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沖縄自治研究会

沖縄自治研究会

日本国憲法下の自治と主権

日本国憲法下の自治と主権
高良鉄美(琉球大学教授)


1 はじめに
2 復帰前の沖縄の住民自治・住民主権
3 復帰後の沖縄の住民自治・住民主権
4 県民投票に見る自治・主権
5 琉球政府に見る自治機構と憲法
6 おわりに―自治と憲法との関係

1 はじめに
 地方の時代といわれてどれくらいの年月が経ったであろう。明治憲法にはなかった地方自治の保障が日本国憲法によって初めてなされたのである。明治憲法下の地方は中央主権制度の中の部位としての存在であり、そのようにしか取り扱われてこなかった。日本国憲法では、第8章として一つの章を割き、「地方自治」を定めている。そこでは、Local Self―Governmentの英語対訳が充てられている。憲法の目指している地方の自治とは、何であろう。日本語の自治は、自らを治めると書くが、この英語の意味するところは、まだ深いように思われる。セルフ・ガバメント、つまり自己統治という意味が考えられる。 これは、日本語の自治とそれほど大きな違いはないであろうが、住民自らの力によって、その地域を自らのために統治するというニュアンスでは、むしろ自己統治という意味合いが英語の場合に含まれると考えられる。主体的に動く住民の顔が見える統治なのである。この意味では、住民一人ひとりが主権者として能動的に自治に参加するということになろう。憲法が目指す地方自治の一つは、このようなもの、つまり住民自治である。
 一方、セルフ・ガバメントは、自治政府ともとらえられ得る。ローカル・セルフ・ガバメント、つまり、地方の自治政府である。この意味は、国の政府、つまり中央政府に対して地方の政府が存在することを意味している。中央から独立した地方の政府である。独立したというのはいろいろな意味があるが、IndependentはDependentでないことを意味する。 つまり、依存していない、あるいは、従属していないということを意味している。「自らを治めること」と「依存しないこと、従属しないこと」は、同義語である。自治とは、独立の一形態と言って良いであろう。独立した地方の自治政府、国に従属的でない地方政府、地方のことを自ら治める政府。これが憲法の目指すもう一つの地方自治の姿と言える。 現在、国からの地方への補助金および交付税を削減し、地方へ税源を移譲するという、いわゆる三位一体改革が問題となっているが、地方自治体は、この問題の推移に戦々恐々の状態である。私たち地方住民は、この改革の推移をただ見守るだけで良いのであろうか。地方自治体は、国の一方的な制度改革に従うだけで良いのであろうか。まさに先に述べたローカル・セルフ・ガバメントが問われているのである。 地方住民が、この問題に対して主体的に学び、考え、行動すること、地方自治体が、独立した自治政府として国に依存せず、従属しない制度設計を自ら提示すること、それらが憲法によって求められている自治なのである。国の補助金等に依存しきっている沖縄の自治体が、自立をするためには、どうすれば良いのであろう。 本稿の目的は「沖縄の自治の新たな可能性」を地方自治政府の主権者住民として、沖縄が行ってきた歴史的な側面に焦点を当てて自治を考えることと、それに関連して、復帰前の沖縄が自治政府として形式に組織していた琉球政府の構造を、今後の日本国憲法かにおける地方自治政府のモデルとして問題提起を試みることにある。

