下にて春死なむ、その如月の望月の頃」と詠み、江戸町奉行の遠山金四郎が桜の紋々をしていたかは知らないが、江戸時代の庶民は、桜が咲けば東京なら上野、京都なら愛宕山、といった具合に大勢で繰り出して花見をしてはどんちゃん騒ぎする、そういった長い民族的経験によって形成されたものに他ならない。したがって、卒業式や入学式が一部の地域の一部の日本人の記憶に結びつくのは、実は副次的な些末事に過ぎず、我が民族の強固な桜情緒は、入学式が9月になろうが明後日になろうが関係なく受け継がれるべきものと言える。卒業式がなくとも入学式はなくとも桜は咲くのであり、それが地域によって時期が違っても、桜を見て華やかさを愛で、散りゆくはかなさを思う情緒こそ、文化的な民族的絆であり、「現代日本では、「桜と卒業式や入学式」という結びつきは、世代を超え国民を結び付ける大切な記憶の絆、イメージの絆の一つである」などという表層的に理解は、その深層にある日本人の桜イメージを過小評価したものと言わねばなるまい。
 それにしても、来年の1、2月が心配だ。文部科学省の役人が過労死しても、それは自業自得の側面もあるが(上司が悪いのである。その上司をのさばらせた自分たちにも責任はある)、奇跡的に新型コロナウィルスが弱毒化して、普通の風邪と変わらなくなれば良いが・・・。
​​ (南半球で数多の人の犠牲の上に変異する可能性はある。人間から見て良い方向の変異も悪い方向の変異もあり得るが、ウィルスが増殖するには弱毒化した方が有利なはずなので、その方向性で進化するかもしれない)​​
 しかし、この体たらくでは、このままずるずるべったんと進んでパニック状態になるのを覚悟しておいた方が良いかもしれない。・・・その際は、馬鹿な大人が右往左往しながらも救済策を考えるので、受験生の皆様には「なるようになるケセラセラ~」と鷹揚に受け止めていただきたいと、心より願っている。






Last updated  2020年05月19日 22時56分29秒
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2019年04月04日

 元号はこっそり続いていけば良いと考える私は、今回の改元に無関心であった。何でも良かったのである(「れーわでいーわ」)。
 ところが、何を勘違いしたのか、選定をめぐる大騒ぎが始まり、ただの門外漢が「元号に関する懇談会」などになり、政治家などが「国書」からの選定にこだわり、伝統的な漢籍からの選定を覆したことに、はなはだ腹立たしい思いになってしまった。
 そこで、文鳥のカテゴリの中に書きなぐっていたのだが、少し時間が出来たので、最後にしらばくれて批判しておくことにした。 

 そもそも「国書」などと言っているが(閣議で「国書から取るのが正しい」と発言されたのは、河野大臣のようだが【​記事​】、経緯から見て安倍総理を主導とした政府全体の意向と見なすべきだろう)、今後それが定着できるか想定した上での発想であろうか?たしかに、2、3代なら『万葉集』の漢文部分で誤魔化せるかもしれない。しかし、『万葉集』は和歌集であり、当然に大部分は万葉仮名で書かれた和歌だ。そして、和歌に用いられている漢字はひらがなと同じで、一字一字の漢字そのものに意味はない。

 歌集としてなら、古今や新古今、その他数多あるものの、当然、ひらがな書きであり、さらには、短歌の一首から選定するのは難しい。和歌は短い中で主題があり完結しているので、こじつけた解釈の余地が制限されてしまうのである。
​ もちろん、『枕草子』や『源氏物語』はひらがな書き・・・、そもそも平安貴族の女子は「漢字なんて書けません~知りません~」とウソでも言わなければ変人奇人扱いされてしまう時代なので(公式文書はみな漢文)、そこから(どうするのか知らないが)漢字を抜き出したら笑い話にもならない。清少納言も紫式部も吃驚仰天ひっくり返るほど異次元的筋違いなのである。​
 となれば、日本人が作り出した漢字を多く含む典籍で著名なものは、歴史書以外になくなる。『日本書紀』など六国史、鎌倉時代なら『吾妻鑑』、江戸時代なら『徳川実紀』・・・、しかし、こうしたものは、漢文による編年体の記録集であり、そこに用いられる漢字に思想的な意味合いを含ませるのは難しい。総理大臣が出てきて、こじつけの解釈を披露することすら困難になるのである。

