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沖縄自治研究会

沖縄自治研究会

第3回インタビュー 上 

第3回 下河辺淳氏インタビュー
日時:2003年11月11日午後1時30分から午後3時30分(2時間)
ところ:第12森ビル 下河辺研究室
インタビュー対象者:下河辺淳
インタビュアー:江上能義、眞板恵夫
記録者:眞板恵夫
※、発言者の敬称


●本土政党と沖縄政党の相違点

江上:最初に前回の続きで、もう一回確認したいことの御説明をお願いして、そこから始めたいと思います。眞板さんからどうぞ。

眞板:前回の部分でですね、最初の方に永田町・自民党と沖縄自民党は、水と油ほど違うんだよというお話があったんですが、具体的にどう違うのかっていうことをご説明頂けませんでしょうか。

下河辺:そうすか。ヤマト自民党ってのは、55年体制の中で構築した政党ですよね。だけど、沖縄自民党ってのは、沖縄のことしか考えていないのは当然で、日本が考えることと、沖縄が考えることは、あの当時、非常に差があったわけですね。だから、アメリカに対する理解のしかたもぜんぜん違いますしね。あの当時の沖縄っていうのは、むしろ、英語っていうのものが、かなり大きな役割を果たしていたですよね。日本っていうのは、日米で親しいのに英語に詳しいっていう国じゃなかったでしょ。だから、私なんかが悪口言えば、沖縄っていうのは、チューインガムとチョコレートみたいな印象なんですね。日本人っていうとコメっていう感じでしょ。そういう点、非常に違うし、そして、しかも、沖縄自民党っていうのは、米軍相手の仕事で、稼いでいる人たちが、主役でしたからね。だから、県民から言えば、沖縄自民党っていうのは、なんか敵だったわけですね。革新系の人たちにしてみれば、あれは日本の経営者じゃないっていうことさえ言ったですよね。米軍になんかたかりまくって、食っている輩だって、いう言い方をしている人もいましたね。

江上:そうですね。その当時は基地依存経済でしたたから、やはり基地からお金を引き出さないと、産業界は成り立たないっていう状況はありましたから。

下河辺:そういう客観的なこと以上に、積極的にそれで食っている人たち、わかって認めているって人っていう感じがあるわけでしょ。
江上:そういうので、沖縄の基本的な考え方っていうのは、55年体制でできた本土の自民党とは体質が違っていたということですね。

下河辺:そうですね。そういう激しい歴史の中に放り込まれちゃったわけですよね。

江上:そうですね。そうすると、当然、考え方が違ってくるわけですから。

下河辺:そうです。

江上:沖縄の復帰の問題を巡っても、同じ自民党でありながら、意見の衝突があったわけですよね。

下河辺:さあ、琉球っていうのは、そういう伝統をもっているんすね。侵略者に対して、戦うということよりは、なるようになっていくことを自然に任せるんですね。そして、彼らはいつでも、必ず侵略者っていうのは去っていくと、信じているんですね。島津のときでも、明治政府のときでも、同じように理解したんでしょうね。いろんな侵略者が現れたわけですからねえ。無抵抗で歴史を作ってちゃう名人ですよ。

眞板:実は65年に沖縄自民党が、当時、松岡政保主席の与党として誕生するわけなんですけども、その後、副幹事長なさっていた吉元栄真さんが、主に本土自民党との繋ぎ役というかパイプ役で、行ったり来たりしているもんですから、その間に本土自民党のカルチャーっていうのもが、当然、沖縄自民党にも入り込んでくるだろうと見てたもんですから、意外だなあと思ったしだいなんですが。

江上:いや、それも入り込んでいるんだろうけど。

下河辺:社会党についても同じなんですよね。

江上:社会党でも同じだということですか。

下河辺:沖縄社会党っていうのはぜんぜん違うんですね。

江上:成り立ちも違いますよね。

下河辺:日米安保と戦うわけですからね。

眞板:当時の本土社会党は、日米安保反対じゃなかったでしたっけ?

