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JE2LUZ・熊野

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思い出

2020/01/21
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カテゴリ:思い出
私が長年使ってきたカメラの多くは日本光学・ニコン背のものです。
 一番最初に一眼レフを持ったのは、「NIKON F」で1959年に発売されたものです。
 国産の一眼レフの歴史は「アサヒフレックス」から始まり、それがペンタプリズムになり、ミラーが瞬時に復旧するクイックリターンになり、実用化して行きました。
 その間に、トプコン・マミヤが出て、さらに、超進歩的な「ズノー」が出ました。
 キャノンが発表してすぐに日本光学がNIKON Fを発表しました。
 カメラの専門誌「写真工業」に発表されたのが、1959年5月号です。
 50mm f2.0 標準レンズ付きで69000でした。
 そして、発売と同時に各種付属品も完備したシステムカメラでした・



 だから、NIKON Fは決して早かったわけでは無いのですが、一眼レフとしては完成形でした。
 でも、取り入れた「クイックリターンミラー」はペンタックス・旭光学の特許に抵触して揉めた経緯があります。
 それが解決?出来なかったらNIKON Fがあそこまでの評価は得られなかったでしょうね。
 そして、1964年の東京オリンピックで地位を確立したのです。
 オリンピックの撮影に「超望遠レンズ」が使われたのですが、小さなマウントにバズーカのようなレンズを付けましたから、マウントごともげちゃうと言うようなトラブルが続出したようですっが、日本光学は国立競技場・駒沢競技場などにサービスカーと技術者を配置して取材に支障来さないようにして居ました。
 採算度外視で動いて、世界のマスコミに「NIKONは素晴らしい!」と信じ込ませ、「世界一」の地位を築いたのです。
 
 同時進行的にNIKON Fを使っていたのでそうした動きも「伝説」では無く目にしましたね。

 この時代に、カラーがスライドからネガカラーに移行しかけました。
 そして、フィルムの世界では富士写真フイルムより小西六写真工業の法が強かったのです。
 カラーネガフィルムはかなり高くて12枚撮り400円でした。
 その頃、10本入り「ピース」は50円でしたからね。
 8mmも普及し始めた頃です。
 露出計付きカメラもどんどん出た頃です。
 日本のカメラ産業が性愛を席巻した頃です。
 私などは「良い時代」に写真を始めたと言うことです。


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最終更新日  2020/01/21 02:21:20 PM
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2019/11/21
カテゴリ:思い出
テレビでミケランジェロをやってましたね・
 天才だったようです。
 人体からヘリコプターまで・・・
 そして芸術も・・・
 私でもルーブル「モナリザ」とミラノ「最後の晩餐」・フィレンツェのメディチ家の「ピエタ」などは見ています。
 「モナリザ」は上野とパリで見ましたが、上野では「立ち止まらないでください!」と流れ作業的に眺めました。
 ルーブルでもモナリザだけがケースに収まって、前にはロープがあって他の展示物とは別扱い、そして、二回言ったら二回とも前に人が居ました。
 ミロのビーナスも上野では「立ち止まらないでください!」と歩きながらでしたが、ルーブルでは誰もいなくて「これ本物ですか?」と守衛さんに聞いたほどでした。



 ベネチアについて書いたついでに同じイタリアのミラノも書きます。
 大聖堂では無く「サンタマリア・デッレ・グラッチェ教会」です。
 教会は大きくないし地味ですが「最後の晩餐」のある所です。
 私が行った時は「最後の晩餐」は修復前でなんだか汚れたような絵で「すごい」とは思えませんでした。
 ただ、爆撃の前に土嚢を積み上げて絵を守ったので建物が傷んでも絵はV字だったと言うことに感激しました。



 上が私が見た頃のもので下が修復後のものです。
 協会内はかなり暗かったし余計もはっきりしませんでした。
 日本でも古い絵画や仏像の修復に一生捧げる人が居ます。
 ほとんど名前も残らない仕事ですが大切な仕事ですね。
 この修復もピニン・ブランビッラと言う職人さんが20年余り賭けて一人で洗い出しと修復をしたのだそうです。
 私が訪れたすぐ後からですね。


