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奔るジャッドンたのうえ、追っかけ帳

奔るジャッドンたのうえ、追っかけ帳

「戦略と戦術を活かす」-1~-7


「脳力開発を経営にどういかす」 地方産業経営研究所 所長 田上康朗

これまで述べてきたこととの重複を恐れず、まず整理をして、それから戦略
と戦術を中心に、今後数ケ月、事例を中心にお話を致しましょう。
 断定的な言い方をすれば、脳を動かすというのは、「行動することに尽き
る」と言えます。これが第一です。動けば、意識せずとも脳を使っているこ
とになるのですから。
さらにこれに、日常の何気ない行動を意識して行なったり、新しい行動を付
け加えたりすることで脳の発達はますます活発になります。考えは行動の後に必然的に出てくるもので、行動の積み重ねから生まれたものが脳の中でノウハウ化し、知恵になると思って下さい。しかし行動とはいえ、むやみにそこらを走り回っても、大した成果は得られません。行く方向が定まらないと、すべてのエネルギーは分散し、ムダになるからです。
 そこで第二は、『戦略を確定することと、その戦略に関する情念の強弱の
違い』です。少なくとも行動の方向が決まらないと、脳は働きようがないの
です。脳力開発ではこの行動の方向を「戦略」、そしてそこへ行くための様々な手段を「戦術」と呼んでいます。
 どんな行動も、それぞれの場面での脳の判断、指令によるわけですが、脳細胞の組み合わせは無限ですから、そこに一定の目的指向がなければ、脳はその分別に迷い、時として混乱し動けなくなります。本来、脳の本質は戦略/目的指向になっているのですから、ここヘポーンと戦略を入れてやると、いきおい脳が活発化するというわけです。
 第三は、『経験と習慣を捨てられるかどうかの違い』です。コップが使え
るのは、空になったときだけなのですね。
 できれば頭を空っぽにして、タノウエ脳力経営塾の根本になっている脳力開発、その中の重要な一講「戦略と戦術」で、脳の回線を作って参りましょう。
 
 戦略と戦術への理解があるかどうかで、ずいぶん人生は変わってきます。
事業経営の場合は、とりわけでその存亡を左右するといっても過言ではないでしょう。トップがきちんと、ロマンを語り、戦略(方向)を示し、あとは
現場がしっかりしていれば、大抵の難局は乗り切れるのです。それを経営者
がロマンを語らない。方向を示さない。肝心な現場から人を抜く、といった
全く逆のことをやっているから、今のていたらくであろうかとおもいます。
 その意味で、社長が自分を変えやすく、また自分で会社を変えられる小規模事業が、間違いなく伸びるというのが、私の持論です。
 これが、社長の顔が見えるという意味だと理解しています。政治、企業等々に不信感でいっぱいで消費をためらっている消費者が、安心して買い物ができるところは、経営者の顔が見えるお店であるはずです。
脳力が発揮される最低の条件は、成功する自由と失敗する自由を与えられていることです。失敗を許されないところでは、脳力は発揮できないのです。
ところで、「負けるが勝ちだ」という言葉があります。 
 まず、この話から、お聞きください。

「負けるが勝ち」
 戦法として孫子の兵法にもあることでもわかるとおり、これは負け惜しみ
のことではない。真意は負けることによって、最終的に勝つ。いな勝つため
に、負ける、という意味である。
 勝つという戦略を果たす戦術の一つとして、負けるというやり方がある、ということ。すなわちこの場合、最終的に勝つことが戦略で、その間の敗戦
は、勝つという戦略を得るための戦術である。
 フランスの大軍を率いてロシアに乗り込んできたナポレオンは、連戦連勝。しかしこれが、ロシア軍総司令官クトゥーゾフ将軍の戦略だということには、最後まで気がつかず、ロシアの戦略どおり、最後は壊滅状態で敗退したのである。ではナポレオンはロシア兵に破れたのであろうか。違う。フランス兵を大敗に追い込ませたのは、戦わず逃げる民と軍隊と冬将軍の混成軍
だったのだ。ロシアの土地のとてつもない広さと冬の極寒というもてる資産
を活かしたクトゥーゾフのこの大戦略は、恐るべし。

 こうしてみると人を使っての戦いしかできなかったナポレオンは「たいしたことないな」ということがよくわかる。ちなみに、イタリア映画の名作「ひまわり」に、雪の中をのたうち回るフランス軍のシーンがでてくる。地の利を理解しなかったナポレオンの犠牲になった兵隊たちの姿である。
それでは今月は、ここまで。次回をお楽しみに。

  戦略と戦術を活かす」-2   田上脳力経営塾 主宰 田上康朗

「いやぁ、寒いな、どうしょうもないな」はぼやき。「この寒さだったら、お客さんは何を欲しいだろう」というのは「式」だ。「雨だ。売れない」は、刷り込み。これを「雨だったら、余計売る方法はないかな」と式をたてる。こうした習慣を3ケ月続けたら愚痴を言わなくなった自分に気づくだけではない。ちゃんと売上げも上がっているのです。
 こうした話をすると、決まってしたり顔をして口を挟む人がいる。
「それ、プラス思考っていうのですよね。脳力開発では陽転思考。ボク、S先生の講演で聴いたことあります」。
 まずこのタイプは、だめなんです。なぜなら私は「式をたてる習慣を」という行動化、流動化の話をしているのです。だが、したり顔のその人は「自分は知ってるぞ」といった知識の手持在庫を示し、しかも、「俺、こういうこと知ってるんだ」と誇示する固定資産を増やし、さらに身を重くしている。
 あなたの回りに、話を取ったり、先回りする人、いませんか。そう。それ、それ。彼らは知識をいっぱい仕入れて、それそのものを出し入れして、見せびらかせているに過ぎないのです。私は、それを知識のアクセサリーと言っています。
 こうしたアクセサリーを身いっぱい付けても、身体が重くなるだけで、心身が成長したことにはなりませんよね。対して知識を入れ、それを行動することでエネルギー化し、自分の血や肉に取り入れるタイプの人こそ、進歩発展、成長する人なのです。

