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奔るジャッドンたのうえ、追っかけ帳

奔るジャッドンたのうえ、追っかけ帳

私の自慢のお店ー「「お茶の亀屋翠松園」

 以下、商業界の1993年9月号に掲載した、「お茶の亀屋翠松園」の執筆である。年令、肩書きなどは当時のままである。
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 高松市の丸亀町商店街に入ると、どこからとなくお茶の香りが漂ってくる。その方へ足を向けると五階建ての小さなビルが見える。
 この店が葉茶と茶道具の専門店として四国、中国地方はもちろん全国的に知られる「お茶の亀屋翠松園」である。

 一階はお茶舖。間口は二間ほどで狭いが、奥行きは結構ある。 2階は茶器、茶具の展示室、三階は茶室である。
 
 「亀は丸亀町の亀、それにゆっくりこつこつ歩く亀は、商売のありかたを示しているようだから、と決めたのです。翠松園は私の妻の名が翠(みどり)なので、これを採りました。零細企業では家族が仲良く助け合って行くことが大切なのです」
  社長の尾碕 登さんは元職業軍人。生命を懸けた軍隊の仕事から帰って下宿先の住職に呼ばれた一杯の薄茶の味、それが尾崎さんとお茶との一期一会になった。
 
 「陸軍で、気象学、情報学、流通経済学を学んでいましたので、ズブの素人でも商売に入りやすいのでは、と考えたとき和尚に御馳走になったお茶が頭に浮かんだのです。荒廃し希望を失った人々にせめて喉を潤す緑のお茶を飲んで頂けたらと思い、そこに思い切って茶舗を開業したのです。あのお茶が自分の生業になるとは考えても見ませんでした」
 
 終戦になって焼け野原の土地を170円で購入。現在の本店所在地である。お客の多くはお茶のプロ。素人がお茶舗を開いたからといってうまくいくわけはない。

 「私の場合は、人に積極的にお会いし、いろいろ教えて頂き、吸収することに努めました。お茶の勉強というよりお茶に教えて貰うことが多いのです。死ぬまで勉強ですよね。 茶の湯の文化はそれほど深い、ということさえわかったのは最近のような気がします」。

 昭和37年にビルの大改修を行った。そのとき3階に茶室を作った。設計は京都の数奇屋建築家笛吹(うすい)巌氏の苦心の設計。大工は伝統工芸優秀技能者の永井市太郎翁。壁師も京都からわざわざ来て貰うという懲り様。この茶室は前知恩院執事長細井照道老師により「三昧庵」と命名いただく。
 
 美味い茶、それも本場のお茶を、直接移入して安く提供したい、と思いが産地直売に目を付けることになる。そこで宇治の優良品を栽培する農家を尋ね歩いたが、どこからも相手にされない。4か月通い続けてやっと信用されたという。

 その後昭和25年に宇治田原町に製茶工場を開設。現在は茶園も直営化、生産、製茶、小売販売の一貫体制が取られている。すべてが現金取引。当社には手形勘定は一切なし。店の方も掛け値なしの正札現金販売である。そのため秤売りを廃止し袋売り一本にした。これなら本当の正札販売が出来るし秤違いによるトラブルもロスも発生しない。真空パックだから劣化も防げる。なんといっても狭い売り場に立て混むお客を少しでも待たせないで済む。
 
 店内に入ると、紺ガスリの店員さんがにこやかにお茶を出してくれる。堅苦しさや押し付けがまったくない。実にさわやかな応対である。友達の家を訪ねたような親しみが感じられ、「やあ!」と思わず声をかけたくなる感じである。これは経営者夫妻の人柄と徹底した社員への躾と教育の賜物であろう。
 
 当店のビッグイベントのひとつに「古今茶之湯諸道具展」がある。昭和60年から始めたというから今年で7回目になる。期間中2階の約200平方メートルの展示場には江戸初期から現代までの茶碗、茶入れ、水差し、釜、掛け軸など250点余りが展示され、四国四県、九州、中国、中部からの客で賑わう。
 
 香川県は松江、名古屋とともに茶道が盛ん、お茶会に集まる人は1千人を越している。
 この背景には、お茶の亀屋の存在が大きい。一部の人の楽しみだった茶道の大衆化こそ尾崎社長の念願である。そのため12年前から「お茶のおいしい入れ方教室」を開催。これは企業内研修や卒業を控えた高校生、各種グループを対象とする言わば「出前セミナー」である。当初は社長自身が講師を努めていたが、現在は長男の常務・正澄さん(47歳)と次男の雅裕さん(41)にバトンを継がれている。
 前後してお茶や道具の通販も始め、これが当店の知名度を広げる結果となった。

 ところで、当店の販売促進の柱は、ほぼ月一回の割合で開くイベントと、全国のお茶愛好者を対象としたDMである。最初は毛筆による手書きの案内状であったが、顧客数が限界を越し現在では顧客数に合わせて印刷するスタイルに変更。しかし印刷物とはいえ、レイアウトから色指定、イラスト(さしえ)に到るまで、すべて尾崎常務の手づくりによる実に温かみがあるDMである。
 
「毎月1回のDMづくりに4ー5日かかります。一人一人のお客様に思いを馳せながら作っていくところに、お客様へ伝わるなにかがあるような気がするのです。それに私の楽しみにもなっていますし。送り手の心が伝わらないDMでは意味がないと思うのです」
 これら尾崎常務手作りのDMは、コンピューターに地区別に登録された顧客リストによりラベル打ちされ、発送される。
 「DMの内容によって、送付するターゲットを絞りピックアップしています。お客様にとっても興味のある情報だけ届く方が喜ばれると思うからです。お客様の反応をチェックするシステムづくりもできています」」
 郵送先は9,600通から10,000通。それだけを一斉に発送することもあれば、2階でひらく展示会の招待状のように、数十通から数百通単位の時もある。

 当店繁盛の秘訣をまとめてみると、次のようになろう。
 1-徹底した絞り込みによる専門店化であろう。売り物は、お茶とその関連の道具関係のみ。他の茶店が兼業としてよく扱うコーヒーとか海苔など一切なし。専門店化することで、緻密に知名度を上げ、結果として広域商圏化に成功していること。
 2-生産から製造、そして小売業100%とお茶業としての一貫体制を貫いていること。
 そのため販売銘柄は宇治茶一本であるが、そのことがまたお茶店としてのより専門店的イメージを上げる結果になった。
 3-茶道具に力を入れることで、必然的に客筋がグレードアップし、広域化してきた。結
果として高級品が売れ、利益構造を良くしている。
 4-売り場最前線、たとえば接客、サービス、手作りDM等のお客との接点部分では徹底して人手を導入。それ以外はコンピーターを駆使しての省力化をおこなっていること。
 5-現金正札販売、手形一切なし、の商売の基本を頑なまでに守り通している。またそれが守り通せる仕組みづくりを行っていること。              
 「ここまで来ることが出来たのは、なんといってもお茶とのご縁を戴いたこと。お茶はすばらしい健康食品です。御陰で家族も従業員もみんな健康です。また人様のご縁に恵まれていたことも運がよかったからです。家内と仲良く二人三脚でやってきたおかげて、二人の息子とも跡を継いでくれる。この賑わっている丸亀商店街でも後継者がいず悩んでおられる店が多いと聞くのに、その点でもラッキーです」


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