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テーマ:城跡めぐり(1234)
カテゴリ:城
備中では、城域が、松山城の次に大きいお城だったそうだ。
松山城は、石垣も、お城の背後の備えも、井戸も池も立派なもので、臥牛山の稜線に展開した立派なお城で、長い歴史を持ち、雲海に浮かぶ天守の姿は、武者の声が聞こえてくるかのようだ。 一方、こちらのお城は、短い期間で廃城となったそうで、戦国末期の縄張りの原型がそのまま残されていることになるらしい。独立した115mの丘陵、茶臼山一帯の尾根筋に曲輪を重ねたお城だそうで、散策してみた。(岡山県中世城館跡総合調査報告2020はこちら) 24吋別窓表示 茶臼山の南にひろがる水田地帯で、北から、東、南まで。左の山の下にある丘陵が茶臼山で、中央の道路の先の山のむこうに猿掛山がある。毛利元清は、猿掛城から茶臼山城に移り、拡張工事を施したらしい。 確かにひろい城内。曲輪が続く。 三の丸を見下ろす。ここの右端を登ってきた。犬走りを山道にした可能性もあるらしい。 爺ヶ段の一番したの曲輪。井戸が残っていた。転落防止に柵で囲い、鉄の格子がはめられていた。 鎮守丸から西方面に見た矢掛宿。 古代道路の時代の駅家は、まだ、少し先にあったらしい。毎戸遺跡で馬と書かれた断片が出土したらしい。今は、鉄路の下になってしまったらしい。 ここの往来は、太宰府への時代から、秀吉の九州出兵、参勤交代と、日本史通りに続いていたらしい。今は、宿場町観光の往来になっているが、交通の要所であったわけだ。 茶臼山山頂の主郭跡。この姿。 二の丸の最上部曲輪の南端からの眺め。 東方の写真正面が猿掛城のある山塊。樹木をはらえば、山陽道の往来を眼下に確認できただろう。毛利軍の進軍も、秀吉の進軍も見えたに違いない。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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