蒼の騎士 紫紺の姫君 第30話:ガブリエルの縁談
「あ~、楽しかった。映画なんて生まれて初めて観たけど、あんなに楽しいものだとは思わなかったよ!」映画館を出たガブリエルは、はしゃぎながら隣で話すアンダルスを見つめながら歩いていた。彼と出逢ってからまだ半年にも経たないが、これ程までにガブリエルの心を掴んで離さない者は、死別した妻以外誰一人として居なかった。 舞姫として宮廷に上がる庶民のアンダルスは、貴族である自分にはない、身分に囚われることなく物事を捉える彼の考えや、さばさばとした物言いにガブリエルは好感を持っていた。本音と建前、笑顔の仮面の下に憎悪を隠しながら社交界でそれらを使い分けている貴族達とは全然違う。自由奔放でありながらも、時折冷静に物事を見つめるアンダルスは、舞姫としても人間としても尊敬できる。「どうしたの、突然黙っちゃってさ?」アンダルスが真紅の双眸で見つめながら、ガブリエルを見た。「いや、なんでもない。それよりもアンダルス、奥様と何を話してたんだ?」「ああ。色々とね。ただ奥様の旦那さんが訳解らないこと突然言い出してさぁ。」「訳のわからないこと?」「なんでも“お前は死んだ筈なのにどうしてここにいる?”とか言いやがってさぁ。確か・・誰かと僕を間違っていたようだけど。ああ、シャルロッテっていう人と・・」「シャルロッテ? 確かに伯爵はそう言ったのか?」「うん。どうしたの?」(シャルロッテ・・確か奥様の義妹に当たる方。)何度かビュリュリー伯爵家の醜聞を社交界で聞いた事があるが、詳しい内容は思い出せなかった。だが、その醜聞の主人公の名は、確かシャルロッテ―ブリュリー伯爵の実妹だった。「いや、何でもない。」「変なの、あんた質問ばっかりしてさ。あ~、それにしても髪が鬱陶しくて堪らないや! リボンでも紐でも、何か結ぶもん持って来るんだったなぁ~」輝く金髪を鬱陶しそうに掻き上げながら、アンダルスは溜息を吐いた。「これを使え。」ガブリエルがそう言ってアンダルスに差し出したのは、純銀に真珠をあしらった髪留めだった。「こんな高価なもん、貰っていい訳?」「ああ。必要ないからな。」「ありがとう、助かったよ。」アンダルスは腰下までの髪を簡単に纏めると、ガブリエルから貰った髪留めを挿した。「これで少しはマシになったかな。」「ああ。じゃぁ、また。」「送ってくれてありがとう、また宮廷でね、ガブリエル。」アンダルスは手を振ると、ガブリエルの元から去って行った。 ガブリエルは恋人の背中を見送ると、自宅へと戻った。「ガブリエル、今日は遅かったわね?」玄関ホールに入ると、母親が螺旋階段から降りて来てガブリエルを迎えた。「今日はビュリュリー伯爵のミニコンサートに行って参りました、母上。こんな遅くまでわざわざ起きてわたしを待っていなくても・・」「いいえ。ガブリエル、あなたにはとっても良いお話があるのよ。」またか―母親の口から“良いお話”という言葉が出れば、それは縁談話だとガブリエルはここ数年察していた。「母上、申し訳ありませんが・・」「あなた、一生ひとり身で居るつもりなの? そろそろ身を固めて頂戴な。」母親の小言を聞き流しながら、ガブリエルは自室へと上がった。背中の後ろでひとくくりにしていた黒髪を下ろし、彼は溜息を吐きながらシーツの上へと身を投げ出した。 妻と死別して以来、結婚は一度きりでいいと決めていた。もうあんな哀しい思いをするのは嫌だと、彼は決意したからだ。だが母はしきりにガブリエルに対して再婚を勧めて来る。息子を想う母心故なのかもしれないが、ガブリエルにとっては迷惑なお節介以外の何物にもならなかった。母にアンダルスの事を話す訳にはいかないし、話せば反対されると解っている。(何とかして、母上の暴走を止めないと・・)ガブリエルはゆっくりと目を閉じ、眠りに就いた。にほんブログ村