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最終更新日  2019/11/21 06:00:09 AM
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2019/11/13
カテゴリ:思い出
今に始まったことでは無いのですが、京都・祇園の立ち入り禁止や撮影料問題でクローズアップされてきましたが、観光地での観光客と地元で生活する人との間のもめ事って昔からあります。
 以前は素人カメラマンのマナーの悪さがトラブルを起こしたことも多かったのですが、デジカメ時代、スマホ時代になってにわかカメラマンだらけになったのでもめ事も増え、地元の人も困った居るのだと思います。
 町並みを取る程度ならまだしも、町屋の中を覗き込んだり舞妓さんを追いかけ回したり・・・
 「観光立市」「地域振興」などと言いますが、普通に暮らしている人にとって観光客ってそんなに有り難いものではないのです。
 そりゃあ、誰も居ない待ちよりは少し良いですが、直接かねになるでも無いのに家を覗かれ、畑を踏まれ・・・迷惑の方が多くなることもあるでしょう。
 祭りなどの日はまだしも、それが毎日となればねえ・・・



 私が旅をした頃は「フィルムカメラ」の時代でした。
 フィルム1本で35mmなら36枚、セミ判で16枚しか撮れませんから、今のように機関銃のようには写せませんでした。
 フィルム30本持って行っても1080枚ですからね。
 CFカード一枚に納まるんです。
 めったやたらと待ち人を写したり出来なかったですね。
 それがデジタルとズームレンズになって数は撮れるし離れた所から引っ張れるし・・・
 あげくは「SNS]で受けを狙うし・・・
 肖像権とかの問題以前なのです。

 写真は「ユーレイル・パス」というヨーロッパの均一周遊券です。
 EUなど無い時代ですが、西側諸国の鉄道に乗り放題の周遊券です。
 有効期間21日、最初に乗った列車の車掌に日にちを記入して貰います。
 「STUDENT」だと、2等の切符になります。
 羅文意までもあるのでしょうね。
 これを使ってヨーロッパをうろつきました。
 乗れないはずの地下鉄にも乗ったり・・・
 今なら何千枚もの写真を撮ってきたでしょうね。
 そうなると、もっと図々しくなっていたかも知れません。

 京都の人が怒るのも無理は無いでしょう。
 熊野古道は押すな押すなでは無いので親父町の人達も縁台を出して日向ぼっこして。近所同士が楽しく過ごせるのでしょう。
 一杯来たら、家に籠もって玄関の戸を閉め切ることになって居たでしょうね。
 「良かった」とも言えませんが「悪くなかった」のかも知れません。
 舞妓さんとは違う意味で「良い被写体」ですからね。


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最終更新日  2019/11/13 12:00:15 AM
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2019/11/11
カテゴリ:思い出



 これは日本交通公社のように歴史のある[トーマス・クック社という旅行業者の発行する時刻表です。
 1978年11月号で2.50ポンドです。
 当時の為替レートだと1ポンド500円ほどですから。一冊1250円ほどです。
 紙は良くないですがヨーロッパを中心の国際版です。
 日本も5ページ乗せていますが、残念ながら紀勢線は入っていません。

 これが手元にあるのは、国内旅行の時同様時刻表を片手にヨーロッパを旅したからです。
 約一ヶ月、切符はユーレ0ルパスを有効に使いました。
 まだ30代で若かったですからね。
 夜行をフルに使ってホテル代を浮かしました。
 だから、順番に回るのでは無く、眠れるほどの時間を夜行に乗るので400Kmとかを行ったり来たり・・・
 楽しいものですよ。
 学生時代も交通公社の大きな方の時刻表を持って旅をしていました。
 日本の場合は。旅館情報から駅弁まで旅には欠かせませんでした。
 先ほど中を見たのですが、今だとこの時刻表は拡大鏡が無いと使えないようです。

 私は記念列車とかに乗る趣味が無いのであまり変わったことは無いのですが、ロンドンーパリ間を結んでいた「ナイトフェリー」に乗りました。
 トーマスクック社に予約を入れ本社まで出かけて切符を受け取ってまで乗った列車です。
 「Wagon lits」社の寝台列車でドーバー海峡を寝たままでわたれるたった一本の列車でした。
 私が乗ったすぐ後の1980年10月31日で廃止されたものです。



