JE2LUZ・熊野

2008/01/25(金)10:46

熊野の旅 役所の不思議さ

熊野について(4285)

 『旅』とは少しは慣れるかもしれませんが・・・  昔、関西の田舎で言われた言葉があります。  『立派なのは役場と天○教会』  大した建物の無い田舎では、昭和の大合併のあとに次々建て替えられた市役所と、所得が増えてきて寄進の増えた天○教が新しい教会を建てたのでこんなことを言われたのです。  そして、かくさようにそうしたことが多かったのです。  合併しそこなった町村の役場は古いままで残されていることが多かったですね。  昭和の大合併の時の条件は、『市になれるのは合併後の人口3万以上』と、言うものでした。  この『3万』と言うのが特例だった訳です。  まだまだ過疎が進んでいなかった時代でも、人口密度が低く、地形の複雑な日本の田舎では3万人寄せ集めるのがやっとこさと言う所が多かったのです。  『新市』と呼ばれた効した市は、三重県においては『熊野』『尾鷲』『鳥羽』『亀山』などの市です。  『熊野市』も南牟婁郡8か町村寄せ集めてようやく『3万人』の壁をクリアーして誕生したものです。  合併当座は庁舎も無いので木本町役場や木本町公会堂などを使って執務しました。  対応するべく建てられたのは、今の市庁舎のある場所に建てた、木造モルタル塗り三階建てのあまり立派な物ではありませんでした。  この建物の寿命が来る前に、『手狭になった』と言う理由で、駅裏に出来た埋立地に仮庁舎を建設し、一時移転した跡にたてたのが、現在の『熊野市役所庁舎』です。  熊谷組施工のタイルが光り輝く立派な『外観』のものです。  内情をばらすと、このタイル張りが仇となって、剥れて落下するタイルが危なく、張替え工事で巨費を投入したこともあります。もちろん、設計者にも施工者にも責任をかぶせないで自前で直しましたよ。  合併から年月を経て過疎が進み、人口は1/3減少して2万人ほどになりました。そして、その間の行政改革で市役所の職員数も大幅に削減されました。  そして、今回の『平成の大合併』で紀和町を吸収、人口が千人ほど回復したことになりました。まあ、数字合わせですがね。  職員数も合併して紀和町役場の分増えました。  ここで発生した不思議なこと・・・  合併しても、人口はピークの2/3しか居ない、職員もピークほど居ない・・・  なのに、業務担当課を市内一円に散らばらせ出したのです。  かつての東京都がそうでしたが、バラバラに配置して、市民が用事をするのに歩いては廻れなくしたのです。  環境衛生関係は有馬町の『ゴミ焼き場』に、福祉関係は井戸町の『福祉会館』に・・・極めつけは林業関係は紀和町の『旧紀和役場』に分散させました。  今日添付の地図では収まっておりません。  この建物間にはまともに公共交通機関はありません。紀和庁舎のごときは20Kmほど離れていますから歩けば、熊野古道の本宮道・風伝越えで一泊行程になります。  役所はいつも、『行政が複雑になって・・・』と言うのですが、『電算化』に巨費をいれ、かつては中卒ばかりだった職員がほぼ全員大卒になり・・・  人口は減り、農地も放置されて減り、山林も増えていません、漁師も船も減りました・・・増えたのは手の掛かるお年寄りだけです。  なのに、どうしてこんなことになるのでしょうね???  『高級官僚』の感覚を見る思いがします。  思惑は・・・・  『これでは市民に不便をかけるから、新庁舎の建設を・・・』と、築城することでしょうか???  『殿! ご乱心召されるな・・・』  『無礼な! 手打ちにいたす、そこへなおれ!』  いやいや・・・  私も今はただの家庭菜園百姓、ただのじじいです。直訴なんて出来ませんね。  『そんな御無体な・・・お代官様』  『じじい! ごたくを抜かすとただでは済まぬぞ!』・・・でしょうかね。  まあ、平成の『奥熊野代官所』はこんなものです。  江戸時代の代官所跡の松も枯れてしまいましたしね。          ↑↑よろしければ一日一回ポチッと押してください この周辺です

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