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歴史

2009年03月01日
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カテゴリ:歴史
2月21日のウェークアップ!ぷらすで、新作とともに一時帰国した塩野七生(しおのななみ)のインタビューの続きを紹介する。

政治家は職業ではない。緊張しきった生き方。
リーダーのない世界・社会を人類は作ったことがない。

リーダーとは何か?
普通の人は納得してはじめるが、途中で迷いがでてくる。その時ふっとリーダーの顔を見ると、リーダーはちゃんと自信ある顔をしている。それでまた動く。
リーダーはそこにあるだけで必要。
歴史上の偉大なリーダー、カエサルやアウグストゥスとてすべての政策に成功したわけではない。

日本の戻ると国会中継をよく見るが、代表質問の議員としていやだなと思うのは、下品な決め付け、もれはやめた方がいい。

実現しなかった時に、なぜ実現しなかったか、納得いくように説明する能力が要求される。

世界第二の日本がきちんと機能することで世界に貢献する。
たったこれだけで貢献。これを考えればいい。
だってアメリカがきちんと機能しなかったら、どれだけ世界が実害を被ったか。

きちんと機能するには、
日本人はひとりひとり生産性が高いしきちんとしている。だからこういう時代にはうちに引きこもるというか、今までやってきたことをきちんとやっていくこと。物書きなので自分の作品をきちんと書く、一人の責任でやれることで、これには責任を持つ。

ローマ亡き後の地中海世界(上)
あわせて読まれたい。

アメリカ後の世界








Last updated  2009年03月01日 17時38分30秒
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カテゴリ:歴史
塩野七生が語る古代ローマとアメリカ、オバマ、EUについて

2月21日のウェークアップ!ぷらすでの塩野七生(しおのななみ)のインタビューを紹介する。
イタリア・ローマを拠点にし、歴史物語をつむぐ作家。
古代ローマの興亡を描いた「ローマ人の物語」は単行本、文庫本あわせ878万部発行という驚異的な大ヒット。
新作とともに一時帰国した。ローマ亡き後の地中海世界(上)(新潮社)
覇者なき世界を人々はどう生き抜いたか。今は当時と同じ状況?

パクス・アメリカーナの正体とは?
アメリカでリーマン・ショックが起きたくらいで全世界がメチャクチャになっている。
イタリアでテレビ見ていたら、イラン大統領が、過激なことばかり言っているが、アメリカはもうダメだと言ったが、最後に傑作で、でも我々も損したからちょっと立ち直ってもらわないと困ると言っている。
イランはリーマンに投資したのかと思った。
要するにすべてアメリカが大嫌いと敵対した国でさえ、投資するならアメリカだった。
世界がドミノのようにバタバタ。だからアメリカの威力なわけでアメリカが一番の国だったのである。

ブッシュ前大統領らが考えたような、覇権主義は終わったが、オバマ大統領で良くなるわけではないと思っている。
残念ながらすべての国の指導者は理(ことわり)でもって対話しても納得するとは限らない。結局ある面でブッシュが考えたのが正しくないことはない。つまり最初でガツンとやってしまう。その後で卓につかせる。
これは一種古代ローマ的。要するにローマは戦争して勝つわけで、負けた方は従うわけだが、結果として見ると道路は街道を通してくれるし、広域経済になったから流通も良くなるわけで、生活水準も上がりみんながまんする。しばらくすると効果もでてきて民衆の方も納得する。

反対に一緒に卓について全員で話すというのは、歴史的にみると解決は非常にむずかしい。
卓を囲んでの対話は良い成果をもたらさないということになる。悪いけど。

ではEU的な共生はどうか?
アメリカや日本経済に対抗しようとしてできたのではなくて、二度の大戦でヨーロッパはメチャクチャになった。二度とヨーロッパ内では戦争はしない、そのためにつくった。
EUは歴史を共有している。






Last updated  2009年03月01日 17時21分09秒
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2008年01月06日
カテゴリ:歴史
若気の至りでお家断絶、47人ものの命までも奪ってしまった赤穂事件。