「ねぇ、君、こうした情報、知っている?」といったように、情報や知識をひけらかしたり、自分の上げ底に使うなど、鼻持ち成りません。
 また少し顎をあげて、「最近、役立つような情報がほとんどないな」といったことを言う人もいます。。これは、なにを聞かれて「わかんなーい」と答えるコギャルの類と同じです。否、コギャルさんい失礼かもしれない。何故かと言いますと、情報は単に素材にすぎないのです。

 卵は料理の材料です。そのまま生卵としても使えるから料理、という人もいるかもしれませんが。いずれにしても、卵は他の食材と組み合わせさまざまな料理になるわけです。その場合、料理が戦略であり、材料が情報ということになります。料理が決まらないと、材料がそろえられないですよね。ですから、オムレツつくろうと戦略を決めて、全部材料仕入れ、卵売り場の所へ来て、「今、卵、べらぼうに高いから、卵やめとこ」、というとオムレツは作れない。戦術によって戦略を」曲げたことになるわけです。
 
 戦略がなければ、情報など役立たない。集まらない。情報は、戦略に対して集まるものだし、付加価値を生むものなのです。卵を使わない料理を作ろうと決めたのに、卵が安いから仕入れというのも愚策です。また卵を使った料理を作ろうと思っても、生卵で食べることしか思いつかない人は、他の材料(情報)との組み合わせができないか、料理を作る技量がない人なのかもしれません。こうした人は付加価値を生むことが出来ないわけです。
 
 料理を知らないスーパーの店員が食品売場を担当しても、業績上がらないのは、ここに理由があります。昔、大根一本の値段がわからない宮沢元大蔵大臣が日本経済をダメにしたと、ジャーナリストから叩かれた理由も、こうした見方からすると同根です。
 自分の店で提供しているものは、お客様の生活という料理の材料と考えてみたら、お客の生活を知らない経営者の事業なりお店成りが不振になるのも当然です。
 
 戦略は、別に戦争や経営だけに使われるものではありません。脳の仕組み、機能そのものですから戦略・戦術という言葉を使っていなくてもあらゆる面に使われているのです。

 ここでは、大分・湯布院のケースで、新聞のコラムに系刺したものを紹介し、今年最期の締めくくりと致しましょう

 「地域としての戦略」
 大分・湯布院温泉は稀有なことであるが、地域としての明確な戦略があり個々の旅館はそれを共有している。その戦略は、一言で言えば施設を上に伸ばさず横に展開させることであり、それに即して各旅館が施設を充実させ、観光温泉地湯布院として、戦略を推進している。
 彼らは、描いた理想にはほど遠い規模の初期投資で営業を始め、一応の計画で時点まではその内容で押し通す。そして計画の見直しや施設・設備の修理、変更の予定時点になると、その段階で次の何年かを見越して、その期間中の消費者ニーズを十分に満足させられるだけの先見性や先取性のある投資を実施。そして長期間このパターンを繰り返していく。その場合、建て直し、改築、修理といったことで物理的に営業に制約が出ることを、最初の計画時点で見越し、低層建築を戦略的に選択しているのである。こうした戦略がなくては、とくに当業界のような初期投資が高額になる装置産業では、回収期間の間に大きなリスクを背負うことになり、怖くてやれないと思われるのだが。さらに、戦略には流行やブーム的ものを見極め、排斥するといった経営者の冷厳さが不可欠である。ちなみにこうした彼らの戦略は熱海や別府を反面教師にしていることは明白である。

  「戦略と戦術を活かす」-3
   ~命の持つ潜在的戦略について~    田上康朗

 今回は、これまでの「脳力開発」で述べてきたことのおさらいをしておきたいと思います。戦略は、「自分の思惑通り人に動いてもらうにはどうしたらいいか」といった布石を為すことであって、単に自分の願望、目的、スローガンではありません。このことはこれまで何回も繰り返してきましたが、このことがわかっていない。
 さらに断定的な言い方をすれば、脳を動かすというのは、「行動すること」です。

 動けば、意識せずとも脳を使っていることになりますし、自ら動かないことには他の人はこちらの都合のいいように動いてはくれません。
 さらにこれに、日常の何気ない行動を意識して行なったり、新しい行動を付け加えたりする。このことで脳の発達はますます活発になる。このことを脳開では「進歩発展」といいます。

 考えることは、行動しないこと、といった言い方を私はよくします。ロダンの「考える人」は、まさにその典型だと。 
 考えは、行動してこそ、考えた後に必然的に出てくるもので、行動の積み重ねから生まれたものが脳の中でノウハウ化し、知恵、考えの基だ、と思って下さい。しかし行動が先と行ったからとはいえ、むやみにそこらを走り回っては、成果は得られません。行く方向が定まらないと、すべてのエネルギーは分散し、ムダになるからです。