 ようするに、​漢字の選定に使える「国書」など無い​と考えた方が自然なのである(漢詩集は「国書」のイメージに合わないので除外する)。日本には日本の言葉、大和言葉、日本語、が元々あり、それを表現するために大陸の漢字を利用して、独自の民族的情緒を書き物として残し「国書」としての文学を積み重ねることにはなったが、それはひらがなの世界観であって、漢字を主にしたものでないのは、当たり前の話だ。日本の文学は日本の精神の赴くところ、和歌や物語の分野で発展し、中国の古典のように、漢文で書かれた思想書という、表意、意味を持った漢字を抜き出すのにおあつらえ向きの典籍を生み出さなかったのは、良くも悪くもなく事実そうなのだから仕方がない。
​ こうした当たり前の話、つまり、改元が悠久に続くと仮定するなら、かな書きが当たり前の「国書」からの選定など不可能なことくらい、よほど狭い専門性しか持たない研究者を除く文学関係の有識者は、皆わきまえているはずである。そのような本来の専門家を脇において、文学的には無知な政治家や門外漢の寄せ集めが、その場その時の情緒で「国書を典拠に」などという前例を作ってしまい、後々の禍根となってしまったと言わざるを得ない。
​​​​
 なお、今回政府から「元号に関する懇談会」のメンバーとして呼び出されてしまわれた方々に対する一般人の私の印象は、悪口に聞こえてしまうかもしれないが、忌憚なく言えば次のようなものである。
​ IPS?小説家?元アナウンサー?ふざけてるのか!​
 文系マターなのでノーベル賞を受賞されても、理系は「ジャマナカ」にならぬよう引っ込んでいるべきだ。林さんは良くも悪くも小説しかわからない人だが、そうした自分自身がわからないらしい。宮崎さん?政府にだれかファンでもいるのか?みどりちゃん、目立ってはならない会議にコスプレ記事などしてくれて有難う!!
 NHKの会長は民間企業のサラリーマン出身、民放連会長は記者出身、私大連は法学者、経団連は元経営者、新聞協も記者出身、それと最高裁の隠居、これらの方々は有能には相違ないだろうが、一体何の有識者なのか?この皆様を改元に関する「有識者」とするなら、​国民の雑駁な意見をより反映すべく、魚屋さんや八百屋さんなどなどの代表者も十人ばかり見繕って加えるべきだった​。​​​​​
​​​
 さりながら、「令和」が悪いわけではない。「平和って素晴らしい!!」との意味合いは、何となく情緒的な日本の価値観にふさわしい気がしないでもない。
 せっかくの年号を軽薄な選び方で傷つけないよう、今回の「国書」優先などとする無知蒙昧の有職故実破壊の暗黒史​は封印し、以降は漢籍から選定する合理的な古儀を復活させ、余計な波風を立てず粛々と改元されるようにお願いしたい(グタグタになるなら止めたらいいだろうと言われるんだよ?さしたる意味のない伝統を守リ継続するには悪目立ちするのは禁物​だ)。​​​






Last updated  2019年04月07日 20時06分25秒
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2019年04月01日


​(ウチでは)平成最後のシルバーヒナ​

​​ 元号を選定したそうで大騒ぎであった。何でも万葉集から採ったそうだが、なぜわざわざそのようなことをするのか?それに違和感を覚えない「有識者」とは、いったいどのような知識の持ち主なのか、摩訶不思議である。
 なぜ?だって、元号というのは古代中国の真似に他ならず、そもそも漢字だよ?当時の話し言葉、つまり大和言葉を苦労して万葉仮名に置き換えて書き表した万葉集からわざわざ漢文部分を引っ張り出す不自然さは滑稽としか言えないだろう(せっかくなので「いろは元年」とかにすれば良いではないか!)。
 などと批判すると、元号に思い入れがあるように勘違いされそうだが、さにあらずだ。元号は書類作成時に面倒なので、伝統文化としてこっそり続けるだけで正式の文書の年月日記載からは排除すべきだと思っている(伝統文化は目立って邪魔だと葬られるので、目立たぬように続けるべきという考え)。何しろ、書類の日付に平成何年と書かなければならない時に、とっさに今現在が何年か思い出せないのが、恥ずかしながら事実なのである。
 もし、「バテレン」による西暦が嫌なら『皇紀』(初代神武天皇が即位したとする年を元年としたもの)でも良いし、この際太平洋戦争で敗れた日本が主権を回復した1952年から数えるような方式を創出てもらっても良い。とにかく、元号のように切りが悪くぶつ切りになるものではなく、継続してカウントされるものを、文章の日付に用いるように統一してもらいたい。​​