 このページは他のホームページの「ナイトフェリー」紹介のページにも載っています。
 この列車は1等寝台だけがロンドン-パリ間直通で座席車の客は徒歩でフェリーに乗り換えました。
 とにかくこれに乗ってドーバーを越えないと・・・というこだわりで乗ったのです。
 ロンドン・ビクトリア駅からパリ・ノルド駅まで・・・
 と言っても、夜行ですから「乗った」と言うだけですね。
 でも、それが「旅の楽しみ」なんです。


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最終更新日  2019/11/11 06:00:08 AM
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2019/03/27
カテゴリ:思い出
50年前の熊野大花火大会の写真が出てきました。
 FUJICOLOR ネガでカメラはTOPCON HORSEMAN PRESS67 TOPKOR 90mm  f3.5らしいです。
 ネガからなので退色無しで再現できました。



 原判はブローニー6×9 と言うものです。
 半世紀前でも花火は綺麗ですね。
 ただ…
 時間が掛かっていました。
 写真の様子からすると堤防の桟敷かららしいです。
 旧堤防で家の側は芋畑です。
 まだ国道は旧トンネルから水谷茶屋ー上木本ー記念通りー熊野市駅前ー松原…と言うルートでした。
 この頃の木本はまだまだ元気でしたね。


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最終更新日  2019/03/27 03:50:29 PM
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2019/03/02
カテゴリ:思い出
昨日、昭和35年頃の母校・木本高校の写真を探すのに「卒業アルバム」を引っ張り出しました。
 私の頃の木本高校は普通科5クラス、商業科2クラス、家庭科1クラスの8クラス、400名体制でした。
 普通科の内2組と5組が進学クラスと言うことその間での組替えだったのですが、私はどうもどちらだったのかいつもわからなくなるのです。
 少し前rに熊野に来られた伊藤先生が三年の担任だったのは覚えているのですがねえ・・・
 アルバムを見たら5組でした。
 マドンナも々クラスでした。 
 クラス写真の他にクラブ活動の写真も載っていますが、私は三年の時に立ち上げた「物理部」の写真です。
 物理部なんて高校レベルでは実験なんてほとんど出来ませんし、このクラブは受験対策クラブでした。



 一年生、二年生はバスケット部、二年で化学部、三年生物理部とジプシーでした。
 この物理部はちゃんと生徒会で予算も貰って立ち上げたのですが、生徒会長も入っていました。
 何しろ京都大学医学部、工学部に進んだ2名が居ますから、田舎の高校としてはたいしたクラブですね。
 でも、おもしろみの無いクラブなのでこの一年で消滅しました。
 写真部もあったのですが私は所属しませんでした。
 まだ二眼レフが幅をきかせていた時代です。
 時代が時代なので男子はみんな学生帽をかぶっています。
 商業科の何名かは白線無しのが居ますが、当時は白線二本でした。
 横に西郷川はありますが、「白線流し」なんてありませんでしたし、「第二ボタン」もありませんでした・・・と言うより、卒業式は受験の関係ででていません。






最終更新日  2019/03/02 08:08:02 PM
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2018/01/20
カテゴリ:思い出
私が子供の頃…
 娯楽の中心に映画がありましたね。
 テレビはまだないし…
 家ではラジオですからね。
 「新・諸国物語」…笛吹童子
 「連続ラジオ放送劇」…鐘の鳴る丘
 ゴールデンアワーでも「アチャコ青春物語」「アチャコほろ苦が物語」

 忘れちゃいけませんね! 
 「忘却とは忘れ去ることなり。忘れ得ずして忘却を誓う心の悲しさよ」
 「♫君の名は…と、訊ねし人あり…」
 ん???
 歳が分かる!

