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沖縄自治研究会

沖縄自治研究会

沖縄自治基本条例  

○総合司会(照屋勉) それでは早速、発表に移らせていただきます。
現行の自治法内での自治基本条例の報告でございます。前津、徳田、宗前の報告でございます。よろしくお願いいたします。


○司会(前津榮健氏)  皆さん、こんにちは。G1グループの司会を務めます、沖縄国際大学の前津です。私たちのグループは、宗前さん、それから徳田さんの3名で、これまで数回モデル案について議論をしてきました。きょうは、私たちは条文の形では提案しておりません。ただ、自治法の範囲内であればこの程度まで盛り込むことができるだろうという点について議論してきましたので、その中心となる部分をお2人からご報告していただくことになります。

 先ほど島袋純さんからありましたように、私たちに与えられた課題は、憲法、それに地方自治法の範囲内で検討してみるとのことでした。もう1つは、基本条例という場合に、行政基本条例という場合と、自治基本条例と、つまり行政内部の、行政にかかわるだけの基本条例と、より広いものがあるわけですね。私たちは自治基本条例であるという認識の下で議論を進めました。

 その際に、沖縄でも過去にいくつかの宣言・憲章などが出されたことがあります。その中でも一番参考になるのは、玉野井先生が中心になってなされた、皆さんのお手元にある資料で「生存と平和を根幹とする沖縄自治憲章(案)」です。これが1985年にまとめられた案であります。これは玉野井案と言われておりますが、この案づくりには、仲地博先生、それから沖国大の西原森茂先生、それから大林先生の3名の方々が関わっており、しかもこれも憲法の範囲内で、しっかりと議論がなされた上できた案であります。20年前に、こういった立派な案が県内でできていたのです。しかし、これを実現することはできませんでした。

 この憲章案をじっくり読んでみると、十分まだ活かせる部分があり、それを参考にして、その後のいろいろな研究成果等を盛り込もうということで議論をしました。私たちは論点を2つに分け、宗前さんのほうが組織論、情報公開、自治の原則、それから評価論についてまとめております。それから、徳田さんのほうは自治における権利論ということで、新しい権利も含めて議論しました。

 宗前さんの報告については、沖縄はやはり離島県でもあり、その中にまた多くの自治体がまた離島にあることから、何らかの特徴を出せないだろうかということについても議論いたしました。それから、人権論のところでは、実際、この権利を保障した場合に、それを実行あらしめるための何らかの制度が必要になるのではということで、そこを中心に議論いたしました。以上の点について、お2人のほうから詳しくご報告していただきたいと思います。

 それでは、宗前先生、お願いいたします。


○宗前清貞氏  琉球大学の宗前です。本日はお運びいただきまして、ありがとうございました。 最初にちょっとした雑談から始めていこうと思います。

 我々が考えている現行法の中で自治をもう1回考えていこうというイメージは中部病院を例に取って考えるとわかりやすいかと思います。ご承知のように、中部病院は沖縄市近郊にある大きな病院です。県庁所在地にはないけれども、戦後の沖縄の医療を復帰前からずっと支えてきた大きな非常にしっかりした病院です。

 何の話をしているかと申しますと、この4月1日から我が国では医学部を卒業した人間が研修医として研修をすることが義務づけられました。それまでも研修医制度はありましたけれども、義務ではなかった。2004年4月から厚生労働省が義務化に向けて法案をつくっているときに、その考え方として手本にしたのが中部病院の研修システムだったと言われています。ご承知のように、戦前、復帰前、それから復帰後もしばらく沖縄県には医学部がありませんでしたから、国費沖縄学生制度という形で沖縄の学生たちは本土大学の医学部に行っていたけれども、帰ってくると沖縄の医療状況があまりにも悪い。悪いので、まじめな医者ほど「もうやっていられない」と、またヤマトゥに戻ってしまっていたようです。

