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沖縄自治研究会

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宗前報告 上

ローカルガバナンスにむけた政策評価システム設計の構想
宗前 清貞(琉球大学法文学部助教授)


要旨
1995年に三重県で試行が開始されて以来、政策評価システムに対する関心は高まってきた。わが国の政治経済改革に対する動機が高まる中で、「小さな政府」志向は強くなり、折からのNPMブームとあいまってより正確に政府活動の業績を測定し、さらに経済的な公共支出を達成しようという学問的/実践的関心はいまや頂点に達しつつあるといっても過言ではない。
しかし、政府活動の状況を改善することは一義的には主権者である住民にとって理解可能でなければならず、一方で政策領域の多くは実態それ自体を理解するために高度な専門知識を有する必要もある。
筆者はこれまでの研究において(1)政策評価は政策情報の公開の一環として位置づけるほうが機能しやすいこと(2)政策評価システムは単体で機能しないこと(3)政策領域によっては外部的専門家を政策評価過程に導入する必要があることを明らかにしてきた。
本研究グループにおける実務家からの批判によって、以上の知見はさらに洗練されつつあり、本稿において筆者は主として市町村のような小規模かつ運営(operation)中心の組織においてどのような評価制度を樹立するべきかについて考察する。

Accounting Local Government:
Theoretical and Practical Analysis of Policy Evaluation on Local Level
Summary
For this decade, scholars and practitioners in local government have been enthusiastic about policy evaluation. The term is about to become a magic word for city reforms, which seem to eliminate every single aspect of public money wasting and organizational failure. The fact is, almost all prefectures and large cities installed official evaluation and do not see what they had expected.
I have studied in earlier researches that the system works when evaluators have enough knowledge about the policy and the system should be a part of well-structured policy disclosure system. In academia, some have been interested in designing more precise measurement method and some have just insisted governments’ officers are not ready for the system running. No theoretical analysis, however, has been conducted so far that local government may be possible when pieces of reform subsystem embedded in government are organically running. I am now focusing onto this relationship among reform subsystems and try to establish guide lines for employee- and citizen-friendly governance.
In this report I will propose subsystems of city reform to support policy evaluation for relatively manageable cost so that small governments do not hesitate to install the system.

目次
1 序論 14
1-1 政策評価システムの概要 14
1-2 ガバナンスと評価 16
1-3 報告の方向 17
2 組織の欠陥とガバナンス 18
2-1 前提としての情報公開 18
2-2 学習による熟慮 20
3 システム群という発想 21
3-1 簡便なシステム 21
3-2 Clean As You Go 23
3-3 評価の諸視点 24
4 結論 25

1 序論
政策評価(注1) は政策体系全体あるいは個別構成要素を事後的に分析し、資源配分の有効な管理を行うと同時に将来予測のズレを適宜修正するための行政手法である。その際、計画時点では予測しがたい巨大な変化(例えば社会経済上のトレンドが大きく変化すること)などに伴って、既に着手されたり設計されたり実施を前提とした調査が済んでいても事業の中止を決断する機能もあることから、しばしば評価は「ムダな公共事業に対する死刑判決」が期待されることもある。しかし、(1)「ムダ」と明言できるような事業は例外的である(2)事業中止を宣告するための事後評価は精密にならざるをえず、行政ルーティンとしての評価に同程度の精密性を求めることは実用的ではない、という二つの理由から、このような大掛かりな評価がごく標準的な評価機能であると考えることはできない。
それでは一般的に行政過程において期待されるような評価とはどのようなものであるのか。本章では政策評価についての概略の理解に務めることにしよう。

1-1 政策評価システムの概要
1-1-1 評価システムの目的による分類
窪田好男(1998)は評価が既存の政策にどのような効果をもたらすかを考察し、判決型評価と分析型評価に分けた。判決型とは(進行中の)政策終了を想定しているためにその分析には客観性が要求され、組織外部のアクターによって判定チームが構成され、政策形成時における情報量に匹敵する対抗情報によって政策の是非を問う。1996年の国会に民主党が提出した行政監視院法案(いわゆる日本型GAO法案)がその好例であるが、この法案においては議会官僚による行政官僚への対抗を機軸とした対決型の、すなわち政策終了をめざした政策評価像が想定されている。こうした評価は高いコストを要する上に、ある種の政治的決断を要する。発動せずとも抑止効果として行政部の自助努力を引き出せる可能性はあるが、必要とされる情報量・時間・人員を考えるとあらゆる行政活動に対して不断の監視を行うということはできない。
これに対置する第二の評価イメージは分析型評価である。分析型評価は政策サイクルにおける「事中」の分析であり、次の執行段階に進む前にこれまでに政策執行から得られた情報や知

