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沖縄自治研究会

沖縄自治研究会

第5回定例研究会 上

沖縄自治研究会 第5回定例研究会
1.市町村 (ファシリテータ:照屋 勉)
2.沖縄州の統治機構(ファシリテータ:曽根 淳)
日時  2005年1月8日(土)
場所  文系総合研究棟703

【市町村】
○照屋勉  皆様、新年明けましておめでとうございます。
 メーリングリストのほうにも書いたのですが、正月3日間風邪で苦しくて寝込んで、2日には病院にも行って点滴も打つような状態で、これまで生きた中で最悪のお正月でございました。大変のお聞き苦しい点があろうかと思いますが、ご了承願います。

 この案ももっと前に準備しておけばと言われればそれまでなのですが、一応私のほうで市町村の案をつくってありますので、この中で肉付けといいますか、もう少しきちんとしたものにしていけたらというふうに思っております。勝手ではございますが。

 それでは、読み上げていきたいと思います。
 「市町村」
(1)市町村は完全自治体であり、その地域の住民の福祉のための包括的な自治権を有する。
(2)市町村は、憲法の範囲内で、自らの規模と風土に適した統治機構を選択することができる。
(3)市町村は、相互に協力し、自治について技術助言や政策提言を行うため、共同して独立の自治研究機関を設置する。」

 この三つの解説といたしまして、市町村が完全自治体というのは、いわゆる中央政府に対して地方政府としての位置づけというふうなところですね。それから自治体は、目に見える行政サービスの提供ばかりでなく、地域の安全・住民福祉の増進といった目的を達成していく。特にこれに関しては、当たり前といえば当たり前、今までもやってきたような部分もあろうかと思いますが、ただ、それを達成していくための政策というのでしょうか、それはあくまでも市民が主体的に地域自治機構を通じて政策を決定していくというプロセスですね。そういった形の市町村でなければならないだろうというところです。

 それから2番目のところですが、自治法を無視するわけですから、憲法枠内でやっていくことなると、三役や行政委員の設置などもすべて市町村に委ねられるわけです。各自治体によって様々な形、昨今言われているようなシティーマネージャー制であるとか、それから最近は収入役も置かないというのは普通になりつつありますが、そういったものであるとか、それから助役の廃止、そういうものもどんどんできるのではないかというふうに考えております。

 それから、教育委員会の存在ですね。もう教育委員会もなくして、今の首長部局の中に取り入れて行政運営をやっていくというような形も当然出てくるだろうというふうに考えております。

 それから3番目が、各自治体間における、共通行政課題の解決、またより専門的な知識・技能を習得する場として、さらには将来の行政需要に対応するためにシンクタンク機能としての研究機関を設置するというようなところですね。この中にちょっと漏れてしまったのですが、当然、産学官の協力体制もやりながらこの研究機関は設置していくべきだろうというふうに考えます。

 以上、短いですが、市町村に関してそういった案です。あとは皆さんからご意見を伺いながら、もう少しより具体的に、そしてある程度の肉付けもしていきたいなと思っておりますのでよろしくお願いいたします。


○島袋氏  G2の研究グループが、本当はG1、G2、それぞれ来て補足的な説明をしていただきたかったんですが、いらっしゃらないようなので、私が参加しましたので、その時どういう議論でこういう話になったかということを補足的に説明したいと思います。

 1番は、完全自治体という概念は、あまり行政学では使わない概念なんですが、仲地博先生が完全自治体、要するに、区とかあるいは一部事務組合とか、そういうものとは違っていて、完全な地方公共団体という、そういうふうなイメージだと思います。法的にどういうものなのかちょっとよくわからないんですが、仲地先生が完全自治体であるという言葉を使っていらっしゃいました。私、ほかの方々に関しましては、議決権を有し、それから行政権を有し、そしてすべての包括的な権限を有する。そういった意味だというふうに思っています。

 それから、包括的な自治権、包括的という言葉は、これはイギリスとか、アメリカとかは個別的権限付与方式と申しまして、一つ一つの事務に関してすべて州議会の授権(権限を授けること)それがなければ権限を獲得できないというシステムがあるんです。それに対抗して、大陸法の諸国では、福祉に関することだったら、地域住民の地域的な問題に関すれば何をやってもいいという権限付与の方式ですね。これを包括的権限付与方式というんですけれども、基本的には、世界的な流れとしては、自治権というものは包括的権限付与方式でなければならないというのが国際自治憲章、あるいはヨーロッパ自治憲章の動きです。ですから、それを受けて一番の包括的な自治権ということが明記されているのではないかなと思います。

 それから2番目。ということは、イギリスも包括的自治権の付与方式に今ブレア政権以降変えています。イギリスの国内法をEC法に合わせて変えていくという方式ですね。

 2番目。市町村は、憲法の範囲内で、自らの規模と風土に適した統治機構を選択することができる。これは当然ながら、自治基本条例によって地方議会がどういう権限を持つか、それから執行部がどういう組織になるのか。自治基本条例によって、市町村が、各市町村ごとに決めろということですね。これは、当然ながらヨーロッパ自治憲章に関しましても、世界自治憲章に関しましても、条文をいちばん拡大解釈すれば、そういった権限は当然ながら各市町村にあるだろうと。日本の場合は、事細かく組織法が自治法の中に入っていまして、全く組織に関する選択権はないんですけれども、これを全面的に与えようと。それでアジアでは、この前、台湾から先生をお招きしたら、台湾の自治体は基本的にこういった自治組織権を持っているそうです。与えられたそうです。だから、かえって今では日本が遅れているという状況ですね。それで、おそらく世界的な自治憲章、世界自治憲章というか、世界条約ですね、多国間条約になるかと思いますが、それを批准する時に非常に大きな問題になるんじゃないかなと思うんです。日本の地方自治法を変えていかないといけないということですね。こっちは先取りして、世界レベル、世界の先進国レベルにあわせていこうという話です。