 1960年の中ぐらいからこういう状況を何とかしないといけないということで、琉球政府内の有志たちがいろいろ知恵を絞って、中部病院の中で新しいアメリカ型の研修医制度をつくって、医者のレベルを上げていこうじゃないかとなった。その後およそ40年にわたる取り組みがあったわけですけども、彼らは別に日本の先頭を切ろうと思ってやっていたわけではなくて、現に今ある問題を乗り越えていかなければならない、どうしたらいいんだろうかということを一つ一つ誠実に考えていった。そしてハッと気がついたときには、国内でもほぼ最先頭を走る教育研究システムであるという評価が定着しております。具体的には全国で毎年7,000名ほど医学部の卒業生はおりますが、そのうちの200名が中部病院の研修医になりたいということで研修医試験を受験しに来ます。採用は20名ですから、15倍というとんでもない倍率になるわけですが、プライマリーケア医を目指す人々にとっては、中部病院で研修をしたということ自体がハクになるほどのステータスを持っているわけです。

 目の前にある問題を真剣に考えて丁寧に分析して、そしてそれを制度に生かしていくということができるというのは、地方自治の本旨というか、地方自治の本来の考え方に沿ったものであって、そういうシステムを沖縄が実はもう持っているということを、私は常々講義の中でも学生に強調しておりますし、それから地方自治を考える際の一つのモデルとして中部病院というのはいい組織だなというふうに考えているわけです。

 こういう意味で「現行制度の中の改革」というものを考えているわけでして、決して妥協的であるとか、現実性を重視したということではないのです。今ある制度をとにかく100%生かしていこうじゃないか、その中でどこまでやれるかというのを考えたのが我々のグループで考えた際の基本になっています。

 ペーパーを用意しておりますので、細かい話は「沖縄自治研究会2004年シンポジウム、グループ1、中間報告補足ペーパー」という形で、私と徳田先生の要旨を7ページにまとめておきました。「自治を支える制度」と題しまして、1ページから5ページ目まで私の論を掲載しております。それから6ページと7ページ目に徳田さんのものがありますので、併せてごらんください。

 我々が地方自治を考えるときに、現行の制度の中に埋め込まれているものであっても大きな要素があります。そのうち最も重要なものは何かと言えば、それは公開をして透明性を高めて行政をやっていくことです。それから、住民全体が行政あるいは自治そのものを形作る際に参加できることも大切です。さらには公開され、参加された自治の中において、「分際をわきまえる」ことも大事です。例えば、我が県はいろいろ社会資本の整備が遅れているからお金をチョウダイチョウダイというような物取り型行政にならないように、よい意味で分際をわきまえる。言い方を変えますと、基本的に財布の中身を考えながら、自分たちにとって一番今必要なものを優先していく、今必要でないものは優先しないというごく当たり前の原則を考えようということです。

 ただし、そのときに弱者が切り捨てられたりしないように、財政的な、あるいは自治の将来像をつくっていくときの自律性を求めていく中では、しっかりものを考えようじゃないかと、つまり「熟慮」ということが大事です。自治においてはそうした少数者、弱者に対しても配慮しながら決定をしていくことだと考えたわけです。

 2ページ目に移りますが、統一的な条例案を提示して、どこの自治体もこれを目指せということはあまり現実的ではない。おのおのの自治体が置かれている状況というのは相当違いがあります。例えば、情報公開条例一つをとっても、那覇や浦添のように比較的県内で進んでいる自治体があれば、まだ作っていない自治体もある。あるいは、作ったは作ったが、住民課の中のある一人が担当していてしかも他の仕事も抱えているというような状況で、到達点を示してココまでやれ、ということもなかなか大変だろうというのがあります。そこで一つの大きな原則と、それから目指すべきステップを提示して、行けるところまで行く。おのおのの自治体が自分たちの判断で、自分たちは将来ここまで行きたいが、今はまずここだというような感じで条例案を作っていければいいと思う。そのときの基本的な考え方を提示するというふうな考えに基づいて中間報告を執筆しました。

 情報公開については前津先生が大変詳しい専門家でありますけれども、私も今日の報告のために慌てて調べましたところ、我が県は制定率という点でいうと、全国でもブッチギリの最下位ということになっています。2004年4月1日現在の総務省調査によりますと、県内市町村52のうち制定市町村数は32、率でいうと61.5%です。ブービーの熊本は72.4%。その一つ上位の島根は78%で、80%を切っている県は全国で六県しかありません。

