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瀕死の状態になっていたメインのPCが、半日に渡っての大手術で一命をとりとめました。術後の経過もよく、これからは快適に働いてくれると思います。 ただ、今後のことを考え、画像を含めホームページの全てのデータや、iTunesの2千数百曲のデータなど、外付けハードディスクに移しました。 わたし、東灘区に生まれ小学2年の秋に垂水に転居してきました。40歳を前にして灘区に住まいを変えますが、5年前より再び垂水に戻ってきています。 先日もニュースで流れていましたが、わが子を虐待の末に死に至らせてしまう、このような事件が頻繁に起こっています。 垂水に移り住んだとき、隣の家が「虐待家族」だったのです。わたしは小学校低学年で『よく怒られているな』程度の認識しかありませんでした。しかし、わたしが高学年になったときに、やっとその理由と、怒られているのではないことが解りました。 その家は4人家族で父親は大手企業の役職に就いていたと思います。少し歳は離れていたのでしょうか、後妻の母親が30代前半で息子が小学校低学年。そして虐待を受けていたのが、先妻の娘(A子ちゃん)で4年生だったと記憶しています。 このA子ちゃん、夕方帰宅すると、まま母に叩かれるのです。どうやら掴まれて叩かれているようで、逃げるにも逃げられない状態だったようです。これが10分15分と続き、やっとのことで逃げ出し、暗い町内を裸足で歩いていたようです。時間が経ち、父親が帰宅していることを確認した上で家に戻っていました。これが日課のように毎日つづいていました。 こんな状態ですので食事もまともに与えられていなかったと思います。おそらく、学校の給食が最大の楽しみだったかもしれません。 冬になっても夏物の薄い服しか着せてもらえず、太ももからくるぶしにかけて粉が吹いているように白くなっていましたし、手の甲はアカギレがひどく、血が吹き出ていたことを思い出します。 一方、息子に対しては過保護でS君という名前がありながら「ぼうや」「ぼうや」と呼んでいて、名前をよんでいるのを聞いたことがありません。近所でも「ぼうや」で通っていて本名を知らない人もいたと思います。 当時、愛犬ブームで“スピッツ”に人気がありました。この家庭ではスピッツを飼っていましたが、当然、序列はA子ちゃんより上です。 いつのころかA子ちゃん施設に移つりましたが、A子ちゃんにはそれが幸せだったのかもしれません。 こんな家庭ですから、ほかにも変わったところがあります。そんなに広くない家(3k)に息子の家庭教師が住み着き、母親とデキていました。父親は早く死に、10数年前に母親も死んだようですが、最後まで家庭教師と一緒に暮らしていたようです。 うわさによればA子ちゃんは結婚をして家庭を持っているようです。当時のことがトラウマになっていないか気になるところです。 このことは記憶から消えていたのですが、垂水に戻ってきてときどき思い出すとともに、当時は近所の人も“見て見ぬフリ”でした。今では考えられないことです。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2010年03月17日 15時22分19秒
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