 それから3番目。これは仲地先生のイメージからすれば、沖縄県では市長会、町村会、市議会議長会、町村議長会いろいろあるんですが、こういった地方4団体、北海道の町村会というのは、シンクタンク機能を持っているんですが、沖縄はほとんど単なる陳情団体で、自ら、半年ごとに研究機能を持つようにということで進言しに行っているんですが、ようやく最近そういったものもやらないといけないなということを言い出したんですが、ずっと陳情団体であるという自己規定してしまっていて、動かなかったんですね。ですから、陳情という行為自体が、これからなくなる。陳情ではなくて、政策提言、政策開発、それを積極的にやって市町村のために。県は、あるいは県は新しく道州になるかもしれませんが、その道州の立場でやりたいことをやるわけですから、市町村の立場に立って、市町村の利益を政策として提言していく時間がどうしても必要であると。ですから、協働して、しかも単なる県あるいは新しい道州の出先じゃなくて、下部機関でもなくて、独立して自分たちのために自治の言及をおこなっていくと。そういった組織が、どうしても市町村の足腰の強化のためには必要であろうということだと思います。特に、3レベルに関しましては、ひとつの研究機構に関して、自治体の憲法、あるいは道州の憲法といわれている沖縄特別自治法のレベルで、こんなのを入れなくていいんじゃないかという意見が結構あったんですよね。こんなの具体的に執行機関の組織でもないし、何でこんなの出すのかという話もあったんですが、市町村を守るためにはどうしても必要だろうということで、乗せたという経緯があったかと思います。これだけです、個別具体的な組織がわかって、役割まで出ているのは。これだけが特徴だと思います。そんな議論だったと思います。あと、参加された方、思い出してまた説明してくれたらと思います。


○濱里正史氏  遅れてきてすみません。(1)の文章、今の説明を聞いて、包括的な自治権の前にかかっている福祉のためというと、今の話からすると、福祉だけではないんじゃないかという、要するに文章、言葉としてもっと大きな概念なんじゃないかという気がするんですよね。ただ、日本語でいい表現がないのかもしれないんですけれども。ただ完全自治体、包括的自治権となった場合には、これは福祉だけではなくてすべてのものを含むようなそういう話なのかなという感じがするんですが。


○島袋氏   福祉の概念が非常に大きいんですよ。例えば、日本国憲法、公共の福祉によって個人の権利を制限できると。公共福祉の中にあの基地だって入っているんですよ。その概念のもとに沖縄の人々の所有権は制限されているわけですよね。だから、ここでいう福祉というのは、ほとんど地域のためにというのとあまり変わらないですね。ウェルフェアじゃないですかね。


○曽根氏  その前のところで、完全自治体とさっきご説明があった部分もあるんですけれども、「完全自治体」という言葉と、(2)の「自らの規模と風土に適した統治機構を選択できる。統治機構は、当然、小さい市町村に関しては、部分的なものを好意的なサービスに委ねるという部分もあるわけですよね。あるいは財政補完を受けるという場合もあるわけですよね。そうすると、それは完全自治体とは言えないんじゃないのかなというのがすごい気になるんですけど。


○島袋氏  多分、仲地先生、あるいは仲地先生と高良鉄美先生ですか、要するにこの前我々こちらの中で、県庁でしたっけ、多様な市町村の形態というのはあり得るんじゃないかと。市町村はフルセットの完全自治体みたいな、今いう言葉でいう完全自治体みたいなものもあってもいいし、それから一部、特に介護だとか、年金だとか、国民健康保険ですね、そういったものに関してできないものは、新しい道州にやってもらって、ひとつレベルの下の段階のサービスを提供する自治体でもいいんじゃないかという話とかいろいろやっていましたが、あの時こちらのG2の話では、じゃなくて全部が基本的に要するに基礎自治体みたいなイメージですね。いわゆる地方制度調査会の。すべての市町村が、完全自治体でなければならないという発想の元に議論を進展していたと思います。


○曽根氏  そういう発想もあると思うんですけれども、そうすると完全自治体を維持できる規模までは合併しないといけないということになるのかなと。


○島袋氏  おそらく事務を新しい道州が吸収するんじゃなくて、おそらく交付税・交付金の仕組みを充実させると。そんなイメージじゃないですかね。要するに、今までどおりのやり方、今までどおりの十分な交付税・交付金で、完全自治体で維持できるレベルの財政移転を行っていくと、そういうイメージだと思います。これ、仲地先生、高良先生いらっしゃらないのでわからないんですが、どうも仲地先生の新聞に書いていることとかいろいろ読みますと、小さな市町村、しかもこれは今までどおりのフルセットの仕事を全部する市町村、それプラス小さな道州、それが常に主張されていることなんで、そういったイメージじゃないかなと思います。ですから、三位一体の改革で交付税・交付金のシステムがぼろぼろになって、その小さなフルセット自治体というのが維持できない現実が来るようであれば、ちょっと論理的に確かに曽根さんが言うように矛盾するかもしれないという部分はあると思います。正直なところ。


