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カテゴリ:熊野について
今月号の「広報くまの」に木本ー神川ー池原を結ぶ「索道」が載っていましたね。
対象から昭和にかけて、この「索道」があちこちに張り回されていたようです。 私が現物雨を見たのは、紀和から尾呂志経由阿田和駅までの紀州鉱山の鉱石運搬索道です。 鉱石を積むために阿田和駅の山側には索道で持ってきたものを貯めておく「ホッパー」がありました。 鉱山への人の出入りもあるし、鉱石もあるので「阿田和駅」は結構大きかったです。 鵜殿駅は「紀州製紙」の工場があり、その関係の荷物があったので、ここは引込線もあり、つい近年までそこそこ広い駅でしたね。 2013年の鵜殿駅上り方向、まだ、紀州製紙専用の貨物列車が廃止される前です。 国道42号線には引き込み線の踏切がありました。 「紀伊木本駅」は南牟婁郡から吉野郡上・下北山村などへの物資の取次もあるし、汽車の終着駅ですから嫌でもすべての客は降りるし、此処から先は矢ノ川峠越え、42Kmを2時間40分の日本一難所とも言われたところもあるので、一泊して気力・体力を整える旅人もいて、たくさんの旅館が食べていけたのです。 矢ノ川道にバスが走る前は、やはり、索道があり旅人を運んだようです。 矢ノ川を越えるか。はたまた。熊野灘をかすめる難所をゆく「巡航船」に乗るか… こんな話聞くと、木本と尾鷲の間は旅をしたくないでしょう? もっと昔の人は、江戸や上州からでも歩いてきたのですから。少しくらいの峠も近代人ほど苦手ではなかったでしょう。 いくらご利益があると言っても「熊野詣」のために片道150里も200里も歩いたんですからね。 四国は88箇所もあるところを回るのですが、熊野は基本的に三山ですからね。 和歌山側にあった、99王子なんて言っても小さな祠だったりお堂だったりみたいです。 熊野詣ついでに「西国三十三箇所」を回るなんてのは無かったようです。 紀勢線ができるまでは波田須・新鹿・遊木・二木島・甫母・須野・梶賀・早田なんてところは「陸の孤島」だったのです。 紀勢本線はこうした陸の孤島を普通の集落に変えてくれたのですが、大きな漁港にもなれず平地もないので期待したほど発展しなかったようです。 その後の道路整備以上に期待された事業だったのですけどね。 明治以降近代化の象徴が「鉄道」だったので、「五新線」だけではなく、尾鷲や木本からも吉野に向かう鉄道が計画されたようです。 「軽便鉄道」「森林鉄道」と言う形で開設しようとしたようです。 残念ながらこの辺では実現しなかったようです。 熊野川水系では「筏流し」が古くから行われたので鉄道には移行しなかったのでしょう。 それに、「車引き」が牛を使って材木など運んでいたようですからね。 山の中は「木馬・きんま」と言う橇?で出していました。 こうしたことで紀勢本線がこの地区で唯一の鉄道になりました。 この写真は昭和32年頃の規制西線だと思いますが、座席の背もたれがにもケットが貼られていない板のものです。 多分「オハフ61」という系統の車両でしょう。 窓が普通サイズですが、参宮線では窓の小さな客車がもっと後まで走っていましたね。 時間は掛かるし、座席はこんな風だし、汽車は混むし… 「旅」って大変なものでしたが、その分だけ楽しかったと思います。 天王寺まで夜行で一晩、東京へも夜行で一晩…駅判食べて… この東西紀勢線の連結が70年前の7月15日だったのです。 7月15日にはその式典と記念列車の運行があるようです。 人気ブログランキング お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2019/06/16 06:00:10 AM
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