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2015/11/18(水)16:41

成功させる決意

本(173)

杉原千畝 白石仁章 2011年 情報に賭けた外交官  ユダヤ人への日本通過ビザの発給に至る情勢、決意に至る背景、細心の工夫をした発給がよくわかった。なぜ、ユダヤ人を救う事を決意することになったのか、それまでの経歴を知ってよくわかった。  ロシア語を専門とした外交官として教育され、満州で15年過ごしたことが、礎になっていたそうだ。白系ロシア人と結婚し、ソ連と対峙する満州で外交官として諜報活動をこなし、軍とは意見相違しながらもソ連との外交交渉を成功裡に進め、陸軍からも重宝がられたそうだ。本人は、陸軍のスパイとなることを嫌い、1935年に日本への帰任を自ら願いでたそうだ。  1936年、在ソ連日本大使館勤務の命がでるも、杉原の情報士官としての力量から、ソ連は「好ましからざる人物」として入国を拒否したそうで、それほどの実力のある外交官であったそうだ。日ソ間で外交官のビザ拒否の応酬にまで問題は発展したそうだ。  恐れられた理由は、杉原の情報源が、ソ連に圧迫されていた白系露人、ドイツに迫害されていたユダヤ人、ドイツとソ連から圧迫されていたポーランド人達で、彼らを通じた第一線の事実把握とそれに基づく情勢判断が、極めて優れたものであったかららしい。  1937年にフィンランド、1939年にリトアニアに赴任することとなったそうだが、ソ連に拒まれたため赴任時にシベリア鉄道を使えず船でフィンランドに渡ったそうだ。後にヒューマニストと称賛される人物が、実は、ソ連に恐れられるまでの諜報能力を有するロシア通の精鋭外交官であったとは驚きだ。  1939年5月、ノモンハンでソ連の軍事力の前に、日本は兵力の劣位が明白となり、ソ連への危機感が増大していたそうだ。  8月、杉原がリトアニアに着任した時、独ソ不可侵条約が結ばれ、日独防共協定にあった日本の外交は失敗し、内閣は総辞職するにいたったそうだ。  9月には、ドイツ、ソ連がポーランドに進攻し、独ソで分割協定を結んだそうだ。ポーランドには、3から4百万人のユダヤ人が住んでいたそうだ。国境が閉鎖されるまでの間隙にリトアニアに入国できたポーランド避難民がいたそうだ。  12月、ソ連は、フィンランドに進攻し、国際連盟は、この侵略にたいしてソ連を除名処分にしたそうだ。 この頃、杉原は、近しいユダヤ人一家に早く、米へ渡れと助言していたそうだ。  1940年6月、ソ連の50万の兵がバルト三国を占領し、8月にソ連に併合してしまったそうだ。   9月、日本は、ドイツ、イタリアと同盟を結び、翌年には、日ソ中立条約を結んだ後、米英と開戦したわけだ。  この激動の中、7月から日本領事館閉鎖までの間にユダヤ人に通過ビザを交付し続けたことになる。ドイツのユダヤ人迫害のみならず、ソ連のスターリンの脅威から守る行動でもあったと著者は言う。  交付に際しては、先々で入国拒否されたり、効力無効と判断されないように、交付条件に工夫をこらし、本国への交付記録の報告にも工夫を凝らしてあるそうだ。  熟慮した内容、タイミングで交付され、渡航を成功させる決意に満ちたものであったと著者は解説している。この後、プラハ、ケーニヒスベルグに赴任し、そこでも交付を続けていたそうだ。  1941年、独ソの開戦をさぐりだして日本に打電するも日本は反応しなかったそうだ。ドイツにもマークされ、帰国願いを申し出て、1941年12月10日ルーマニアに赴任した時は、日米が開戦していたそうだ。  半藤一利によると、日独伊の協定には、ソ連も入れたいと、松岡洋右外相は、スターリンにアプローチしていたそうだ。これは天皇も同意していたそうだ。  吉田茂の「ドイツは信ずるに足らず、英と関係深めよ」との報告に反応せず、ドイツと防共協定するも、独ソ不可侵条約でドイツに裏切られ、日ソ中立条約するも、1945年8月には、米と分け前を密約していたスターリンに150万の兵で攻め込まれた。その攻めてくることになる相手に終戦仲介も頼んでいたとは。  軍と組せず、事実と情勢判断により日本を考えていた外交官がいたこと、ユダヤ人を助ける方法を考えだして成功させることを決意して実行した外交官がいたことは、救われる思いだ。

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