 で、令和。個人的にはピンとこないが、これは慣れだろう。ようは、何でも良いのだが、せっかくなので意味を考えれば、令、現在もかろうじて使われる令夫人とか令嬢の令だろう。このレイは、たぶん麗に通じて、うるわしい、すばらしい、くらいの意味のはずなので、平和って素晴らしい、という意味かと思う(政府が何と言っているか聞いてなかった。なお、このいい加減な個人的見解に対する苦情は受け付けない)。意味としては無難と言えようか。​

​ ただ教養あふれる者(ウソ)としては「巧言令色すくなし仁」​の令の方が頭をよぎるので、「令」のイメージとしては、華美・浮薄になってしまう。・・・平和ボケにならないように、せいぜい気をつけたいものである。​

​ とりあえず飽きるまで、今月いっぱいの「ヘーセー最後の~」に続いて、来月から​「レーワ最初の~」​と連呼していただこうか(平成最期の~などとずいぶん非礼な言い草だと個人的には甚だ不愉快に感じている)。​


 さてと、文鳥の話題を書く前に力を使い果たした。明日は、平成最後のヒナ~ずの受け入れ準備に勤しみたい(まだ1ヶ月あるからもう1チャンスありか・・・)。







Last updated  2019年04月02日 21時55分40秒
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2019年03月27日
 学校の同級生などから受ける陰湿ないじめは、言葉の暴力で人格を否定し、身体的な加虐で自尊心を奪い去る。学校という閉鎖空間が世の中のすべてと勘違いするような子供には逃げ場がなく、親思いな良い子ほど、両親を心配させまいとして家では平静を装ってしまい、誰の助けを受けることも出来ず、自殺という選択をしてしまう。
 事実、日本では18歳以下の子供の自殺が多く、それも夏休み明けの9月はじめの時期が顕著で(​BBCニュース​)、学校生活での悩みが死を選ぶ原因となっているのは明瞭である。
 大人であれば、誰しも思春期の多感な時期を経験しており、多少でも、自殺したくなるような気持ちは理解できるはずであろう。さらに、慈しみ育てた子どもに自殺された両親に対して、そのやるせない悲しみを察して同情しない方がおかしい。
 しかしながら、「かわいそう」と同情すればするほど、自殺をしやすい環境にしてしまうものと、私は思っている。個人の感情として同情するのは当然だが、社会的な同情は同様の悲劇を拡散させる危険を含むのではなかろうか。

 そもそもいじめなど古今東西どこの社会のどのような人間関係でも、必ず、絶対に、間違いなく、​ある​。もし、万が一にも、神の御業で奇跡的に、いじめという現象が根絶されたら、それは人間が人間で無くなることを意味し、さらには生物であることすら疑わしくなると言える。何しろ、人間の社会はいじめいじめられる人間関係によって成立し、それがために文化が成立しており、そもそも人間以外の野生生物の社会で、弱者排除のいじめなど当たり前であり、社会を持たない生き物でも、それは必然のものだからである。
 若い人たちは、学校などでいじめいじめられつつ、対人関係の在り方を学ばねばならず、そもそも学校で集団生活する理由は、その体験学習をさせるがためとしても過言ではない。つまり、学校での「イジメをなくそ~」などが実現したら、学校の存在理由がほぼゼロになる。​​​
 つまり、いじめは、ある、が、その内容と対処が問題なのである。肉体的精神的傷害はもちろん、恐喝脅迫搾取など、犯罪に値するものは、学校内の友達関係、などと誤魔化さず、速やかに警察・司法の判断を仰がねばならない。また、傷つけられたと感じる子供をしっかりサポートできるように、保護者や学校が気を配らねばなるまい。無くすのではなく、あることを前提にした対処こそが喫緊の現実的課題と、我々はしっかり認識しなければならない。
​ 「イジメをなくそ~」などという世迷言キャンペーンは、生徒会の良い子たちが若気の至りで頑張っていれば良いだけで、大人には大人としてやるべきことがある。子供の悩みに無関心であったり、感性が磨滅して想像力も洞察力もないような大人たちが、少しばかり自省して現実の問題として、いじめが必要悪の中で、どのように自殺しないように精神的緩和ケアができるか、取り組まねばならない。​