2 復帰前の沖縄の住民自治・住民主権
1945年8月20日、沖縄の戦後最初の中央統治機関として沖縄諮詢会が設置された。実は日本政府がポツダム宣言を正式受諾し、無条件降伏で第二次大戦の幕を閉じた8月15日、すでに米軍占領下にあった沖縄では、石川市において各収容所の住民代表からなる仮沖縄人諮詢会が米軍政府によって召集された。ここで重要なことは、住民代表の中から24人が委員候補として選出され、仮沖縄人諮詢会での選挙によって15人の委員が選出されたことである。また、委員選出の条件として(1)財政、法務、教育、文化、公衆衛生、社会事業、労務、商工、水産、農務、保安、通信などの各部について専門的知識を有すること、(2)一部の地区に偏らず各社会階級の代表者であること、(3)日本の軍部や帝国主義者と密接な関係を持たないことであった(1)。そして第1回会議において、志喜屋孝信氏を委員長として選出し、各委員の職務分担も決定された。米軍政府と沖縄住民の意思疎通をはかる機関として置かれた沖縄諮詢会は、住民の声を米軍に対し反映する機能を少なからず持っていたといえる。ただ、米軍主導による諮詢会の設置であったことは否めなず、住民主権というものも意識されない組織といってよい。
 米軍主導といえば、戦後初の男女平等選挙権は沖縄で実施された。日本本土で実施される半年以上前ということになる。1945年9月7日、「地方行政緊急措置要綱」が公布され、軍の定めるところにより市制が敷かれた。当時人口比は女性が圧倒的に多かったことは容易に理解できるが、25歳以上の男女に対し与えられ、同年9月20日に市会議員選挙、25日には市長選挙が行われた。選挙は民主的に行われたが、市長や議員の役職はほとんど何らの権限も有していなかったという(2)。しかし、住民が選挙権を得たということは、後々、自治意識や主権者意識として、沖縄の政治運動を強めることに貢献することとなった。
 沖縄諮詢会は1946年4月24日の沖縄民政府の設置によって発展的に解消されたが、その際米軍政府は志喜屋孝信氏を知事に任命した。任命制は選挙権を持った住民によるデモクラシーとは反するもので、住民の知事公選制要求によって、ついに米軍政府は知事公選制を認め、1950年8月4日、群島政府を創設した。しかし、米軍政府は、群島政府を奄美、沖縄、宮古、八重山の4群島政府に分けたのであった。四つに分断された政府では効率的な事務処理はできず、4知事共同意見書などの形の文書が頻繁に出された。このような非効率的な事務処理状況の下で、中央政府の必要性が強調されるようになった。米国民政府は公選知事の群島政府を廃止し、1951年4月1日に琉球臨時中央政府を設置して、比嘉秀平氏を行政主席に任命した。さらに、翌1952年2月29日に布告によって琉球政府設立された。米国民政府による行政主席の任命制はその後も続けられたが、選挙権を行使し、自治意識、主権者意識に目覚めた、住民は主席公選制を訴え続けた。わずか六年足らずで中央機関を五度も変えた米軍の政策はデモクラシーと逆の方向であの手この手を考えたものであったが、沖縄住民の要求は明らかに自治意識・主権者意識に基づくデモクラシーの方向性を堅持していた。
対日平和条約三条で奄美・沖縄は日本本土と分離されたが、奄美大島ではすでに1951年2月14日、奄美大島日本復帰協議会が結成され、自分興し・文化興しを土台に復帰運動が展開された。そして、ついに奄美諸島は1953年12月25日日本に復帰をした。その間、99・8%の署名を集めたり、27回にわたる郡民大会を開いたりするなど、主権者とは何かを考えさせる復帰運動が展開された(3)。
 一方沖縄では、1951年4月29日に、日本復帰促進期成会が結成され、日本復帰促進青年同志会と共同で署名運動を展開し、8月までに沖縄群島全有権者の72%の署名を得た(4)。この日本復帰促進期成会の運動は1960年4月28日結成の沖縄県祖国復帰協議会(以下復帰協)へ引き継がれた。復帰運動の過程で沖縄における住民の自治意識や主権者意識は発展していったと考えてよい。復帰協はスローガンとして六項目を挙げていた。そのスローガンの中に、「沖縄違憲訴訟を勝利させ、日本国憲法の適用をかちとろう」というものや「安保条約を破棄し、憲法改悪軍国主義復活に反対しよう」というのがあった(5)。復帰運動は復帰を求めただけでなく、自治権拡大、人権擁護、反戦平和、反基地、民主主義擁護など復帰運動が多くの側面を持っていたことはよく指摘される(6)。まさに、この復帰運動の多面性こそが、日本国憲法の国民主権原理と直接的に結びついているといえる。たとえば自治権拡大という意味は、憲法92条の地方自治の本旨でいう住民自治の問題であり、最近の憲法学では地方自治の根拠目的を、国民主権や人権保障に求めている。