 そこで、『戦略を確定すること」が不可欠です。またその戦略に関する情念の強弱の違いが問題になります。いずれにしても行動の方向が決まらないと、脳は働きようがありません。脳力開発ではこの行動の方向を「戦略」、そしてそこへ行くための様々な手段を「戦術」と呼んでいます。どんな行動も、それぞれの場面での脳の判断、指令によるわけですが、脳細胞の組み合わせは無限ですから、そこに一定の目的指向がなければ、脳はその分別に迷い、時として混乱し動けなくなります。
 本来、命は、後に述べているように、そもそも人の命自体が「目的」的ですから、当然、脳の本質は戦略/目的指向になっているのです。
 だからここヘポーンと戦略を入れてやると、いきおい脳が活発化するというわけですね。 第三に、『経験と習慣を捨てられるかどうか』です。これまでの考えを捨てられない人には新しいことは入ってきません。つまり「進歩発展」には、「新陳代謝」が脳で行われていることが不可欠です。コップが使えるのは、空になったときだけなのですね

 お正月は、「一を止める」、すなわちクリアの意味なのですから、できれば頭を空っぽにして、タノウエ脳力経営塾の根本になっている脳力開発を、一緒に勉強して頂けたら嬉しいです。
 ところで、先に「命」は本来、戦略的である、といったことを書きました。少し長くなりますが、以前書いた文章をここにご披露しておきます。

        「命の戦略性について」 田上康朗

 命が線であるように思うのは、人の希望的かつ楽観的幻想である。
命は線ではなく点である。ここに仏教で言う一所懸命の意義がある。 線は点で構成され、方向性を持つ。と考えれば、命という「点」で構成され、時間軸の方向性を持つのが生命体ということになる。 命の本質は点である。点の「つながり」が組織体をなすから、この「つながり」ということは極めて重要なキーワードになると考える。この「つながり」があればこそ時間軸と膨らみの形成が可能になるからである。
 
 すなわち命という点の時間軸のつながりが「生命」、縦軸の膨らみを「生きがい」といってよい。だとしたら、充実した人生を送るためには、いかなる「つながり」を形成するか、ということか課題になる。
横軸を時間軸とし、この軸からみたら縦軸は停滞軸となる。時間軸から見たら横に広がらない方が効率がよいからである。かくして人は長い間、そして現在も効率を指標として生きてきた。

 しかし、生命体にはすべて限りがあるから、この時間軸の右端の行き止まりは確実に死である。としたら死に向かってまっしぐらの一直線が最大効率になる。また最終到着点に行き着かない所で切れたらどうであろう。これらはいずれも死に急ぎである。時間軸を中心とした効率の論理にはそういった不気味さと限界がある。
 
 そもそも時間という概念は人が作ったものである。このことから先(未来、将来)という認識が発生し、先を急ぐ者を良し、遅れる者を劣るとして区別することになった。競争とは実は時間軸に基づくものである。すなわち時間が、今の瞬間(一所懸命)に生きることより、先の光明に向かって駆け足することを是とする風潮を生みだしたといえるのである。

 命を横軸と縦軸にプロットしたのが人生であり、そのドッド数に一定の限界があると仮定すれば、太く短い人生か細く長い人生か、という選択の問題になる。しかしこれも長短、大小の相対比較論である。
そもそも時間という人智に属する秤で、命という天智を計ろうとすることに無理があったのである。とすれば人の都合で作られた時間という概念を取り去ることが、いわば命の本質に戻すことになるのではなかろうか。それは時間を忘れる、すなわち自我を忘れることである。  私たちは時間を忘れた状態を「夢中」と呼び、経験済みである。

 この夢中な状況こそ命の本来のあり方と考える。時を意識し先を急ぐ者は、夢中にはなれない。夢中とはその対象物に対して思考的には立ち止りであり、停滞であるからである。

 繰り返すが、夢中とは時を忘れること、すなわち命そのものの存在を忘れること、生きている、死んでいる、といった自我レベルの認識がない状態をいうのである。この般若心経でいう「空」の状況こそ、命を生きるということである。

 赤ん坊の頃は、生きることも死ぬことも考えない。恐怖を感じることもなかったであろう。しかし、少しずつ自我が芽生え、知恵や知識といういわば人智という付着物により、この「空」の状況が曇り、汚れてくる。人智では、これを成長といっているが、空である天智の心からみたら、退化かもしれない。この付着物を取り去ることを仏教では「放下=放つ」といっている。

 人智でなされたものはどんな巧妙精緻なものでも永い間には風化され本質だけが残るという純化作用がある。歴史の風化作用で、常に剥げ落ちるものが人智部分、残るものは天智である。虚飾が剥げて本質が見える。人智は天智に及ぶことはない。なぜならば、できるだけ最初から自らの命そのものを天智に委ねられたら、これベストであろう。

 が、しかし人はだれしも我欲を捨て切ることはできず、次から次に人智を生みだし、我の存在を主張してしまう。そして、どうしょうもない煩悩の虜になっているのである。

 話すこと、歩くこと、書くこと、食べることといった基本動作にさえ、この醜い我欲を滲ましてしまう、自分自身にあきれ果てている。我欲を捨て去ることを断念した凡夫の私は、これを「人様のお役に立つこと」で浄化できるのでは、と考え、長い間そう確信していた。 しかし、つい最近それが誤り、そして実は私の大きな驕りであることに気づいたのである。
命の本質がつながりにあることを考えれば、自分の存在そのものが他とつながりで機能していることになる。機能とは働きであり、役立ちである。つまり、他に何か役に立つ機能を持っているからこそ生きられる、ということである。

 換言すれば「命」とは、本来の機能そのものなのである。それを人智でもっておこがましくも「人様の役にたつ」と言うことこそ、傲慢な自我の主張そのものであったということに気づいたのである。 では、私たちはなにを人生の目的と考えたらいいのであろうか。 人は人として共通の大部分とごく一部の相違点をもって構成されている。人の成長とはこの違いの部分を大きくしていくことであり、学びの本質であると考える。これはアイデンティティ、あるいは主体性の確立と置き換えてもよい。