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1 行政活動の評価については、「行政評価」という表現のほうが一般的であるが、行政の評価という用語に必然的に随伴する曖昧さを排除するため、政策の事後分析に関しては筆者は「政策評価」という用語を用いる。したがって政策評価と行政評価は同義ではないが、一般に使用されている行政評価の意味するところはたいていの場合、筆者の言う政策評価であると考えてよい。

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識、知恵を統合してより精度の高い計画調整を行うことを目的としており、いわば「戦犯」を探すことを一義的な目的としていない。こうした「学習」は、ヒュー・ヘクロやピーター・ホールらがそれぞれ「政治的学習」「社会的学習」と名づけたように、政策の水平的な波及において当然に見出されるものである(注2) 。また分析型評価が次の計画段階における活用を前提としている以上、その実施主体は政策デザイン担当者であるところの実施部局であるほうが合理的であり、したがって判決型か分析型かという分類は、結果としては外部評価と内部評価にほぼ対応していることになる。

1-1-2 評価の対象
政策評価は政策に対する評価であるが、「政策」とは何を表しているのかという問いは社会科学における基礎的用語がしばしばそうであるように意外と定義が難しい。筆者はここで政策を「公共的な課題に対する一連の解決策solutionsの体系」および「その体系を実行する政府の活動」と定義することにする。このように考えると、政策の評価とは、公共的課題をどのような状態にするのが望ましいのかという「政策目標」、そうした政策目標に対する接近方法として区分された「施策」、施策を具現化するための「事業」、事業を実行するための「執行」、「予算」、「組織」、「手順operations」といった諸要素から成立していることが理解できる。また、政策目標に対する下位概念である諸要素が相互に連携しているかどうか、あるいは連携のさせ方が妥当なものであるかどうかについても問われる必要がある。したがって政策を評価することは、ルーサー・ギューリックの言う「POSDCoRB」にほぼ対応した事後的分析に他ならない。
政策評価という場合には、そもそもどの政策領域を優先的に取り組むべきか(例えば『パンとバターの選択』など)を指す場合もあるが、これは通常政治的選択そのものを意味しているので本稿で言う政策評価の対象とは区別することにしよう。我々が可視的に認知しうる政府の活動体系は、通常施策(プログラム)レベルからであって、豊かな住環境を実現するためのプログラムであるとか、安定的に野菜を市場へ供給し続けるプログラムといったように、いくつかの具体的な行動が束となって総体として効果を発揮する活動計画群を指してプログラムと考える。
政府活動は金銭資源と人的資源が安定的に供給されて円滑な行動が可能となるので、予算に対応した「事業(プロジェクト)」を通常は単一所管組織に割り当てる。これを事後的に分析するのが事業評価であり、現在の県レベルにおける政策評価制度の中枢となっている要素である。
このほか、組織のあり方に対して改善を前提とした評価を行うシステム評価や業務の割り振り(いわゆる事務分掌)が妥当であるかどうかを定期的にチェックする「業務棚卸」などが政府活動に対する評価に含まれるが、これらは政策実施体制に対しての評価なので、ここでは広義の「執行評価」と呼び、さしあたり議論しないこととする。
政策は上位目的に対する手段の連鎖によって有機的に構成されており、上位目的が動けば下位手段の妥当性も安定しない。したがって下位手段を単独で評価するときには上位において設定された資源配分や目的設定は与件として受け入れなければならない。こうして実施される評価においては、したがって上位で設定された目的に対して(1)効果的に課題を解決したか(2)解決するに際してより経済的な手法で実施したか(3)解決策の選択においてより効率性の高いもの((2)との関連で言えば同一資源の投入の結果、より多数の出力を生んだか)を選んだか、といった有効性Effectiveness・経済性Economy・効率性Efficiencyの三つの基準が要求される。このほかに合法性/合規性Legalityを基準とする場合があるが、この基準は近代行政の原則で