下河辺:いやいや、反対ですけども、なんていうんすかね。安保条約として反対するわけでしょ。だから、沖縄っていうのは、なんていうんすかね。平和条約さえ認めていなかったっていう、だけではなくて、彼らとしたら、独自の生き方をしたいって考えたわけですね。日米安保っていうのはある意味では、反共政策ですからね。それに対して反共っていう言葉は、沖縄になかったと思いますね。隣に中国があるって認識は強いし、台湾があるっていうのも強いんだけども、反共っていう感じじゃないんですね。

江上:アメリカとか日本本土のように、共産主義勢力に真っ向から反対するというのは、沖縄にはあまりなかった。

下河辺:もちろん、革新の一部にはいたわけですけどね。だけど、沖縄全体としては、そういうことではなかったと思うんすね。

江上:あの瀬長亀次郎さんの人民党も、最終的には復帰後、共産党と合流していきましたけども、日本本土の共産党とちょっと違いますよね。

下河辺:違うんですよ。


●沖縄自民党内にも独立論者が

江上:違いますよね。先生もおっしゃったように、最初、人民党は沖縄独立論を主張していましたしね。それで、本土の自民党と沖縄の自民党もかなり違っていて、その両者をつなぐために先生はいろいろとご苦労なさったと思うんですが、どういうことでご苦労なさったとかそういう具体的な事例はおありでしょうか。

下河辺:そうですね。なんか、忘れちゃったけど。そうですね。なにしろ、日本から独立したいっていう過激な人がいたくらいですからね。

江上:沖縄の自民党内にですか。

下河辺:ええ。

江上:あ、そうですか。革新ではなくて沖縄の自民党の中に。

下河辺:自民党でもそうでしたね。だから、遠まわしにいつでも、大航海時代の琉球っていうのは、復帰の目標であったというのが、そういう思想を背景に持っているんでしょうね。

江上:それはそうでしょうね。それはありえますね。

眞板:あの、沖縄自民党で独立論を唱えた人のお名前ってご記憶にございますか。

下河辺:え、なんとかさんっていたなあ。ちょっと忘れちゃった。顔だけ覚えてて、

眞板:小渡さんですか。

下河辺:えっ。

眞板:小渡亨さんですか。

下河辺:小渡さんじゃないなあ。

眞板:小渡三郎か

江上:小渡さんじゃないでしょ。

眞板:確か海軍ですよね。

下河辺:忘れちゃったなあ。

江上:顔は浮かびますか(笑)

下河辺:顔はなんか覚えているんですけど。汚い宿屋でしゃべったのは覚え
ているんだけど。だめだなあ。

江上:自民党の中に独立論の方がいらっしゃったというのは、初めて聞きました。

眞板:初耳です。

下河辺:そうですよね。

江上:でも、考えてみたらありえますよね。沖縄のいままでの歴史から考えると。

下河辺:東京から行く自民党の人たちの演説っていうのは、復帰をするってことを喜んでいながら、自分の党の支部になれっていう感じなんですよね。そんな永田町に支配されて、沖縄支部の自民党なんていうことをみんな喜ばなかったんじゃないでしょうかね。

江上:それは先生もご存知でしょうけども、復帰後もありますね。

下河辺:いまでもあるんですよ。

江上:いまでも自民党の本部と沖縄県連の間では確執がしばしばあって、うまくいくときもありますけど。うまくいかないことも多い。今度の総選挙の場合もそうですよ。

下河辺:ああ、そうですか。

江上:自公路線で、公明党の白保さんを自民党が推すということで、いったん決まって、それは特に東京の方針ですよね。沖縄は支部と呼ばないで県連と呼ぶんですが、県連はあくまで下地幹郎という自民党議員を候補者として立てようとしたので、それでもめて国の方針と沖縄の方針がぐちゃぐちゃになって、両方、立っちゃったんですね。

下河辺:そういうことあるでしょうね。

江上:(笑)いまでもありますね。一種独特ですよね。他府県だったら中央の意思がこれほど地方で抵抗されるとか、拒否されるというのはあんまりないでしょうね。

下河辺:あんまりないんじゃない。

江上:ないですよね。これはやはり沖縄独特の現象ですね。

下河辺:テーマですね。

江上:歴史があるからですね。


●大学院大学構想の原型は亜熱帯総合研究所

眞板:次は、亜熱帯総合研究所のお話が出てたと思うんですが、下河辺先生の文言とですね、尾身、当時、沖縄開発庁長官をなさっていた尾身さんが、大学院大学構想を打ち上げたときの文言がですね、世界的な規模の研究所であるとかですね、世界的な規模の研究者を招くんだとかっていう下りから想像するとですね、もしかしたら、この大学院大学構想っていうのは、先生のご発案だったんじゃないのかと、いう風に思いまして

下河辺:私っていうよりも、私が一緒にやっていた野村総研の意見だったんですよね。野村総研っていうとあんまり正しくなくて、野村総研にいた何とかさんっていった、個人的な提案だったですよ。

