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2024/03/09(土)00:52

ローマ書7章より

ローマ書7章より まず、1分de聖書を読みましょう。(篠原利治) おはようございます。今日はローマ人への手紙7章「罪の原理」です。 そういうわけで、善を行いたいと願っている、その私に悪が存在するという原理を、私は見出します。:ローマ人への手紙7章24節 ◆要約 私たちが肉にあったとき、律法によって目覚めた罪の欲情が働いて、死のために実を結びました。しかし今は、私たちは律法に対して死んで、よみがえった方のものとなり、神のために実を結ぶようになるのです。 では、律法は罪なのでしょうか。決してそんなことはありません。むしろ、律法によらなければ、私は罪を知ることはなかったでしょう。戒めが来たとき、罪は生き、私は死にました。それで、いのちに導くはずの戒めが、死に導くものであると分かりました。律法は聖なる、良いものです。 ではこの良いものが、私に死をもたらしたのでしょうか。決してそんなことはありません。むしろ、罪がそれをもたらしたのです。私は、自分がしたいと思う善を行わないで、したくない悪を行なっています。それは、律法は良いものと認めていることになります。善を行いたいと願っている、その私に悪が存在するという原理を、私は見出します。私は、内なる人としては神の律法を喜んでいますが、私のからだの中には異なった律法があって、罪の律法のとりこにしていることがわかるのです。私は本当にみじめな人間です。こうして私は、心では神の律法に仕え、肉では罪の律法に仕えているのです。(岡崎道成) 解説として ローマ書7章は、「パウロの霊的な苦悩」のこと。 律法は、それ自体としては聖いものであり、正しいものです。私たちの罪を示す、鏡のような大切な働きをします。また律法は、罪を触発する側面を持ち、その結果、深刻な心の葛藤を引き起こします。 わたしはかつては、律法なしに生きていたが、戒めが来るに及んで、罪は生き返り、わたしは死んだ。そして、いのちに導くべき戒めそのものが、かえってわたしを死に導いて行くことがわかった。(ローマ書7:9〜10) パウロは正直に、律法における心の葛藤を告白しています。そしてこの7章の後半には、「私は」と自らの内なるものを、ズバリ恐れず神の前に告白しています。 この心の葛藤は、霊的な葛藤です。パウロのように、律法によって覚醒された魂の状況であっても、主イエスにより救われた状態であっても起こり得る、律法における心の葛藤です。ここに完全に、神に明け渡し切るという世界があります。素晴らしい信仰の世界です。 すなわち、わたしは、内なる人としては神の律法を喜んでいるが、わたしの肢体には別の律法があって、わたしの心の法則に対して戦いをいどみ、そして、肢体に存在する罪の法則の中に、わたしをとりこにしているのを見る。わたしは、なんというみじめな人間なのだろう。だれが、この死のからだから、わたしを救ってくれるだろうか。わたしたちの主イエス・キリストによって、神は感謝すべきかな。このようにして、わたし自身は、心では神の律法に仕えているが、肉では罪の律法に仕えているのである。(ローマ書7:22〜25) (篠原利治)

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