「利尋(としひろ)ちゃん、神戸に行くんですって?」
「ええ。」
「ちゃんと生活できるの?」
「学校には学生寮がありますし、食事は寮母さんが三食作ってくださいますので、大丈夫です。」
「そう?」
「ねぇ利尋ちゃん、やめておきなさいよ。今物騒だし。」
「そうよ。」
「少し考えておきます・・すいません、僕お母様の様子を見て来ます。」
多摩にある父の実家で、親族の女性達から洋裁学校へ行く事を反対された利尋は、そう言葉を濁すと大広間から出て千尋が居る台所へと向かった。
「お母様、何か手伝うことはありますか?」
「今は忙しくないので大丈夫ですよ。利尋、もしかして洋裁学校へ行く事について、何かあの人達に言われたの?」
「ええ、まぁ・・」
「彼女達は何も知らずに文句を言いたいだけなんだから、放っておきなさい。」
「わかりました。」
「そうだ、もうすぐお昼だからご飯を作るのを手伝って頂戴。」
割烹着姿の利尋が台所で千尋を手伝っていると、そこへ育実(いくみ)の三女・理恵子がやって来た。
「千尋さん、お茶まだ?」
「すいません、只今・・」
「理恵子さん、お茶くらい自分で淹れたらどうですか?手が空いているのなら、手伝ってくださいよ!」
「何よ、偉そうに!」
理恵子はジロリと利尋を睨み付けると、湯呑みに茶を淹れるとそれを盆に載せて台所から出て行った。
「何ですか、あの人・・出戻りの癖に偉そうにして・・」
「お止めなさい、利尋。理恵子さんの事を悪く言ってはいけませんよ。」
「ですがお母様・・」
「千尋さん、ごめんなさいね。」
育実がそう言って申し訳なさそうに千尋に頭を下げると、台所へと入ってきた。
「育実さん、理恵子さんはどうして離縁なさったのですか?あんなに性格がきついんじゃ、再婚相手がなかなか見つからないんじゃ・・」
「まぁ、あの子は言いたい事ははっきりと言う子だからねぇ。嫁ぎ先でも、舅姑との関係が上手くいかなくって・・結局、子どもが出来なかったから離縁されちまったんだけどねぇ。まだ旦那と揉めてるらしいけど、どうなるんだか。」
理恵子の嫁ぎ先は、江戸時代から続く老舗の高級料亭だった。
理恵子の夫やその親族は、店の跡継ぎとなる男児の誕生を望んでいたが、結婚して4年経っても理恵子が妊娠しなかったので、彼女は夫から一方的に離縁された。
「理恵子さんに子どもが出来ないのは、あんなに捻くれて意地の悪い性格だからじゃないですか?それに、自分の事を何ひとつしようともしないし・・さっきだって、お母様をまるで下女のようにこき使って!」
「あたしの育て方が悪かったのかねぇ。千尋さん、本当に済まないねぇ。」
育実はそう言うと涙ぐんだ。
「ちょっと千尋さん、お昼まだなの!?」
「今作っているところです。」
「まったく、グズグズしないでよね!」
「理恵子さん、あなたはお客様じゃないでしょう?年老いた母親を寒い台所に立たせて恥ずかしくないんですか?」
「口答えするんじゃないわよ!子どもなら大人の言う事を聞きなさい!」
「お言葉ですが理恵子さん、自分のお布団も片付けない、自分の食器を洗いもしない方に説教などされたくはありません。嫌ならご主人の元にお帰り下さい。」
理恵子は利尋の言葉を聞いて怒りで顔を赤く染めると、台所から出て行った。
利尋が自分達家族の分の膳を大広間へと運んでいると、玄関先から理恵子と男の怒鳴り声が聞こえた。
「何なのよあんた、あたしに今更何の用!?」
「理恵子、いい加減意地を張らずにうちに帰って来い!」
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