江上:福島さんじゃないですか。

下河辺:あ、福島さんっていったかな。

江上:そうでしょう。

下河辺:ちょっと、正確に覚えていないな。

江上:大田県政のときに、国際都市形成構想のいろんな調査に係わった方ですよ。

下河辺:ああ、そうですか。

江上:福島清彦さんとおっしゃいましたかね。

下河辺:言ったかなあ、ちょっと忘れちゃったなあ。実に熱心に

江上:あの、割りと小柄な方で

下河辺:小柄でしたよね。

江上:割りと丸顔で

下河辺:丸顔

江上:そうでしょう。じゃあ、福島さんですね。私はその調査で坂口さんと
福島さんと一緒にニューヨークの研究機関の視察に行ったことがあるんです。

下河辺:ああ、そうですか。

江上:国際都市形成構想で、彼がいろいろ調査していましたね。

下河辺:ああ、そうですか。

江上:たぶん、それだったら、福島さんでしょうね。

下河辺:そうでしたかね。


●「亜熱帯総合研究所構想」秘話

眞板:それはもしかしたら、日米連合大学院大学構想と関連していることですか。

下河辺:いや、なんかむしろハワイにあったイースト・ウエスト・センターに対して、ノース・サウス・センターって言おうっていうくらいに、ふたつを並立させようっていう発想だったですからね。そしたら、なぜかアメリカがイースト・ウエスト・センターっていうことをあんまり、取り上げてくれないんで、ちょっと止めちゃったんですけどね。確か、そのあたりの資料はおたくに渡しちゃったから、確かそのなかにあると思いますよ。

江上:そうですね。ありましたね。あとで、調べておきます。亜熱帯研究所は、結局、先生がおっしゃったように、県の施設なってしまって、

下河辺:県が自分で作っちゃったんですよ。

江上:作っちゃったんですか。聞いた話によると、県は、最終的に国が面倒をみてくれるんじゃなかろうかと考えていた。国がもっと立派なものを作ってくれるんじゃなかろうかと思ったところが、それが途中からぽしゃっちゃって、結局、県が自分で作らざるを得なくなったというような話ですが。

下河辺:それはうそですね。

眞板:というか、何もないところに亜熱帯総合研究所を国立で作るのは、難しいんで、まず、そのう露払い的な意味合いで、県で何か基盤を作ってくれと、それを突破口にして、国がそこに予算付けして拡充していくから、というような見方を沖縄ではしているみたいですよ。そしたら、いつの間にか来なくなっちゃったという。

下河辺:だから、それが早合点なんですね。私と橋本さんの間で、橋本さんがいくつもあるうちのひとつを選んで、これを国でやろうって言ったわけです。そして、沖縄に通知したら、気がついたら県立で作ったって言うから、びっくりしたんです。県立の研究所を補助するっていうと、日本にたくさんある研究所の補助の一貫でしかないですよね。だから、特別に作るっていうところを県が慌てて作ったために、ただ普通の県立の研究所になっちゃったわけです。

江上:ちょっと、手順を間違えたんですかねえ。

下河辺:間違えたの。それで補助金を特別に文部省に申請した、なんていう、そんな次元じゃ、補助金っていうのはできないよって言って、もう後の祭りだったですね。

江上:後の祭りですね。県の亜熱帯研究所はあまりうまくいっていないようですね。

下河辺:そして、国際級の教授を呼ばなければ、意味がないっていうところも、県立なんでだめになっちゃったんですね。

江上:そうですね。琉球大学の施設を利用した、こじんまりとした形になって、結果的にはあんまりぱっとしない状況になっています。

下河辺:そうですよ。

眞板:当時もノーベル賞級の学者さんを学長か主任研究員に迎えてっていう話があったそうですね。

下河辺:そうですよ。そうやったら、どうかって言ったら、なんとなく自信がないんですね。そういうレベルじゃ、ないんですね。やっぱり、県立の研究所のレベルで、考えちゃうから、

