奔るジャッドンたのうえ、追っかけ帳

2014/11/23(日)07:21

いら竹

先に触れた家康について、おもしろい話がある。 「鳴くなら、鳴くまで待とう不如帰」 と、その忍耐力ぶりを謳われている家康ですが、 実際は逆で、きわめて短気であった、という説。 私は、家康に直接会っていませんし、 そのころ彼の周辺にいた人のヒヤリングも 皆亡くなっているのでできない。 それで事実かどうか確認のしょうがないのだが、 「辛抱強い」といった説には、疑問がある、と私は思える。 いずれにしても、 短気な性格と、戦略思考には直接関係がない。 家康は短気だったからこそ、将来(さき)に大望を抱いて その具現に向かって、こつこつと歩んでいくといった 長期戦略を採った、と考えられる。 以下、軽く文献等で経緯とその根拠に触れてみたい。 幼児の頃、あることを契機に、家康は辛苦の生活を強いられた。 我慢づよいとか短気であったか、 といった性格云々にかかわらず、堪え忍ばざるを得なかった。 その「あること」。 天文16(1547)年、信長の初陣の年、 信長の父・織田信秀が岡崎に攻め入るとの情報を得た 竹千代(家康の幼名)の父・松平広忠は今川義元に援軍を求める。 その際、義元はその見返りとして、竹千代(このとき6歳)を, 見返りとして、人質に差し出すよう要求する。 広忠はこの要求を受け入れざるを得ず、 竹千代を駿河府中の義元の元へ送ることにする。 その護送の途中、戸田康光の家臣又右衞門が、 竹千代を塩見坂で奪い去り、織田家に売り渡してしまう。 こうして竹千代は信長の兄・織田信広と人質交換されるまでの 約2年間、竹千代は尾張で人質生活を送ることになる。 この「あること」が、彼の一生を決めた。 この頃から、竹千代は何事かあると、元管総理みたいにいらつく。 そして爪をかむ、といったことが癖が始まったとされる。 それを彼の周囲の人は、「いら竹」と言ったかどうかわからない。 しかし出血するぐらいきつく噛む、といったことであったらしい。

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