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2 秋吉(2004)、61-62頁。

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ある法令遵守原則Complianceに当然に含まれていると理解できるため、ここでは基準に含めない。

1-2 ガバナンスと評価
前節で述べたように、いわゆる3E基準が政策の本質から評価に対して求められるとして、3E基準が政策のどういう側面を具体的に改善すると考えればよいのであろうか。
政策の失敗が起きるのは、第一に公金の費消で非合理な決定をなした場合である。公金は適切に消費されなければならないが、ここでは絶対額の規模と入出力比の両面から考えてみよう。仮に社会的ニーズは大きいが出費があまりに巨額な場合には、後年度の財政硬直化を招く。その資金調達は通常、公債によってまかなわれ後年度の財政的決定の自由度を著しく束縛する。したがって支出の効率性や有効性にかかわらず、政策決定における絶対額の削減は世代間の財政民主主義を守るためにも当然実施されなければならない。しかし、山谷(1997)の言う「節約」としての経済性(注3) は一般に予算編成過程で最も重視される基準である。また飽戸・佐藤(1986)はトマス・ダイのI/O分析枠組みを用いた研究において、政治的党派性が予算編成にそれほど強い影響力を与えていないことを確認しているので、このことからは少なくとも予算の総額が非党派的に(すなわち行政的に)決定されていることを示唆している。また小林ら(1987)による調査では、財政決定の主たる影響力保持者は財政担当部局であるが建設関連の政策においては市長の意向がもっとも働いていることを明らかにしている。これらの分析からは、経済性に関するコントロールは財政課による予算編成過程で充分に効いているか、または市長の政治的決断による可否の決定のいずれかであって、事後分析によって改めて経済性を強調する必要があまりないと考えることができる(注4) 。
一方、同じ支出でより多くの事業量がこなせなかったかという効率性基準は昨今、ますます重要性を帯びている。資金調達の枠組み事態をPFIなどによって変化させより多くの事業を(場合によっては計画年次より前倒しで)執行することは、有効性の観点から考えても重要な場合がある。なぜなら一部の政策の質は供給量によって決定されることもありうるからである。スター首長と呼ばれる市町村長に群馬県太田市の清水聖義が含まれているが、清水市政においては種々のプロジェクトにおいてより効率的な執行が求められ、市民からの幅広い支持を得ている(注5) 。この場合、効率性の向上によって達成されるのはより多くの事業の供給であって、その目的、優先順位、体系における位置づけは正しいことを前提としている。無論、ルーティン業務においてラジカルに目的を問いながら業務執行をするよう職員機構に期待するのは現実的ではないので、ルーティンにおいて追求されるべきガバナンスとしては効率性を追及する仕組みを打ち立てることは極めて重要な制度設計となるだろう。
残る3E基準のひとつ有効性概念は、政策の劣化についての改善が最も期待される基準である。有効性基準が強調されるようになった背景には、ひとたび支出が決定された事業はその成果がどうあろうともインクリメンタルに継続的歳出決定がなされてしまうのでなかなか状況の改善につながっていない、言い換えると税負担者の視線から見てあまり意義の見出せない事業が継続されていることがある(注6) 。こうした状況は単位あたりの(公的)費用が効果達成に寄与してい

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3 山谷(1997)、18頁、27頁。
4 とはいえ昨年以来、中部国際空港の建設費におけるコストダウンの成功によって、外部者(中部空港プロジェクトの場合トヨタ)がもたらす経済性基準の刷新がいかに大きなインパクトをもたらすか、ということは改めて強調されつつある。しかし本稿においては標準的な財政規模において「巨額」とみなされる歳出が本能的に忌避されていることを指摘したので、経済性原則は政策評価システムの中で(実務的には)それほど重要な要素でないと述べておく。
5 河北新報社編集局(1998)、239-250頁。
6 稲継裕明はNPMが90年代に普及した要因として、「各国が同じような[危機的な]経済・財政問題に直面していたことや政府の非能率に対する国民の批判が高まっていることがその背景にある」という。稲継の分析は必ずしも評価制度を対象として述べているのではないが、稲継の依拠するクリストファー・フッドのNPM定義によればNPMはゴールやターゲットを測定可能な形式で明確に設定し、しかもプロセスよりも結果outputsを重視している。したがって評価制度の定着を後押しする力とNPMのそれはほぼパラレルに捉えることが可能であるといってよい。稲継・村松(2003)、126頁。