 とかく学ぶということは、自分の持っていないものを持っている。人からコピーすることに理解されているが、そうではない。真の学びとは自分の持っている価値、他の人にない資質を、磨き上げ、発揮すること、すなわち命を輝かすことだと考える。

 とすれば、命とは自らに与えられている機能を最大限生かすための「燃焼」そのものということになる。生かされているという認識は、生かされるものにその機能の存在認識があること、もう一つは、それを支えるつながりがある、つまり他者のつながりの中に、己の存在がある、という2つの条件の上に成立している。

 生かされるための「自己存在機能拡充のための学び合い」、これこそ人生の目的と考える。 当然、学び合いの対象は、己以外のすべてのもの、すなわち環境、自然、そしてそこに生息するものである。これは小さな虫すら地球における私とつながりのある存在、仲間であるということである。 あらゆるものとのつながりがあるからこそ生かされている「己」にとっては、そうしたものすら切ってはならない存在である。
 
 このことが理解できれば、人間は当然他者と慈しみ謙虚に接することができるし、もっと学ぶことができよう。そして地球の仲間たちのリーダーとして、貢献できるのではなかろうか。 つながりを断つ生き方の、行き先は「滅び」であることは、太古の三葉虫のみならず人類のこれまでの歴史が証明している。

 自分が己の命へ問いかける機会を用意し、「自己存在機能拡充のための学び合い」をなすこと。これが「命の戦略性」、目的性と、私は考える

「戦略と戦術を活かす」-4 
 ~クローンとカンニング~      タノウエ脳力経営塾 田上康朗

 演繹的で、論理的側面から十分に準備が整い,納得しないと行動に移せない人がいます。いま本人は気づいていいかもしれませんが、そうやって行動することを先延ばしているとも言えましょう。ここでいう先延ばしの意味は、「やる」か「やらない」か、という戦略決定、意思決定ができない、もしくはやらないことなのです。
 
 戦略に関しては、一事が万事,どんな些事でもどんな重要なことでも、その意思決定を行うのは同じ脳の回線。ですから些事で意思決定ができない人は、当然大きなことができるはずがありません。脳の回線を意識して二者択一的にできない人は、戦略を口で言っても、行動が戦略的ではないのですぐ露見します。忙しさに引きずり回されている、そうした経験はあなたにはありませんか。そんな人が周辺にいませんか。かって私自身、そうでした。馬鹿でしたから、その忙しさを粋がっていた覚えがあります。
 そういうときは、実は戦略からは、ずれているのです。それはむやみに忙しいという現象で現れるから、素直にそれを認め、そこに気づき即、軌道修正する。こうした学習機能をも含んでいるのが、「戦略」なのです。だから行動しないことには、後で触れますが「勉強」自体が無駄に、意味がなくなる。
 
 また行動の前提として戦略は不可欠です。その意味で行動しない人は「戦略がない人」であることは言うまでもないわけですが、行動していても、「戦略」的でない人が実に多い、というのが戦略指南を仕事としている、私の実感です。
 
 戦略がない人は、無意識的に行動を小さく、少なくする傾向があるのが特徴です。動きに流れとうねりがない。その余った時間をやたらに「野暮用」に使って埋めるか、「考えること」に使って、埋めて忙しくしている。
 後者の「考えている」という状態は、いわば車のニュートラルと同じ状況で、エンジンは動いているが、車は止まったまま。ガソリンは消費しているが、成果はゼロの状態です。

 「羊たちのちんもく」という私の本に書いたことがありますが、ある第三セクターが不振で、そのアドバイスを市長に頼まれて、その施設を視察にいったときの話です。
 あっちこっち至る所に、「考えてから行動せよ」といった張り紙が貼られていました。この施設の責任者である専務理事さんの信条だとのこと。なるほどこの専務が着任されて半年ぐらいから業績は急激に悪化しています。当然です。このスローガンを職員は良く守って、「考えること」に比重を落とし、その分行動しない。考えていないと専務からしかられるから、みな机で考えている。いくら考えても、考えること自体は生産性ゼロ。
 
 だから考える時間が長いほど、給料は一定で、その原資となる収入は減じる。赤字になるのは、当たり前です。
 「対策は、簡単です。スローガンを『まず行動、考える暇があったら行動』と変えるか、専務理事をお替えになり、体育系の行動的な方を後継者に」と、市長に申し上げたことがあります。体育系というのは、動いてナンボの考えが染みついていますからね。それにともない脳の回線が、戦略的。
 そこで後任は、元ラグビーの選手だったTさんという方に替わりました。5年で赤字一掃です。
 
 「考える」はまだよし、と言う人もいましょうから、次に、試験勉強をする行動の大きさと量と,カンニングする場合のそれとを比較して考えてみましょうか。見つかる、というリスクの問題を別にして、後者の方がいかにも効率的に思えますが、行動することによってのみ得られる学習効果がありません。つまり体験、自ら行動した結果つかめるものが蓄積されない。

 これが素材となって人は理念や戦略を具現していくわけですから。自分の行動によって得られないと、人は無意識的かつ意識的に観念的な視野に入り込み、やたらに人のやったこと(行動)を追い求める、その代替として使うことになるのです。また目先の判断だけで、自分にとって「利か不利か」、刹那的、あるいは論理(論理)で分別する。ここには先を見据えた、という戦略はありません。ないけれどそれを他人に問われると、事後、理屈でそれを補強する。
 
 こうした傾向は、いわゆる勉強好きの経営者に多く見られます。誤解しないでください。勉強がいけない、といっているのではありません。行動、戦略があってこそ、勉強は有効になると申し上げているのです。
 この場合の「勉強」とは、勉強して得たものが、栄養素となって行動になる、というところまで含んでの概念です。ところがほとんどは勉強して得たものを、テープレコーダーよろしく口で繰り返している。「それなら、おまえさん、不要じゃないか。テープレコーダにやらせた方がいい仕事する」、と師の城野 宏から、私自身ずいぶんと叱られました。
 