 沖縄諮詢会や沖縄議会などを経て1952年4月1日の琉球政府の設立により、住民の選挙による代表機関となった立法院は、住民の意向を反映し、数々の決議や要望を米国民政府や米軍に対して行ってきた。発足後1ヶ月に満たない1952年4月29日、立法院は{琉球の日本復帰に関する決議」を全員一致で採択した。この決議が住民の復帰運動への関心をさらに盛り上げる大きな原動力の一つとなった面は否めない。任命制の行政主席に対し、住民の選挙で選出する立法院は住民の唯一の代表であったからである。憲法93条で保障されている地方公共団体の長の住民による直接選挙制も、米国統治の沖縄には届かなかったが、主席公選を求める住民の自治権拡大の声は、立法院ではきちんと反映され、1954年4月22日に立法院は、主席公選の早期実施を求める決議を行った。
 土地問題についても、1953年5月5日、立法院は米国民政府の出した布告「土地収用令」に対し撤廃要請を決議した。そして、1954年4月30日、「軍用地処理に関する請願」を全会一致で採択し、一括払い反対・適正補償・損害賠償・新規接収反対という土地四原則を打ち出した。さらに立法院は55年3月に「軍用地賃借料の一括払い反対」を決議した。これに対し、ジョンソン主席民政官は「立法院が土地問題に没頭して予算成立が遅れるなら民政府補助金を取り消し、議会解散を行う」と警告した。このようないわば主権者の代表機関である立法院への米国民政府の介入は、国民主権原理に反する行為であったが、主権者意識に触れたがゆえに、米国の沖縄統治政策に対する住民の反発は強まったといってよい。
 住民の代表機関に対する米国民政府の介入への反発とともに、住民自身の主権者としての運動が展開されることになった。1954年6月20日、米軍の土地強制接収が伊江島で始まった。ブルドーザーで家屋や貯水タンクなどを破壊され、土地が奪われたことに対し、伊江島の住民は立ち上がり、こじき行脚と呼ばれるほど熱い訴えが行われた。また1954年12月に伊佐浜の住民に対し米軍から立ち退き勧告が出され、翌55年再び立ち退きが通告されたが、これに対し住民らが座り込みで抵抗した。米軍が武力による強制接収をはじめたため多くの負傷者、逮捕者が出たが、住民の運動はひるむことなく、住民の主権者意識のほうがはるかにそれを上回っていたといえる。
 土地問題に対する住民の反対運動は各地で住民大会を通して継続的に行われた1955年5月22日には軍用地問題解決促進住民大会が開かれた。1956年6月22日、軍用地四原則貫徹住民大会が開かれ島ぐるみの土地闘争へと発展してきた。同年7月28日には那覇高校グランドで10万人が参加し、四原則貫徹県民大会が開かれた人権擁護に関する住民の集会も多く開かれた。中でも、1955年9月の由美子ちゃん事件のあと、この事件を糾弾する人権擁護全沖縄住民大会が10月22日に開かれ五千人が参加した。復帰を目前にした1970年12月20日未明コザ暴動が発生したが、この発端も、糸満における主婦轢殺事件に対する被告米兵が無罪となった裁判の結果や米軍の対応が、轢殺された主婦の人権に代表される沖縄住民の人権を侵害したということに対する反発からであった。
 1960年6月19日、沖縄を訪問したアイゼンハワー大統領に対し、約2万5千人が参加して復帰を請願するデモが行われた。アイク・デモとよばれるこのデモは、沖縄県祖国復帰協議会が発足して初めての大衆運動であったが、大統領の帰途のコースを変更させるほど抗議のうねりは激しかった。1961年4月28日、復帰協が結成されて1周年目のこの日、祖国復帰県民総決起大会が沖縄本島の最北端辺戸岬において開催された。以後毎年、平和憲法下への復帰を願い辺戸岬ではかがり火を焚いたり、海上集会を開いたり、多くの住民が主体となった集会が開催された。
 国民主権原理が適用されなかったことに対し、国民主権に基づく住民自治の要望は非常に強く表れ、その成果も出てくることがあった。その一つが教育委員公選制である。布令66号「琉球教育法」により、1952年から72年まで実施されていた各区の教育委員の選出方法である。中央教育委員会(現県教育委員会)も区教育委員の間接投票で選出された。教育と関連して、教職員の政治活動を制約し、争議行為を禁止などを盛り込んだ「地方教育区公務員法」「教育公務員特例法」のいわゆる教公二法の制定を阻止する運動があった。1967年2月24日、立法院で同法案の強行採決の動きがあったため、沖縄教職員会などを中心に、一般市民も加わって、立法院議会棟周辺に2万人以上が集結し、ついに同法案を廃案に追い込んだことがあった。
 このように、国民主権原理にかかわる米軍統治下の沖縄の状況は、現在の沖縄を含めた日本の国民主権の状況と比べて、意識的にせよ無意識的にせよ、いかに憲法原理に則っていたかを表している。
  註
 (1)『沖縄大百科事典』中巻871頁、宮里政玄「天皇メッセージ」。
 (2)島袋邦「住民の政治的動向」宮里政玄編『戦後沖縄の政治と法』東京大学出版会、120頁参照。
 (3)琉球新報社『沖縄コンパクト辞典』16頁。
 (4)島袋邦前掲論文135頁参照。
 (5)沖縄違憲訴訟とは、1965年9月9日、東京地裁に提訴された渡航拒否に対する損害賠償請求と原爆医療費請求の2件の訴訟をいい、対日平和条約3条で沖縄住民が分離され、人権侵害されるのは憲法違反であると主張した。
(6)阿波連正一「沖縄の基地問題の現在」沖縄国際大学公開講座(4)『沖縄の基地問題』ボーダーインク社、32頁以下参照。