 さて、昨今、いじめを原因として自殺する子供が増えているが、これまた当然である。いじめられたから自殺した→かわいそうと同情してもらえる、といった軽薄な認識を、繰り返し刷り込まれたら、批判力のないまじめな子供ほど、ちょっとしたいじめで嫌だな、と思っただけでも、逃避行動として自殺を選ぶことになって不思議はないのである。
​ ところが、自殺した子供が通っていた学校のバカな大人たちは、イジメの基準を勝手に作ってそれに適合するとかしないとか無意味な議論を始め、子どもに死なれた保護者の逆鱗に触れて、あたふたする始末だ。挙句が、子供をまともに育てられず救うことの出来なかった大人たち同士が、責任のなすりつけあいをして世間を賑わせる。結果、自殺したのはいじめられたから、といったごくありふれた事実だけがクローズアップされ、あたかも、いじめられたら死んでも良いといった印象をばらまく結果になっているように、私には思える。​
​ そこでは、自分の子供の異常も見抜けず、学校で嫌なことがあればやめてしまえば良い程度の逃げ道を保護者として教えることに失敗し、何より、自分がどれほど子であるあなたを愛していて、先に死なれたら何よりつらいことを伝えきれなかった反省が、いじめがあったかなかったかの不毛な議論に埋没し、報道からは伝わらない。まことに気の毒だし、その親としての失敗に対する悔恨は当人たちが何よりも感じているはずで、傷口に塩を塗るような指摘は避けたいが、同じような悲劇を減らしたいのなら、心を鬼にしてあえて指弾するのが、『社会の公器』としての報道機関の役割であろう。親として子育てに失敗した親が、自分の非を棚に上げ、愚かな教育現場を責めるなど、目くそ鼻くその泥仕合に過ぎず、自殺生徒を救えなかった点で、同じ穴の狢に過ぎない。​
​ お茶の間の良い子たち、若年自殺予備軍でもある彼らにしてみれば、何もしない腹の立つ学校の教師たちがいじめられていい気味に思えるだろうし、子供に死なれても死んだ子のために教育機関と闘争する親に頼もしさすら感じるだろうし、自分が死んでも親にやりがいのある仕事を残せると勘違いしてしまうかもしれない。​そのように、表面上だけしか伝わらないものである。
​ 保護者たる者、教育者たる者は、自分の子、自分の教え子に死なれた場合、何より自分の非力を責めるはずであり、もし開き直ったような態度であれば、社会から親や教育者としての資質を指弾されてしまう、そのような姿こそ報道されねばなるまい。それでこそ、自分が死んでしまえば、親は苦しみのたうつように悲しむし、そうでなければ、何の落ち度もなくとも社会的な非難にさらされることにもなる、ことを理解して、自殺を選択するのを躊躇してくれるのではなかろうか。​

 学校といえどいろいろで、教師の資質など、まったくもっての玉石混交だ。本日、テレビをぼんやり見ていたら、どこぞでイジメにより精神の変調をきたした生徒の親が、調査の第三者機関の設置を求めたにもかかわらず、半年間棚ざらしにした教育委員会か何かのおじさんが、その理由として受験を控えた時期なのでそれに配慮した、ようなことを述べており、朝から呆れてしまった。
​​ 学校は受験予備校ではない。建前であれ、人格を形成する教育機関であらねばならず、受験のために人格形成の教育機会を後回しになどして良いはずはない。そのような建前すら理解できないボンクラが、「生徒本人の将来を考え~」などときれいごとを言っても、お役所仕事のルーティンワークしかできない事なかれ主義が見え透いているではないか!他人の人格を否定するような行動をしたガキをしっかり教導するのが急務で、そのため受験に失敗するなら、それはそれで自己責任と言うものを学ぶ良い機会だ。​​
 このように学校など頼りにならない。偶然、良い学校、恩師に恵まれることに、期待してはなるまい。親、保護者であれば、まず被保護者たる子供が自殺しないように、繰り返し繰り返し、家庭内で教えねばならないと、肝に銘じたいものである。

