出頭の元オウム女性信者逮捕
オウム真理教の元幹部、平田容疑者をかくまった、とされる女性信者、きれいな人でしたね。どうして、こんな人が、と思わざるをえません。17年間、どんな気持ちで過ごしてきたんでしょう?私はまだ田舎にいる時にひとり、上京してからもうひとり、オウムではありませんが、宗教に深くかかわって疎遠になってしまった人がいます。教会に通っていると聞き、ふ~ん、と思っていたら、しばらくしてお父様と呼び始め、お祈りの間にお布施の袋が回ってくる、という話におかしい、と気づき周囲に聞きまわって、どうも一般的な教会ではないことがわかりました。その人には悩みがありましたが、話をすれば解決できる、何も宗教にかかわらなくても、と私には思えることでした。だけど、私はまだ若くてどうしていいかわからず、宗教にのめりこんでいくその人を止めることができませんでした。明るくて、ユーモアのセンスのある、ごく普通の人でした。何年かして、その人が合同で結婚式を挙げたらしい、と聞きとてもショックを受けました。そして、上京後、また身近にいた人が、同じ宗教にかかわり始めました。生真面目で一途なところがあるその人に、おかしい、と批判しても無駄だと思い、かと言って、あなたなんかとはもう付き合わない、とも言えず誘われるままに、その宗教の会合(今思えば勧誘です)に行ったり、仲間に何度か会いました。妙なビデオを見せられ、生年月日で前世を占われ、壺を買うように勧められました。50万円もする壺です。なぜ、こんな高額なものを買わなければいけないのか尋ねると罪(ザイ)は財(ザイ)をもって償わなければいけない、と言うのです。高くて買えない、と言うと最終的に壺の値段は5万円まで下がりました。仲間はみんないい人たちで、何をするにも、意味や意義を考えていました。まだ若く、この先の現実の生活を考えず、純粋に論じている、似たような年齢が集まって過ごすのは、たぶん楽しかっただろうと思います。その人は、強引に私をその宗教に勧誘することはしなかったので、壺を買わされることもありませんでしたが、やはり、田舎にいる時と同じく、止めることはできませんでした。その後、自宅にも戻らず、仲間と共同生活するようになり、家族や職場の人が連れ戻そうとしましたが、やっぱりダメでした。今、どうしているのかわかりません。悩みの無い人なんていませんよね。どんな小さな悩みでもその人にとっては大きな悩みですよね。その悩みが宗教によって癒され、生きることの支えになるのなら否定はしません。だけど、家族や周囲の人を悲しませることになるとしたら、それは宗教とは言えないと思います。世の中は自分の思い通りにならないことばかりです。だからと言って、世間とのかかわりを絶ち、集団で自分たちの価値観だけで生きているより、一般社会の中でそれぞれが、一生懸命生きていることのほうがずっと意義があると思います。平田容疑者は震災がきっかけで自首した、もうオウムを信仰してはいない、と言う一方で、逮捕後に、写真を公開されたことに不満を口にしているそうで、自首=逃亡中のことは詮索されない、とでも思っているのでしょうか?本当にもう信仰していないのか、やはり信じられませんね。