「おや、大杉弁護士、何故こちらに?」
「少し野暮用で来たものでね。それよりも、奥様はお元気ですか?」
「ええ、元気ですよ。」
ルドルフは環の病の事を大杉には話さずに、彼と短い会話を交わすと、そのまま病院から出て行った。
「お帰りなさい、お父様。」
「菊、お母様が明日退院することになったよ。」
「本当?」
「ああ。明日お父様と一緒にお母様を迎えに行って、そのまま駅へ行こう。」
「何処かへ行くの?」
「三人で会津へ旅行に行くんだよ。」
「やったぁ~!」
そう叫んではしゃぐ菊の姿を、ルドルフは嬉しそうに見ていた。
翌朝、ルドルフと菊は退院する環を迎えに馬車で病院へと向かった。
「お母様、お帰りなさい!」
「ただいま、菊。長い間家を留守にしてしまってごめんなさいね。」
環はそう言うと、菊を抱き締めた。
「お母様、これから会津に行くのでしょう?」
「ええ、そうよ。さぁ菊、汽車に乗り遅れないように急ぎましょう。」
環は夫と娘と三人で、汽車で会津へと向かった。
夏の会津は、爽やかな風が吹いていた。
「ここはね、お母様が生まれた所なのよ。」
「そうなの?」
「ええ、そうよ。でも、子供の時にお母様は会津を離れたから、ここでの記憶がないの。」
環はそう言うと、日傘を差しながら会津の町を歩いた。
こうして歩いていると、記憶の片隅にしまっていた幼い頃の記憶が徐々に蘇って来た。
まだ会津が戦火に包まれる前、兄の涼介と優駿と共にこの道を歩いていたことや、冬に雪遊びをしたことなどが、今頃になって走馬灯のように脳裏に浮かんでくる。
「タマキ、どうした?」
「こうして道を歩いていると、昔の事を思い出しました。不思議ですね、今まで故郷の記憶など思い出せなかったのに、会津に来てから急に思い出しました。」
「きっと、故郷の空気に触れて、お前の中で眠っていた記憶が目を覚ましたんだろう。」
「そうですね・・」
「お父様、お母様、大きな湖があるわ!」
環はルドルフと並んで歩きながらそんな話をしていると、菊が突然そう叫んで猪苗代湖の方を指差した。
「昔、バイエルンのシュタルンベルク湖でボート遊びをした時、いつか猪苗代湖に一緒に行きたいとわたしが言った事を憶えていますか?」
「あぁ、憶えているさ。こうして、お前と共にお前の故郷の湖に行けて嬉しいよ。」
「わたしもです、ルドルフ様。」
環はそう言うと、ルドルフを見た。
「ルドルフ様、ひとつお願いしたいことがあるのです。もしわたしが死んだら、わたしの遺灰を兄上と優駿さんの遺灰と共に湖へ撒いてください。」
「解った、そうしよう。漸く故郷に戻ったんだ、そうしないとな。」
「有難うございます。」
会津での楽しい日々はあっという間に過ぎていった。
一時は安定していた環の容態が悪化したのは、会津から横浜に戻った頃だった。
喀血してから、環は起き上がることもままならず、寝たきりの生活を送っていた。
「お母様、死んじゃうの?」
「菊、ごめんね。お母様は貴方の花嫁姿を見られないかもしれないわ。」
「嫌よ、お母様、わたしを置いて逝かないで!」
「菊、お父様のいう事を良く聞くのですよ。」
「解ったわ・・」
環は、菊の頭を優しく撫でた。
「ねぇお父様、お母様は・・」
「菊、命あるものはいつかその命を終える時が来る。でもそれは、ちっとも悲しい事じゃないんだよ。」
「どうして?」
「お母様の肉体は死んでも、その魂はわたし達と共にあるからだよ。」
ルドルフの言葉の意味が解らず、菊は首を傾げていた。
にほんブログ村