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ないという効率性概念で捕らえることも可能であるが、そもそも公的課題の解決策としてまったく意味を成していないのであれば、そのプログラムは有効であるか否かで理解するべき問題である。したがって、政策の事後的検証は、そもそもそのプログラムは課題の解決に貢献しているかという有効性/有用性の基準によって検証され、有用ではあるがより経済的または効率性の高い手段はありえたか否かという経理上の基準によって更なる検証が行われるというほうが政策の検証のあり方としては望ましいといえる。
 山谷(1997)や宮川(1994)によれば有効性概念を中心とした3E基準は政府海外援助ODAの分野で会計検査院によって実施されている。特にマルコス疑惑によってODA検査を開始した1987年以降、開発途上国に対する援助が真に相手国の経済発展に資するものであるかどうかを問う有効性評価は定着してきた(注7) 。加えて1990年代中期より、採算性の疑問が高い高速道路や農水省関連の公共事業などを主たる批判対象として有効性を厳しく問うべきであるとの論調が高まった。したがって、有効性基準の出発点においては政策の意義を問うことによって、そうしたものがない政策を終了させる判定的要素を強く求められていたのである。
ところで、山本清(1998)によれば多くの公共事業において定量的に算出された投資係数(いわゆるB/C)において1.0を下回るものはないことを指摘した。また宗前(2001)はそうした計量的判定手法を細密化することは民主的統制という視点から見てあまり得策ではなく、結果としては閉じた政策形成過程を誘発しかねないと述べた。となると、民主的なガバナンスの方向性として有効性を論じる政策評価にはどのような意味が、言い換えるならばどのような成果の向上が期待できるのだろうか。
この点で示唆的なのはある種の参加型計画手法である。岩永俊博ら(1996)はジェラルド・ナドラーの提唱したブレイクスルー思考を応用し、保健のまちづくりに関する取り組みにおいては受益者を含めて解決策solutionsを設定するべきであり、そうすることで非政府的non-governmentalな手立てを地域が実行する際に責任を持って行えるようになると予測した。岩永は「風船図」と呼ばれる”目的=手段”の連関図を描き、さらにその主体を参加者たちが自発的に確定していく過程で最小費用にして最大効果の上がる解決策群が設定しうると述べ、具体的には千葉県八千代市などにおける取り組みを紹介した。このことは、有効性基準が客観的なものというよりも関与する人々(特に政策の便益を享受する側)にとってそう「感じられるかどうか」という主観的な側面の強い判断基準であることを示唆している。有効性基準の測定と実施にあたっては「どのように政策を策定したか」という手法のあり方と切り離して考えることができないのである。したがって、有効性基準を含めて政策評価を実施していくならば、受益者たちの参加は規範的な議論を離れてさえ(つまり民主主義的規範を仮に前提としなくとも)必要なものであって、また参加はそれ自体が目的ではなく参加によって(しばしば高度な)政策情報の学習と理解が進展しなければならない。

1-3 報告の方向
以上に考察したように、政策評価がガバナンスを達成するためには種々の条件があることが理解できたが、本報告においては特にもっとも情報伝達が困難であるという理由から、住民と行政組織における政策評価のあり方、より具体的に言うならば政策評価をめぐってどのような

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7 会計検査院『会計検査でわかったこと(平成13年度決算検査報告と会計検査院の活動状況)』、2003、12-13頁。

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体制を整えることが必要なのか、という方向性を明らかにしていきたい。情報の公開とステークホルダーの決定過程への参加はすでに行政過程の民主化においては標準的な手法として称揚されつつあるが、これらの改革手段はしばしば規範的側面と実証的有効性が混同されているきらいがある。本稿ではサブシステムとしてのガバナンス諸手法とこれらの手段がどのように連結されたときにもっとも効果的であるかという分析を通じて、制度設計の基礎的理念を提供したいと考える。