 もちろん、若いくせに自殺しようなどというのは、絶対的な『悪』だ。なぜなら、自分自身の人生としては困難に対して逃げただけ、自殺しなければ​後何十年もあったはずの人生で、多少は他人の役に立とうともしなかったダメダメな終わり方に過ぎないからである。そのようなダメダメな選択肢は存在しないことを、しっかり考えてもらいたい。​​
​ どうせいつかは死ぬのである。早まる必要などどこにもない。中学高校などたった3年で、嫌ならやめて転校するなり自宅学習するなりすれば良い。それくらいのことすら、運悪く、家庭でも学校でも教えてくれないかもしれないが、その程度のこと、​​ダメな大人に教わらずとも、この際、自分で学べ​​。​

 保護されているだけの児童生徒学生の分際で自殺などすれば、それは「かわいそう」と同情されるべき人生でなく、もったいなく「バカらしい」だけの人生という評価しか得られないのが、真実だ。その真実を覆い、その場の情緒だけの同情を報道するのは、自殺をほう助するに等しい結果を招く危険のあることに、気づいていただきたいものである。​
​ 二度と同じことを起こさないために、イジメがあったと立証しようと頑張っている親御さんも多いが、それは運悪く担当する教育機関が間抜けだったので、そのような当たり前から始めねばならないだけのことだ。ところが、致し方なくするその行為が、糾弾者として元気はつらつな虚像となり、そればかり報道され、自殺の歯止めにならないことになってしまっている。自殺予備軍の子供たち、その中に多く含まれる親思いだが親の気持ちは理解できていない子供たちに見せねばならないのは、保護者でありながらその命を守れなかった自分の非力を嘆き悲しみのたうち回っている実像の方である。虚は控えめに、報道機関にはそのように配慮していただきたいものだ。​​​​






Last updated  2019年03月27日 10時05分01秒
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2019年01月16日
 NHKの大相撲中継のアナウンサーと言えば、日本語の言い回しなどろくに知らないのは目をつぶるにしても(ひでえもんだ・・・。昔のNHKアナウンサーなら情けなくて泣く)、社会人になって、たまたまそのポジションになるまで、相撲などまともに観なかったためか、勝負の見方を体得しておらず(さらに、何でもかんでももつれて優勝決定戦になれば良いとか、幼児レベルの発想をしている者が多い)、決まり手だとかなんだとか、どちらかと言えばどうでも良いことを、とても勤勉に学んで覚える人たちばかりだ。もちろん、勤勉に覚えること自体は立派であり、データを提供するのも重要なお仕事に相違ないのだが、なぜかそのようななまかじりの知識だけで解説者気取りで語りだすようになるから、まあ、「イタイ」。
 ほら、野球なら「打った!おおきいぃ!!」などと反射的にわめく実況アナウンサーがいて、鬱陶しいではないか。子どものころから野球中継を見ていたら、打球の方向や飛距離の大まかな予想程度は、バットにボールが当たった瞬間にできるので(そうでなければ守備など出来ないので、少年野球の子どもたちも無意識に反応している。さらに、やかましい応援がなくバットに当たった音が聞こえればもっとわかる。つまり、あの鳴り物入りの応援は邪魔なだけ)、実況アナなどは「にぎやかし」程度にしか扱われまい?
 そう、サッカーなら、パスを出された方向をちらっと見れば、誰へのパスかくらい、ポジションを記憶していればわかるものだ。ポジションがありシステム化されたスポーツではそれが当たり前だが、絶叫したいだけらしい実況アナウンサーは、あさっての位置にいるはずの選手名を連呼して、お茶の間テレビ観戦中のサッカーファンを興ざめさせる。結果、そのような実況などは有害なので、音声を消すはめになる。
 といった具合に、実況アナウンサーとは、いかに勤勉で人間性が素晴らしくとも、そのスポーツの観戦については、お茶の間の観客に遠く及ばぬシロウトであって不思議のない存在に過ぎない。したがって、NHKの相撲担当アナウンサー以外は、何年実況しても、そのスポーツの専門家として振る舞うことはないし、そうしたところで、誰もそれを認めてくれない。
​​ ところが​なぜか、大相撲の実況経験者だけは専門家気取り​になり、現役時代は隣にいる口の重い連中を差し置いてズレた解説をしはじめる。さらには、定年退社してもなお、何やら相撲のオーソリティとして振る舞うから、まったく、笑止千万であり、見苦しい。​​