 このように考えますと、情報公開制度というのは、沖縄においては全然根づいていないということが言えますが、とにかく作ればいいのか、それとも中身や地域風土(情報公開を求める声)が充実するまで待ったほうがいいのか。なかなか難しい問題ですが、私はとりあえず作るだけでも意味があると考えています。作っただけでも意味があるというのは、資料の1.1から1.4に至るような情報公開条例によって達成するべき目標というものがある、それは情報を共有すること(よい意味の文書主義)に至るためにまず作るということが大切だと考えているわけです。

 それから、公開されている、つまり何かコトがあったときには隠しておけないとすれば、多分誰も見ないだろうけれどもしかし何かあったら見られてしまうかもしれないという意味での、政策当事者たちの緊張感を生みます。あるいは、根拠をはっきりさせて政策というのはつくらないといけないという常識を徹底させることにもつながるだろうし、あるいは1.3ということになれば、どうせ開いている、つまり情報公開しているのだから、どうぞいつでもご覧くださいという具合に参加を促すことにもなるだろうし、さらには、ただ単に、「いや疚しいことはありませんからいつでもどうぞ請求してください」というだけではなくて、我が自治体は今こんな感じですというデータを、もちろん改ざんしてはダメですが、わかりやすいという形で加工することも重要です。

 つまり、分かってもらうための積極的な情報公開というところまでいけば、これは参加を求めるための、つまり自分たちの自治体の現時点での情報をどんどん出していくという意味での情報公開につながるだろうと考えたわけです。逆に言うと、単に情報公開をしなければならないというふうに規定するだけではだめで、1.1から1.4に書いてあるような状況を達成するようなサブシステムというか、次なる仕掛けづくりを埋め込んでおかないと、ただ「情報公開をしなくてはいけない、以上です」ということで終わってしまうかもしれないのです。

 公開したら今度は当然、より多くの人々に計画づくりや、執行体制のチェックや、あるいは日々ざっくばらんにものを言ってもらうという意味での政策過程への参加が必要になってきます。実は住民参加というのは1970年ごろから、当時の革新自治体を中心に着手され、全国でそれなりに長い歴史を持っていて急に今始まったわけではないのです。ただ、一方で70年代、80年代においては、「いや、住民参加なんていうのは革新自治体の専売特許で、ウチではどうもね」とか、「東京ではできるかもしれないけれども、田舎のウチでは無理だろう」とか、それから、「いや、武蔵野市みたいな進んだところではできるかもしれないけれども、ウチはまだまだそこまでは」というような感じの扱われ方をしていることが多かったようです。

 しかし、幸か不幸か、まあ不幸なことですが今はお金がない。お金がない中で、何か政策を切らなくては、すなわち住民に痛みを強いるときに、「決めてしまったからあとはよろしく」とはいかない。痛みを強いる以上、できるだけ多くの人に入ってもらって、「悪いけれども今はこういう状態だから我慢してくれないか」ということで、いわば全員納得の上で痛みを強いるというふうにしないと、大問題になってしまいます。結局、財政難という状況が参加をただのキレイゴトではなくて、避けて通れないものというふうにしていったのかなというふうに私は思っておりますけれども、理由はどうあれ、参加というのが現在では自治体行政における標準になりつつあるわけです。

 問題は、「参加、参加」と言うけれども、参加にもいろいろあるわけですよね。「公聴会をやってただご意見を拝聴しました、以上」という形もあれば、「選択肢はいろいろ用意します。止めるという選択肢も含めてあなた方が決めてください」という形もあります。これは横浜市の道路行政で実際にあったケースですけれども、やめてしまうというのもアリですよ、あなた方が決めるんですよ、我々役所の職員はプロとして案づくりのお手伝いはするけれども、決めるのはあなた方なんですというぐらい、住民の側に責任をきちんと返すというような参加もあるし、いろいろあるわけですね。