○玉城和宏氏  私自身、その「完全自治体」という完全を伺った時には、民主主義の生活、個人の生活レベルが、北海道から沖縄までどこに行っても完全であるという、そういう意味で把握したんですね。

 それからあと、「包括的な自治権」というのは、それを守るための包括的な自治権であると。そういうことを前提にしますと、私もそういう組織とか何かは素人ですけれども、そういう理念がもしあった場合には、エネルギー格差は自然に起こります。例えば、東京みたいにいろんな設備が備わっているところは、そういう方面にお金をそんなにかけなくても自然に享受できる。だけど、地域に行って、地方に行って、文化的な生活まで保障されているとすれば、そこにはエネルギーを大きく供給していないといけない。

 だから、私の解釈ですから間違っているかもしれませんが、実際にその理念の元で、行動する場合には、エネルギー格差はあってしかるべき話なのです。だから、財政に対する、エネルギーに替わる財政というのがあるとするならば、それは補い合う、そういう必要があります。それから、地域の自らの規模と風土に適した統治機構のところで、各地域が、それぞれ特色を持っていると。特色を持った中で、もちろん一番、今曽根さんが言われたように、特色があろうがなかろうが、基本的にぎりぎりの生存という、そういう部分で自治権を見るのか、それとも各特色のある地方自治体が、互いに自分の持っているプラスアルファの部分を供給しながら、供給した時点で、他のところにはない部分を供給し、自分のところにない部分を他からもらうという、そういう形でウェルフェアというか、基本的人権のレベルを高くするという、そういう部分は必ず必要になってくるわけです。だからその意味では、どういう努力目標と言いますか、基本的人権のさらなるバージョンアップということを常に考えて、それで互いに補い合うという。そういう部分を常に持っておかないといけない。

 この組織のところで、3番目の自治研究機関を設置するとありますけれども、私自身は、例えば科学技術、例えばインターネット、あるいはいろんな技術が新しくなったとたんに、社会の生活形態というものがらっと変わります。そういう機能がありますと、組織もいらなくなる場合もあります。旧態依然たる組織がいらなくなる場合があります。それはどういうことかというと、人間が憲法で保障されているような文化的な生活を営んでいく関係上、いらなくなった組織はどんどん変えていかないといけない。組織は変えられるものだと、そういうふうに考えています。だから、行政組織も、いろんな組織も、国も地方の組織も、すべてその社会の形態に合わなくなれば、自然と変えられるようなフレキシビリティというか、そういうものを各自治体とか、一人一人の県民、あるいは国民も持たないといけないんじゃないかなと、そういうふうに見ています。だからそういう新しいものを常に希求するんだと、すばらしいものを希求するんだと、そういう大本のコンセンサスというか、それが各県の、国の、地方自治体の各部分すべてが持っておかなければならない本当の基礎なんじゃないかなと、そういうふうに思います。


○藤中寛之氏  先ほどのお話で、完全自治体を維持できる規模まで合併する、弱いところはそれを維持できるまで財政調整するということが仲地先生の考えの中にはあるのではないでしょうかという推測を島袋先生がされておりました。これを聞いて自分が思いましたのは、今までは結構完全自治体を維持するということの基準と言いますか、その単価といいますか、ある程度国がこの規模の権限の完全自治体にかかる費用というのを、国が一律的に決め、それを地方交付税とかで補填して、それで実際には運営されていたというのがあると思うのですが、これからは国が定めていた完全自治体にかかる費用においても、すごく柔軟にできるというようなことがあります。だからその観点から、財政調整ということをしっかりやるということも出てくると思うのですけれども、各個別に田舎の自治体は田舎の自治体の水準に合った完全自治体というものの費用を算出することで、財源が乏しいところは乏しいなりに、費用の少ない、コストのかからない完全自治体のあり方というものを考えれば、曽根さんが指摘された完全自治体と統治機構、2番目の自らの規模と風土に適した統治機構を選択する、ということの矛盾が解消できる一つのポイントになるのではないか、と思いました。以上です。


○島袋氏  「完全自治体」という言葉をスペインで使うことがあるんですが、これはちょっと問題多い言葉だなと思ってしまったんですが、主語を「住民」にしたほうがいいんじゃないかなというイメージが非常に出てきましたね。例えば、市町村は住民が創設する最も基盤的な政府であり、その地域の住民の福祉のため包括的な自治権を有するとかいう形で、地域住民とか、市町村住民とか、市町村民とか、何かそういう言葉を入れたほうがいいんじゃないかなという気がしますね。完全自治体という言葉を抜いて、地域の政府であるという、住民が創設する地域の政府であるという点を入れたほうがいいと思うんですね。そしたら住民が選択することによって、その政府の具体的な中身というのは決めればいいさということになってくるんで。

 2番目は、これも「市町村は」と書いてあるんですけど、市町村住民は憲法の範囲内で照らして、自らの規模と風土に適した「統治機構」じゃなくて、これ「権限も含めて統治のあり方」とか「統治の仕組み」とかあるいは「統治」と切ってもいいと思いますけれども、権限も含めて統治というのを選択することができるという形で、主語を市町村民あるいは市町村住民、それにしたほうがいいんじゃないかなという、今イメージですね。

 3番目は、これは市町村政府が相互に協力して自治機関を研究する。ここはこのままでもいいかなというイメージですが。1番と2番は、住民を前面に押し出したほうが、複数信託説的な政府の構成になっていくんじゃないかなというイメージがしました。そういう意見です。