 さて、稀勢の里は、自分の実力の低下を認めることもなく居座ることで、横綱の地位を汚し続けた挙句、ようやく引退した。もちろん、稀勢の里は、久々の日本人横綱であり、アスリートとしてして、してはいけない無理をしてまで連続優勝した功労者だ。無責任な一般人が同情するのは当然と言えよう。しかしながら、横綱とは特殊なものだ、との大前提を知らずに同情を語るようでは、専門家に値しないのも当然なのである。相撲の専門家を自称しながら同情論を展開するなど、相撲好きの好々爺が勝手な思い込みでする戯言にしかならないのである。
​ その専門家気取りの人々は、稀勢の里以外の横綱に対して、横綱は神に等しいどころか、土俵上では神でなければならないので、負けてはならない、といった主張をしていなかっただろうか?同情もヘチマも人種もそれまでの行いも、『負けない』の前では毫の意味も持たない。それはそれは、実に非情であり人情に欠けていると思うが、それも当然、何しろ『神』なのである。​神様が人から同情されてどうするの?​​したがって、同情されるような状況になったら、ただちに身を処さねばならないのが横綱の地位なのである。ところが、専門家気取りでその実は感情論が先行し、モンゴル人におんぶにだっこの相撲界の体たらくを棚に上げ、日本人の身びいきで平然と人種差別意識むき出しで恬として恥じない好々爺連中が(嫌なら日本国籍所持者限定にすれば良いだろうが!モンゴル出身横綱が稀勢の里と同じことをして同情してやれるのか!!)、甘やかし、結果、この醜態だ。稀勢の里については、今さら辞めたことよりも、むしろ、そうした連中の期待に応えるがため、愚かにも実力の伴わない地位に固執せざる得なくなった点が、実に気の毒ではないか!

 優しさが時として人を潰すこと知らない、無責任な人たちによる空疎な同情論が多い中、産経新聞奥山次郎氏の​この記事(「稀勢の里がつくった負の遺産」)​は、実に勇気があって素晴らしい。
​「往生際の悪さを感じさせたここ数場所の土俵が、日本人が抱く横綱像を根底から揺るがしてしまったのもまた事実だ」​
 ​その通り。「横綱の名に恥じぬよう精進します」とは、横綱昇進の彼自身の口上だが、口先だけで理解していなかったと言わざるを得ない。おそらく真面目で他人の期待に応えようとする性分なのであろう彼は、一部の専門家気取りのメンタリティに踊らされ、横綱の名を辱しめてしまったのである。

 まったく、かえすがえすも残念無念で、実に気の毒。引き際を誤らせた人たちも猛省すべきだろう。






Last updated  2019年01月17日 12時23分33秒
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2017年10月09日
​​ 昨日の党首討論会は、たまたまテレビで見た箇所が、やたら横柄な口調でのくだらな過ぎる質問だったので、「ブンヤずれが!」と舌打ちして消してしまったのだが、それについての記事を目にした。産経新聞の「​​​阿比留瑠比の党首討論観戦記​​​」。
 あの横柄な質問をしていたのは、毎日新聞の倉重篤郎さんとのことだ。その倉重篤郎さんによれば、首相の友人が経営する学校法人が、獣医学部の新設を認められたことについて、首相はそれが友人であると言うだけで反省しなければならないらしい。
 では、是非、お尋ねしたい。倉重篤郎さんの親戚でも姻戚でもお友だちでも大学などの後輩でもあなたが開催した何らかのセミナーの受講生の類でも、とにかくあなたと親しい関係にあると見なされうる人物が、毎日新聞社に入社されたら、それはすべて社内の実力者たる倉重篤郎さんが裏から手を回した不公正による縁故採用と断定してよろしいか?
 そもそも、証拠もなしにそのような指摘をするのは、名誉棄損でしかない。それはいつもは公明正大であろう倉重篤郎さんに対しても、実力で入社した倉重篤郎さんの優秀な縁者に対しても、無礼千万であり、それは犯罪レベルの誹謗中傷に他なるまい。もちろん指摘するのなら、客観的な証拠を集め、その信憑性を精査しなければならず、それが出来る者こそ真のジャーナリストに相違あるまい。もちろん、腐っても全国紙で、かつては政界の取材に定評のあった毎日新聞が、思い込みと憶測だけの面白記事を載せるはずがない。ところが、「安倍さんが関与したかしないかは分かりません」としながら、たまたま友人だったという事実だけで、一国の総理大臣に対して無礼不遜な態度で詰問している摩訶不思議なジャーナリズムを見せつけられては、御社への信頼など地に落ちてしまう。
 安倍晋三という人物を嫌うのは勝手だが、彼は民主主義国家で主権者たる国民による選挙の結果、多数の議席を占めた与党の代表者であるがゆえにその地位にあり(しかも、3年前にも自らが解散した総選挙を勝って信任を得ている)、つまりは国民を代表する立場なのである。彼がその地位にある限り、(それなりに)尊重しなければ、主権者を冒涜するのと同じなることくらい理解できないのであろうか?最低限の節度もなしに一方的な憎悪をぶつけるのは、およそインテリジェンスに欠けた態度で見苦しく、「礼儀知らずの変態新聞のブンヤ」と見なされても文句は言えまい。目を覚まして頂きたいものである。
 ところで、毎日新聞には存在できないキャラクターである産経新聞の阿比留さんは、相変わらず冴えわたっている。5日の一面を飾った「​​​前原さん、ありがとう 保守と左派分離 民進の矛盾すっきり​​​」など秀逸に過ぎてお腹が痛くなった。もちろん、品が良いとは言えないこれを一面に持ってくるセンスもどうかと思えるが、ご指摘は一から十までその通りではないか!!今後も冴え冴えわたってぶった切って頂きたいものである。
 ところで、「あびる」は上総の畔蒜荘と関係あるのかと日本史をかじった私はふと疑問に思い検索したら、畔蒜から9世紀に対馬に移り住んで在庁官人(地方役人)として栄えた一族とのことであった。だからどうということではないが、関係大いにあり。一つ利口になった。






