「本日の稽古はここまで。」
「せんせい、ありがとうございました。」
眞琴がそう言って光顕に頭を下げると、彼は眞琴の小さな頭を撫でた。
「さてと、稽古が終わったところだし、皆で饅頭でも頂くとするか。」
「では、わたくしがお茶を淹れて参ります。」
先程千尋と眞琴を稽古場まで案内した女中が、そう言って稽古場から出て行った。
「あの方は・・」
「ああ、あの人は鈴香さんといって、先代の頃からうちに仕えている人だよ。」
「そうですか。先生、眞琴のことをどうぞ宜しくお願い致します。」
「こちらこそ、宜しくね。それにしても、眞琴ちゃんは小さいのに礼儀正しい子だ。きっと君の教育が行き届いているからだろうね。」
「まぁ・・」
千尋が光顕の言葉を聞いて照れ臭そうな笑みを口元に浮かべた時、稽古場の戸が開いて一人の女が入ってきた。
年の頃は三十代前半といったところだろうか、艶やかな黒髪はお団子にして鼈甲の簪を挿して纏めており、薄紫色の着物は彼女の美貌を際立たせていた。
「先生、お久しぶりでございます。」
「おや文乃(ふみの)さん、随分早く来たんだね。」
「ええ。」
女はそう言ってしなを作ると、光顕の前に座った。
彼女のしぐさを密かに観察しながら、千尋は彼女が花柳界の人間であることに気づいた。
「そちらの方は、どなたです?」
「ああ、本日からわたしが稽古をつけることになった内藤眞琴さんのお母様だ。
千尋さん、こちらの方は神楽坂の芸者さんで、文乃さんだ。」
「初めまして、内藤千尋と申します。」
「文乃と申します。」
文乃と名乗った女は、そう言うと千尋をじっと見た。
「わたくしの顔に何かついていますか?」
「いいえ。ただ、町人の奥様にしちゃぁ立ち居振る舞いが洗練されているなぁと思いましてねぇ。もしや、旗本か何かの奥様だったとか・・」
「それは、詳しくお教えできません。」
「そうですか。すいませんねぇ、野暮な事を聞いちまって。先生、稽古は昼からお願いしますね。」
「ああ・・」
「それじゃぁ、また来ます。」
文乃はそう言って光顕に頭を下げると、稽古場から出て行った。
「先生は、あの方をご存知なのですか?」
「ああ、文乃とは長い付き合いでね。話せば長くなるかな。」
「そうですか・・」
「先生、お茶がはいりました。」
文乃と入れ違いに、稽古場に茶を載せた盆を持った鈴香が入ってきた。
「では先生、失礼致します。」
「気を付けて帰るんだよ。眞琴ちゃん、またね。」
「せんせい、さようなら!」
千尋と眞琴が光顕の家を出て雑踏の中を歩いていると、突然一台の馬車が二人の前に停まった。
「内藤千尋様ですね?」
「そうですが、あなた様はどなたです?」
馬車から出て来た男を見た千尋が彼にそう尋ねると、男は石田家の執事だと名乗った。
「旦那様が、あなたにお話があると・・申し訳ありませんが、旦那様の為にお時間を割いていただけないでしょうか?」
「・・わかりました。」
千尋はそう言うと、自分を不安そうな顔で見ている眞琴の手をひいて石田家の執事とともに馬車の中に乗り込んだ。
「どちらに行かれるのですか?」
「石田家です。」
執事はそう言うと、窓から顔を出して御者に馬車を出してくれと合図を出した。
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