2006/03/13(月)16:21
ゲームと死生観について
ゲームというのは、いつか終わるもの。
いわゆる、ゲームオーバーという奴である。
それは人間の死というのにも深く関わっているような気がしてならない。
じいちゃん、ばあちゃん達が居る、ペットが居るなどのような家庭には、死というのを目の当たりにすることが多い。
が、ステレオタイプで言えば、核家族化が進むにつれて、死というものに直面する機会が減ってきている。そして、死がどういうものであるか?
どうしたら死になるかという境界線まで曖昧になっている気がする。
ある意味、欧米化による弊害であるとも言えるかも知れない。
なぜなら、90年代初期の湾岸戦争のことを外人は「ニンテンドー・ウォー」と呼んでいたのだから。要はCNNなどによる、実況生中継で、TVから、スポーツ感覚で、ゲーム感覚で「戦争そのもの」を見ているからだ。
さてさて、前置きが長すぎました。
ゲームオーバー=死というのは、TVゲーム、パソコンゲームでは当たり前ですよね。特にゲームセンターのゲームってのは、早く稼働率を上げたいから、大体3分100円で終わるようなバランスで出来ているようですね。
私もインベーダー以前のゲームもインベーダー以後のゲームも経験してきたおっさんですが、最近、悪友の家に行って、変な話を聞いてしまった。
悪友「ドラクエってさ、団地の奥様方の中では、極悪非道のゲームらしいぜ」
俺は何のことやら、さっぱり分からなかった。
俺「なに?どういうこと。それは。」
悪友「主人公達(複数系なのが重要)が、一匹のモンスターを相手にぼこぼこにするから、いけないゲームなんだとさ」
俺は、ぶったまげた。何それ。奥様ったって、俺たちとそんなに変わらない世代だぜ、当然、ファミコンを知っている、あるいは、やったことある世代。その母親達が、そう話すのだ。
俺は違うって思った。ドラクエでもブラックオニキス(古いねー)でもいいけど、ただ、ぶっ殺せばいいってゲームじゃなかったはず。
モンスターと闘って、死んで、また闘って、死んでの繰り返しで、ちょっとずつ経験をつみ、最後のボスをクリアする。そのための努力と達成感のカタルシスがロールプレイングゲームのよさであり、努力することが良いことという見本でもあると思っていた。
まぁ、実際、ドラクエでは、死ぬと言っても、本当に死ぬわけではなく、また生き返って、王様に「死んでしまうとは何事だ」と怒られつつも、トライすることが出来たし、ウィザードリィに関しては、ドラクエよりも厳しく、一発で死に至ることもある。ただ、ちゃんとダンジョンから抜けることが出来れば、寺院で元に戻せる(こともある)。
とにかく、努力と根性と根気が要るゲームだったはずだ。
何故、そんなに歪曲されているんだろうか。
ドラクエ=集団リンチという図式になるのだろうか。
誰か、説明できる人がいたら、教えてくださいな。
俺の大学の時の友人が、ゲーム会社に勤めている。
彼が言うには、最近は、対戦ゲームや、相手をなぎ倒すようなゲームでも、死とか殺すという表現をさけるメーカーと、あえてそれを使うメーカーが居るそうだ。
友人の居るメーカーは表現を避けているそうだ。
例えばKILLという言葉を使わず、「K.O」にしたり、刀で斬った風に見せてあるが、何人切りという言葉を使わないし、実は峰打ちだったという設定にしているとか、血を流さないとか。。。。
本当に苦心しているらしい。確かに最近のゲームはミリオンセラーとなるゲームが少ないのが現状だ。だから、売れるためには、そういう自粛も止むを得ないのかもしれない。
でも、相手をやっつけるってのは、基本原則として、変わってないのでは?
とも思う。土日にやっているアニメや特撮ヒーローだって、敵と戦っているではないか?と、ドラクエの時の悪友に聞くと、
あれは、うそ(作り話)だからなぁ。。。と言われてしまうのである。
そう、リアルなのを追究しすぎたために、バッシングされ、
うそを作ることで上手く逃げているのだ。
人間には闘う本能を持っている。競争原理を持っていると思っている。
だから、他人を比べたがるし、いい学校、いい会社に勤めたい。
それが駄目なら習い事でもしたい・・・そんな欲求があるはずだ。
変にすりかえるのも、何だかおかしい気がする。
対戦ゲームなら、思い切り相手と対戦すりゃいいじゃん。
負けたら負けたで次勝てるように努力すればいいじゃん。
ロールプレイングゲームなら、頑張って、頑張って、クリアを目指せばいいじゃん。
そういうもんじゃないの?
でも、きっと子供達やゲーマーの側から、こんなセリフを言われるだろう。
だけどさ、そんなにゲームやってる時間ないじゃん。
何か、時代が変わっている、そんな気がしてならない。
もしかして、ゲーム好きなのは、インベーダー以降、ドラクエ以降の大人だけなの???なんて思ってしまうのであった。
なーんか、どっかで陰謀説がありそうな気がしてならないのは、俺の気のせいなのだろうか。ファミコンのリセットボタンを例えて、人生はリセットできるかリセットできないかの違いであると言った評論家のように。。。