 また住民とは誰か。戸籍を持っている人のみなのか、20歳以上なのか、18歳も含むのか、子供もそうなのか、あるいは今いない住民、20年後に栄えている我が町にやってくるであろう住民を代弁する人も含むのかということが考えられます。資料の2.1から2.3までサブシステムを考えてみましたが、住民というのは非常に幅広くとったほうがいいだろうと私は考えています。
いやしかし、そんなことをいうと収拾がつかなくなるだろうとお考えになるかもしれません。たしかに当初はそういうことはあるかもしれませんね。でも、住民参加というのは、事務局の側、つまり役所の側が腹をくくって、ここからここまでは住民の側で決めていただいて結構ですと。それから議会と執行部と、それから参加される審議会との関係をきちんと整理すれば、一年も経たないうちに大体落ちついていくものなのです。
 
 かといって住民というのは、例えば、私の場合では子供がいますので、保育行政とか児童とか、あるいはごみということには興味があるけれども、年金については「重要な問題だとは思うけれども、なかなか現実感を持てない」というわけですぐ入っていくことにはならない。そこでもし何かモノを申してもとんちんかんなことを言ってしまうので、そこには僕は多分出ていかないと思います。要は、住民というのは生活局面に応じて関心を持つ領域が違いますから、そういう点で言うと、関心を持つべきところにその人の知恵を最大限生かせばいい、全員参加でなくていいと私は考えております。
それから、範囲と手段ということについてしばしばありがちですが、例えば沖縄ですと豊見城のように急速に発展した町では旧住民と新興住民間の対立が生じることがあります。新興住民のほうが数は多いけれども、決定機構に入っているのは旧住民の代表ばかりであるということになってしまうと、何のための参加だかわからない。したがって、職種も自営業者からサラリーマンまで、もちろん主婦、子供も場合によっては入りましょう。それからそういったに特定の階層だけが参加してほかの人が事実上排除されることがないように、具体案はそのペーパーのほうに書いておきましたけれども、できるだけ幅広い参加を募るように工夫をしなければならない。極力、全住民の階層を代表するような構成を図らなければならないといった趣旨の条項を設ける必要があると思いますけれども、そういう形で多くの人の参加を呼ぶということが必要だろうと考えています。

 それから、政策評価についてご説明します。政策評価あるいは行政評価というのは、なかなか誤解を招く表現です。これは私の専門になりますから、ペーパーに若干詳しく書いておきました。ぜひご一読いただきたいと思いますけれども、評価というのは、判決を下すのとはちょっと違います。これはムダだ止めろとか、これはいい政策だからどんどんやりなさいという、まるで裁判官が被告に対して判決を下すイメージで評価制度が語られることが多いけれども、実はそうではなくて、政策評価というのは、当初思ったとおりに政策は動いているのか検証する、あるいは不可抗力によってなかなか達成されていないようだとなったら、犯人探しをするのではなくてどうすればいいんだと事後分析をすることだと、こう考えております。

 つまり、事後に分析をすること、わかりやすく言いかえると、住民と行政と議会が真摯に問題に向き合って学習をすること、あるいは学習をする機会である。こういうふうに考えると、政策評価をやらないという選択肢はもうあり得ないわけでして、できるだけ多くの人が政策評価をきっかけにして、今ある政策の体系というのを不断に考えていく仕組みとして大事だと私は思っています。

 ですから、政策評価は、「いや、あれは数値目標を設定して、すぐコストカットする道具だろう」とか、「いや、結局、効率性効率性と言っているだけなんじゃないか」という誤解を招きがちですが、またそういう政策評価制度があるのも事実ですが、本質はそこにはないということは申し上げておきたいと思います。

 最後に、熟慮というちょっとあいまいな概念について説明いたします。熟慮というのはなかなか大変です。きれいな言葉ですが具体的にどうすればいいのか考えてみますと熟慮を具現化する考え方は幾つかあります。それは住民が本来持っている人権を、役場の職員がプロとして代行しているという観念を持つこと、そういう規定を条例の中に置くことです。
そして同時に、では住民の権利を代行する役所職員イメージで自治を語るとき、誰がその情報を持っているのか、だれが一番そういう手助けができるのかといえば、総務官房系の職員ではなくてあくまでも現場で事業を実施している職員であるはずです。このように考えるならば、新しい組織像というのは目の前で広がっている情報を正確に把握し、正確に分析し、そしてそれに対応する形で政策案を練っていける組織でなければならないはずです。