○玉城和宏氏  先ほど完全自治体の話で、今おっしゃっていたんだけど、実は沖縄のことを考えれば、今車社会で、実際には石油がなければどこの市町村も基本的には完全自治体ではないんですよね。だから、例えば食料の場合にしても、基本的には沖縄でいろんな昔からの野菜とか長寿のためになるような野菜、いろんなものが活用できていたんだけれども、全部さとうきびの換金作物であるとか、パイナップルであるとか、つまり本土からお金をもらうというバーターのための形にしてある。だからそういう部分ももちろん見直して、2番に書いてあります「自らの規模と風土に適した」とありますけど、それの可能性を見て、完全自治体というか、今島袋さんはこれを取ったほうがよろしいという話がありましたので、内容的にはキャンセルされる話かもしれませんけれども、そのへんはぜひ、沖縄独自の生物学的なあるいは工学的な可能性も含めて、そういう視点も入れてほしいと思います。


○新崎盛幸氏  今お話があるとおり、この「完全自治体」というのはいろいろと誤解を招きそうな言葉でという気がして、やはりこれはなくても先ほどの島袋先生のお話、ご意見のとおりに、「住民」を主体にしてまとめ上げたらいい文章になるんじゃないかなと思っております。
 それとあと1点、せっかく自治研究会では、市町村のモデル、自治基本条例をつくりましたので、やはりこのへんで自治基本条例に基づいて、そういった統治の仕組みとかを住民の総意でそういった条例を決めるというような形の何か盛り込めないかなと思っています。


○照屋勉  では、今ご意見があったように、1番・2番に関しては、「住民」を主語にするという考えでいいですかね。それと今新崎さんからもあったように、「自治基本条例によって各自治体が決めていく」というような、そういった文言も入れていくというようなところですかね。それは解説でいいのですか、それとも2番の条文の中に「自治基本条例」という言葉も入れていくということなのですかね。


○島袋純氏  具体的な法律の名称とか、具体的な条令の名称とか、日本国憲法を見てもわかるんですけど書いてないですよね。多分2番の文言自体、これがあれば自治基本条例で組織を、自分たち規定しないといけないということになるんですよ。選択という言葉で、いくつかあって選ぶというイメージなんですけど、これは無限の可能性から本当は自分たちでつくれという意味なんですよね。だからもし「選択」というのが悪ければ、自分たちのしくみを創造することができるとか、「創造」とかいう言葉にやったほうがもしかしたらいいかもしれません。何か自治基本条例でつくらないといけないなということがイメージできる言葉であればいいんじゃないですかね。こちらの中に「自治基本条例によって」とかいう言葉を入れるのはあまり適切ではないんじゃないかと。すぐわかることはわかるんですけど、こういった基本法とかいうレベルに関しましては、あまり適切ではないんじゃないかなという気がします。


○玉城和宏氏  たびたびすみません。やはり地方自治のあり方の基本として、自治をカバナンスする人たち、あるいは住民の人たちが、自分たちの地域はどういうふうな特徴があって、どういう可能性があって、歴史的にはどういうものであるという、やはり文化的な遺産なり何なりそのへんを共有できてないといけないんですよ。それは情報の共有という形で。もちろん、行政のサイドの細かい認証プロセスもすべて住民にはオープンにする、説明責任は持つという意味の情報ももちろん含まれます。だから、また生存空間の話を出してすみません。情報というのは、いろいろ安全と食料と、それがどうなっているかということをみるのに、非常に重要な項目なんですね。それがないと生活していけません。だから、住民の人たちが生活している生活の場の情報、基本的な情報、あるいは特徴的な他地域にはない情報、そういうものを強く認識をし、そしてそれをストックしておいて、一般住民に利用していただく、あるいはそれをリフレッシュしていただくという、そういうものが基本的に重要なんです。それのもとで、組織は少しずつ改編されるだろうというのが、最初に話した組織は変わるものだという私のイメージなんです。だからそういう部分を踏まえながら、自分たちが発展していくんだと、ムーブメント、動いているんだと。動くためには、指針なり何なり具体的な情報が必要なんだと。そこをどういう形でもいいから入れてもらえれば、現実を見つめなおすというフレキシブルなあるいはフィードバック機構が働き出すんじゃないかなとそう思っています。


○濱里正史氏  前回の時の自治州と市町村の関係の時と同じことだと思うんですけれども、市町村の場合は、個人から立ち上がって、先ほどの島袋先生のお話だと一番初めに人権でずっときて定義があると思うんですけれども、それを行使する、実現するための方便として最初の組織が市町村である。そして次の組織が自治州であるというような感じの書き方がいいかな、というかイメージ、図式はそういう形になるのがいいと思います。ですからここに市町村と書くのがどうか。やはり個人から立ち上げて市町村。ただその場合に、イメージは個人-市町村-自治州なんですけども、気になるのは市町村の下ぐらいの字というか、もう少し下ぐらいのものも、それは2番のところの自由につくることができるとか、選択することができる。それで自治州と市町村の間にも、実際的な話としては、今の市町村と県の括りでできない広域的なところが今どんどん行政的なニーズというか、そういうものが出てきていると思うので、それを個人から立ち上げて、実際のそれをうまく実現していく形として何らかの自治組織というか、これ統治機構を自治組織にするといいかなと思うんですけども、それの一番基本的な単位が市町村であるというような書き方ができないかなというイメージがしますね。


