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カテゴリ:混在
時代が江戸時代から近代政治体制に変わる「明治元年・慶応4年」にこの辺では何があったのかなあ…と、年表を見てみましたが、そんなにいい気な変化はなかったようですね。
まあ、廃藩置県も後の話し出し、政権交代した去年の日本みたいなもので期待と不安が一杯って所だったのでしょうね。変化の大きさは今の政権交代とは比べ物にならないほど大きい代わり、情報は比べ物にならないほど少なかったですから、地方では何も分からないくらいだったのかもしれません。 熊野三山にとってものすごく大きかったと思われるのは、この年の3月に発令された、『神仏分離令』でしょうね。 熊野信仰は那智山に代表されるように、まさに『神仏混合』の典型的なものとして進化していましたから大変な出来事だったでしょう。 まだ、熊野詣が続いていただけにかなりの影響があったものと思われます。 元号が明治と改められたのが9月ですから、『神仏分離令』はものすごく早い発令だったのですね。堪能を中心とする「親政」…「天皇神格化」の流れがもう始まっていたのでしょうか? 那智山の那智大社と青岸渡寺などは上へ下への大騒ぎだったのではないでしょうか? お寺と神社は建物も違うので宵にしても、信仰の対象になっている「那智の滝」の支配権もありますからね。 世は目に字に変わっても、まだ「奥熊野代官所」はそのままだったようで、底お代官様の最低が不服だと言って代官所を襲う事件なども記録に残っています。 何しろ親方の紀州藩のご威光、徳川家の権威がなくなったのですから、お代官様も大変だったでしょうね。 木本にとって大きな変化は、『酒甚』、『喜田館』、『亀齢館』と言う三軒の旅館が創業したことかもしれません。 私が子供の頃には三軒ともまだありました。 そんなに大きな旅館ではありませんが、木造のいかにも旅館らしいものでしたね。 一番先に廃業したのが「喜田館」でした。 「亀齢館」ですが、ここは浜に面した別館を残し、本町に側の本館・玄関を新しくして「日観連」とか「政府指定」とかの看板が掲げられた次代にも営業していました。その後旅館と言うものが廃れていった時に天理教に買収され今では宿所になっています。 そうなってからの建物には入っていませんが、その当時の昭和の改築の形は残っているのでしょうね。 「酒甚」は何回か改装されたのかも分かりませんが、古い木造旅館の形のままで残されています。 本町二丁目で熊野古道歩きの人たちのために看板が掲げられています。 最初の頃は玄関も開けられていたのですが、最近は空いていないように思います。 内部の写真を撮ろうと許可ももらっていたのですが撮っていません。 入り口の土間なども風情のある立派なものですが、この、明治元年よりは新しいような気もします。 この三軒が創業し、戦後まで営業を津図けるほど木本も賑わっていたわけです。 そのほかにも、昭和34年の紀勢線全通くらいまでには、「よし住」「朝日館」「春風館」「清玉」「御浜館」…とても思い出せないくらいの数の旅館が営業していたのです。 下は今ではガイドブックにも載る「酒甚旅館」です。 残念ながら営業していませんから宿泊は出来ません。 ↑↑よろしければ一日一回ポチッと押してください 熊野市周辺地図です お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2010/01/28 02:41:35 PM
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