 で…
 映画が盛んな頃、上木本には「明治座」があり、遅れて山と酒店の近くに「新明治座」が出来、更には丸山町の埋め立てが完成すると「丸山映劇」が出来ました。
 なんと!三軒もの映画館があったのです。
 制作会社も、松竹・東映・東宝・大映・新東宝の五社体制に日活が割り込んでいましたし、洋画もあるので三館では足りなかったのですね。



 紀南ツアーデザインセンター・旧奥川邸に行ったら、上のような映画ポスターが展示されていました。
 明治座の頃か東映に変わってからなのか…
 この二本は見たことないです。
 大河内傳次郎・大川橋藏・美空ひばり/月形竜之介・中村錦之助・東千代之介…なんて名前が並んでますね。
 中学の頃は飛鳥でしたから、映画を見るのは木本まで来るか、青年クラブや学校の講堂へ映画が回ってくるかしないと見られませんでした。
 映画館でも雨は降るし切れるし…
 まして、移動上映のフィルムは傷んでいるので…

 昔の映画は鞍馬天狗などが馬で駆けつけるシーンなど、みんなで拍手してましたね。
 中々出てこないと…「早うーーー!」と悲鳴が上がったり…
 3Dなんか無くても画面に入り込んでいたようです。




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最終更新日  2018/01/20 06:20:06 PM
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2018/01/09
カテゴリ:思い出
同級会の打ち合わせで5人集まりました。
 飛鳥小学校(大又)1名、小坂小学校1名、日進小学校3名です。
 今なら全部「新・飛鳥小学校」ですけどね。
 前回の名簿を持ってきてくれている人がいて、順番に近況のチェックですが、かなりの人が逝去され、かなりの人が病気で来られないのではないかと言うことです。
 私は数えていませんが、山本君が生存が確認できている人と不明の人全員に招待状を出してくれます。
 60通くらいでしょうかね?
 地元在住のメンバーには電話と訪問で呼びかけます。
 私も今は暇ですし、大又・小又・小坂の7人ほどと、井戸・有馬の2名程度は誘いに行くつもりです。
 日程は4月ですが、市議選の告示が15日で投票日が22日なのでそれを避けることになります。
 予定ではその時期には私も少しばかり多忙?になりますから…
 そして、場所は紀和町になりそうです。
 よそからのアクセスも「熊野尾鷲道路」が出来ていますから、ずいぶん楽にはなっていますからね。
 この際、みんなを紀和に呼んだらいいだろうという方向になりました。
 そして、時間のある人には「赤木城」と「丸山千枚田」あたりを見てもらって…
 私の若いころは紀和の方に足を延ばすなんてありませんでした。
 育生経由の道などはまともなものではなかったし、風伝越えも…
 峠に茶屋があったくらいですからね。
 そりゃあそうでしょう。
 50Th Annyversary of our graduation と、言うことなんですから…
 足の無いメンバーは私が特急便で送り迎えします。
 定員4名の車ですけどね。

 小学に入学したときは「飛鳥村立小阪小学校」で中学は「熊野市立飛鳥中学校」になっていました。



 これが一回目の同級会…
 飛鳥中学校の教室を使いました。
 昭和36年(1961)…卒業してすぐですから、進学組は木高の制服ですね。
 前から二段目左端が私ですね。
 髪を伸ばして革靴??? 校則変更の運動中の時期でしょう。
 撮ったカメラはオリンパス35S、フィルムはネオパンSS 粒子はあまり良くないです。



 今度の同級会にはプリントして持って行こうかな?
 真ん中の恩師「内山先生」はまだご存命のようです。
 熊野まで来られると良いのですが…
 こうしてみると、「昭和」ですね。

 今日で私も75周年です。
 昭和ですねえ…

 今日も話に出ました…
 「若い頃、明治生まれの人は明治・大正・昭和と三代生きてすごいねえ…と言ってたのに、自分らが昭和・平成・??の三代生きることになるんやね…」
 まだ、一年と4ヶ月ほどあるので確定しませんけどね。




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最終更新日  2018/01/09 06:00:11 AM
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2017/12/18
カテゴリ:思い出
私が高校の時、紀勢線の西と東がつながりました。
 それまでは紀伊木本駅(現熊野市駅)と尾鷲駅の間は国鉄の連絡バス路線「国鉄紀南線」が結んでいたのです。
 国道42号線で佐田坂を登り屋の子峠を越え、42Kmを二時間四十分で走りました。
 難所の矢の川峠は海抜808mもあったのです。
 その矢ノ川(やのこ)峠は紀勢線全通後も国道として使われていましたが、昭和43年かな?42号線の改修で今の矢ノ川(やのこ)トンネルと大又トンネルで通らなくなり海抜も350mほどまで下がりました。
 それでも冬には凍結するくらいですから、昔の矢ノ川の大又側斜面は大変だったのです。