○照屋勉氏  今の話、解説のほうに書いてある地域自治機構という、私のイメージとしてはこれなのですよね。この形も市町村によっていろんなやり方があるわけで、市民がいろんな福祉の増進のために、その目的を達成する政策に加わっていくんですけれども、いったんはそこの地域の単位としての自治機構組織を通じて政策を立ち上げて、それが次に市町村に上がっていくというようなイメージですね。


○島袋氏  これは地域自治組織あるいは自治会とか、あるいは新しいいろんな地域協議会とかコミュニティとかいろんな名称があるんですけれども、僕の発想では、これは非常に危ないのは、一権力機構としてこれをとらえ直して、その一権力、最小の権力機構としてとらえるのか、それとも社会的な組織の延長線上にとらえるのか。二つの見方があると思うんですよ。これは明確に区別しておいたほうがいいと思うんですけど。私の場合、これは社会的組織の一形態としてとらえたい。

 この前からいろいろ図を描くんですけれども、政府というものは、媒介するものが権力なんですよ。強制。強制なんですよ。自治体の職員の方々がいっぱいいらっしゃって、意識はないかもしれませんけれども、自治体というのは政府の機構であって、人と人とをどうやってつなぐかというのは権力なんですよ。強制力と言ってもいい。ただし、社会的な組織というものは、自発性なんですよ。メディアは言語であるし、人と人をつなぐのは言語であるし、言葉であるし、歴史であるし、共有する価値であるし、そして人々が参加する経緯というのは、参加する機会というのはどうやってできるかというと、原則的に自主性・自発性なんですよ。それで、自治会とか、住民自治組織というのは基本的に公共性を担う組織であることには間違いない。しかも、その公共的な分野というものは、最近あまりにも権力が、あるいは政府というものが肥大化して、いろんなことに介入したんですけれども、それがどんどん後ろに遠のいている。遠のいてはいるんですけれども、基本的に自発性を持って、自分たちでできることは自分たちでやり出すということは、権力的な仕組みの中でやるのではなくて、自主性・自発性の仕組みの中でやっていこうと。その中で人と人とつながりあって公共性を担っていくと。そういうイメージですね。

 ですから、市町村は政府ですけれども、地域自治組織は政府ではないと。あくまで、媒介、そのメディアは何かというと、言語であるし、歴史であるし、文化であるし、愛情であるし、思いやりであるし、しかも参加の原理というのは強制ではなくて自発性だと。そういうふうな違うニュアンスですね。違う組織というか。
 だから僕の発想としては、市町村の下にある一統治機構のようなイメージで、行政の側は補完的な機能をさせたがっている新しい地域自治組織ですが、それをやはり行政側の主導でつくらせるんじゃなくて、市町村の住民から自分たちのニーズに基づいて自発的に公共性を担う、自発的な公共性を担う組織として、改編していっていただきたいということです。もし、これをやる気がなかったらもうどうしようもないですよね。本人たちがやる気がなかったら。ただ、役場から、上からつくるべきではないんじゃないかなというイメージですね。

 ですからNPOとか、いろんなアソシエーションという型の組織といわれているのがあるんですけれども、僕はああいった組織と同じように、コミュニティ、あるいは自治会、あるいは住民自治組織、そういったものを位置づけたほうがいいんじゃないかというイメージです。


○藤中寛之氏  先ほどの島袋先生の「社会的組織の一形態としての地域自治組織」というところと、「政府は権力・強制力を持った市町村統治」ということに対して質問なのですけども。地域自治組織というのを、住民の人たちが自発性に基づいてつくったとしまして、その地域の人たちが、権限を、ある意味で権力を市町村から取りたいというふうに思った場合。その場合はとれてもいいのではないかというふうに、一部の権限をとれてもいいのではないか、と思ったりするのですけれども、そこの点どう思われるのかということ。

また、NPO法人なども自発性とミッションに基づいて行政サービスの業務ができるとしたら、それがある意味で行政の一部の業務を、対等な立場で肩代わりするというNPM(ニュー・パブリック・マネージメント)の文脈で、自治体や国等の既存の行政サービスの主体と対抗するようになっていっていく可能性もあってもいいのではと思ったりもするのですが、この点について、どのようにお考えでしょうか。


○島袋氏  NPOとか、あるいはコミュニティだとか、公共性を担うなとか、公共性は政府が独占するものだという話は全然してないんですよね。新しい公共性という概念があったりするんですが、基本的に今の政府の形態というのは、政府だけですべての公的な公共的なサービスというのは担えないだろうと。公共的なサービスに関して、権力的なサービスの提供の仕方、制度化されてきちきちとしてやる方法もあるけれども、実を言うと、多元的に、多様に公共性を担うところがあっていいではないかということですね。それで、もし政府が非常に大きなかかわりを持つべき分野であれば、それは政府がそういったNPOとか、あるいは地域自治組織との協力関係、共同関係、あるいはもしかしたら統制関係が必要なのかもしれない。ある分野に関しては。そういったのをきちきちとその分野ごとに、イギリスではパートナーシップ協定とかよく言うんですが、そういったのをつくって明示していかないといけない。そういうイメージですね。

 ですから、おそらくどこかに、他のところに、例えば市町村の自治基本条例の時に、こういった新しい公共性に対してどういったようなイメージかと、かなり長いこと議論しましたよね。これが道州レベルでは抜けてはいるんですけれども、基本的に同じイメージで、古くて新しい公共性の担い手、そして政府との関係、それがどうあるべきかということに関してある程度認識をしておかないといけないんじゃないかなと思います。