 その意味で庁舎の中で分権をすること、あるいは合併した後でも旧村を中心した内部団体、西尾私案でいうところの内部団体などを使って自治体内部でもそれなりの分権を図っていくことが大事だろうと思いますし、そうすることが3.3に書いてあるような、学習する組織というものをつくっていけると考えます。

 そのほかにリストラの話がちょっと書いてありますけれども、これは時間の関係で割愛させていただいて、最後に一言申し上げますと、要はそんなに肩の力を入れないでも自治体の改革というのは実はできるわけでして、いいと思ったところは真似ればいい。ただ単に真似るだけではなくて、真似ながらウチの自治体では何が問題なのかというのを常に考え続けることが非常に大事なわけでして、要はいつも考えている自治体を作る。これが私たちのチームのいわば組織制度論としての結論になったわけです。

 これについてのご質問をこの後お受けしたいと思いますので、まずは私の報告を終わらせて、徳田さんのほうにバトンタッチさせていただきます。どうもありがとうございました。


○司会(前津榮健氏)  宗前さん、ありがとうございました。
 宗前さんのほうからは、情報公開、参加の問題点、それから政策評価というものは学習であるというような内容の報告がありました。また質疑応答で詳しくお願いしたいと思います。
 続きまして、自治における権利論ということで、徳田さんにお願いしたいと思います。


○徳田博人氏  徳田です。よろしくお願いいたします。

 まず、再度レジュメの確認ですけれども、「沖縄の新たな自治を提案する」の3ページ目の権利論、漢数字の「三.権利論~徳田」と書かれているところに沿ってお話をしたいと思います。

 それともう1点は、私が使う資料と言いますか、自治を支える制度、宗前先生の名前が最初に書かれていますけれども、その6ページ目、自治を支える人権、徳田博人と書かれております。その2つに沿ってお話を少ししたいと思います。私に与えられている時間は10分ですので、その範囲内で簡単にまとめたいと思っています。

 まず初めに、基本条例とはそもそも何なのかということを考えてみました。私は法律を専攻しておりますので、いろいろ議論したものを将来、条文化する場合に、どういう形で条文化したほうがいいのか。そういうことが頭の中にあって、なおかつ自治基本条例というのはどういう性質の法律なのか。あるいは条例なのか。そういうことを頭に入れながら、先生方の議論を条文化、最後の文字化するときにどういう形で文字化して、なおかつ自治を充実するものにしたらいいのかと、そういう問題関心からあれこれ考えました。

 少し脱線いたしますけれども、例えば、最高裁判所は教育基本法という法律がありますけれども、教育法の関係で言えば、学校教育法、教育公務員法、いろいろ法律がありますけれども、これらの法律を解釈する際に、教育基本法に照らして解釈しなさいと言っております。すなわち、基本法とは何かというと、その領域に関係する法令や政令を制定する際に、参照すべき、あるいはそこで定められている原理や原則に照らして解釈をする際に、その指針となる法律であります。

 その意味で例えば、先ほど前津先生がおっしゃっていた玉野井草案ですとか、最近自治基本条例で有名になりましたニセコの条例でありますとか、あるいはカンバラさんの試案というのがありますけれども、これらすべての仕組みも同じようになっておりまして、理念があって、原則があって、人権があると。そういう形。それに照らして、これこれの制度をつくりなさい。あるいは制度があった場合であったとしても、この自治基本条例に照らして解釈しなさい。あるいは水準をこの基本自治条例に到達するまで、制度設計を上げなさい。そういうものであります。

 さらに、そういうことでありますので、基本的には基本原則と理念や人権に重きを置いて定めるべきものだと思っていたということで、そういう手法、手順を踏まえて私が大切だと思った人権は、自治権、平和的生存権、知る権利、参加し、意見を反映される権利、学習権等、基本的にそういったものを押さえて、その他、我々県民や住民には日本国憲法で保障される人権があるんだと、そういうふうに考えております。

 すなわち、基本的には日本国憲法でいう人権は非常に豊富な内容を持ちますから、わざわざ自治基本条例でもう一度書く必要はないんですが、再度、自治を実現するという形で人権を再構築したら、どういう人権が必要なのかという、そういう意識から先ほど指摘した人権を取り上げたということです。