 理屈で分別するのでなく,行動した結果で分別する姿勢の繰り返しで,人は育っていきます。多くの人は、行動の前に、頭で分別したものを求めるから,行動によるあるいは体験による自らの創造性(知恵といってもいいのですが)が欠乏する。欠乏すると、またその欠乏するものを他に求める、カンニング現象という悪魔のサイクルに陥ってしまうのです。自分は、他にいない。せめて言動は自前で戦略を持って行動しなければ、まさにクローン人間。それでは自分を生でくれた父母に申し訳ないのではない、と思うのですが。

「戦略と戦術を活かす」-5   
  ~手を変え品変えの巻~    タノウエ脳力経営塾主宰 田上康朗

  戦略は、実にわかりにくいし,説明しにくい。裏の裏は表。表の裏は、と繰り返しているのと同じで訳はわからなくなってしまいます。そこで今回も、また戦略と戦術を説明することになります。
 この場合、読者に理解していただくことが戦略、手を変え品を変え説明するが戦術ということになります。
 
 そもそもほとんどの人が戦略と戦術との区分ができずいい加減に使っているのです。最近出版された本のタイトルに、「逆転戦略」というのがありました。逆転戦略があるからには逆転しない戦略もある。この2つの内どちらを選ぶかが戦略ですから、その片方だけを選び逆転戦略という使い方はおかしいのです。どうしてこんな誤用が出るかというと、タイトルをつける出版社の担当が、「戦略」を知らないためだろうと思います。
 
 ここで「区分」とは、二者択一のことをいいます。生きるか死ぬか、勝つか負けるか、消すか付けるか、発展か衰退か、山か谷か、左か右か、上か下か、などなど。生きる方を選択もできるし死ぬことも選択できる。これが第一。次に生きると決めたら、生きるための方法を考える。その方法は無限にある。これを戦術という。このことは繰り返し述べてきたところです。

 ここでまた事例で見てみましょう。
 剣道の模範試合を、じっと見ていると共通していることがあります。それは弱い方が、さきに仕掛けるということです。いえ、そう見てはまだ観察が不十分なのです。強い方が、隙を見せる。これを「誘う」といっていますが、なんのために?。勝つためです。人は勝ちにいったとき、最大の隙が出るからです。だから勝つために、隙、弱さを見せる。
 
 秀吉は、小牧の陣で、この戦略をとりました。家康に負けることで、家康を臣下におくことに成功しました。それは家康を臣下に置けば、天下を得られる、という大戦略が、さきにあったからです。戦いすら、戦術に使っている。秀吉のまさにすごさといえましょう。つまりこの場合、家康を治めれば天下がとれる。そのためには小牧の合戦、くれてやるわい、という大戦略。負けを撒き餌にして、家康を釣る。それは家康をつり上げることで天下をとれる、という確信があったからってわけですね。
 
 もっともこれは秀吉ではなく、その指南役竹中半兵衛の策略なんだろうと思います。

 とにかく戦略は、一か八かじゃない。織田信長の桶狭間の戦いも一か八じゃない。五分と五分の確立を、こちら勝つ10,相手勝つ0、そしてこちら負ける0、相手負ける10、この双方を確実に具現しなくてはならない。つまり今川義元に負けて死ぬことも選択できたのだけど、死ぬのはいやだから、こちらが勝つ、そして相手が負けるという戦略を、信長は選択したわけですね。自分たちが生きるためには今川軍に勝ち、今川が負けることだ。と。

 次にこの条件を満たすためには、今川の首をとる戦略と、今川軍に勝つ方法がある。後者は兵力の違いから得策じゃない。それで前者を択一して首を取ることを考えたのです。

 これをうまく成功させるためには、その戦術として、アレがある、これがある。あれとこれと組み合わせて、とやった。このことを脳力開発では「科学的計算にもとづく」といいます。戦略を具現するためには、この科学的計算にもとづく戦術の組み合わせが不可欠になります。
 
 こちらが生き残り、相手が滅びる、そうした関係を作っていくこと、脳力開発では「人と人の関係作り」といいますが、これは「知識」だけではどうにもならない。
 なぜか。「知っている」も「わかる」も、自分の経験、知識の範囲内でのこと。つまり外部の人がどう動くかを左右できないのです。相手の行動を動かす、ここでは「死んでいただく」という行動へ至らしめることができないのです。
 
 こちらが生き残るためには、相手に死んでいただくという協力が不可欠です。
 こちらが売れるという状態の具現のためには、消費者にうちを選んで勝っていただくという協力が不可欠です。
 ちなみに世には自分が知らない世界と知っている世界とがあって、「知っている」、「わかる」は自分の知識の範囲以内でのことにすぎない。だから言葉を発したり行動したりするときは、知らないことがいっぱいある。それぞれ違う様々な広い世界を人それぞれが持っている、という認識と謙虚さが不可欠なのです。これを欠かすと他者は協力してくれませんからね。
 そのことを頭に置き、自分の戦略に賛同し、その戦略を共有する人を集めることになります。一人の力なんて知れている、自分だけで戦略は果たし得ない、という諦観に達すれば、そうせざるを得ない。
 
 戦略を共有した組織は、当然のことですが目的志向です。それに磁石効果を持ちます。人を引きつけます。それぞれがそれぞれの持ち味、得意技でもって組織を一つの目的に向かって機能させようと、動き始めます。
 ですから、「俺は何でも知っている」、「俺はすべてに詳しい」、「俺は一人でなんでもできる」といった錯覚をしている人のもとでは組織は成り立ちません。またこうした人は組織ではうまくやっていけません。国際基督大学の石川光雄先生は、これを「ガン細胞」と指摘されておられます。「ニューサイエンスの世界観ーたま出版」
 
