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高橋 弘@ お母さんの描いた絵 3月15日、NHK昼の「スタジオパーク…
2009年03月22日
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カテゴリ:音楽
2009年2月13日の金スマ名曲物語で赤い鳥の「翼をください」が紹介された。
学生時代を思いだす曲でもあり、面白かったので書き記した。

「今、私の願いごとが叶うならば翼がほしい」というメロディー。

1971年に赤い鳥によってリリースされた100万枚を超える大ヒット。
徳永英明、川村カオリなどたくさんのアーティストが様々なアレンジでカヴァーし続けている。
全国の学校では音楽の授業や合唱の曲として慕われ、老若男女誰もが歌える国民的名曲。

しかし、元「赤い鳥」ボーカルの山本潤子自身も忘れ去っていた曲だった。
一度は歌い手に忘れられた曲だった。
後に一人の青年の努力によって救われた、数奇な運命をたどった曲でもあった。

その物語とは・・・
38年前、翼をくださいを発表したのはフォークグループ「赤い鳥」でボーカルリスト山本潤子(当時19歳)の歌声は美しくあるコンテストであのオフコースを2位に退けて優勝したこともあった。

「翼をください」はもともと3rdシングル「竹田の子守唄」のB面曲にすぎなかった。
しかし、はじめて歌った時、特別に印象を抱いたという。
「赤い鳥って鳥じゃないですか、翼をくださいっていうタイトルもそうですし、赤い鳥がどんどん成長していってね、音楽会で認められるようになりたいっていう気持ちも重なったりして・・・」

山本潤子が感じたとおりA面を凌ぐ人気となり100万枚を越える売上を記録。
グループの活動も順調に続くかと思えば1974年に赤い鳥は目指す音楽性に違いから解散を迎えてしまう。
山本潤子は元赤い鳥のメンバ-と1974年に「HI-FISET」を結成。
歌う音楽を今までのフォークソングからポップミュージックへと大きく路線変更するのである。
1stシングルは荒井由実の作詞作曲によるデビュー曲「卒業写真」は大ヒット。
変わりたかったという思いから一切赤い鳥の曲は歌わなかった。
もう「翼をください」を忘れ去っていた。
こうして封印され、歌い手にすら忘れ去られようとしていた。

しかし、一人の成年の手によって新たな命が吹き込まれていたのだ。
それは赤い鳥が解散直前の1973年、音楽の教科書等を出版する教育芸術社でのこと。
そこに努める橋本祥路(当時25歳)は新しい合唱曲集の選曲を担当していた。
彼こそが翼をくださいを教科書に載せるきっかけになった人物。
今でこそ教科書には合唱曲として井上揚水の少年時代やSMAPの世界に一つだけの花など歌謡曲やポップスが並んでいるが、当時は前例がないこと。
野バラやふるさとなどクラシックや童謡がほとんどの中、なぜ彼はこの曲を選んだのか。
(子供たちが)歌うことによって心が少しでも安らいでもらえればいいかなという気持ちもやっぱりありましたね。

希望に満ちた歌詞は子ども達にピッタリと考えた彼だったが、上司は大反対、やはり難しいことだった。
だが彼はあきらめずある中学校の合唱部に協力を依頼。
実際子ども達に歌ってもらい感想を聞いた。すると新しい曲の雰囲気、歌っていてとても元気になれるなどとても評判がよかった。
彼の熱意により合唱曲集に翼をくださいが初の掲載。
その1年後の1974年に、これまでの常識を覆し、教科書にも採用されたのだ。
こうして一度は忘れ去られた名曲は子供たちという新たな歌い手によって歌い継がれていった。

一方教科書に載ったことなど知る由もなかった山本潤子は、この出来事が曲だけでなく潤子自身を救うことになった。

「HI-FISET」解散後の1994年ソロ歌手となった彼女だったが、はじめてたった一人で活動することに不安と行き詰まりを感じた。
「自分のスタイルというか、まだ確立していないというか、何が合っているのかっていうのを模索しながらやっていたので、常に不安との戦い。
そんな時におきた偶然。
小学生の娘がリコーダー(縦笛)で吹いていたのが、翼をください。
20年前に歌った曲との思わぬ再会だった。
なぜこの曲を知っているのか、山本潤子は嬉しい驚きを覚えるのと同時に
「学校で習ってきたって言われ、この曲こんな所まで浸透しているんだっていうか、改めてビックリしました」
この出来事をきっかけに山本潤子は、久しぶりにコンサートで翼をくださいを歌った。
「すると大合唱になったんですよ。鳥肌がブワァ-って立ってすごい曲だなとか思って自分自身がビックリするぐらい、みんな歌ってくれたんです。」

こうして封印した翼をくださいに力をもらい山本潤子は精力的に活動を再開するのである。

そして現在30年以上にわたり教科書に掲載し続けられているこの曲を歌う子供たちも。
元気がない時に歌うとすごい元気になるし、好きです。
勇気づけられたり、楽しくなるような気がします。
歌っててすごく勇気がでるし、自分に自信がもてるからすごく好きです。
数奇な運命をたどりながら国民的名曲となった翼をくださいはこれからも人々に元気を与えながら歌い続けていくだろう。

中居は言う。
「僕も変な話ですけど、VTRで教科書がダって出た時に“世界に一つだけの花”っていうのは今知りました。」

山本さんにとってこの曲というのはどんな存在だったんでしょう?
「出発がね、赤い鳥が歌った曲なんですけれども、完璧にこの曲は皆さんの歌というか、皆の歌だなーっていう気がします。」

◆翼をください
歌手:赤い鳥
作詞:山上路夫
作曲:村井邦彦

今 私の願いごとが
かなうならば 翼が欲しい
この背中に 鳥のように
白い翼 付けてください
この大空に 翼をひろげ
飛んで行きたいよ
悲しみの無い 自由な空へ
翼はためかせ 行きたい

子供のとき 夢見たこと
今も同じ 夢に見ている
この大空に 翼をひろげ
飛んで行きたいよ
悲しみの無い 自由な空へ
翼はためかせ

この大空に 翼をひろげ
飛んで行きたいよ
悲しみの無い 自由な空へ
翼はためかせ 行きたい

NEW BEST 1500 山本潤子

金スマはほとんど見ないが、織田哲郎やEXILEなど時折面白い。





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Last updated  2009年03月22日 12時19分16秒
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