2 組織の欠陥とガバナンス
公共政策のほとんどすべては行政組織を通じて設計され供給され評価される。特にわが国の地方自治においては政府が公共政策の独占的主体である。政策が作動しない、あるいは劣化した政策が放置されているのは、こうした独占それ自体から生じる場合もあり、その場合には政策過程における設計・供給・評価を開放しなければならない。しかし現代社会における公共的課題は、外部者(特に住民)が参加すれば解決の実効性が自動的に担保されるのであろうか。狭い視野は解消されても、アマチュアリズムでは対処不能となった高度な専門情報が放置されているのであれば、結果として解決策の有効性は劣化するおそれすらある。そこで本章においては、専門情報を取り扱っている場合に欠陥はどのように生じるのか、それを外部に開放した場合にどういう条件がなければ有効な政策立案につながらないかという設問を明らかにしていく。

2-1 前提としての情報公開
 情報公開は1982年に山形県金山町でわが国初の条例が制定されたのを皮切りに神奈川県、埼玉県、川崎市、東京都などで次々と条例化されていったが、その本来的な政策目標は政治腐敗の監視機能であった。伊藤修一郎は情報公開の波及過程を分析する中で、1980年代における情報公開運動は(1)ロッキード事件、ダグラス=グラマン事件など政治腐敗に対抗するために(2)80年代中期からは自治体をターゲットに(3)しかも先駆的取り組みを行っている自治体に対して透明性の高い条例を制定することを目標に行われていた(注8) 。したがって当初は政策革新のツールというよりも政治浄化の手段とみなされており、公正な情報を生のままに提出することが前提であった。
 当然ながら政治腐敗と政治不信の進行は同期しやすく、政治不信が昂じると政府セクターの行為に対して無関心になってしまう。そのため政治の側に与えるプレッシャーはきわめて大きく、伊藤も情報公開条例の制定(と波及)が政治主導で行われたと結論付けている。ただし、そうした理念を具現化する過程は極めて実務的であり、多くの県レベル条例は先行者も遅滞者も長い検討を踏まえて制度化に踏み切っている。首長サイドの要請する「政治への信頼を取り戻す」というあいまいな理念が実務的に処理可能な行政理念へと変成する過程こそが条例制定過程であり、その過程が実務的であればあるほど「深刻な対立があったのは先行自治体においてだけで、全体として穏やかな制定過程であった(注9) 」と言えるほど政治的熱狂からはほど遠いものとなった。
情報公開が政策過程において市民的意味を復権するのはいわゆる改革派知事たちの登場、より厳密に言えば彼らが食糧費スキャンダルに対処した手立てによってである。改革派知事はいわゆる御三家(高知・橋本、三重・北川、宮城・浅野)、あるいは岩手の増田を加えて四天王とも呼ばれるメンバーたちをその嚆矢とするが、彼らに共通しているのは非自民系かつ非革新系

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8 伊藤(2002)、第四章第一節。
9 伊藤、前掲書、164頁

