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ウォーレン・バフェット

2006年12月14日
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 ニューヨーク株式相場が暴落した1987年10月の「暗黒の月曜日」から、まる一年経過した1988年秋。世界最大の清涼飲料メーカーであるコカ・コーラの会長室内で、会長兼最高責任者(CEO)のロベルト・ゴイズエタは、ナンバーツーである社長のドナルド・キーオとともに、株価の動きを熱心にチェックしていた。
 「暗黒の月曜日」前の高値と比べ、コカ・コーラの株価は25%も下落していたため、値ごろ感が出ていたのだ。1988年秋の株価の動きは、誰かがコカ・コーラ株の大量修得に動いていることを示していた。1980年代後半は企業の乗っ取り屋が活躍し、敵対的な企業の合併・買収(M&A)の嵐が吹き荒れていた時期だっただけに、いつもは冷静なゴイズエタも気が気でなかった。






最終更新日  2006年12月14日 21時01分35秒
2006年11月13日
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 カブログ

 
 バークシャー株を買い集める

 バフェットがグレアムの生徒になるなどで投資家としてのスタートラインに立った1950年代前半、ピューリタンの伝統を受け継ぐ米東北部ニューイングランド地方の繊維業界は不況にあえいでいた。アジアの廉価製品にコスト面で対抗できないこともあって大手メーカーは相次ぎ工場閉鎖や人員解雇に乗り出し始めていた。
 業界再編も急ピッチで進み、1955年には、1888年設立のハザウェイが誕生した。新会社は十四工場を保有し、一万二千人の従業員を雇用する業界の巨人として生き残りを目指した。
 それでも、繊維業界が死に行く産業であることは誰の目にも明らかで、巨人バークシャーですら明るい将来展望を描くことがなかなかできないものだったのだ。赤字の垂れ流し株主資本を食いつぶす状況から抜け出ない。経営状態が悪い企業では、長期の借り入れは難しく、負債は短期の借り入れなどが中心になるため、短期負債を負債全体に置き換えても実態に大差は無い。こんな企業では、手元資金を使って負債を全額返済してもなお手元に現預金などが残るわけで、この部分は「ネットキャッシュ」と呼ばれている。
 株価がネットキャッシュを下回るということはどういうことか??
 買収価格に相当する株式時価総額がネットキャッシュの総額の総額を下回ることを意味する。このような企業を買収すると、工場などでの事業資産の価値がゼロであっても、手元資金を負債に返済に回して残った現金だけで投資できるのだ。買収後にすぐ倒産しても確実に利益が出ている
 ネットキャッシュ以下の価格での買収が可能であることから、バークシャーは十分な安全余裕率を確保するグレアム・ドット理論にぴったりはまる状況だったのだ。
 バフェットはそれを見逃すわけは無かったのだ。
 1962年から1963年にかけて買い集めて1963年には同社の筆頭株主に浮上し、買収する意思を持って買い集めたものではないものの、売りが出るたびに買いに応じたりして、1965年には五割を修得し、経営権を握り、自ら取締役会に加わった。
 






最終更新日  2006年11月13日 20時52分10秒
2006年11月12日
 とにかくクリックよろしくお願いします。。
 カブログ

 この男バフェットの投資スタイルは、マクロ経済統計や相場全体の動向など関係なく個別企業のミクロ的な動きに注目することに特徴がある。そのために、「暗黒の月曜日」と呼ばれる1987年のニューヨーク株暴落にもうろたえることはなかったのだ。彼にとっての関心事は、投資先の個別企業が平均を上回るリターンを生み出す能力を持っているかどうかなのだ。この場合のリターンとは、株主の持ち分である株主資本がどれだけの利益を出しているかどうかを示す株主資本利益率(ROE)である。
これは個別企業の財務内容、経営能力を徹底的に分析し、本質的な価値がどのくらいなのかを把握しようという科学的分析なのである。
 バフェットが年次報告書を読むのを趣味にしているのはこのような分析を基本にしているからである。日本で未だに幅を利かせている「テクニカル分析」相場の過去の動きなどを分析して将来を予測する手法であり、米国では賢明な投資家からは「占い師の仕事」と一蹴されている。
 シーゲルによると、富創造マシンとしての株式の実績は圧倒的。。1802年に株式へ一ドル投資した場合、インフレによる目減りも考慮して2000年には70万ドル強になる。それが、長期国債では900ドル強、純金では一ドルにも満たない。二百年運用すると、株式は長期国債の700倍以上、純金の80万倍以上に膨らむ計算になるのだ。
 17年以上長期投資を前提にすれば、1929年の大恐慌直前に株式を購入した人も含め、損した人はいない、という。