江上:県は、世界レベルの研究所づくりにはちょっと、自信がなかったからでしょうか。

下河辺:そうです。

江上:それで、世界レベルの大学院大学構想を国自らがやるというような形になっていくわけですね。

下河辺:なっちゃった。

江上:それで結局、沖縄とは、あんまり関係ないよと。これは国のものだよというような方向性ができたんですかね。

下河辺:そうでしょうね。

江上:はあ、そうか。そういう歴史的な経過があるんですね。

眞板:そうですね。

江上:でもやはり、これまで先生がいろいろと関わられた、そういった構想が合流しながら、大学院大学という構想になっていっているんですね。

下河辺:なっちゃったんです。

江上:そういうことですね。


●普天間跡利用構想――ヘリコプターネットワーク

眞板:あと、最後なんですが、盛んにヘリコプターのネットワークのお話を普天間の海上ヘリポートの返還の絡みでですね、おっしゃっておりましたが、これはもしかしてですね、四全総のなかで謳われておりました、エアコミューター構想のヘリコプター版というような理解、あるいはアイディアとうことで。

下河辺:いやあ、ヘリコプター版というか、あの三全総、復帰したときの計画では、小型航空機っていうことがテーマでして、地元から言ってきたわけですね。だから、名護でも1000メーターの滑走路を作ってくれとか、その当時、日本の離島の飛行場っていうのは、そういう発想が多かったですよね。そして、経営難にみんな陥っちゃったわけですけども、だけど、沖縄にはせっかく海兵隊がいるから、その海兵隊のヘリコプターの払い下げを受けて、安上がりに作ったらどう、って言ってたんですけどね。

江上:面白いアイディアですよね(笑)

下河辺:特に、病院というのを島へ作ること不可能だから、本土の病院へヘリコプターで患者を運ぶっていうことを作っといたらいいだろうっていう、話してて、その医療システムには国費を投入してもいいんじゃないかっていうことを言ってたわけですよね。

眞板:先生、素朴な疑問なんですけど、そのヘリコプターで離島がカバーするエリア、沖縄本島を中心に考えると、いわゆる島尻郡、久米島とか慶良間諸島とかあのへんは、もちろんカバーできると思うんですよね。

下河辺:いやあ、全県カバーできる。

眞板:ただ、その航続距離の問題で、たとえば、南北大東島であるとか、与那国、波照間というようなところから、本島に持ってくるとすると、米軍のヘリでも一回給油しているくらいですんで、

江上:南北大東と那覇は一度に行き切れないの?

眞板:ヘリコプターはちょっと厳しいんじゃないすか。

江上:厳しいの?

下河辺:いやその。

眞板:もしかしたら、行けるのかもしれないですけど。

下河辺:いや、行けると思いますよ。

眞板:あ、そうですか。

下河辺:ただ、給油のシステムっていうのは別なんですよね。特に米軍の場合には、攻撃されないように、燃料貯蔵しなきゃいけないっていうような軍事作戦上のテーマがあるでしょ。だけど、平和でもって病院のことだったら、病院でもって給油できれば、いいじゃないですかね。

江上:残念ながら、それは実現には至らなかったんですね。

下河辺:いまでも、まだ、それは、やろうとはしているわけです。

江上:ああ、そうですか。


●ヘリコプターネットワークのモデルは海軍病院

下河辺:装置型の医療っていうことができるようになってきましたからね。だから、沖縄の海軍病院が先頭に立って開発してくれてますから、沖縄の海軍病院っていうのが、モデルだって思ってましてね、今でも米軍はベトナムからカンボジアからフィリピンあたり側へとつながって、なんていうんすか、コンピュータで医療管理することをやってんじゃなすか。

江上:そのくらい大きな拠点が嘉手納の海軍病院なんですか。

下河辺:そうです。それはやっぱり、日本の医療ってのは、そういうものとつながることを好まないんですね。医師会っていうのがあって、医師会は海軍病院とは付き合おうとしないですね。だから、海兵隊にすると、せっかくいるのにもったいない、なんて言っているけども、現実に沖縄本島では、海軍病院とつながっていませんね。

江上:そうすると、米軍の病院関係者と沖縄や日本本土の病院関係者とはぜんぜんつながりがいないんですね。

下河辺:ないというより、しちゃいけないんですね。
江上:しちゃいけない、軍の施設だから、というわけですか。

下河辺:軍だからというより、日本の医療体制からはずれたシステムなんですね。

眞板:ただ、最近、県内では年間数名研修医という形で海軍病院に行って研修しているみたいですけども。

下河辺:そうですね。研修には行っていますし、見学には行っているみたいですけどね。

江上:でも、共同作業をするというようなところまでは至らない。

下河辺:患者を受け取るっていうことをあまり喜ばないすね。

江上:そうですか。なかなかいろいろ難しいですね。軍の施設といってもお医者さん同士とか病院同士が協力すれば、いろいろ成果とかあがるではないかと思いますけどね。

下河辺:沖縄の軍というのを小泉内閣が、有事のためとだけしか認識していないからおかしくなんですね。有事なんてないって、沖縄の軍は言っているわけですからね。それじゃあ、平和なときに駐留している理由はなんだ、って言ったら、ゲリラ対策もあるでしょうけれども、医療とか研修とか留学とかっていう手伝いをしているわけですね。