3 復帰後の沖縄の住民自治
復帰に先立ち、沖縄の国政参加は1970年11月15日の国会議員の選出に始まった。しかし、この時点においては、特別な国政参加に関する法令によってなされたものであり、憲法の国民主権原理に基づいて実施されたものではなかった。したがって、この国政参加は恩恵的側面が強く、当時の沖縄住民に対して国民主権概念の根本的部分が、日本国民とまったく同様の状態で認められたものではなかった。国民主権概念の根本的部分と言ったのは、単に選挙権があるというだけでなく、真に主権者としての扱いを受けなければならないことを指しているのである。国民主権というのは為政者の独善的意思ではなく、国民の政治的意思を重要視するということである。したがって、日本国憲法に構造的に組み込まれた原理として、主権者の意思を重視するということであって、国政であろうと地方行政であろうと同じ構造を持っているはずである。
憲法95条は、一の地方公共団体にのみ適用される法律、すなわち地方自治特別法については、たとえ立法府である国会を通過したものであろうと、その地方公共団体の住民による住民投票において過半数の賛成を得なければ、法的効力を認められない旨を定めるが、これはまさにこの主権者に関する原理が直接的・個別的に示されたものの一つであるといえよう。国政選挙は一足早く行なわれたものの、沖縄住民は主権者として扱われたのだろうか。
米軍基地維持のために平和憲法の諸条項や法原理を蔑ろにする政府の行為は、復帰後繰り返し行われてきており、沖縄の自治・自立に暗い影を落としている。1972年5月15日発効の「沖縄における公用地等の暫定使用に関する法律」いわゆる公用地法の制定とその後に続く米軍基地維持のための一連の立法府の行為はこの最たるものといえよう。公用地法は沖縄という一地方にのみ適用される法律であり、本来ならば憲法95条に定める住民投票がまさに必要な地方自治特別法であった。しかし、沖縄は、まだ復帰しておらず、憲法上の地方公共団体には当たらないとして、住民投票は行なわれなかった。そして、この法律は復帰後即座に沖縄に適用されたのである。憲法上の地方公共団体になることが明らかで、沖縄県民は国民主権の担い手になるのであり、憲法95条に定める住民投票を行なう権利を享有するはずである。沖縄返還協定調印前に国政参加を恩恵的に前倒ししたものとは、時期的に明らかに異なるものであったにもかかわらず、憲法の基本原理の一つである国民主権から、政府の恣意的な解釈によって、排除されてしまったのである。
1977年5月18日、公用地法による米軍基地の使用期限が切れた後、またもや県民の意思を問うことなく、「沖縄県の区域内における位置境界不明地域内の各筆の土地の位置境界の明確化等に関する特別措置法」いわゆる地籍明確化法により、その付則において米軍の基地使用を無条件に五年延長したのであった。5月14日に一旦、公用地法の期限切れが生じ、法的には4日間の空白が生まれ、自分の土地に立入った地主もいたが、結局、憲法上の地方公共団体になったにもかかわらず、住民投票による意思を問うという憲法95条の地方自治特別法の規定を適用させないために、いわば小手先の法的技術による憲法の潜在化を起こさせたのである。一方でこの年の11月30日、砂川事件の舞台となった東京の立川基地が全面返還された。
1982年の5月14日で期限切れとなる地籍明確化法による公用地法の再々延長はなかったが、1952年の安保条約に伴う法律で1960年代前半までしか適用例がなかったほど眠っていたいわゆる駐留軍用地特措法が、82年5月15日から沖縄の米軍用地に適用された。以後30年以上もこの法律は沖縄にのみ適用されてきている。形式的にはともかく、実質的には一地方公共団体のみに適用される法律なのである。復帰以来の米軍用地収用にかかる実質的には住民投票を必要とする法律に対する住民主権・国民主権原理からの要請は、全国初の県レベルでの住民投票実施となった1996年9月8日の沖縄県民投票へと実を結んだ。
戦後50年目の1995年に、軍事構造から解放するのではなく、さらに今後も沖縄における米軍基地を固定化、強化する動きが、同年2月の東アジア戦略報告、いわゆるナイ報告に示された。折しも同年は、米軍用地の契約切れを2年後に控え、駐留軍用地特措法に基づく軍用地の強制使用手続きが始まっていた。反戦地主らは、戦争のための軍隊には1坪たりとも土地を貸さないという強い信念の下、契約を拒否してきた(1)。同法によれば、地主が契約拒否をした場合には、市町村長が、さらに、市町村長も拒否した場合には、都道府県知事がいわゆる代理署名を行なうことになっていた。これまでの西銘知事と同様、九五年についても、沖縄県知事は代理署名をするものと、起業者である防衛施設庁は見込んでいた。
しかし、太田昌秀沖縄県知事は、前述したナイ報告が出された時点で、代理署名に難色を示していた。沖縄戦の50年目迎え、平和理念に基づく「平和の礎」が建立され、6月23日の慰霊の日に除幕された。知事はむろんのこと、県民の心の奥に戦後50年間の変わらぬ基地の重圧、日米両政府の沖縄政策に対する強い不満と疑念などがうっ積していたことは否定できないことであろう(2)。
同年9月4日、米兵による少女暴行事件が起こると、今後も基地が固定化されるかぎり、県民は同様な事件・事故の犠牲になり続けるという危惧から、県民の怒りは爆発した。9月28日、大田知事は代理署名拒否を沖縄県議会で表明した。県民の思いは、知事の代理署名拒否表明を強く後押ししていた。県民の怒りの大きさを示すように、少女暴行事件を糾弾する10・21県民総決起大会では、8万5千人の人々が宜野湾市の海浜公園会場を埋め尽くした。米軍綱紀粛正、被害者への謝罪と完全補償、基地の整理縮小、地位協定改定が、このときの県民決議であったが、後二者は翌年の県民投票の問いであった。
駐留軍用地特措法の代理署名を拒否した知事に対し、同年12月7日、村山総理大臣は地方自治法151条の2に基づく職務執行命令訴訟を福岡高裁那覇支部に提起した。これにより、総理大臣が知事を訴えるという初めての裁判が行なわれることになったが、この裁判の実質は、沖縄県民が日本政府の沖縄政策の不誠実さを追及するものであった。いわば、実質的原告は、沖縄県民であった。そして、県側は、国民にわかりやすい裁判を行なうよう心がけ、沖縄の歴史や文化、社会にまで言及し、県民の財産権、平和的生存権、人格権など、基本的人権が米軍基地の存在に よっていかに侵害されてきたかを切々と訴えた。また、国中心の現在の権力構造は、憲法の地方自治の本旨から見てどうなのかといった地方自治の本来のあるべき姿をも問うものであった(3)。そして、同年12月22日の第一回口頭弁論以来、口頭弁論が開かれるたびに、多くの県民が集まり、基地の重荷を訴えるため、裁判所近くで集会が開かれた。同支部は、現地調査や関係地主などの証人採用も行わず、わずか四回の口頭弁論の後、翌96年3月25日、太田知事に代理署名を命ずる判決を下した。
当然のことながら知事側は最高裁に上告した。同年7月10日、異例の最高裁口頭弁論が開かれ、大田知事本人も沖縄県民を代表して、切々と基地の重圧とそれを支える日本政府の復帰後の政策と駐留軍用地の違憲性とを訴えた。最高裁は、行政日程の考慮のためか、早くも8月28日には、安保条約・地協定が一見明白に違憲でない以上、駐留軍用地特措法も違憲ではないという必要条件と十分条件とを噛み合わせない判決を下した(4)。