 ところで、なぜ人権保障かということでありますけれども、例えば、知る権利、我々に知る権利があるといった場合に、物の売買契約をしたらわかるんですが、私がAさんにこのペンを売る。そうすると、私はAさんからお金をもらう権利があるわけです。私はお金をAさんからもらう権利があるということは、逆に言うと、Aさんは私にお金を支払う義務があるということを意味します。これと同じように、住民には権利があるんだということを言いますと、例えば知る権利があるということを、逆に言いますと、自治体行政や自治体の側には住民に適切な情報を提供する義務があるんだ。そういう理論構成になるはずです。

 先ほど宗前先生の報告でありました、参加の原則、公開の原則、熟慮の原則等々というのは、非常に重要な原則でありまして、この原則を権利の観点から構築しますと、公開の原則に対応するのが知る権利でありまして、参加の原則というのが意見を言える、意見が反映される権利になるだろうと。もう1つは熟慮の原則というのは何かというと、私は学習権だと思っています。

 例えば、行政の側が住民には参加する権利があるんだよと言っても、適切な情報や学習の場を与えることなく、ただ単に来てちょうだいと言って、文書をぱっと渡して、1時間で読んでください。それで意見を言ってくださいといっても、その中に書かれている意味を本当の意味で理解させて、その上で議論をしなければ、参加というのは形式的になります。参加をした上でも住民には学習してもらい、あるいは行政と一緒に学習をする。そういう諸権利が住民の中に保障されなければ、結果的には行政の行った、あるいは自治体の行ったことを単に正当化するだけの一過程になるのではないかと、そう思うわけです。それで、学習権ということを1つの権利としてとらえたということであります。

 それと、平和的生存権でありますけれども、平和的生存権というものは、先ほど沖縄の置かれている現状を考えたときに、離島県であるということ。もう1つは基地があるということ。この特殊性を前提にして考えますと、平和的生存権という権利を人権だというふうにとらえ、それをどう実現するかということを自治体レベルで真剣に考えていくことが必要だろうと考えたわけです。

 さて、最後に自治の権利というものを取り上げておりますけれども、実は最後に書きましたが、出発点であります。憲法では、地方自治は住民自治と団体自治というふうに説明されますけれども、その出発点となる実は地方自治の本旨と言われているものを人権としてとらえてみようと。住民自治というものを住民の自己決定権、住民が本当に最終的に重要だと思うことは、住民自身が決定できる仕組みをちゃんとつくっておこうと、その1つのあらわれとして住民投票制度があるだろうということですね。基地の有無について数年前に、大田知事県政の際に県民投票をしたと。そういう非常に重要なことは県民の意見を聞こうじゃないかと、具体的な投票で聞いてみようじゃないかと、そういう原則が必要だと思っております。

 もう1つは、従来は団体自治と言われていたものは、国の関与を制限する、可能な限りの抵抗的概念と言われておりましたけれども、道州制とか合併とか、その他いろんな議論があるときに、ここで住んでいる基本的な住民たちの自治の範囲を、外部から適正な手続きを経ることなく侵害された場合に、自治自身が訴える、排除する権利が保障されているんだと。そういうことを確保しなければ、実は自治の確保ということは難しいと思っております。そういうことを権利として確保したいということが、自治基本条例の中で規定したいと思っているということです。

 終わりに、ただ私は宗前先生の報告されたこと、原則を、権利から見たらどう構築されるかという観点からご説明いたしましたけれども、その際に、先ほど島袋純先生が、「政治は主体性を放棄する者に最大の負担を強制するんだ」という、このキーワードを非常に重視したいと思っております。と申しますのは、自治基本条例を支える諸権利というものは、その権利を行使する市民、県民がふだんの努力によって権利内容を充実するものであり、その時代時代に発展性を、あるいは発展可能性を含む権利だと私はとらえたいと思っております。

 自治基本条例における県民・市民像は、公的問題を解決する意欲と能力を持った県民、あるいは市民であるということを私自身、理念型としてそういうものを念頭に置いて条文化しております。

 と申しますのは、このような作業が実は1つの、それでは強者だけの問題かというと、そうではなくて、先ほど、宗前先生の報告であった、生活局面において関心事がある人々の知恵を出して、財政的に制限された範囲内で最大の成果をどう上げるかということを、住民自身が意欲的に権利を行使する形で議論なり、権利を行使しなければ、かえって自治は重視されないだろうと。