 三重テレビで紀勢線全通当時のフィルムが流されていますが、NHKさんのように完全調整とかなされないので非常に醜いですが、貴重なフィルムでしょうね。
 全通後のものはジーゼル機関車になって居ます。
 全通と同時に蒸気機関車から切り替えましたからね。
 新宮から向こうは電化されるまで蒸気機関車が走っていましたけどね。
 紀勢東線側はトンネルが多く、新規につながった熊野ー尾鷲間などは6割ほどがトンネルと言うことで気動車化したわけですが、そのまま、電化されないままで終わりました。
 良かったのか悪かったのか…



 この列車何か分かりますか?
 1989年7月13日に熊野市駅にやって来たJR東海のでモンストレーション用の列車です。
 ワイドビューの原型?宣伝用?のもので、試乗しました。
 カラオケが付いていたし、窓枠もかなり切り下げてあって「ワイドビュー」でした。
 展望車もある観光用でしたが、実際には使われなかったようです。
 正副議長に委員長、観光課長、総務課の女の子など十数名が試乗しました。
 写真見ると私を含めみんな若いです。
 この車両・・・
 非常用の連結器は隠されていないのかな?
 バンパーのビスを外す???




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最終更新日  2017/12/18 06:40:08 AM
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2016/07/23
カテゴリ:思い出
 暦を見ていたら・・・
 7月21日は下北半島恐山の大祭の日です。
 半世紀ほど前、昭和38年(1963)にこの、「恐山の大祭」へ行きました。
 勿論、大祭に集まる「いたこ」さんの口寄せ風景の写真を撮りにです。
 国鉄・大畠線だったと思いますが、下北の付け根まで行き、バスに揺られて恐山へ・・・
 「賽の河原」というような火口原の殺伐とした光景と、当時はまだあれ寺のような地蔵尊を祀る菩提寺の組み合わせは異様な物でした。
 何を食わされどう寝たのか覚えはないのですが宿坊に泊まって・・・
 「恐山」はカルデラ湖の宇曽利湖(うそりこ)がなまった物と言われます。

 大祭には「いたこ」と言う目の見えない女の人が集まり、「口寄せ」を行っています。
 そのイタコさんと菩提寺は関係ないことになって居るようです。
 「口寄せ」は死者の霊を呼び出して、親族など依頼した人との間でその思いなどを仲立ちすることです。
 東北各地から集まったイタコさんが語るので、あれは多分「ずうずう弁」なのだと思います。
 語りはよくわかりませんでした・・・ではなく・・・ほとんど判りませんでした。
 多分。私の銭したオヤジを呼んで貰っても「青森弁」を喋ったでしょうね。
 私が訪れた昭和38年だとかだと、呼び出されている魂は戦死した人が多かったようです。
 依頼した人達は涙を流し聞き入っていました。
 単純には信じられないことですが、あの、恐山という異様な光景の中でなら「これもありかな」と思えました。
 なまじ、法力だなんだと言わないで、まったく民間の普通のおばさん・おばあさんの口寄せだけに素直に聞けるのかも知れません。
 盲目の女性が生きる道は「瞽女・ゴゼ」の道と、こうした「いたこ」のような霊能者になるしか無かったのでしょう。
 東北という過酷な風土が感じられる風景でした。

 日本各地にこうした「あの世」と「この世」を結ぶ通路のような場所がありますね。
 あの寒い下北に比べると随分明るく温暖なあの世の入り口が熊野ですね。
 「補陀落渡海」などは見掛けは明るい極楽浄土への船出ですからね。
 気候風土が明るいからか同じように女性の仕事でも「熊野比丘尼」は暗くないですね。
 江戸の話になってくると「熊野比丘尼」さんもあまりよろしくない人になっていたり・・・
 でも、時代は変わっても、この辺に「彼岸」と「此岸」をつなぐ道があるはずですよね。
 「パワースポット」なんて訳の分からないもの探すよりこの方が良いのかも・・・

 ???
 昨日からは「ポケモン探し」に走っちゃってるかなあ?
 熊野にもちゃんとポケモンは居るようですから・・・

     
     
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最終更新日  2016/07/23 08:45:51 AM
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