奔るジャッドンたのうえ、追っかけ帳

2015/01/15(木)08:01

自己主張

「自己主張」、といった言葉がある。 それらの発言を聞いていると、 ほとんど、過去、他者の刷り込み、 それにそれらのごちゃまぜを、 制約、縛り、抵抗、規制、ルールなどで加減したもの。 そこには、自己主張の「自己」はない。 過去と他者からの刷り込みを主張しているにすぎない。 しかも当人には、微塵もそうした意識も、認識もなく、 そして臆面もなく、あたかも自己の論の主張であるかのように、 言葉に発せ、それでもって他者を縛る、といった 論者の、なんと多いことよ。 自分自身が過去と他者に支配され、 ゆがめられていることすら気がついていない者が さらに、他者を縛っていく。 「自己」というが、その自己は頑迷、頑固に過去に縛られ、 「主張」の中身は、過去の他者の混ぜ合わせで、 そこに自己のものはない、といったことだ。 そうしたものから、解き放たれるとき、 これが瞑想、座禅の「とき」ではなかろうか。 (10)楽しさは弛緩の状態からも生じないし、 緊張の状態からも生じない。 車は、アクセルだけでは快適なドライブはできない。 ブレーキが不可欠だ。 かといって、動かぬ車にブレーキは不要である。 楽しさは制約と解放のバランスにより醸成されており、 弛緩と緊張の自在な組み合わせにより生じる、と考える。 自在な組み合わせとは、 1に自分で、2にさまざま、あれこれ できる組み合わせである。 織りなしとは、縦糸と横糸の組み合わせ。 縦糸だけは、織りなしはできない。 横糸だけ、織りなししはできない。 人生の織りなしを、他者に委ねたら その人生は、自分の人生ではない (11)弛緩と緊張のバランスが良い加減であることが楽しい。 ここで、「良い加減」は、自分でやる、自分にとっての加減。 バランスとは、動の状況をいい、揺らぎである。 生きていることは、動であるから、揺らぐのは当然である。 「動」がいやで、揺らぎを避けるのなら、「死」しかない。 上に、バランスが良い加減であることが楽しいと、したが 楽しいように加減を持って行く、そのことが楽しい、 ということでもある。 このことは、ルールの中で自在に楽しんでいる スポーツや将棋や、トランプなどで、私たちは体感している。

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