 例えば、1つ例を挙げますと、裁判を受ける権利、国を相手に好き勝手に裁判を受ける権利があるのかというと、原告適格という制度があって、本当に訴訟という裁判の制度を使って訴える意欲があって、ある程度それに対して権利侵害があったもの、それが裁判を受ける権利があるという、いわば要件というか、そういう審査があります。

 なぜかというと、裁判を起こして適当なところで「わかりました。あなたの言うとおりです」というふうに、権利を主張していない人が仮に裁判をしたとします。それは結果的にその裁判が確定いたしますと、ほかの裁判を起こしていない多くの人々にも影響を与えるわけです。その意味でいうと、行政の中に参加し、意思決定に意見を言って、意見が反映されるということは、この人だけの問題ではなくて、その公的な機関が決定することによって、沖縄県民全体にも影響を及ぼすんだと。すなわち、私たちが参加することによって、法的な基盤を底上げするんだと。多分、試行錯誤で失敗もあるかもしれません。しかし、その失敗は失敗で、学習を重ねることによって、確実に一歩一歩積み上げがなされるんだろうと思っています。

 最後に、あと2分でまとめますけれども、私はこのような作業が観念論ではなくて、これまでの沖縄の復帰運動の歴史や、理論的にもそういったものがあるものと考えております。例えば、自治基本条例を見たときに、他府県のいろんなすごい進んだものを沖縄に導入したって、そういう制度的な基盤がなければ、根づかないのではないかという議論があります。

 また話が変わるようですけれども、日本国憲法は、アメリカが押しつけた憲法であると。だから日本には根づかないのではないかという議論と、同じような議論が構成されるかと思います。しかし、日本にはどうかというと、人権とか、平和とか、それなりに根づく基盤があるんだという形で、憲法学者は反論するわけですけれども、私たちのこれから制定する基本条例についても、沖縄にはそれを支える歴史的な基盤と、理論的な基盤が既にあったんだということをどうしても指摘せざるを得ないと思っております。

 例えば、私の研究室の近くに比屋根照夫教授がおりますけれども、比屋根先生は沖縄の復帰運動は憲法を目指した運動ではなかったんだと。それ以上に民主主義を実現する運動であったとよく言います。その民主主義の運動を展開した結果が、日本国憲法であったんだと。いわば、不断の努力によって沖縄県民は平和とか、人権とか、そういうことを実現することを体の中で覚えているはずだと。そういうことを歴史にさかのぼりながら、権利を実現するためにはどういうふうに工夫をしたらいいのか。そういうことを自治基本条例を制定する中で学べればいいのではないかと思っていたり、あるいは玉野井草案という非常にすぐれたものがあって、他府県のものも参考にしたけれども、玉野井草案でいろいろ議論して、沖縄でもこういう先駆的な業績があって、だから我々もそういうものを底から積み上げて、条例をつくったんだと、そういう手順で条例化のタイムテーブルに載せることができたらと思って、あれこれ権利論について考えてみたという次第であります。雑駁な報告でしたけれども、ご清聴ありがとうございました。


○司会(前津榮健氏)  徳田さん、どうもありがとうございました。
 権利について、まず権利の前提となるこの自治基本条例における県民像・住民像というものは、公的問題を解決する意欲と能力を持った県民であり、またそうでなければならないということですね。いろんな機会に学習をしていく。そしてその自治の侵害に対しては、それを裁判で訴えて、その権利を回復するための、そういった手続きまでも含めて考えないといけないだろうということ。その際沖縄のこれまでの歴史的経験や理論というのが生かされるんじゃないかというような指摘だったかと思います。

 そこで、会場との間で質疑応答をしたいのですが、記録を残すためにぜひお名前のほうをお願いしたいと思います。

 私たちのグループは先ほど申し上げましたように、条文化はしておりません。しかし、その自治法の範囲内で入れることができるとしたら、どのようなものがあるのか、あるいはポイントとなるのは何かについて、報告がありましたが、その点についての疑問点、あるいはまた意見、提言等がありましたらお願いしたいのですが。いかがでしょうか。


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