 
 






最終更新日  2006年11月12日 22時20分04秒
 25歳で一億円以上の資産
 1954年、当時のウォール街は活気に欠け、働く場所として最高とは言えなかった。
 大恐慌の後遺症から完全に抜け出しておらず、名門ハーバード大学ビジネススクールの卒業生のうち、ウォール街を就職先として選ぶのは三パーセントにも満たなかったという。
 ウォーレンはコロンビア大学ビジネススクールを断トツの成績で卒業しながら、ウォール街へ飛び込むのだ。。
 しかも、何を思ったのか就職先は従業員が10人に満たない小さな投資会社、グレアム・ニューマンだ。世間的には突拍子もない行動なのだ。
 しかしウォーレンにとって自分の力で投資家の道を歩むスタートに立ったのだ。
 バフェットはゼロからスタートし、その後も誰からも援助を受けずに巨万の富を築いた。父親のハワードが1964年に死んだ際にも、遺産を相続せずに、後年にどんなに大きな富を手に入れても政府に、絶対の信頼を置き、自ら所得の確定申告を行った。不正な取引を忌み嫌い、法律的にも道徳的にも正攻法を貫いた。
 グレアム・ニューマンではバフェットは格付け会社スタンダード・アンド・プアーズが発行する「ストック・ガイド」を愛読し数々の魅力的な銘柄を発掘する。どんな企業財務諸表を見せられても、誰よりも早く数字を把握し、問題点を見つけ出した。この点に関しては師匠ベンジャミン・グレアムよりも上手だった。
 問題だったのはバフェットが次々に新しいアイデアを発見しても、グレアム・ニューマンの運用資産が600万ドルではどうにもならなかったことである。同社に資金を預けようとする投資家は多数存在したが、グレアムは新規投資家の募集に興味を示さなかった。大恐慌の記憶を払拭できず、騰勢を強めていた当時の株式市場に懐疑的だったのだ。バフェットのアイデアは宝の持ち腐れであった
 1956年、61歳になっていたグレアムは引退し、グレアム・ニューマンは解散する。
 金儲けにそれほど熱心ではないグレアムはカリフォルニア大学ロサンゼルス校で教鞭を取りながら執筆、スキーで余生を楽しむ道を選んだのだ。
 25歳になっていたバフェットは投資家としてのキャリアは浅いもののグレアム・ニューマン以上の成績を残した。20歳になった1950年末まで新聞配達などで貯めこんだ9800ドルを個人的に投資し14万ドルにまで増やしていたのである。2005年時点の物価に換算すると当時の14万ドルは100万ドルくらいで 今の一ドルは110円くらいのもの もちろん1億円を超えていますよね。。
 これだけの資金を手にしていたのだ
 