 繰り返しますが、人は不完全だからこそ、群れ、相互に補完し合い、生きるという戦略を共有し、果たそうと機能するわけです。 
 こうして、何も知らないこととか、何もないとか、小さいということを撒き餌に、人にかわいがられ、教えられ、有能な同志が集まってきて、自分たちの天下国家を作ることを戦略として共有し、その組織目的をついに成就した、といった事例は古今東西、いっぱいありますが、1つ有名なケースを上げるとしたら、大公「望」などその典型的な人でしょう。4人の孤児が20数年後には国を作ったわけですから、こりゃすごい。
 
 親戚だけを登用する。彼はダメ。これはダメ。おれが社長だ、と他者から孤立するような戦術に始終するようでは、国づくりどころか、中小企業の親父すら務まりますまい。

 今回は、人に勝ちを譲り(撒き餌に)、戦略の具現を計る。戦略はそれが共有された員数で組織力となる。この2つのことをお話ししました。
 今回の私の説明ではわかりにくい方も多いと思います。私の脳力経営塾の仲間、尾碕雅裕さんは手品の名人。ですからこの事についても、手を変え品を変え、実にわかりやすく話されています。ぜひ併せてここ、「雅の脳開雑記」http://blog.livedoor.jp/jatsudonka/をご覧ください。

 「戦略と戦術を活かす」-6  
  ~映画にみる戦略と戦術~    タノウエ脳力経営塾主宰 田上康朗

 随分前の作品ですが、映画「許せざる者」で,悪徳保安官たちが主人公フィルとの戦いのため、その前夜、酒場で助っ人を集めているときに、当のフィルが単身乗り込んできて、標的である保安官たち5人を、さっそうと殺すシーンありますね。その鮮やかな戦いぶりは、もう40年以上も前に見た映画ですが、心に焼き付いています。

 戦略は、生るか死ぬか、どちらを選択するかの択一です。この場合、当然のことですがフィルはなんとしても自分が生き残るとする決意をしました。これが太戦略です。条件としては、こちらは1人、保安官は数を頼りにできる立場です。多勢に無勢だから、戦略を曲げて死の方を選択するか。いえ、どこかの経営者みたいに、彼は戦略をけっして曲げませんでした。三国志での諸葛孔明も同じです。戦略が確定されれば、その戦略を具現するための戦術は無限にあるわけです。

 逆にいうなら戦術が見つからない、と言う人がいたとしたら、あるいはどの戦術を講じていいか迷う、という人がいたら、まず戦略が確立しているのかどうか、疑ってみる必要があります。昨日、静岡県・豊岡村(人口1.2万人)で商店などの臨店指導をいたしました。「この村は人口が少ないので、売れないのですよ」と、くどくど売れない理由を、しかもどこかのセミナーの受け売りとわかる高邁な理論を振りかざし、立石に水のごとく述べるAという店主にお会いしました。「私は売上げをあげるために参りましたが、どうやらAさんは下がることに情熱をお持ちのようですので、失礼します。」と、いったんお店を出て、外で息子が帰ってくるのを待ちました。彼は昨夜の私のMMAPセミナーに参加してくれ、「売上げを上げたい」という戦略をきちんと持っていることを知っていたからです。おわかりでしょうか。私は戦略を曲げず、その戦略を果たせる相手を変えただけです。Aさんは、売りたいのに「売れない」戦略に基づきその理由(戦術)を考えている。だから売れなくなるのは、当然です。
 
 ところでフィルは、決戦の「明日」のために、その準備行程として人を集めという戦術にとらわれている保安官の虚をつくことを、中戦略としました。これは、いわば時間差を利用したもので、豊臣秀吉がよく用いていますね。明智光秀が謀反を起こしたときの山崎の合戦など、よく知られています。保安官が数を募る戦術を果たしているその時間こそ、まさに虚。フイルはその虚をついて、大戦略の実現に成功したわけです。ではフィルのもちいた戦術は、どういったものだったでしょうか。彼は、単身酒場に乗り込むわけです。相手の中戦略は「多勢による」とわかっているわけですから、当然彼は、「多勢にならない前に」というタイミングを狙ったわけです。そのタイミングこそ、保安官が助っ人を集めるその工程にあると見たわけです。フイルは、脳力開発の勉強をしていたのでしょうね。おっとこれは師の城野宏のお得意のセリフです。
 
 保安官が1人でフィルに勝てるという自信があり、その戦略をとっているなら、この行程は不要であったわけですから、助っ人を募るという戦術から保安官の戦略は、1人ではもちろん、5人でも勝てないから多勢を、という点にあることを、彼は見て取ったのです。ですから彼から見たら、多勢にならない前に、それに「相手、すなわち保安官とその仲間4人だけを殺す」というその1点さえ果たせば、大戦略は果たせる、ということで、酒場へ乗り込んでいったわけで、ただむやみに出かけて、ズドーン、パチパチ、ズドーンで勝ちを拾ったということではないのです。なにも相手の戦略に乗っかって多勢と戦う必要はないのです。

 織田信長が、桶狭間の戦いで、「あのお歯黒(今川義元)の首だけを討ち取れ」と、いったことと同じ考えですね。TVの「水戸黄門」では、いつも敵方が最大の時、戦いになりますが、あれは脳開的に言うと下の下の下。フィルや信長みたいに戦略が確立していると、合理的・効率的に仕事をなせることになりです。ですから、忙しい組織は、たいてい戦術に振り回され、戦略が崩れているとみてまず間違いがないのです。生きるという戦略が崩れますと、残りは死の戦略しかありませんから、こうした企業は当然、崩壊へ向かってがんばるということになるのです。
 