行政日程とは、沖縄県民投票の結果が出る前に判決を下すということを指す。おりしも、最高裁判決の翌29日、沖縄県民投票は告示された。県民投票条例は、最高裁口頭弁論の前の六月沖縄県議会で議決され、その後実施要綱などで9月8日に実施されることになっていた。県民投票の実施に向けて、県内各地で説明会や学習会が開かれ、住民の「地方自治は民主主義の学校」を実現しようとする意気は高揚していた。そういう中での最高裁判決であったが、9月8日の沖縄県民投票結果は、投票率59・53%で、54万人もの住民が投票し、基地の整理縮小・地位協定改正に48万人が賛成を投じた(5)。なお、県民投票3日前の9月5日、基地の整理縮小と地位協定改定とを別々に問うという高校生による模擬投票が県下63校で実施され、3万6千人が投票した。
代理署名訴訟の最高裁係属の間にも、代理署名の後の手続きとしての公告縦覧についても拒否に対する職務執行命令訴訟が提起されていた。橋本首相は7月12日、再び知事を被告に提訴し、7月29日に第1回の口頭弁論が開かれた。なお同訴訟は知事の代行表明後に取り下げられた。
代理署名拒否、職務執行命令訴訟、県民投票と日本中を巻き込む民主主義と地方自治とを問う大きなうねりは、9月13日の大田知事の代行表明でとりあえず、急速にしぼんだ形となった。しかし、この間に学んだことは沖縄において決して簡単にしぼむものではなかった。1996年4月12日に橋本首相が、普天間基地の5~7年以内での全面返還を発表したが、評価する一方で県内移設条件のため反対の声も上がっていた。評価の反面、普天間基地の移設問題が残っていた。海上基地案が提案され、名護市が候補地に上がると地域住民の中で強い反対論が出てきた。97年に入り、名護市では海上基地建設をめぐり、住民投票を望む声が高まった。住民投票の設問をめぐり、名護市議会で紛糾した後、海上基地建設の是非をめぐる名護市の住民投票が12月21日に行われ、反対派が投票総数の53%を占めて、県内移設への住民の抵抗感が示された。この住民投票結果を軽視する名護市長の建設容認発言が問題となり、名護市民投票裁判が始まった。2000年5月9日那覇地裁は原告らの請求を棄却する判決を下した(6)。
1997年4月、政府は5月15日に強制使用期限を控えた米軍用地3千件の不法占拠を避けるため、期限切れ後も暫定使用を可能とする米軍用地特措法改正案を国会に提出した。同改正案は4月11日の衆院本会議で9割前後の圧倒的賛成多数で可決された。県民世論の反発が強いなか、改正案は法案提出から1週間で衆院を通過、24日からの橋本首相訪米に合わせて、17日には参院でも8割の圧倒的多数で可決された(7)。これは、異例の速さと圧倒多数という異常さをともなって、一地方公共団体の住民のみをターゲットにした法改正であり、法の一般性原則や不遡及原則など憲法のみならず法原理上も大きな問題があるものであった。民主主義を土台とした国民主権による多数決なのか、大きな疑問が残った。これに対し、反戦地主8人が同特措法改正は違憲だとして、国を相手に1億1800万円の損害賠償訴訟を提起した。2001年11月30日、那覇地裁は楚辺通信所の一筆の土地に対する389日間の不法占拠について「何らの占有権限も有しないまま、占有したものとみるほかなく、占有継続について国家賠償法上の責任を負う」と述べて、賃料相当額の損害金47万9671円の支払いを命じた。しかし「暫定使用」をめぐる改定特措法上の適正手続きの保障について「制限される権利の内容など総合考慮すれば、告知・聴聞などの機会を与えなくても憲法に反しない」と述べて合憲判断を示した。法の一般性・抽象性の争点についても「改定特措法の適用対象が限定されていることは当然の事理であり、一般性・抽象性を有しないとはいえない」と述べて、原告側の主張を退けた。
2002年10月31日、原告と国の双方が控訴した同訴訟の控訴審判決が福岡高裁那覇支部で言い渡された。判決は法の不遡及原則違反、適正手続き違反など原告側の違憲主張を退け、損害賠償については、1審と同様、1筆の土地に対する国の占有に権原がなかったと認めたが、賠償責任は否定した(8)。いずれにしても、沖縄のみ適用される差別的立法という根幹的性質の問題は残っており、住民の意思を問わないとすれば、憲法構造に反するおそれがあろう。この特措法改悪問題については、改悪反対県民大会が1997年4月15日、那覇市の与儀公園で開催され、約七千人が参加した。
 県民大会は復帰後も、米軍関連の事件が起こるたび、機会あるごとに幾度となく開催されてきた。1987年6月21日、約25五千人が参加して、広大な嘉手納基地を「人間の鎖」で包囲した。初めての人間の鎖であり、沖縄の米軍基地の中でも象徴的な地位をしめる嘉手納基地の包囲であった。同基地の包囲行動は90年にも行われた。95年5月14日、約1万7千人が参加して普天間基地を「人間の鎖」で包囲した。戦後50年・平和大行動の一環で行われたもので、基地の包囲行動は87年、90年の嘉手納基地包囲に続き、当時3度目であった。また、沖縄サミット開催前日の2000年7月20日には、約2万7千人が参加して「人間の鎖」で嘉手納基地を取り囲んだ。基地の過重負担と基地整理縮小の願い、21世紀の平和発信拠点への脱皮を望む県民の願いを国内外に強烈にアピールした。懸案となっている普天間飛行場の県内移設反対、頻発した米軍の事件・事故に対する抗議の意も込めたものであった。 
県民大会などの集団行動は、必ずしも、米軍にのみ向けられたものではなかった。七人の死者を出すなど熾烈を極めた沖縄の暴力団抗争に対して、暴力団壊滅へ向けて県民1万1千人余がマンモス原告団を結成し、全国初の組事務所使用禁止を求めるなど、あらゆる法的手段を駆使した暴力団追放運動を展開した。名護市の女子中学生ら致事件で96年7月12日、県下で2万人を超す地域住民が参加して「一斉捜索」が行われた。6月21日の事件発生以来、有力な情報がつかめないことから、被害者の無事発見を願い、これだけの県民が参加したのも大きな意義がある(9)。
 県民の代表機関である県議会の決議等も重要な住民意思の反映である。本土復帰直前の1972年1月から2001年12月までの30年間に県議会が可決した抗議決議と意見書の件数は合計665件で、このうち米軍基地関係は285件約43%を占めている(10)。 
   註
(1) 反戦地主の基地との戦いについては、本永良夫編著『反戦地主の源流を訪ねて』あけ
  ぼの出版、に詳しい。
(2)代理署名拒否にいたる経過については、『50年目の激動』沖縄タイムス社、参照。
(3)駐留軍用地特措法の違憲性については拙著『沖縄から見た平和憲法』136頁以下  参照。
(4)代理署名訴訟最高裁判決については、大久保史郎「駐留軍用地特措法及びその沖縄  県における適用の合憲性」別冊ジュリスト155号憲法判例百選2 370頁、行政法的  考察として仲地博「軍用地強制使用職務執行命令訴訟について」法律時報68巻4号17頁以下など参照。
(5)県民投票の意義について徳田博人「沖縄の県民投票が示したもの」法学セミナー1997年1月号57頁以下参照。県民投票の分析については、高良鉄美『沖縄から見た平和憲法』153頁以下参照。
(6)名護市民投票裁判の考察として、高良鉄美「住民投票の法的拘束力―名護市民投票裁判を素材にして」琉大法学65号33頁以下参照。
(7)琉球新報1998年4月18日。
(8)琉球新報2002年10月31日夕刊。
(9)女子中学生は、無事を祈った県民の願いもむなしく、翌97年1月1日に沖縄本島北部の山中で遺体となって発見された。琉球新報1997年1月4日。
(10)琉球新報2002年8月29日。

