芹沢達が長州の者達に暗殺されたことにより、それまで芹沢率いる水戸派と、近藤率いる試衛館派という二つの派閥がなくなり、壬生浪士組から新選組へと名を変えた隊内の淀んだ空気は一気に浄化したようにみえた。
しかし―
「なぁ、聞いたか?尾上達、また脱走を企てたらしいぞ?」
「またかよ・・これで何度目だよ、あいつら。」
稽古の後、千尋が他の隊士達と井戸で身体を洗っていると、脱走を企てて失敗した隊士が蔵に監禁されていることを千尋の近くに居た隊士達が話していた。
「まぁ、厳しい稽古についていけなくて、里に帰りたかったんだろうさ。」
「そんなに脱走したけりゃぁ、はじめから入隊するなって話だよな。」
隊士達はそう言うと、大きな声で笑った。
そんな彼らの会話を聞きながら、千尋は井戸を後にした。
「さっき、あいつらの話を聞いただろう?」
「ええ。原田先生、尾上さんの処分はどうなるのでしょうか?」
「まぁ、脱走を企てたんだから切腹は避けられねぇな。」
原田左之助はそう言うと、千尋を見た。
「何とかして彼を助ける方法はないでしょうか?」
「あるとしても、鬼の副長がそれを聞きいれると思うか?」
原田の問いに、千尋は首を横に振った。
歳三が定めた局中法度には、“局ヲ脱スルヲ不許”という文言が掲げられており、いかなる事情を抱えた者であっても、新選組からの脱走を企てた者は切腹に処するという厳しい掟であった。
「まぁ、こればかりは俺達は何もできねぇよ。」
「そうですね。」
「荻野君、土方さんが呼んでいますよ。」
「はい、わかりました。」
総司に呼ばれ、千尋が副長室に入ると、歳三は相変わらず渋面を浮かべながら文机の前に座って仕事をしていた。
「副長、荻野です。」
「荻野か、そこに座れ。」
「はい。」
「尾上に後で昼餉を持って行ってやれ。」
「わかりました。」
「あいつは少しおかしくなっているから、何かあったら外の監視役を呼ぶんだぞ、いいな?」
「はい・・」
尾上の昼餉を蔵へと運んだ千尋は、蔵の中から不気味な声が聞こえてくることに気づいた。
「尾上さん、そこにいらっしゃいますか?」
千尋が蔵に入ると、尾上は壁に向かってぶつぶつと何かを話していた。
「昼餉、ここに置いておきますね。」
千尋がそう言って尾上の前に昼餉の膳を置くと、突然彼は千尋の手を掴み、千尋を床に押し倒した。
「何をなさいます!」
目を血走らせながら、尾上は口端から涎を垂らして千尋を見ると、彼の着物を脱がそうとした。
「誰か、来てください!」
千尋の声に気づいた監視役の隊士が、慌てて蔵の中に入り、尾上を押さえつけた。
「大丈夫か?」
「はい・・」
「もうここには来ないほうがいい。」
「わかりました。」
蔵から出た千尋は、恐怖で思わずその場にへたり込んでしまった。
人があんなに狂った姿を見たのは、生まれて初めてだった。
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