 私は、携帯電話に振り回されて、信頼を失い失墜した経営者を3名ほど知っています。一方、友人のI税理士は、私の知る限りでは超多忙のトップクラスだろうと思うのですが、彼は携帯を持っていません。「携帯で振り回されるなんて、とんでもないこと」だからです。

 言い換えれば、ツール(戦術)に振り回されるようでは、経営者といえるか、ということです。スイッチオン・オフという意志決定すらできない経営者、携帯にはスイッチオンという側面とオフという側面があるのに、前者しか使えないのでは、脳開で言う両面思考はできない人ですから、うまくいかなくなることは分かり切っています。どうしてもオン&オフを使いこなせないのであれば、害になるだけですから、今すぐ携帯を捨てるべきでしょう。

 このように戦術に振り回され、肝心な理念や戦略が、名目だけ、口先だけになっている組織が、今あまりにも多いのです。そこで、「白圭塾」では、意志決定を体で習得してもらうためにTG,理念と戦略を戦術へ展開し、活かすかということを、これまた体感してもらうためにMMAPを、と2つの柱で実施することにしています。
 
 さて、フィルは、戦略を「保安官一味5名を殺すことで、自分の命と家族を守る」という戦略に基づき、酒場に入ったわけです、ですから酒場にいる皆を敵にするといった愚策をとりません。保安官一味との勝負が狙いですから、最悪でもいっぺんに戦うとして1対5という戦略は貫かねばならないしかし彼はその1対5、といった一か八を含む戦術すらもさけます。脳開でいう、「戦略は、大胆に。戦術は細心に」というわけです。

 そこでフィルは「酒場の主人は,どいつだ」、「次、保安官は、、、」とひとりずつ声をかけていく。つまり,あくまで個別対応で、一人ずつ対処していくわけです。これだと1対1、彼の拳銃の腕からして100%勝てることになります。これも諸葛孔明や毛沢東同、勝てる戦いだけをやったわけです。そのため、こちらの戦略は譲らず、相手の「多勢で」という戦略を崩すことで、目的の5人を倒し、見事に大戦略を果たし、めでたし、めでたしということになりました。

 こうしたことを事業にいかし、「経営戦略」と呼んでいますが、果たして皆様方の経営計画に、ほんとうに戦略思考がなされているでしょうか。
 今10年計画や5年計画立てていた会社が、その初年度に行き詰まるケースは,決して少なくありません。これは大戦略が、実は単に目的やスローガンにすぎなかったり、戦略が戦術によって、曲げられたりといった内実があるからです。また大型店であろと、お客様との接点は、点、すなわち個別対応以外にあり得ないことを忘れた大型店が、次々崩壊している本質的な理由は、ここにあるのです。

 根本戦略は、一人一人のお客様にどう対応するか、それに基づいた戦術が取られているかが、存亡をきめているのであって、もとよりそれは規模の大小とは関わりのないことなのです。

 規模の大小で思い出しましたが、北海道・富良野を舞台とした,倉本総さんの作品で、「北の国から」というTVドラマがあります。20年間続いたシリーズですが、その‘98で、主人公の五郎が「200分の100も2分の1もおなじことじゃねえか」と,甥の草太(にいちゃん)の事業拡大路線を批判するシーンがあります。その直後,草太は,事故で死んでしまうのですが。ここに倉本さんのバブルに対する痛烈な批判があるわけです。

 今もオンリー1などとことばを入れ替えただけで実は、大きくなることを目指している経営者がほとんどのようですね。成人が、肥満になることを目標にするでしょうか。実は、経営者ならこの五郎のセリフは、ドキッとする意味深(シーン)なのですが、どう見られたでしょうか。そもそも、規模の拡大は戦略とは次元が違うこと。少し大胆に決めつけるとしたら、戦略にそぐわないものだと、私は理解しています。売上げ同様「結果」だからです。結果を戦略にできるか、できたとしてもどうなるのか。自明に理です。草太の死期、この農場は多くに人への借金を抱えたまま、五郎の息子、純に引き継がれ、最後には倒産してしまうのです。「社会貢献」、「地域貢献」、「お客様第一主義」とかいった戦略を飾りに、拡大路線を掲げ、結局は社会的、地域的、顧客、その他多くの人々を不幸に陥れ、きえていった企業が実に多いことで、規模の拡大がいかにむなしいものか、そのことを、経営者ではない倉本さんが予測していたわけです。

 私は,学ぶことはとても大切なことだと思っています。しかし,経営で言えば,経営のことを(専門的に)学ぶというやり方は、私の塾では勧めていません。むしろ間違いの元、潰れるぞ、やばいぞ、怖いぞ」とブレーキを懸けています。経営は日常生活における生活という営みを基盤としたものだ、と思っています。特に小売り商業はそうだと確信しています。ですから、日常的な人の営みの中から,学び取ることこそが、ほんらいの「学び」だと思っています。日常生活を支えているのは、圧倒的大部分を占める庶民です。

 ですから庶民と目線を合わしたスタンスを取るべきだと、そんな風に考えています。経営学者になるのではなく庶民の生活へ貢献する役割が商人であるとしたら、買い手である一人一人の消費者の心をつかむことこそ、商人必須のまなびである、と思っています。ですから,私自身、専門書など、友人の寄贈本以外読んだことないです。偉い人のご意見を伺ったり講演会などにでたり、もこの20年ないです。そんな無駄な時間より、私にとっては街をあるき、仲間と馬鹿を言い合い、大衆小説やビデオ見ることが大切です。

