青年は漆黒のフロックコートに長身を包み、漆黒のシルクハットを目深にかぶっていた。
「今は千尋と、呼んだ方が良いか? わたしはお前の本名の方が好きだが・・」
「どちらでも構いません。それよりもどうしてここが解ったのです?」
青年を見た千尋の顔が、少し恐怖に引き攣っていた。
「忘れたか、千尋。お前とわたしは切っても切れぬ縁だ。忘れたのか、あの日の事を。」
男はそう言ってじっと深い森のような翠の瞳で千尋を覗きこもうとしたので、千尋は慌てて彼から目を逸らした。
「お前はあの二人をどうするつもりなんだ?」
「何が言いたいのです?」
「二重契約は厳禁だというのに、お前は二人の魂を手に入れるつもりなのか?」
「わたくしは彼らの願いを叶えているだけです。ただ、あの二人には何かを感じるのです。」
「何かを?」
男がそう言って千尋を見ると、夜風で千尋の長い髪が靡いていた。
「ええ。あの二人には深い絆以外の何かがある。それよりもあなたは、どうしてここにいるのです?」
千尋は男を見ながら言うと、彼は口端を歪めて笑った。
「お前を探しに来たと言っただろう? さぁ、帰ろう。」
男は優雅に手を千尋に差し伸べた。
だが、その手を千尋は握ろうとはしなかった。
「わたくしはこれで失礼致します。」
千尋が男に背を向けると、彼はそっと千尋の髪を優しく梳いた。
「それだけでは物足りないな。」
男はそう言ってコートのポケットからレースがついたリボンを取り出すと、それを千尋の髪に結んだ。
「良く似合う。そういえば昔、お前もそんなリボンを付けていたな。」
「もう過ぎたことの話は止しましょう。もう二度と戻らぬ時間ですから。」
冷淡な口調で千尋が男に言うと、彼は少し溜息を吐いた。
「お前はいつもつれないな。」
「ではわたくしはこれで。」
千尋はそう言って男に背を向けると、静かに歩き出した。
「・・全く、昔も今も可愛げがないな、ルクレツィア。」
男は次第に小さくなって消えてゆく千尋の姿を見つめながら、そう呟くと煙のように掻き消えた。
ぽつり、ぽつりと、空から滴が落ちて来るのを感じて、千尋はそっと目を閉じて立ち止まった。
(雨・・)
そういえばあの日も、雨が降っていたなと千尋は少し思い出していた。
遠い昔の出来事が、まるで昨日の事のように時折思い出してしまう。
あの頃には優しい両親や使用人に囲まれ、何不自由ない幸せな生活を送っていた。
美しい花や宝石、ドレスに囲まれた日々は突如、終わりを告げるとも知らずに、そんな生活を毎日満喫していた。
だがその幸せはもうない。
千尋はゆっくりと目を開け、そっと首に提げているペンダントを取り出した。
これだけが、過去の幸せな思い出に浸れる唯一の遺品(かたみ)だ。
(わたくしの傍には神はいない・・代わりに居るのは・・)
千尋がペンダントを握り締めた時、近くで雨音に混じって数人の人間の怒号と剣戟の音が聞こえてきた。
千尋がゆっくりと音のする方へと歩き出すと、そこには数人の男達が刃を交えており、その中の一人は路傍に蹲り息絶えていた。
だが残りの者達は、互いの命を賭けて刀を握り締め、敵と刃を交えていた。
千尋はそんな彼らを、遠巻きに見ていた。
死ぬと分かっていても、決して敵には背中を向けたりはしない男達に、彼は誰かの面影を重ねていた。
千尋がそっとペンダントを見つめていると、肉が断たれる音と断末魔の叫びが聞こえたかと思うと、血飛沫が千尋の頬に飛んだ。
「あ・・」
間の抜けた声が聞こえて千尋が顔を上げると、まだ元服を迎えていない前髪姿の少年が自分を見つめていることに気づいた。
千尋は彼に口端を歪めて笑うと、その場から静かに立ち去った。
雨足はやがて強くなり、遠くで雷鳴が轟き始めていた。
千尋は雨に打たれながら、くすくすと笑い始めた。
哀しい時や嬉しい時以外でも、笑えるのだなと彼は思った。
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