4 県民投票に見る自治・主権
 沖縄県民投票については前節で少し触れたが、ここでは住民主権および直接民主制との関係で論及することにしたい。日本国憲法の条項で「住民投票」の文言があるのは95条のみである。つまり地方自治の規定にのみ住民投票が関係している。それではなぜ地方自治の条項かというと、地方自治の本旨の一つには住民自治ということがあるが、これは、住民の住民による住民のための自治を意味しているからである。このフレーズは、リンカーンが言った「人民の人民による人民のための政治」つまり民主主義を指す。そして、日本の地方自治法にはいくつかの直接民主制度が盛り込まれているのである。そこには住民の50分の1の署名に基づく条例制定改廃請求、事務監査請求、住民の3分の1の署名に基づく議会の解散請求、議員、長及びその他の役職員が定められている。
地方自治について言及する際に「地方自治は民主主義の学校」という至言を用いることが多々ある。「民主主義の学校」という言葉は単に、実際上あるいは事実上の意味しか持たないのであろうか。それとも、現行の地方自治法の下で法律上の機能をも有しているのであろうか。というのは、地方自治制度が存在しても、それだけでは民主主義が必ずしも浸透するわけではないであろうからである。それは明治憲法下の地方制度において、市町村レベルでは首長の選挙が行われ、一応地方自治の形態を保っていながら、民主主義という側面では、むしろ民主主義の芽を摘んでしまうことが多く見られたからである。明治憲法下の地方制度においては市町村は上からの命令系統の末端に位置づけられ、下からの民主主義という構造を有していなかったのである。日本国憲法下では民主主義的基本構造が謳われ、地方自治に関する規定を有しているが、地方自治の確立が不十分である現実の問題として、地方自治体と住民の意識の問題がある。そこはまさに地方自治の本旨をきちんと憲法構造の中で捉えていない点が問題といえよう。地方自治法の大幅改正で、機関委任事務が廃止され、しかも国と地方の基本的対等関係がうたわれているにもかかわらず、いまだ明治憲法下の自治体と住民になっている面が見られる。つまり、国の下部機関としての自治体の問題と、国民主権でありながら受身の臣民意識の継続ということである。
しかし、戦後50年を経てから、各地で住民投票が実施されてきた。憲法制定から50年にもなって、国民主権が徐々に不十分ながらも浸透してきた。50年といえばいみじくも尾崎行雄が、奴隷頭を入れ替えて主権者となるためには3世代はかかる旨の発言があったが、まさに3世代50年というのは的を射ているといえよう(1)。
住民の身近な生活の問題として関わってくるのは、国も行政・政治というよりも地方のそれである。住民が自分の生活に関わる問題について、自らの意思を表したいと考えるようになるのは、主権者の性として自然のことである。この主権者が自らの意思を表明する際には当然のことながら。政治・行政に関する情報の獲得が必要である。この点、国の情報公開制度の確立に火をつけるようになったのは地方であることに注目すべきであろう。全国のすべての都道府県をはじめ多くの自治体が情報公開条例を制定している。それだけでなく、国にはないオンブズマン制度を有する自治体もあり、住民の行政への関わりは、国よりもはるかに直接的に行われているのである。住民投票に対する住民の目覚めはこのように制度的な発展も大きな要素といえる。この点、住民投票で自らの意思を決定し、投票するわけであるから、問われている投票案件の情報を得て、これを十分理解しなければならない。この理解を深めていく過程で生みだされるのが教育的効果である。各地の住民投票においては、事前に住民による学習会が開催されたり、自主管理による模擬投票を行ったりして、住民投票の意義を踏まえた取り組みが行われてきた。沖縄県民投票においても、県庁に県民投票推進室が設置され、住民に対して県民投票の内容などが各地で説明された。また日本で初めて住民投票が行われた新潟県巻町へ県職員を派遣し、事前に情報を得て、県民投票実施へ参考になる資料・情報などを入手してきた。沖縄県民投票では、前節で言及したようにその実施3日目には高校生による県民投票が行われており、まさに次世代の主権者に対する教育的効果があったといえる(2)。自分たちの地域に関わる問題について、住民はどのように対処し、参加していくのか、住民自治の観点から「民主主義の学校」を示したものといえるのではあるまいか。
国と地方という意味では、明治憲法以来の中央集権的体質を有してきた国と自治意識・主権者意識をもたげてきた地方自治体・地方住民とが、一つの問題をめぐって対立構造が生まれるのは当然といってよい。特に国がこれまで専権事項と考えてきた外交、基地などの分野が地方の父や住民の生活に直接関わる場合にはこれが顕著になろう。沖縄では、1995年9月4日に米兵による少女暴行事件が発生して以来、同事件に対する謝罪よりも日米安保の維持を強調する日本政府の対応に不満が募っていた。ちょうど戦後50年という時期に、半世紀にわたる米軍基地の重圧に対して沖縄県民の思いはいろいろな形で表れたが、その代表的なものが県民投票である。どうして我々沖縄県民の生活に最も大きな影響を与える問題が、県民の意向や生活の実態を顧みることなく、県民の手の届かない国の中央で勝手に協議され、決定されるのであろうか?県民が、自分たちの生活に関わる問題に対して意思を表明したいと考えるようになるのは自然のことであった。これまで五〇年間、基地問題の本質意的解決をせずにやり過ごしてきたことを、どうにかしなければと県民一人一人が考え始め、少女暴行事件に象徴される基地問題に対する県民の怒りの延長線上に県民投票はあったのである。県民投票条例案は、形式的には連合等労組を中心に地方自治法七四条に基づく条例制定請求の署名が集められてできたのであるが、実質的には沖縄の主権者である県民のほとんどが抱いている素朴な要求であったといえよう。