 そうした日常性の中から学んだことが血となり肉となる、貴重な学びなのです。とりわけ夢中になれること、それが一番学びになっている気がします。そうした考えでこれまで生きてきましたし、これからも崩すことはないでしょう。よく「おまえさんは、ぐうたらで自身の戦略などないもではないか」と言われますが、ぐうたらは当たりとして、後者の戦略がない、といわれるのは、脳力開発開発をやっておるものにとっては、名誉毀損もの。それで、本邦初公開。

 これは1に、「人様から必要とされること、感謝されること。それらをやり続けたい」ということです。その背景に、「人間、必要とされる限り生きられるのではないか」という、晋の始皇帝のどではないにしても、長生きしたい、死が怖いという露骨な自我の欲求があるのです。次に二つ目。「できるだけ好きな場所、好きな人たち、好きなもの」という、これまたわがままきわまりない戦略をもっています。よく「新潟や青森に行かれますね。」と言われますが、それはこの戦略に生きているから、当然です。
 だって、うまい酒あり、肴あり。温泉あり、それになによりわがままを認めてくれる友がいる。四国、高松・徳島はもう14年ほど3月に2ぐらいで行っているのも、温泉がない分、うまい麺のお店と心が許せる仲間がいるからです。
 
 最後の3つ目は、「師から教わった脳力開発を、次へ引き継ぐこと。それに自分が創案したMMAPをたくさんの方へ使って頂き、役立てて頂けたらいい」。
 以上の3つが,私にとっては譲れない戦略です。

 人、人間としての戦略が確立していない人が、組織で理念など、戦略だの行っていること自体、私には本末転倒に思えてなりません。なぜなら経営者という人間の理念、戦略を果たす戦術の一つとして、事業があると考えているからです。だから経営者に言いたいのです。「法人格を守るために、従業員の人格を犠牲にするのも、事業に失敗して首くくるのも戦略と戦術の取り違えだ」と。ぜひ経営者は、脳力開発を学んで欲しいのです。

7 「脳力開発とMMAP」              田上康朗

 脳力開発(以後、脳開と略称)を20年、実に多くの方々へ伝えてきました。そのため、「日常の濃脳力開発」という本も出しました。その続編、応用編として「日常の」経営学」も現在執筆中です。その過程で、生まれたのがMMAP(マルチ・マネジメント・アクション・プログラム)なんです。辞書を引いたらコンピューター用語しか出てきません。なぜなら、私が作った造語なのですから。意味は、「脳の働き同様、あらゆるマネジメントにかかわることに使える思考と実践行動に使えるプログラム」といったことになりましょうか。

 これまでなんどとなく申し上げていることですが、戦略の説明は実に難しい。これが私の実感です。大半の人が戦術との区分すらできない。戦術を戦略と間違えて著している学者すらいるぐらいですから、経営者にあってはほとんどが混同しているといっても過言ではないと思います。

 言葉での戦略の説明は、師の城野先生の「打撃の方向」という説明が、定番になっていて、ゴルフの話にたとえて説明しています。それでも実感となるとなかなか掴みにくいですよね。それで中には、目的とか目標と置き換えて、理解する人もいますが、それは明らかな間違いで、そのことがよりわかりにくくしています。

 といいますのは、目標には方向性はうっすらと存在していても目的にはそれすらないからです。すなわち流れ、勢い、動き、といった動態概念が目的にも、目標にも欠けているからです。ベタットした貼り紙をイメージしていただければいいでしょう。

 対して戦略は、二者択一性と方向性、それに勢い、動きを含んだ立体的な概念です。
いい例ではありませんが、小便をするとき、花を狙い打ちする。この場合、花が目標、花にションベンかけるのが目的。尿器をそちらに向けて勢いよく放射する、ここまでをワンセットにしたのが戦略。これをうまくなすために、手で支えたり、事前に水を飲んだり、パンツをさげたりといった様々なことが戦術。これなら少しはわかりやすいでしょうかね。

 なぜ難しいか。それは言葉で説明しようとするから、当然のことなのです。脳開の本来は行動。脳の本来は、人を動かすことにあるのですから当然です。
 そういうことで、こうした言葉の説明より、身体を動かして行動で示せば、理解しやすい、そのために創案下のが、MMAPなのです。
 ですからMMAPの概念と体系は、脳開を図と線で立体表現したものです。盾の線が戦略、横の線が戦術を表しています。同時に体系に成っていますから、縦と横のクロスしているところが、今の自分の位置、ということでナビゲートの役割も果たしています。脳力開発の判断には、後ほど触れますが、「位置(基準)」は必要不可欠で、この点も脳の働きの概念そのものです。
 
 このMMAPを日常の様々なことにおいて、シュミレーションとして繰り返し行うことで、本来の正しい脳の使い方の訓練が出来るはずだ、という仮説を立てMMAPのセミナーをやり、その結果ご参加者くださった皆様方の現場でのビジネスシーン、日常生活での成果によって、すでに裏付けられたのです。脳力開発はMMAPにより、学べる。学びながら参加者が脳力の開発とビジネス等での成果を動じ並行的に上げられる、ということが証明されたのです。しかも費用は1人当たり、ポスト・トイット代100円、A-3ホコピー用紙6枚(20円×5枚)、合計200円ぽっきりです。
さあ、さっそくMMAPの説明に入りたいところですが、今月は、ここまで。長いGWをどうか、お楽しみください。
 ぜひ5月中に、MMAPをという方は、
  ・・・・田上康朗のMMAPセミナーIN名古屋のご案内・・・・
 こちらのページをご覧下さい。→ http://www.kamsa.cc/kamsa_keiei.html
 










 



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