Last updated  2017年10月09日 18時34分52秒
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2017年10月06日
 小池都知事が衆議院選挙に出馬すれば、一年余で都政を投げ出すことになり無責任と非難される、などとマスコミは報道している。しかし、問題の本質は、国会法第39条により国会議員は他の公務員を兼職出来ないので、小池さんが、目出たく衆議院議員に復帰されたら、都知事を辞めざるを得ないことにある。
 官房長官その他が、「出ろ出ろ」言うのは、一匹狼で自分の後を託す後継候補がいないのを見透かし、都知事を自民党が推せる人物にすげ替える好機と考えているからに相違あるまい。まったく意地汚い考えではあるが、小池さんが都知事でなくなれば、都議会の政治素人集団「グリーングリーンクラブ」など、選挙を待たずともテキトーに個別に篭絡するだけで雲散霧消するに相違なく、そうした挑発もしたくなるものと思う。

 さて、残念?なことに、国会議員でなければ総理大臣にはなれないので、出馬しない限り小池さんは国政に参画できない。だが、盲点は多々あって、個々の『常識』『良識』に頼らざるを得ないのが法律である。例えば、参議院議員が総理大臣になって解散権を振り回せば、手に負えない独裁者となる危険性がある。したがって、『常識』『良識』として、代議士たる衆議院議員より国家の代表を選ぶのだが、あろうことか、立法府の構成員でありながらそれを理解せず、平然と参議院議員を総理大臣に推すお目出たい人間が多い(小池さんにしても、首班指名で公明党代表の山口さんを推す発言をしていた。山口さんがどれほど立派な人でも、残念なことに参議院議員なのに、その点無頓着と言うか無定見である。軽々しい思い付き発言だったが、これにより、公明党は総選挙後に「グリーングリーンクラブ」が自民党と保守合同して、公明党は与党の座から追われる危険を察知したようだ。その後の公明党は、反小池に急旋回してしまった。おそらく都政にも大きく影響するだろう。小池さんはご自分の権謀術数を過大評価しない方が良い)。
 参議院議員の総理大臣就任が憲政の常道として有り得ないことさえわきまえないような人は、おそらく知るはずもあるまい。国会議員は公務の兼職を禁じられているが、都知事と国務大臣との兼務を禁じる法律は存在しないことを。つまり、「神輿は軽い方が良い」とされるように、無能なイエスマンを総理大臣として、都知事の身分のままに閣内にもぐりこみ院政を敷くことは、次の選挙のことを考えなければ、法律上可能なのである。​そのような裏道の危険性をわきまえず、「出ろ出ろ」言うのは、よほどマヌケではないかと思えてしまう。






Last updated  2017年10月06日 22時44分11秒
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