最終更新日  2006年11月12日 18時06分11秒
  新聞配達やピンボールで稼ぐ

 第二次世界大戦後が勃発したことで、1924年、バフェット家のも大きな変化が訪れる。大戦という時代背景を反映し、当時、大統領のフランクリン・ルーズベルト率いる民主党に勢いがあった。オマハでは、共和党は民主党に対抗できる有望な下院議員候補として、ルーズベルトのニューディール(新経済政策)を批判していたハワードに立候補を要請した。予想を覆してハワードは当選し、バフェット家はワシントンへ引っ越すことになるのだ。
 この頃にウォーレンは新聞配達の仕事をしていたのだ。彼は最初ワシントン・ポスト紙の配達だけをしていたが、途中でワシントン・タイムズ・ヘラルド紙の配達も引き受けることになった。理由はこうだ ワシントン・ポスト紙のキャンセルが出たら、ワシントン・タイムズ・ヘラルドの契約を勧めることで全体の部数を減らさないようにすることが狙い
 ワシントン・ポスト紙は後年ワシントン・タイムズ・ヘラルドを吸収し、米国を代表する有力紙になる。
 ウォーレンは数十年後 ワシントン・タイムズの大株主兼取締役になる。当時、将来自分がそんなふうになるとは夢にも思っていなかっただろう。
 この十四歳の頃には立派な若い大人の月給に匹敵する175ドルものお金を毎月稼ぐようになる。
 高校生のころとても利口で、数字に強く優等生だった、ドナルド・ダンリーと特に親しかったといわれている
 あるとき、ダンリーはピンボール機械を25ドルで手に入れ、ウォーレンと何時間も遊んだ よく壊れるのでそのたびにダンリーが修理した。ウォーレンはそれを観察しながら、あらたなビジネスを思いついた。それは近所の理髪店にこのピンボールを貸し出すことであった。
 理髪店とは利益を分け合うことで順調に”事業”は拡大した。ダンリーが中古機械を仕込んでは直し、ほかの理髪店に置いて歩き、ウォーレンは帳簿の管理を担当。
 二人はこのピンボール事業を「ウィルソン・コイン・オペレーテッド・マシン・カンパニー」と名づけたのだ「ウィルソン」とは架空の名前だ。まともな事業に見せかけるため、理髪店から、「新しい機械を入れてくれ」と頼まれると、いっぱしの事業家が営むビジネスであるかのように装って「ミスター・ウィルソン」に相談してみると答えたといわれている。「ミスター・ウィルソン」とはほかならない二人のこと。
 最終的に「ウィルソン・コイン・オペレーテッド・マシン・カンパニー」は毎週50ドルのビジネスになっていた。
 1947年に16歳で高校を卒業するころまでに、ウォーレンは親をはじめ他人に一切頼らずに、6000ドル前後も稼いでいたのだ。
 新聞配達、ピンボール機械の貸し出しなどで、投資を始める個人的な原資を手に入れ始めたのだ。 彼は300人以上の生徒の中で20位以内の成績で卒業し、親友のダンリーは主席で卒業したといわれている。






最終更新日  2006年11月12日 17時26分52秒
1930年8月30日、ハワードとライラを両親として、米中西部のネバラスカ州オマハで生まれた。
 ウォーレンが生まれたとき、一年前のニューヨーク株式相場の大暴落で始まり大恐慌の真っ只中だったという。
 他の大勢の人たち同様に、バフェット家もその影響から無縁ではなかった。信仰心が厚く勤勉な父親のハワードはウォーレンの一歳の誕生日の二週間前、証券セールスマンとして働いていた勤務先が閉鎖され、失業する。
 ハワードは友人と一緒に証券会社を創業したものの、名前だけの存在で、手数料収入はほとんどなかった。妻ライラ、長女ドリス、長男ウォーレン、次女ロバータと五人家族で生活をしていくのは大変だったと言われている。この幼児期にウォーレンは貧しいことの厳しさを体験し、さらに道徳心の強い父親の影響も受けたことで、生涯派手な生活には興味を持たなくなったようである。
 ウォーレンが小学校に入るころ、バフェット家はようやく正常な生活に戻り始めた。ウォーレンはこの頃早くもビジネスセンスを発揮し、祖父がオマハで経営する食料雑貨店「バフェット・アンド・サン」から六本入りのコカ・コーラの箱を二十五セントで仕入れ近所で一本あたり五セントで売り歩き、一箱売る度に五セントポケットマネーにしたのだ。
 彼には面白いエピソードがある。
 ペプシ・コーラをいつも手放さないというエピソードが。。
 十歳になる頃には父親のハワードの仕事の関係が影響したのか、株式相場にすでに興味を示していたのだ。
 ハワードのオフィスにちょくちょく出入りし、興味津々といった様子で株式や債券の値段を眺めるようになる。
 相場に興味を持ったウォーレンは11歳のときに初めて株式投資を行った。ポケットマネーを投じて、シティ・サービスと呼ばれる会社の株式を自分と姉ドリスのために三株ずつ購入した。
 ウォーレンはシティ・サービス株を購入したのは38ドルで大きく下回る27ドルまで下げたといわれているが、我慢し、40ドルまで上がったところで売り抜けたと言われている それが投資で得た最初の利益である。その時に彼は投資には忍耐力がいると知ったようだ。






最終更新日  2006年11月12日 16時54分19秒

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