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JE2LUZ・熊野

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2019/11/10
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カテゴリ:混在
前回の東京オリンピックの頃は、古い東京がどんどん近代化され綺麗になっていった時期で。「最早戦後では無い」なんて言われる時代に入る時です。
 それでも、「世界のお客さんに汚い物を見せないようにしよう。」と、言うことで、先に書いたようにまだ残って居た浮浪児を収容し、戦争の負の遺産の傷痍軍人を隠しました。
 白い着物を着て戦闘帽をかぶり、アコーディオンなどを弾きながら山手線などの中でも物乞いをしている光景が残って居ましたからね。
 その後の「社会福祉」という概念では無く「収容」という手法だったようです。
 どういう訳か「ドキュメンタリー」とかで取り上げませんね。
 私のフィルムにはその光景はありません。
 「撮ってはいけない物」という感じでした。
 「あの人達は生きて帰ってきている。」と、思ったのは、私が「遺児」だったからかも知れません。
 今なら、「ご苦労さんでした」と思えると思います。

 靖国の光景も生々しい物でした。
 戦後、20年近く経っていても、夫を亡くした女性、子供を取られた親たちがお参りに来ていました



 この靖国って死んでからも階級がついて回るところみたいでした。
 それがすごく嫌でした。
 今はもっとそれが表に出ている気がします。



 片方では銀座の表通りではこんな瀟洒なビルも出現していました。
 コノすらの通りでは「みゆき族」なんてのが出てくる時期です。
 田舎者の私でも「洋書のイエナ」「コダックの東洋現像所」には出入りしていました。
 何ともちぐはぐな時代だったようです。
 39年には新幹線が走ったけど、熊野からは夜行列車「那智号」で11時間かかっていました。
 多気で「伊勢号」と名古屋で「出雲号」と連結して東京へ・・・
 それでも東京まで直通になってものすごく便利になった時代でしたね。


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最終更新日  2019/11/10 06:00:12 AM
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