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万延元年(1860年)1月、幕府は遣米修好使節団を公式に派遣した。その際、勝海舟は、咸臨丸(300トン)の艦長として、万里の波浪とたたかいながら 一行の護衛と海洋技術修得の大任を果たしたのである。これ、日本人による最初の太平洋横断であり、わが航海史上、特筆大書すべき壮挙であった。 文久3年(1863年)4月、攘夷の世論ようやく急を告げ、徳川家茂は摂海防備のため阪神海岸を巡視した。当時、海舟は、軍艦奉行並の職にあって、これに随行し、神戸港が天然の良港であり、国防の要港であることを力説した。かくて、ここ小野浜の地に海軍操練所の創設をみたのである。 これは、京橋南詰めにある海軍操練所跡碑に添えられた文章の一部です。この碑は実物の戦艦の錨(重さ10t)を元に昭和43年に建てられています。 海軍操練所の建設には、土地の有力者であった生島四郎太夫らの尽力を得て、網屋吉兵衛の作った船入堀を含めた地に開所されました。その面積は約17000坪で、現在の阪神高速道路 京橋ICを中心に東西約300mだったと伝えられています。 これを海軍営、海軍局、海軍所ともいって海軍兵学校、海軍機関学校をかねたものでした。鷹取山(六甲山系の西に位置する 長田区)より石炭を採掘して入用にあてようとした計画もあり、その規模も大きかったようです。 練習船には観光丸・黒竜丸の2隻が配備され、幕府から年3000両の運営費を与えられていましたが、海舟が入所を希望するものは、幕府の反対派まで入所させたため、幕府から疑いを持たれ、海舟は江戸に召し返され罷免、操練所は慶応元年(1865年)3月に閉鎖されました。 塾生には坂本龍馬(塾頭)、陸奥宗光(後に、第4代兵庫県知事・農商務大臣・外務大臣) 伊藤祐亨(初代連合艦隊司令長官)などがいましたが、龍馬は師と仰ぐ海舟の罷免に大きく失望し、以後、倒幕に本腰を入れ始めます。 閉鎖後は、門下生たちが中心となって操練所の経験を生かし亀山社中が結成されます。そして、その後の海援隊が日本の歴史を大きく変えていくことになります。 この海軍操練所跡の東側に面して国道174号が走っていますが、その距離は187.1mで全国一短い国道です。神戸税関などレトロな建物数棟が、この国道に面しています。 海軍操練所跡碑 神戸税関 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2010年03月19日 11時14分14秒
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