 だけど、基本的には道州レベルよりも、どうも市町村レベルでこれは一番もっと重要になってくるんじゃないかなというイメージが強いものですから、おそらく道州制の議論の中ではちょっと抜けてしまったんではないかなと思います。

 基本的に公共性というのは、権力的な公共性の部分と、それから市民的公共性といいますか、自発的な公共性の部分があって、その相互関係をどう結んでいくかということに関して、権力をとってくるというイメージで言ってたんですけれども、権限の共有、あるいは相互協力関係、あるいは場合によっては統制関係、そういったものをどう構築していくかということですね。これに対して明確な理念、それから定義づけがあれば、さほど問題はないんじゃないかなと。その時に私が言ったように、気になるのはその行政の側がこういうところを取り込もうとすると、必ず権力の末端として取り込もうとするので、そうではなくてどうしてもこれは社会の側の組織であって、社会の自分たちで公共性を担うとする社会の自立性、自立的な社会、そういったものをイメージしながら、相互協力関係というものを構築していかないといけないだろう。特に権力が強いので、市民の側に比重を置いた書き方をしないと、必ず取り込まれてしまうという危険性はあるんじゃないかなというイメージです。


○玉城和宏氏  権力が強制力を持つというお話があるんですけど、やはりもともと根源の部分からいくと、一般の国民のいろんな、万人の万人に対する闘争みたいな話もあるけども、基本的には調整をするという、どういう調整を日本の全体に被せたらいいかという、それが憲法であり立法・行政・司法の役割だと見ています。

 だから権力を、過去に一部の人たちがそれを担って、自分たちのやりやすい方向や行きたい方向という、形を強制するために使われている権力の概念というものを、今後はそれを払拭しながら、本来の調整機能に戻すんだと。だから民主主義であるからには、例えばこちらがいろいろ主張しても、他府県とのエネルギーバランスや、また、使用できるエネルギーは限られておりますので、一部のところだけ、例えば東京一極集中でぼんぼんお金を使っていいよということにはならない。東京が東京たるゆえんは、地方があって日本の全体の中での組織構造体として、ある重要なポジションを占めているから、そこにプライオリティが働くだけであって、地方がなくなれば、東京はただの一地区にしか過ぎないし、ほとんど生存可能性のない地域なんですね。だからそういうことも含めて、すべて国という機関は調整なんだと。全体が納得する、民主主義のレベルで納得する調整をしてもらうのが国である。調整が法律上、規則として必要だというのが立法であり、それを具体的に実行するのが行政であり、そしていろんな齟齬とか、摩擦が起こった時にそれを調整するのが司法だというふうに私はみているんですけど。

 だから、新しい沖縄の自治組織を考えるのであれば、未来に向かうような視点、憲法も日本国憲法に基づき、新しい発展性のある組織として、封建主義とか、専制主義とか、そういうふうな意味のなかで使われる権力という意識にとらわれずに、また、単なる末端を担っている組織だという形に囚われずに、住民のため行動すると、そして住民も情報を全部共有し、例えば北海道から沖縄までいろんな情報が全部インターネットでバーンと出て、おれはこれだけ大変だということが各自全部言えれば、そこの中から調査した結果としての調整機能は自然と出てくるのではないか。エネルギーはこのぐらいしかないよ、じゃどうするという感じで。それが民主主義の基本だという感じはします。だから組織を考える時には、公共の組織を考える時には、必要不可欠な調整をする機関だと、それに関わるものが三権だと。立法・行政・司法だと。そういうミニマムな形で把握してもいいんじゃないかなと個人的には思っています。


○濱里正史氏  今の話を聞いて、だいたいイメージはつくんですけれども、条文のあれでいくと少し混じっている感じがして、(1)、(2)で先ほど話が出ているように、「市町村とは」の定義というか、どういう成り立ちで市町村が成り立っているのかという定義が最初にきて、もう一つ重要なのは、何を目的にというのは、そこに出ている、その地域の住民の福祉のためというところがやはり市町村の目的であって、それを実現するために権力が付与されている。その範囲内だったらある程度のことは許されるけれども、それを一歩踏み出すことはそれはもちろん許されないという感じです。ですから、明確に書くかどうかはともかく、定義と目的がきたら、今の話でいくと普通の自治会と違うところは、権力を付与する最初の最小単位だとするならば、それを規制する条文が一つそこに入れることができれば入れるし、入れる必要がないのであれば目的が明確になっていって、その範囲内で権力は付与されていっているというような感じの条文の流れになっていくのがいいのかなという感じがしますね。ちょっと抽象的で申しわけないんですけれども。


○新崎盛幸氏  やはり今のお話のとおり、市町村の政府が形成される意義付けですね。先ほど島袋先生が言ったように、住民を主語にもってくるとか、あるいは明確に主権者は住民だということをどこかに入れて、それで住民の意思で市町村政府が形成されるというのを明確にしたほうがいいんじゃないかということと、住民に最も近い政府とか、あるいは自治法に述べられている基礎的自治体とか、そういった言葉で、「補完性の原理」に解釈が発展されるような文言が入れられないかというのが2点目。

