「菊千代(きくちよ)はどこだ、菊千代を出せ!」
座敷に歳三が入ると、件の客は畳の上で寝転がりながら袖にされた芸者の名を叫んでは泣いていた。
「お客様、お水をお持ちいたしました。」
「水など要らん、菊千代を呼んで来い!」
「菊千代姐さんは今夜、他のお座敷に出ていてここには来ませんよ。」
歳三はそう言って客に水を差し出すと、客は彼の手を乱暴に振り払った。
「お客様、酔い潰れる前に帰った方がよろしいのでは?」
「うるさい、お前に俺の何がわかる!俺は菊千代が来るまで帰らんからな!」
男はそう叫んで歳三に徳利を投げつけた。
歳三は鬼のような形相を浮かべると男の胸倉を掴み、彼の身体を畳の上に転がした。
「てめえ、客に向かって何しやがる!」
「おい親爺(おやじ)、店に客扱いされたいって思うんだったら、店に迷惑を掛けるんじゃねぇ!うちは客商売だが、あんたみてぇな客はこっちから願い下げだ!」
「何だと、この野郎!」
怒気を孕んだ声で歳三にそう怒鳴りつけた男は、歳三に向かって拳を振り上げた。
だが歳三は男の懐に飛び込むと、再び男を畳の上に転がした。
「おい、大丈夫か?」
「板長、こいつを縛っておいてください。俺は警察を呼んで来ます。」
「おう、わかった。」
数分後、男は警察に連行された。
「あんた、やるねぇ。あんな大男を簡単にのしちまうなんて、タダものじゃないね?」
「まぁ、色々ありましてね。」
「そうかい。俺も昔から喧嘩っ早くてねぇ、色々と悪い事ばかりしてきた。まぁ、やくざな道に進まずに済んだのは、ここの板長のお蔭かな。」
「板長に恩があるんですね。」
「ああ。俺にとっちゃぁ板長は、実の親父みてぇな人だ。俺ぁいつか、一流の料理人になるんだ。」
「その夢に向かって、頑張ってください。」
「おう、頑張るぜ。」
歳三が銀二とともに割れた徳利や猪口、皿の破片を拾い集めて座敷から出た後、渡り廊下に一人の女が歳三達に向かって歩いてくるところだった。
その女は、吉原で千尋と陽炎楼の前に居た、ぬいだった。
「ぬい・・」
「あなたは・・」
「隼人、知り合いか?」
「ええ、まぁ・・ぬい、お前ぇこんな所に何をしに来たんだ?」
「わたくしと食事をする為です。」
ぬいの背後から千尋が出て来て、彼はそう言うと歳三を見た。
「そうか。」
「それではぬい様、参りましょうか?」
「ええ。隼人様、失礼致します。」
ぬいはそう言って歳三に頭を下げると、千尋とともに奥の座敷へと入っていった。
「それで、お話とはなんですか、ぬい様?」
「千尋様、わたくし、妻子ある男の子を身籠ってしまいました。」
「まぁ・・お相手の方は、どのような方なのです?」
「その方は、大学の先生で、よく陽炎楼に遊びに来ておりました。わたくしは彼の目当ては春海花魁だと思っておりましたが、本当はわたくし目当てで通ってくださっていたようでして・・」
ぬいは言葉を切ると、溜息を吐いて茶を一口飲んだ。
「ぬい様、わたくしでよければ話してくださいませ。ぬい様の身に何があったのかを。」
「わかりました・・」
ぬいは深呼吸すると、二ヶ月前陽炎楼で起きた事を千尋に話した。
にほんブログ村