ジャラン・ジャラン・パインビレッジ

2009/02/09(月)11:20

日常と非日常のはざまで

土曜日に地元の祭りに参加した。 今年も無事に帰還した。 未だに全身筋肉痛が酷いのだが。 これで今年の厄も落ちただろう。 祭りもそうだが、俺は非日常の場だと生き生きする。 日常では生きている気がしない。 そんなどうしようも無い、ろくでもない奴だ。 人生破綻者だと思っている。 例えば、海外でまったく日本人が見かけないようなところに行くと、 俺自身しか頼るものが無いから必死に生きる。 コミュニケーションをしまくり、観察して、意志決定する。 結果どうであっても、納得する。 だが、日常ではほとんどのことは原因、結果が決まっているので、 それほど期待値が外れることがない(おおよその人が思う結果の平均値)。 それが、生きているという実感が無い理由の一つかも知れない。 俺はあたりもはずれも含めて、自分が行った結果に対して納得する。 自分で決めたことだからということもあるが、 なるようにしかならんと腹をくくれるからかも知れない。 こんなことを言って、誰がお前の日常を支えているのだと追求されれば、何も文句が言えない。 だからいつも申し訳なく思うし、いたたまれなく、何とか人並みの生活を送りたいと願い、行動するが、努力が足りないようだ。 以下はただのぼやき。 でも、何か違和感がある。 生き方の違いというか、方向性というか。 狩猟民族と農耕民族という区分けの言葉がある。 日本人は農耕民族の割合が比較的多い。 なので和を大事にする。皆で作物を育てて分配する風土。 非日常は地震、台風などの天候くらいだろうか。 なので日常は集団、組織の規則に則ればおおむね幸せに生きていられる。 だが、日本にも少数だろうが狩猟民族が居るはずだ。 動的に、しかしこれまでの統計を元に推測し、獲物を捕らえ、喰らい、生きる種族。 規則よりも、自分の本能や勘、経験則を信じていきる。 どちらかというと、非日常が日常の世界。規則は常に変化するから日常が確定しない世界。 俺もそんな気質、狩猟民族の血が流れているのかも知れない。 必死に農耕民族の輪に入ろうとするが、生理的に気持ちが悪い。 どうやって生きていったらよいか判らない。 きっと、周りの人も俺を不可解な存在と見ているかも知れない。 そう考えると、俺が心地よく居られる場所、狩猟民族の輪の方に 入って行かなければ、生きているという満足感が得られないのかもしれない。 こんな馬鹿なことを考えて、鬱になっている俺は本当に馬鹿だと思う。 本当に愚か者と思う。 日本に居ない方が良いのかも知れない。 そこまで行かなくとも、保守の中の保守である、この地域で生きることは 俺にとっては良くないことなのかも知れない。

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