 それとあと1点、話が3番に移るんですけれども、州レベルの自治基本法の中で、「市町村でこういう研究機関を設けなさい」と、ある意味で義務化してますよね。それがふさわしいのかどうか。研究機関というのは、市町村の自発的な設置にしかならないんじゃないかと思うんですけど、いかがでしょうか。


○玉城和宏氏 実は私が沖縄に来た理由のひとつに、沖縄に独特な研究機関設置の提唱をしたいという希望を持っていました。それは私自身アカデミア構想というものをもっていて、例えば古代ギリシャのレベルで、その地域の先鋭的な部分をディスカッションする、そういう組織が必要だと思っています。それは義務的な縛られた組織ではなくて、最初もし住民の中にその場がなければ、ソクラテスとプラトンがアテネの近郊のアカデミアにそういう学校をつくったのと同じように、まずつくってあげないといけない。理念を持った先導的な人たちが、そこで、発火点というか、イグニッションの形をつくっておいて、それで、あとはもちろんおっしゃったように、住民の熱意を持ってどんどんどんどん発展させていくと。だからその部分が、初期条件を与えるイグニッションの部分がやはり必要なんじゃないか。


○照屋勉氏  あくまでも、このリードしていくというのは政策的な部分であって、この基本法に盛り込む話なのかどうかという部分ですね。


○島袋純氏  おそらく仲地先生なりのかなりの思い入れがあって、これがないと本当に市町村の自治は今後おそらく守れないんじゃないかという確かイメージだったと思います。確かにこれが憲法に相当するような、道州の基本法にこういったのも書くか、書かなくても普通は政策的にこういうのは合意があってそれで設置されるものではないかと、確かにその意見等は妥当な意見ではないかなという気もします。

 あと一つ大きな問題は、前からも言っているんですが、中央自治法の適用がされる市町村にするのか、あるいは基本的に自治州基本法の中で市町村も取り扱うことにするのか、適用除外するのか。現行地方自治法との関係において、西尾勝的な案だと、要するに道州、新しい県ですね、道州に関する部分だけは地方自治法の適用除外にするような憲法95条に基づく法律にしたいと。

 ところが市町村に関しては、そうではなくて現行地方自治法の適用の範囲内に治めると。どうも西尾先生はそういうイメージみたいなんですよ。ところが、私はそうではなくて、市町村も道州の中で、道州の条例によって実を言うと形づくるほうがいいのではないかなと。だから沖縄自治州基本法に基づいて、沖縄道州、沖縄自治州が、沖縄の市町村に関する基本条例という枠条例ですね、そういったものをつくって、それを沖縄の市町村が順守しながらつくっていく。だから、僕がイメージしている沖縄道州は、市町村よりも上にある仕組みです。沖縄自治州が、基本的に市町村に対する交付税・交付金の分配の権限も持つというような、連邦の州にあたるようなイメージですね。私は憲法95条をどうせ使うんだったら、そこまでの道州の権限を持った連邦制的な自治州にしたほうがいいというイメージです。そうなると完全に地方自治法の適用除外になる。ここであまり議論しなかった、どういうイメージしてるのか、ちょっと意見聞かなかったのは、この沖縄県内の市町村が地方自治法の適用化になるのかならないのか。どうもイメージぱっと見たらならないような気がするんですが、自治基本条例で、自分たちの組織編成権を持つということなので、自治法適用除外だろうというイメージなんですが、だけど、では現行地方自治法は、基本的に全部無効になるのかどうなのか。準拠する何か一定の効力をもつのかどうか。それについて、ちょっとわからない。それでもし準拠しないものだとしたら、このぐらいの条文をそのまま残して、そして地方自治、市町村に、適当に自分たちで自治基本条例に基づいていろんな権限をやってくださいよと言ってさせた時に、例えば現行地方自治法よりもさらに後退したような住民参加の仕組みをつくらんか。リコールだとか直接請求だとか全部カットして、住民投票も絶対させないような制度をつくる市町村が出てこないか。沖縄の場合ほとんどそればかりになるんじゃないかなというイメージですね。その恐れがなきにしもあらずなんですよ。だからこれが非常に恐れていることで、現行地方自治法をどう扱う、どう準拠枠にするのか。それと新しい自治州とそれから市町村合併はどうするか。これは非常に重要な関係、これは明確にしないといけない


○曽根淳氏  自分もきょうはそこが一番の争点だと思っていたんですけど、自分はどちらかと言うと、現状を考えれば西尾案のほうに賛成で、先の自治基本条例とか、あと  に関わる部分は州内の基準に準じていいと思うんですけれども、あとは現行地方自治法の下において、財政補完も国がしてというやり方のほうが、現実的なのかなというふうに思います。


○新崎盛幸氏  「市町村レベルの統治については、自治法よりも前進した形で、こういった内容は盛り込んでくださいよ」というような指針みたいなものを、州法の中に盛り込んでいくことはできないですか。
 ヨーロッパ自治憲章では、何条と何条と何条は必ず適用しなさい、というようなシステムがありましたよね。