大石内蔵助の藩の殿様は非常に若い子(浅野内巧頭(あさのたくみのかみ)35歳)である。
その殿様は赤穂から江戸城の政の任命の当番にあたって江戸城へ入る。入ったとき、目上の吉良上野介(きらこうずけのすけ、61歳)が仕切っていた。ものすごく熟練の熟達の全て心得ている人であった。

そこへ言葉悪いが田舎大名が江戸城へ入った。そのときまずご挨拶は吉良上野介にしたはずである。その時よく来た、大変だろうけどこの政を大禍なく過ごしてほしいという挨拶の会話はあったと思う。その後、吉良上野介は手土産を見た時に愕然としたと思う。赤穂は塩でものすごく栄えて儲かっている藩であり、相当な教授料を持ってくるだろうと思ったとき、その藩主の手土産が茶菓子一つであった。

当時の習わしでは普通その下に小判が入る。茶菓子一つでこの大老によろしくお願いしますと頼んだとき、何かにつけ腹立たしい行動に出るのが人の、当時の習わしである。

それを大石内蔵助はなぜこんな一大政に対して我が殿のお供で家老がついていかなかったのか。
そこに大きな問題がある。
そしてあまりにも軋轢をかけても気が付かないので、吉良上野介は畳を一夜にして変えろというとやってのけた。ケンカうっているようなものである。

※増上寺畳替え事件
勅使が増上寺を参詣する儀式の際、前日になって100枚の畳を換えるよう吉良上野介が浅野内巧頭に命じると一夜にして取り換えたという出来事。

「それはとてもできることではありません。ひとつご容赦の程を・・・」と言って何がしかのものを出した時、「おう、よしよし、そこまでやらんで良い」と、こうなったと思う。
これが”外交”である。

それで最後は松之廊下で額を切ってしまった。決してやってはいけないタブーを若大名(浅野内巧頭)はやってしまった。あそこで刀をぬいてはいけない。
そこで切腹(死刑)を宣告したわけである。

もしあそこで大石内蔵助が本物の人物ならこんなミスを犯すような事を読んでいたであろう。わしがついていくと。その時適材適所でアドバイス、解決できたはず。

吉良上野介はそれなりの立場の人間の常識としてわかっていなければおかしいといいたかった。
徳光もどうしても悪役になってしまうが、地元では本当に名将といわれている。
だから、うるさくても熟練者がいたほうがいい。そそうがないようにと。






Last updated  2008年01月06日 10時29分08秒
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2007年12月16日
カテゴリ:歴史
藤原紀香インドへ ~0誕生の国で見た数学のルーツという番組でのこと。
インド東部のナーラングーに世界最古の大学があった。
今からおよそ2500年前にこの国で生まれた仏教。その大学跡のナーランダー遺跡である。
ナーランダーとは運のある場所という意味で、運は知恵の象徴のため、知恵を与える場所と解釈される。5世紀から12世紀に渡って栄えた。縦10キロ、横5キロに渡る敷地内では、世界各国から1万人以上の僧侶が寄宿。1500人もの教師スタッフが学問、研究に従事していたという。

あの西遊紀で有名な三蔵法師(玄奘三蔵)が国禁を犯してまで目指した天竺(てんじく)がまさにここ。中国の長安(今の西安)を出発してから3年後、この天竺に着き、およそ5年間この地に留まったという。

ナーランダ大学の仏教学部教授エーケー・ミシュラ氏によると、
この大学に留学された中国の三蔵法師の回想によれば、一部屋に二人の学生が生活したという。
ベッドは先輩と後輩の組み合わせであり、先輩は一段高く、やや広めで後輩はその分狭い。
レンガの跡が残っている。
三蔵法師は7世紀のHarshwardhan王の時代にここでまず留学してそれから教授として生活したそうであると語る。

三蔵法師の言葉を残した「大慈恩寺三蔵法師伝」の中でナーランダーの日々をこう語っている。
「僧侶は1万人近くもおり、共に大乗を学び、小乗18部?も見学していた。その他ベーダの書や因明、しょう明、い方、術数に至るまで研究されていた。」なんとこの天竺で術数、つまり数学も研究されていたというのである。