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であり、いわゆる無党派層の支持を背景にトップマネジメントを行っている点である。筆者はこの点を重視し、宮城県知事浅野史郎の言を引いて「出生の秘密」と名づけた(注10) 。彼らの行政は常に分かりやすく常識的なものであらねばならず、食糧費スキャンダルに際しては「反省」「再発防止の具体策」「システム全体の見直し」の三点セットで対応に臨んでいる。特に宮城は現職知事と前任副知事(当時仙台市長)の逮捕から二年も経たぬうちにスキャンダルに見舞われたためにその信頼性は地に堕ちたとすら言われたが、逆境を政治的機会として最大限に活用し、その後全国市民オンブズマン連絡会議(以下、「オン連」)からは第二回をのぞき、第七回(2003年)まで合計で六回の一位評価を得ている。
ただしオン連の言う透明度は非違の摘発に向けた基準であり、政策形成の基礎となっている情報を主権者と共有し、相互に学習機会を持つ方向性にはない。その点では市民自治を永年主張してきた松下圭一の言う情報概念とは異なっている。それでは学習機能の前提となる情報とはそもそも何なのだろうか。
松下は市民主体の自治を作るためには争点情報・制度情報・政策情報の三つが必要であると述べる。争点情報とは何が政策の課題であるかを明らかにした上で、解決技法の類型化作業を行うことである。制度情報とは現在の統治システムにおいてどのような仕組みが用意されているかについて行政が率直に明らかにすることである。またこの中には企業で言う財務に近い財務情報が包含され、資金調達に関する情報を含む。つまり、予算編成における歳入の限界を強調する含意の強い「財政(予算編成)」という単語よりも広義である。最後に政策情報とは、彼の定義する政策概念と密接に関連している。松下は政策を公共的課題の解決技法とその体系であると考え、したがって政策に必要な情報とは社会的に生じている問題は何か、それをどのように解決するのかという「認識」と「解法」の両義性を有していると考えられる(注11) 。ジェイムズ・マーチやヨハン・オルセン、あるいはジョン・キングダンらゴミ缶モデル学派が言うように、行政組織における認識の幅は状況的に決定されているために、たとえ当事者に悪意がなくとも社会的な状況の改善につながらない課題設定を行っている可能性は絶えず残っている。したがって政策形成の第一主体である政府部門は、絶えず自らの政策体系を主権者に示し、設定された政策目標・構成されている施策群・個別事業の効能について外部的検証を受けなければ社会的ニーズと政策の乖離を生じてしまう。
 こうした分析からは、単に非違の不在を証明するための消極的情報公開にとどまらず、社会全体で問題認識を共有する積極的な情報公開、換言すれば公正かつ適切な情報加工(ないし政策プレゼンテーション)が必要となる。北海道ニセコ町長を務める逢坂誠二は松下の理論に多大な影響を受けているが、彼の着手した全戸配布・事業別の予算書は松下の提案する情報加工の良質な実例といえるだろう。しかし予算書は基本的には財務情報であって、課題解決に向けてどのような方策を採っているのかは理解できたとしても、今採っている解決策が本当に課題解決jに結実しているのかを必然的に明らかにするわけではない。
そこで次節では、学習機能を地域において再生するためのメカニズムとして政策評価を捉え、政策評価は学習を促すか、また学習は地域全体の福祉向上を考えた熟慮にいたるかどうかを明らかにしよう。

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10 宗前(2002)、69-71頁。伊藤(2002)によれば、もともと情報公開条例は政治不信に対応するために80年代初頭に着手された改革手段である。したがって無党派の信頼を失った場合に再選可能性を閉ざされる改革派知事が情報公開に熱心であるのは当然の流れである。
11 松下(1991)、特に第9章。

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2-2 学習による熟慮
 政策は前節でも述べたように情報に依存して形成される。政策研究理論においては情報のハードさ、言い換えるならば参入の困難度によって本質的に排外的な政策領域が形成される場合があると考えられ、これは通常「政策共同体policy community」と呼ばれている。宗前(2001)は政策共同体の成立するような政策領域においては、そうでない政策領域と同様に政策評価の可能性を指向することが意味を成さないことを指摘した(注12) 。政策領域の中には、目標設定や手段の選択およびその優先順位づけ、費用計算などについて専門家間の合意が成立している場合が多く、その場合には明示的な政策の設計図など用意しなくとも暗黙知として関係者間で了解されたまま政策が進行していくのである。では、政策の設計が開いていない場合に生じる欠陥はどのようなことが想定されるだろうか。
 第一に、目標設定があいまいであるために、進行中の政策管理ができなくなってしまうことである。達成度を問うためには最終的にどのような状況を生み出していなければならないか、というアウトカム(社会的成果)志向の目標設定を行わなければならないが、暗黙知によって目標の明示化を避けていると何を目指して事業を執行しているのか不明朗なまま、事業執行それ自体が目的化することになる。こうした自体を避けるために政策目的は体系的に咀嚼し、個々の目標に統御される強力なオブジェクト指向政策管理を遂行しなければならない。
 第二に、現在の公会計制度が事業projectを単位とした費用計上を原則とせず、歳出性質別の管理を行っているために、「その仕事」から生じている本来的費用を計算しづらい点である。この場合、関係者間にはある種の相場観のようなものが共有されていて、これも暗黙知的に会計管理を行っているのかもしれないが、歳出の公的コントロールと実体の間に乖離がありすぎれば結果的には誰にも財政資源を適正にコントロールできないという事態が予測される。これを乗り越えるには事業ごとに予算をコントロールするシステムを導入し、何のために公金を費消しているのか了解しやすい管理手法を導入しなければならない(注13) 。いわゆる事業別予算制度は従来、コスト削減として考えられがちであったが、財政規律fiscal disciplineという観点から予算編成を再考すると「わかりやすさ(納得と合意による支出の決定)」を達成するためにきわめて有効な制度である。
 第三に、政策設計の段階で関係者が関与しないのであれば政策と受益の距離は開いていき、主権者の政策疎外が生じやすい。こうした疎外は受益と負担の関係をあいまいにしてしまい、したがってコスト的制約から生じるかもしれなかった政策のイノベーションを逸してしまう。わが国の政府間財政関係においては租税自主権の余地が狭く、中央政府のパターナルな財政規律関与が行われているために、政策コストを下げれば減税という形で便益が返還されるという直接的な関係が生じにくい。そのため、松下の言う「モノトリ主義地方自治」に堕する危険性が常に生じているのである。筆者はモノトリ主義を政治的病理から生じる精神的依存現象とみなしておらず、制度的欠陥から生じる行政病理mal-administrationであると考えている。したがって制度の改革によって依存状況の改善は相当程度期待できる。学習の機会を増やすことが状況改善の打開策であるが、政策評価を含めた情報公開は、漠たる情報体系である政策に関して議論の素材を提供する役割を担うであろう。