○玉城和宏氏 やはり組織を改編する時に、理念的なイメージと現在ある組織との整合性、それからどのような形で連続的に変形、移行形態を持つかという話が非常に重要だと思うんですけれども、基本的に今のお話を聞いていて危惧するのは、もし従来の自治法というかそれがずっと強く生きているのであれば、沖縄県の州に関係する法律は、骨抜きになる可能性も大いにあるという危惧を持ちましたので、やはりさっき新崎さんが言われたような形で、譲れない部分のところは、くさびを入れておかないといけないのではないかなと思います。やはり明確に自分たちがイメージする地方自治体と市町村のレベルの構造というのと、現在ある憲法の整合性を確かめておく、明治憲法のレベルみたいな解釈は許さない、解釈は国の権限であって、国民が解釈以外のことをするのはけしからんという、そういう法律解釈というか、そういうのが従来の日本の解釈なんですね。本来だったら新しい日本国憲法にはそういうのはないはずなんですね。だけど明治憲法の形式では法律に書いてある範囲内しか住民は自由でないという。したがって、文章一つ一つそれに書いてないことは認めない。そういうふうな形になっているんですよ。その解釈が今でもだいたい生きていますので、曽根さんが言われた形で、私は西尾先生の理論は知りませんけれども、そういう形で、今の政府の機構があるとするならば、旧自治に関する法律を徹底的に使いながら攻め込んでくるというか、そういうふうな危惧が非常に出てくるので、そのへんの部分を跳ね返すためにはやはり住民の基本になるような生活を守るための主張がいかに重要かと。それは憲法の精神に戻るんだと。憲法は、日本国全体の主権在民である我々の幸福を勝ちとるためのシステムであり、州のほうの自治も州の中における主権在民という部分を勝ちとるための機構であり、市町村もウェルフェアというか、社会福祉を考えて我々主権在民の人たちの幸福をサポートするための組織であると。それらをすべて一貫させていただいて、それから横槍を入れてくる、つまり旧来の権力の入り方、それを皆さんがぜひ両方ともイメージしながら、その齟齬(そご)がどこにあるのか、そしてどういうふうな形でそれが急に入れ替わったりするのか、そのへんの視点を入れていただいて専門的なお話を進めていただければなと思います。


○島袋純氏 非常に大きな問題で、根本的な問題、最初に議論しないといけない問題なんですが、地方自治法との関係、あるいは憲法との関係、当然ながら憲法の範囲内でこっちは書いてあるんで、憲法というのは準拠するわけです。最大の枠組みとしてここでも生きているというのはわかるんですが。地方自治法をどう生かすかなんですが、例えば2番のほうに、統治の仕組み・統治のあり方を創造することができる、形成することができるという文言で、その際に地方自治法によって定められた住民の権利を侵害というか低下させるようなことがあってはならないとか、何かひとこと、その際にとか、ただしとか、原則として地方自治法で認められた住民の権利は決してないがしろにしてはならない、とかいうかたちでくさびを入れる。そんなことはできるかもしれません。要するに地方自治法まったく無関係ではなくて、最低限の基準として、住民の権利に関しては、統治の仕組みに関しても住民の権利を守るというレベルで発展させる方向に必ずいけよというイメージですね。だから全く無関係ではなくて、一応適用除外にするけれども、最低限の基準としては機能しますよというような入れ方ではどんなでしょうかね。それであれば西尾案的なものであっても、僕みたいな独自の道州、独自の案といくとしても、これは最小限の担保として確保することができるんじゃないかなというイメージはあるので。


○新崎盛幸氏  しかし、自治法を生かすような形で進めていくと、結局、統治機構とか、そういった部分については、国の法律に従うような形になって、統治の自治の自由が、結局奪われる形になっていくんじゃないかと思いますけど。


○島袋純氏   それで言ったのは、要するに住民の権利に関してはと、住民の権利。住民の自治に対する参加の権利に関しては。そこで限定を入れれば、ああリコールのことだな、直接的なことだなと。しかもこれは最低限のことで廃止してはいけないんだな。例えば議員に対する直接選挙とか、首長に対する直接選挙とか、いろいろあるんだけれども、それについての権利を侵害してはならないんだなというのが一応わかるかな。だから基本的に議員の定数だとか、それから助役・収入役がどうするこうするとか、シティーマネージャーとか、これは基本的に直接関係するとか言われてないですよね。全く無関係ではないでしょうけれども。それである程度可変的なものだとみなされていると思うんで、住民の…
(テープ1本目A面終了)
○照屋勉氏  …もう、そろそろまとめに入らなければいけないかと思いますが。1に関して、「完全」という言葉はもう入れないということでいいですかね。

 はい、ではそれを削除してやるということで少し変えましょうね。

 それから、2に関しましては、統治機構創造というような部分と、それから今出た地方自治法で認められた住民の権利に対しては、その機能を残すという、しっかりこうしなければいけないというような部分の文言を入れるということですね。

 3は、もうそのままでいいのでしょうか。


○藤中寛之氏  あえて政策的なことを、こちらで規定するということを踏まえてのお話なのですけれども、島袋先生も指摘されました既存の市町村会等が担ってもよさそうなところに対して、いわゆる指定管理者制度の発想みたいなのを、うまくこの3の中で導入するような条文をつくったらいいのではないかと思います。

 というのは、自治について技術的助言や政策提言を行うため、という目的を達成するために、既存の公益的な市町村、連合の団体の予算というのを、競争原理による公募を実施することによって、その目的を達成する団体を認定するというようにすれば、ある意味で既存の市町村会とかで、陳情しかやらないよと言っていたところも、もう自分たちのこの目的達成できないと言ったら、他の競争相手がでてくると言われたら、一生懸命政策的なこともやらざるを得なくなるでしょうし、その既存の人たちが担っていたものというよりもさらに上等なことができる団体・人とかがいたら、取って代わるというような枠組みの仕組みを、3で規定すれば結構上等なのではと思いました。


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