数学ではインドで始まったゼロ数学の神秘性について研究していた。ゼロは大変優位性のある数字で、ゼロを加えると価値が上がる。例えば1という数字の前に置くと何ら変わらないが、後ろに置くことによって一気に10倍価値が上がる。さらにゼロを加えると100倍つまりゼロを加えるごとに10倍の価値が上がっていくのであるから意味深いのである。

なんと仏教も0と深いかかわりがあったのである。実は0の概念を深めることこそ、仏教が何世紀にもわたって時間を費やしてきたことなのである。ここで仏教を学んだ三蔵法師たちはこの0の概念を「空」という漢字に訳した。あの有名な色即是空(しきそくぜくう)の空である。
無ではなく空。 仏教は空の思想を発展させていく。しかしそれは、ナーランダーが廃れ、仏教がインドの民衆の心から離れた一因とも言われている。
それにしてもさすが数字の0誕生の国、数字、そして数学とはいったい難なのか、あらためて考えさせられる。






Last updated  2007年12月16日 17時52分35秒
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カテゴリ:歴史
第二次世界大戦での陸軍史上最大の中国大陸打通作戦とは名ばかりで武器、弾薬、食料の補給はほとんどなかった。
作戦の当初から食料は補給ではなく挑発。つまり、現地で調達するよう命じられていた。
行軍が長引くにつれ食料は逃げていった中国人の集落から奪うようになっていったという。
住民はいなかったし、本当に残っているのは、歩けなくなった年寄りとかそういう人しかいないから、反抗してくるものはいないから、留守宅を荒らしたってさほど罪悪感は感じないし、そういうものをもってこなければ、自分らは食べるものがないものだから、悪いとかは考えなかったという。

野盗というか、徴発と明文を揚げたが、名聞文いいがそうじゃない日本の軍隊は野盗だった。かっぱらって食うということ。出発するときの命令だったという。1年半ずっとという。それを休めば自分たちは食えなくなる。
やることが人間でなくなっちゃうという。一つ一つが。ただ自分が生きるためには、何をしてもいいというような生き方だもの。

多くの死を目にするうちに、兵士は死に対する感覚も麻痺させていった。
死んだ人が100mにひとりぐらいいる。それをみたって別にいやだなとも思わないし、ただくさいというだけで、同情するとか、戦争がいやだとか出てこない。
死んだ人がそれこそ腐敗する寸前だというと、それこそ悪臭でものすごいが、そういうところで、平気で食事をするような神経になってしまうという。

ある場面に遭遇。
一回こういうことがあったという。機関銃の中隊の兵隊が、現地調達で物資を徴収しようと、入り口からはると、敵がいて入ってくるので、ドンと撃ってやられて死んじゃった。それでやっきりして、住民を集めてきて、火をどんどん燃して、なんでも机でも腰掛でも、砕いて火に燃して、どんどん燃えている中へ、女の衆でも子供でも、追いやろうとしてたこともあったという。
女性や子供が焼き殺されようとする光景をみて、とっさに叫んだという。片言の中国語で早く逃げろといって、シェーシェといって主婦が子供を連れて、逃がしたこともあるという。後で日本へ帰ってきて、あのとき人助けの人かけらぐらいしたから(自分の)命を拾ったと思ったという。

これらの証言を聞いて、あらためて認識を深めたのは、戦争というのはいつの世も、何が起きてもおかしくなく、残酷で弱いものが必ず犠牲になる。多くのものが尋常でない苦しみをあじわい、深く傷ついて後遺症を残す。戦争において得することは何もなく、不幸以外のなにものでもない。戦争をしかけられる側もする側も。
最後にビスマルクの言葉を紹介する「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」。






Last updated  2007年12月16日 08時31分34秒
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カテゴリ:歴史
NHK番組で、証言記録 兵士たちの戦争「中国大陸打通苦しみの行軍1500キロ」を見た。
中国に何度か行ったことがあり興味があることに加え、祖父は戦争で中国へ行き、上海から武漢など中国の地図を示しながら出向いたことを教えてくれたこともあったので、同番組は日中関係の過去を知る上で貴重な記録で見入った。

