「千尋さん、あんたにお客様だよ。」
「お客様ですか?」
「こんな時間に来るなんて、非常識な方ですね。」
「何でも、火急の用だってさ。」
「お客様はどちらに?」
「客間に居るよ。」
「わかりました。少し着替えて参りますので、お客様には少し待っていただけるように言ってくださいませんか?」
「わかったよ。」
雅代はそう言うと離れを出て、母屋の客間へと向かった。
「すいませんねぇ、千尋さんは今着替えているところで、もう少し時間が掛かるかもしれません。」
「そうですか・・」
客間の座布団に正座している洋装姿の男は、そう言うと冷えた茶を飲んだ。
「お客様、新しいお茶を淹れて参りましょうか?」
「いえ、いいです。」
「そうですか・・」
雅代はちらりと男を見た後、客間から出て行った。
「女将さん、あいつ・・」
「しず、お客様に“あいつ”呼ばわりするんじゃないよ。」
「すいません・・」
雅代はそう言って女中のしずを睨むと、彼女は慌てて雅代に頭を下げた。
「女将さん、あたしあのお客様の事を知っています。」
「何だって?しず、あんたあのお客様が誰だか知ってんのかい?」
「ええ。あのお客様は石田様っていって、東京帝国大学で教鞭を取られている方ですよ。」
「へぇ、大学の先生が千尋さんに一体何の用なんだろうねぇ?」
「さぁ、知りません。」
しずと雅代がそんな事を話していると、着替えを済ませた千尋が母屋に入ってきた。
「女将さん、お客様はあちらにおられますか?」
「ああ。」
「失礼致します。」
“いぶき”の客間に入った千尋は、石田が座布団に座っているのを見て怒りに震えた。
「石田様、一体わたくしに何のご用でこちらに来たのですか?」
「内藤君、ぬいの娘を、君が育てていると聞いてね・・こんなことをお願いするのは厚かましいかもしれないが、一度娘に会わせて貰えないだろうか?」
「こんな時間に訪ねて来て、何をおっしゃるのかと思えば・・」
千尋は石田を睨み付けると、彼の手を掴んで彼を無理矢理立たせた。
「もうこちらには来ないでくださいませ!」
「内藤君、頼むよ・・」
「あなたはぬい様をお捨てになったことをお忘れですか?さぁ石田様、奥様とお子様の元にお帰り下さいませ。」
「内藤君・・」
「しずさん、お客様のお帰りです。玄関先まで送ってさしあげてください。」
「はい。」
石田に背を向けた千尋は、そのまま母屋を後にした。
「千尋さん、あいつが眞琴ちゃんの、実の父親かい?」
「ええ。あの男はぬい様を手籠めにし、彼女の誇りを傷付けた最低な方です。」
「まぁ・・それで、あいつは何て?」
「眞琴に一目会わせて貰えないかと・・どんな神経をしているのやら。」
千尋はそう言うと、溜息を吐いた。
「雅代さん、ご迷惑をお掛けしてしまって申し訳ありません。」
「謝らなくてもいいよ。もう遅いから、早くお休みよ。」
「お休みなさい。」
千尋が離れに入ると、歳三が眞琴を抱いて布団の中で眠っていた。
眞琴の小さな足が布団の端からはみ出ているのを見た千尋は、そっと布団を眞琴の足の上に掛けた。
彼女の愛らしい寝顔を見つめながら、千尋はそっと目を閉じて眠った。
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