「梨沙子さん、お久しぶりね。貴方はいつからここへ通っているの?」
「七つの時からよ。菊さんは?」
「箏は六つの時から習っているけれど、わたしはピアノの方が好きなの。亡くなったお母様は箏や三味線の名手だったから、同じ親子でも好みが違うものだなってお父様からよく言われるわ。」
「そう。藤枝は音楽教育に力を入れているから、貴方にとっては良い環境みたいね。」
梨沙子はそう言うと、菊を羨ましそうな目で見た。
「梨沙子さん、貴方はどちらの女学校に通われているの?」
「瑞泉女学校よ。瑞泉では毎日お茶やお花の授業があるの。」
「そう。藤枝でもあるけれど、毎日お花やお茶の授業はないわ。毎日あるのは声楽とダンス、テーブルマナーの授業かしら。」
「テーブルマナーは、いずれ留学される貴方には必要不可欠なものとなるわ。菊さんは夢に向かって生きていらっしゃって羨ましいわ。」
「そんな事ないわ。」
梨沙子と菊がそんな話をしていると、稽古場に先生が入って来た。
「先生、今日も有難うございました。」
「菊さん、今日も良い音色を出していましたね。ウィーンへ留学されても、お稽古を忘れずに励んでくださいね。」
「はい、先生。ではこれで失礼いたします。」
「菊さん、最近出来た甘味処へ行かない事?あそこは美味しいアイスクリンが評判なのよ?」
「ええ、行くわ!」
梨沙子と菊が港近くにある甘味処へと向かうと、店内は女性客でごった返していた。
「凄い人ね。」
「そりゃぁ、女性の口コミはあっという間に広まりますからね。アイスクリンというものを食べてみたいと、わざわざ田舎から出て来るお方も居るのよ。」
「まぁ、そうなの。」
店に入って数分後、菊と梨沙子は店員に漸く窓際の席に案内された。
「アイスクリンを二つお願いします。」
「かしこまりました。」
店員が奥へと消えていった後、菊は持っていた鞄の中から楽譜を取り出した。
「それは?」
「今度の発表会で歌う曲なの。声楽の先生はとても厳しくて、練習の時になるとわたしばかり注意されて嫌になってしまうわ。」
「その先生は、貴方の才能を認めているからこそ貴方に厳しくしているのではなくて?才能がない人なら、最初から相手にしないわ。」
「そう。梨沙子さん、貴方とお話していると、何だか元気が湧いてくるわ。」
「こんなわたしでも、貴方のお役に立てると思ったら嬉しいわ。わたしのお父様は精神科医を為さっておられるから、どうしてもお父様の真似をしたくなってしまうのよ。」
「そう。ねぇ梨沙子さん、今度うちにいらっしゃらない?」
「あら、いいのかしら?」
「いいに決まっているじゃないの。」
甘味処でアイスクリンを堪能した菊は、梨沙子と甘味処の前で別れると、家路を急いだ。
(すっかり遅くなってしまったわ。)
空が曇り始めるのを見た菊がそんな事を思いながら早足で歩いていると、ルドルフが見知らぬ女性と並んで歩いている姿を見た。
一瞬ルドルフに声を掛けようとした菊だったが、女性が急に彼に抱きついたのを見て声を掛けるのを止めた。
(お父様、あの方はどなたなの?)
「どうしたんだい、キク?余り食べていないじゃないか?」
「ええ、今度の発表会の事で色々と心配な事があって・・」
「そうか。余り根詰めては駄目だよ。」
夕食の席で、菊はルドルフに女性の事を尋ねようとしたが、出来なかった。
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