 註
(1) 前原清隆「未来と憲法と若者たち」法学セミナー505号参照。
(2) 高校生の場合は「米軍基地の整理縮小」と「地位協定の改定」をきちんと分けて、それぞれに投票を実施したものであった。どちらも圧倒的に賛成が多かったが、「米軍基地の整理縮小」は六七%、「地位協定の改定」は七五%と数値は幾分異なっていた。

5 琉球政府に見る自治機構と憲法
 沖縄は琉球政府時代には米軍統治下にあったのであるが、高等弁務官を責任者とする米国民政府の下にあるといういくつかの制約など問題はありつつも、琉球政府は基本的に自治組織の構造を持っていた。少し乱暴に言えば、アメリカの1州に近い形になっていたといえる。まず、州政府というような形で、琉球政府が存在し、その行政部には、州知事と権限などは別として構造上は同様な位置づけで、行政主席があった。そして、立法部には立法院が充てられ、沖縄の法律を制定していたのである。司法部には琉球政府裁判所が設置され、沖縄における住民に関わる事件を取り扱っていた。このように、琉球政府は1国家あるいは州にあるような行政・立法・司法の三権を有していたのである。米国民政府は、基本的に米国の利益に関わらない限り、琉球政府に任せていたのである。ただ、そこには、高等弁務官の権限によるいくつかの関与が存在していたことは確かである。たとえば、行政主席に関しては高等弁務官が任命権を有していた。この主席任命制に対して、沖縄住民は長い間主席公選を求めた運動を展開してきた歴史があり、ついに1968年主席公選が実施され、公選主席としては最初で最後の主席ということではあったが、屋良朝苗氏が当選した。また、立法に関しては、立法院での可決後、高等弁務官の同意を要した。場合によっては事前承認という形で、法案の送付を要求されたりした。司法に関しては、基本的に沖縄住民に関する事件は琉球政府裁判所で扱われたので、行政や立法ほど関与がなかった。ただ、沖縄住民と米国民が関わる場合には米国民政府裁判所が事件を管轄した。それから、たとえ沖縄住民の間の事件であっても米国の利益に関わるとされた場合は、高等弁務官から琉球政府裁判所に対し移送命令が出され、米国民政府裁判所で審理されることになっていた(1)。
 このような、琉球政府の三権分立形態を地方自治体に持たせることは、日本国憲法かで可能であろうか?これが今後の問題提起であるとともに、若干の論及を試みる課題である。まず、立法権であるが、憲法94条により条例制定権が地方公共団体に認められており、いわゆる自治立法権の根拠となっている。この条例を制定するのは地方自治法上議会ということになっており、憲法でも「議会」という文言になっている。しかし、これは公選の議員をその構成員として、条例制定したりする議事機関のことを指すのであって、個別名称というわけではないであろう。したがって、琉球政府時代のような「立法院」の名称は可能である。問題は法律を作れるかということであるが、国の法律は作れないが、条例を名称にこだわらなければ地方自治体の法律と位置づければよいだけの話である。ただ、単に法律といったときに名称上の混乱が起こりうる可能性はあるが、自治体法と呼ぶか、あるいは今後道州制の導入が本格化した際には州法と呼べばよいことであろう。
行政権についていえば、地方自治法上も県知事が執行機関として位置づけられており、自治行政権という文言も定着している。これも道州制の導入は法制の内容によっては地方の権限を大きくすることは可能である。琉球政府のような行政主席と名称を変えることも問題はさほど起こらないといえよう。
問題は司法権である。現行憲法では76条において「すべて司法権は、最高裁判所及び法律で定めるところにより設置される下級裁判所に属する。」と規定されている。この規定から地方に裁判所を設置することが可能であろうか?つまり自治司法権を有することができるであろうかということである。この点、第8章の地方自治の規定からは、司法権に当たる文言が見られない。ただ、民主主義や住民主権という点を非常に拡大して解釈し、憲法76条の最高裁判所の下にある下級裁判所という位置づけで自治司法権を置くことは可能ではないかと思われるのである。琉球政府裁判所と米国民政府裁判所の関係がそのモデルになりうるのではないかということである。
米国民政府裁判所は一般に沖縄の米国人の関わる事件について裁判権を有していたが、特別な事件で琉球政府裁判所から移送されてきたものを審理することになっていた。これを、最高裁判所と見立てるとすると、基本的に国が関わる場合には最高裁判所とそれから終身はいずれにしても最高裁判所ということを明確にしておけば、下級審として地方自治体の裁判所(以下自治体裁判所とする)が、もっぱら当該自治体の住民に関わる事件や当該自治体の条例にのみ関係する事件などを管轄しても差し支えないのではというのが問題提起である。今後自治体の法無我急増してくるであろうし、道州制の導入が見込まれている元凶では、自治体裁判所という機関の役割は増えると考えられる。それは、自治体の住民が主権者として行動し、議会がその意思を活発に取り込んだ立法を行うのであれば、むしろ地方分権の中で必要性の高いものとなると思われる(2)。