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12 宗前(2001)、136-137頁。ここではハードな政策情報を必要とするような政策領域において閉じたまま政策評価を行えば、政策デザイナーが善意で設計した政策によって国民に対する何らの福祉向上ももたらさない場合があるという形で共同体のネガティブな側面を強調している。しかし、その成果が明白に生活へと影響する政策は争点化されている例外的なケースであって、その先に展開されるのは政策過程というよりも政治過程である。多くの政策はプロフェッショナルな判断によって穏やかに展開していく、言い換えると対立を機軸とする政治の問題ではなく、検討・習熟・蓄積を基軸とする学習過程として政策過程は展開される。
13 紙幅の関係上、事業別予算制度の概略は述べないが、最も体系的にこの問題を扱っているのは斉藤達三(高崎経済大学)と小西砂千夫(関西学院大学)である。特に斉藤、1995、『事業別予算入門』、ぎょうせい、と小西、1999、「自治体予算・決算システム改革の方向と三重県の試み」、『TOMORROW』、あまがさき未来協会を参照されたい。

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 もしも自治が自らの地域の課題を自ら設定し、解決の優先順位も自己完結的に行う、という意味で理解するならば、地域内の少数派に対する配慮を行う制度的保障がなければ常に多数派の圧政が行われる危惧も無いとはいえない。アメリカの連邦主義が80年代に変容する中で、ピーターソンとロムは『ひきつける福祉』において開発トトレードオフの効果をその本質においてもたざるを得ない再配分政策は連邦の管理において実行すべきであると述べている(注14) 。自治体政策の多くはピーターソンらが危惧するほど強い政治経済的効果を持たないので、リベラルな理念を守るために分権化を否定する必要は無い。しかし、少数者(福祉クライエント、周辺地域、周縁的産業従事者など)の利害に対してそれなりのバランスを取らないならば、地域的紐帯は失われ何のための地方自治であるかが根本的に問われることになる。
 この問いに対する一つの答えは学習機会を総合的に保障するということになるだろう。すなわち、個別案件について自治の名の下に容喙させるのではなく、全体的な状況を主権者が理解していて総枠としての行政資源配分について決定を行うことで自治を担保し、個別策の進展に関してはプロフェッショナルかつ公的責任を持つ自治体職員に委託するという自治の基本に立ち返ることであろう。政策評価の判決的機能にのみ着目すればその強力な統制力が人権の侵害につながることは否定できず、結果として改革に立ちすくんだまま何の状況改善も図られないことになる。むしろ事後分析としての政策評価の特性を充分に活用し、その行きすぎを是正するためには行政資源管理の諸改革を組み合わせることで相対的に軽い改革が具現化されるように思われる。

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14 Peterson et Rom, 1990, Welfare Magnets; A New Case for a National Standard, Brookings


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