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カテゴリ:熊野について
この辺は「紀伊の国」でした。
今の「熊野市駅」は「紀伊木本」駅でした。 鉄道の駅名はよそとだぶるときは、昔の国名を頭に載せましたからね。 紀伊の国が広いので北の端は「紀伊長島駅」です。 「紀伊木本」はなくなったけど「紀伊市木」は残っています。 紀勢西線側では「紀伊佐野」「紀伊天満」「紀伊勝浦」「紀伊浦神」「紀伊田原」「紀伊姫」「紀伊有田」「紀伊日置」「紀伊富田」「紀伊新庄」「紀伊田辺」「紀伊内原」「紀伊由良」「紀伊宮原」そして阪和線の「紀伊駅」です。 紀州の端から端まで見事に「紀伊」のついた駅があります。 昔は一つの国だったのですからつながりも今よりはあったのでしょう。 この「紀州」というところは和歌山から始まってどんどん南下し串本で折り返して伊勢国との境の紀伊長島まで北上します。 紀州藩のお殿様は和歌山ですし、国中がほとんど南です。 そして、紀伊半島で黒潮が流れ温暖なイメージもあるからでしょう、田辺のあたりら「南紀」を呼ばれます。 「南紀白浜」「南紀勝浦」などは房総との区別もあったのでしょうけどずっと「南紀」です。 当然、新宮市あたりから熊野市とかも「南紀」でした。 でも、切れ目もわからないからか三重県側は「東紀州」なんてのを使い出しました。 これも、もとは「南牟婁郡」「北牟婁郡」で東は新宮市周辺那智勝浦とか太地などが「東牟婁郡」でしたね。 地図では東ですけど… 更にややこしいのはこの南紀、東西南北牟呂の地は「熊野・ゆや」とも呼ばれました。 その範囲は日高郡・田辺からぐるりと紀伊半島を回って紀伊長島までとなります。 だから、世界遺産の熊野古道が熊野三山の両方に伸びていてもおかしくないのです。 かくかように、この一帯はどの時代もひとかたまりだったみたいです。 肥沃な平野もないし、海岸線の狭い土地と山間部の住みにくい土地しかないので、牛遊割拠で国が割れることなかったのでしょうね。 なら、もっと一体感があっても良さそうなのですが、隣の集落にゆくのも難儀するようなところだからか、一体感が薄いです。 食べ物でも他に食うものがないから広がったような「めはり」くらいでしょう。 「なれ寿司」は十津川を含め山間部にはありますが、温かい海岸線には広がっていません。 おまけに、明治の廃藩置県とその調整時代に、熊野川を境に紀州なのに「度会県」側に編入された地域と、熊野川流域なのに「天領」だったからか分水嶺から南なのに十津川などは奈良県に回されました。 おまけに、奈良・和歌山は近畿、三重は東海になるので、色んな面で分離が進んでいったようです。 鉄道だけではなく道路も新宮方面が遅れ、尾鷲・津方面のほうが繋がりました。 ますます、いろんな交流も薄くなりつつあるようです。 まあ、紀州藩が御三家と言うことで領地を広く持ちすぎていたし、ド田舎ばかりで端っこまで手が回っていなかったからかも知れませんね。 伊勢国側を除けても広大です。 人気ブログランキング お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2019/06/26 06:00:06 AM
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