米国統治下の沖縄における統治構造

図挿入

*垣花豊順「米国の沖縄統治に関する基本法の変遷とその特質」宮里政玄編『戦後沖縄の政治と法』東大出版会、353頁の図を参考に筆者作成

 註
(1) サンマ事件と友利事件がある。これについては高良鉄美「司法―その独立は守られてきたか」仲地博・水島朝穂編『オキナワと憲法』法律文化社178頁以下参照。
(2) 木佐茂男編『地方分権と司法分権』日本評論社199頁以下参照。地方事務に対する法務の地方での処理ということを念頭に入れているが、本稿の問題提起と共通する面も見られる。
6 おわりに―自治と憲法との関係
地方分権が叫ばれて久しいし、現実に法制上も地方分権一括法により国と対等関係に立つ地方分権は行われているはずなのである。ここに、基本的視点として憲法92条でいう「地方自治の本旨」の概念的拡大が求められるし、国民主権を一つの柱とする憲法の構造からすれば、国民がきちんと自らの政府に対して責任を持たねばならないであろう。国民は主権者として、立法・司法・行政を監視し、最終的には参画しなければならない責務を負っているといえる。主権者というのは議員の選挙だけに責任を負っているのではないからであり、国の最終意思決定者とされるからである。そこには司法権も例外ではなかろう。裁判員制度が導入される現況では、まさに国民主権の本流に沿って展開されているといってよい。同様に、地方分権とは何か。国の中の国民と同じ位置づけの住民が地方には存在し、かつ憲法でも地方自治の本旨の一つの柱は住民自治とされているわけであるから、地方の主権者住民が、地方の最終意思決定者である。その地方の主権者が、司法権にだけは何の監視もできないとすれば憲法構造上、住民自治は採れないことになろう。
本来司法権は、立法権の制定した法を適用して裁判する役割を担っている。行政権は、立法権の制定した法を執行する役割を担っている。そして、立法権は住民が選んだ代表機関として位置づけられている。この立法権、行政権に関する構造は地方でも変わりはない。それでは、地方の立法権が制定した法を、地方の行政権が執行し、地方の司法権が裁判するのが、構造的な整合性はあるのではないだろうか。それが、国民主権と地方自治の本旨の融合ではなかろうかということである。その際に一つの鍵が、合衆国憲法修正10条の規定「この憲法によって合衆国に委任されず、かつ州に禁止されなかった権限は、各州又は人民に留保される」という視点である。日本でも外国人の選挙権に関する事件においてこのような視点を一部示す最高裁判決がある(1)。
いずれにしても、自治体裁判所の必要性は今後の議論になるであろうが、地方分権の意義と憲法原理を捉える場合、必ずや直面する課題になろうということで本稿を閉じたい。
   
註 
 (1)選挙人名簿不登録処分に対する意義の申し出却下決定取り消し請求事件、最高裁平成7年2月28日判決。「憲法第8章の地方自治に関する規定は、民主主義社会における地方自治の重要性に鑑み、住民の日常生活に密接な関連を有する公共的事務は、その地方の住民の意思に基づきその区域の地方公共団体が処理するという政治形態を憲法上の制度として保障しようとする趣旨に出たものと解されるから、わが国に在留する外国人のうちでも…法律をもって、地方公共団体の長、その議会の議員等に対する選挙権を付与する措置を講ずることは、憲法上禁止されているものではないと解するのが相当である。」。   


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