父が生まれた頃とほぼ同時期の第二次世界大戦で、米軍の前に敗北を重ねていた日本が、南方との陸上交通路を確保すべく広大な中国を1500km以上もの大陸縦断を目指した陸軍史上最大の中国大陸打通作戦でのこと。
それは参謀本部内でも中止論が出るほど無謀なものだったが、戦況が悪化していた昭和19年、陸軍史上最大の作戦の先陣部隊として参加した陸軍歩兵第34連隊の兵士たちの生々しい証言を聞くことができた。

軍事的に無意味な結果に終えたその作戦に参加した先陣部隊の歩兵第34連帯は4102人。兵士たちは命じられるまま、歩き、戦い続けたが、その内、戦場で命を散らせたのは、2025人。その8割近くは病や自殺で亡くなった兵士という。

南京の西にあり武漢の真北にある信陽から広州に近い柳州までの無謀な行軍によって、多くの人が病気などで命を落とした。
重さ30キロの荷物をもって、昼も夜も無く歩かされた。歩きながら寝ちゃうという。それも毎日。足の裏全部がまめで、水が溜まって皮と肉との間がすれて、歩けなくなっていたという。
倒れそうになるのをひっぱたいて連れて行くことがよくあったという。

地図を広げて、今度の作戦はどこをどういう形で通るんだというのを参謀が地図の上で決める。鉛筆で線をひっぱると、地図の上でわずか5センチ鉛筆をひっぱられても、その距離はいつもものすごい距離で、一般の兵隊は命令でもって歩かされるという運命であったのだ。

雑のう(肩掛けかばん)というのをかけていたが、それがこすれて、軍服を脱がせたら、化膿してくさってしまって蛆がわいていたという。

兵士たちを苦しめたのは水不足で、清潔な水を配る給水班は、幹部がいるごく一部の部隊にしかなく、前線の兵士にまでは水がいきわたらない。
乾きに耐えられなくなった兵士は口にしはじめたのは、田んぼや道端の泥水だった。
苦しさのあまり、自ら命を絶つものも。こんなに苦しむなら死にたい、死にたいといっていたという。






Last updated  2007年12月16日 08時17分49秒
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2007年10月08日
カテゴリ:歴史
世界一受けたい授業で河合敦氏の『教科書に載せたい新歴史』から、面白いものを紹介する。
水戸黄門にはひげが無かった。
肖像画や木像などの水戸黄門にも実際、髭はない。
その髭を生やさなかった理由は、幕府が髭禁止令を出したから。
自分のひげにロウや松脂(まつやに)をつけ、非常に風紀を乱すということらしい。
戦国時代はひげがブームで、ひげの薄い人はバカにされた。秀吉の付け髭をしていたが、江戸時代になるとなくなってしまった。

明治になってからできた物語で、最初のお供は格さんと助さんではなく、俳句を作る人がお供のなっていた。
全然強くないが、格さんと助さんも強くなく、身と藩士の学者で、歴史の編纂が仕事で、とても拳法もできなかった。
江戸の初期であり、家来には中国人や黒人の家臣がいた。
織田信長にも黒人の家来がいた。

タモリのヒストリーXでの話も紹介する。
印籠は携帯用薬箱だったのだが、最初のドラマシリーズでは3回してでていないが、スポンンサーから好評で毎回出すようになった。

若かりし時は不良で傍若無人で家臣に下ネタばかりしていたが、正義の見方のように描かれているかは、農民に対して思いやりのある政策を行っていた。
不作のときは年貢を軽くしたり、広大な敷地を東京ドームと後楽園遊園地あたりにもっており、その一部を使って米をつくった。
その米を自ら率先して年貢として納めて、それを知った農民は快く年貢を納めるようになったという。
身寄りのない年寄りや子供を救済したり、親孝行した町人を派手に表彰して町全体のモラルを高めたり、そういうすばらしいことをした一部だけが芝居の題材となり、正義の味方像ができたのではないかとされている。

2話完結だったが、視聴者からの苦情(前のストーリを忘れてしまうなど)で1話完結になった。
実際は旅にはでていない。
水戸藩は御三家の一つで幕府の一大事に備えて常に江戸でスタンバイしていなければならず、一度も江戸を離れたことがないのだ。






Last updated  2007年10月08日 09時35分35秒
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2007年10月07日
カテゴリ:歴史
世界一受けたい授業で河合敦氏の『教科書に載せたい新歴史』から。

西洋から種子島を経由して日本に伝わったという火縄銃の「火薬」の原料は尿・糞・草だった。
尿・糞・草を混ぜて、しばらく土に埋めて寝かせておくと火薬の原料となる硝石(しょうせき)という火薬の原料ができたのだ。
そもそも、日本では硝石はあまりとれなかったので、こういったものを使って人工的に硝石を作ろうとした。

また、火縄銃の伝来について、1543年に種子島に初めて伝わったというのが今までの教科書での記述。
しかし現在は、ほぼ同時期に複数のルートから色々日本列島に伝わったというのが有力になっている。
種子島に伝わった鉄砲は、中国人が伝えたが、中国の海賊船に乗ってやってきたポルトガル人が、東南アジアの鉄砲で伝えたらしい。

細木数子の言葉から。
8月25日 鉄砲伝来の日として、憲法9条に関わりのある問題だとして紹介していた。
多くの大名が鉄砲を使っていた戦国時代。
その終わりごろには、日本の鉄砲保有数はヨーロッパのどの国よりも多かった。

しかし、江戸時代に鉄砲の研究を放棄したという。
そこには日本人ならではの考えがあるとし、平和主義の民族だと、世界に知らしめたのだという。
この鉄砲伝来の歴史を見たとき、日本は武力を持たなくても、平和でもって解決していける。
我が国は平和を愛する人間なのだと。






Last updated  2007年10月07日 22時31分44秒
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2007年09月30日
カテゴリ:歴史
織田信長は豊臣秀吉のことを「サル」ではなく「ハゲネズミ」と読んでいた。
ねずみっぽくてちょこちょこ動いたというのと、少し頭がはげていたらしい。
信長は、秀吉のちょこまか動き回る様と頭が少し禿げていることから、ハゲネズミと呼んでいたようだ。

実際手紙に残っている。
秀吉の妻のおねさんという方が、秀吉が浮気してしょうがないというので、信長にぐちった。そのときにわざわざ信長が手紙をしたためて、「こんな美しい奥さんをないがしろにして浮気するにはとんでもないはりねずみだと」書いているのだ。

なぜ、「サル」になったかというと、
江戸時代の軍着物などに、そういうものが書かれていたり、日吉大社の近くで生まれたとか、いろんな説がある。

日吉大社はサルを神の使いとして祀っていることで有名な神社で、秀吉の幼いときの名前である日吉丸はここから来ているという説だ。






Last updated  2007年09月30日 16時46分28秒
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カテゴリ:歴史
世界一受けたい授業で河合敦氏の『教科書に載せたい新歴史』から、面白いものを紹介する。

江戸時代、幕府の中に大奥という機関があった。

将軍一人のために作られた幕府の機関で、女性が300人~多いときで1000人いた。
維持費は幕府の予算の10分の1、今の金額で年間200億円と言われている。

お金がかかりすぎるということで8代将軍の吉宗のときにリストラをした。
美人は他でもやっていけるだろうとして首にしたらしい。

当時の女性たちが大奥に入るというのは、現代で言うところの有名女子大に入学するようなものだったのだそうだ。
町の娘さん達が、一生懸命習い事をして大奥に上がる。
そうするとステータスができて、数年後良い所に結婚できる。

ただ30歳をすぎるとどんなに将軍が求めても夜のお勤めは辞退しなければならない。
当時は高齢出産が心配だったということもある。

ちなみに40歳をすぎると、大体年金生活に入ることが多く、幕府は屋敷まで与えて、今で言う老人ホームで快適に生活できた。

当時は人生50年であったので不思議ではない。








Last updated  2007年10月14日 18時36分51秒
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