眞板:どうもありがとうございました。


●一次振計策定について――補助率のかさ上げ

江上:それでは、本日のテーマに移らしてもらいます。先日、高島さんに質問表・メモのようなものをお渡しておきました。というのも、もう既に先生の方から私の方に関連の資料をたくさんいただいているんで、先生は書類をお持ちにならないわけですから、私の質問してお答えなさるほうもご不自由だろうと思ってそのようにしました。

下河辺:いやいや。

江上:非常にお粗末なメモで恐縮です。でも先生はずっとご自身でやっておられているから、振興開発計画については、そういうのを見なくても十分お答えなさることができると私は思っているんですけども。一応、順を追って、沖縄振興開発計画についてお聞きしたいと思うんですけども。まず、最初にその根拠となる沖縄開発特別措置法についてですけども。これは先生よくご存知のように目的は「1、基礎条件の整備をはかる、2番目に、産業の均衡ある振興開発をはかる」そして、手段として、「1、国の負担または補助率のかさ上げおよび事業主体の特例により振興開発事業を推進する、2番目に工業等開発地区および自由貿易地域の制度を活用することにより企業立地を推進するとともに貿易を振興し、もって産業振興をはかる」という風になって、この基本原則を基に、振興開発特別措置法が展開されているわけですけども、これについては、目的、手段というのを当時を振り返られて、どうですか。こういう形で、やるしかなかったといいますか、こういう形でやるのが当然であったという風にお考えで

下河辺:当然のように県がこうやって陳情に来たことは確かですね。それで、陳情だから国もそれを受けて、こういう特別法を作ったんですね。

江上:これは、ほとんど沖縄側の意向を受けて、

下河辺:ええ。

江上:こういう形になったということですね。

下河辺:それが私は、非常に疑問に思っていましたから。だから、こういう形でやっぱり、ほかの県と同じようにやりたいんだなあと思って、受け取っていましたけどね。沖縄はこういう形にはなんないっていう、感じが強かったですね。

江上:それは補助金の問題とか、そういうものでしょうか。

下河辺:補助金じゃなくて、産業構造として議論のし直しだと思いましたね。産業っていう言葉が、いったい何を言っているのか、そして、手段でもって、工業化地区と自由貿易地域っていうような話にしちゃうから、相変わらず製造工業のことを振興の中心に置いているんじゃないかって、思うと、無理だろうなっていう。

江上:そうですか。

下河辺:できりゃあいいことですけどね。

江上:結果的には先生が当時、おっしゃったように無理だろうなっという状況があったんですね。

下河辺:私はとても無理だと思いましたね。だから、同情してやってくれたのは松下幸之助さんだけでしたよ。それで、土地買ったままナショナルは、とうとう工場を作らずに終わっちゃいましたしねえ。


●工業等開発地区および自由貿易地区の制度の活用

江上:ということは、国の負担または補助率のかさ上げという手段のひとつですけども、2番目の工業等開発地区および自由貿易地区の制度の活用というのも、これ全部、沖縄県側が要求したんですか?

下河辺:そうです。いまでも、いまの知事も同じことを要求してんじゃないすか。

江上:そうですね。

下河辺:補助金と制度がよければ来ると思い込んでんじゃないすか。だけど、実績は上がらないじゃないすかね。それは日本の企業、行きませんよ。

江上:これは、工業等開発地区が当時の全国総合開発計画で、新全総であったものをそのまま、沖縄県にもってきたわけですね。新全総で日本本土のあちこちで工業等開発地区があるから、それを沖縄県に当てはめて、先生がおっしゃるように、工場の設置を沖縄にも是非やって欲しいというようなことで、こういうことになったんですね。

下河辺:そうですよね。

江上:そうですね。ということは、国の方から、こういうものを当てはめてやった方がいいと言ったわけではない。特に、先生はそうは思われなかったということですね。

下河辺:そうですよ。政府の方も言われるものを全部登録して、検討事項としてやったのが、なんか88項目かなんかあったりして、それで結論があまりないままに置かれてんじゃないすか。ですから、亜熱帯研究所を設立するっていう話が、多少、話題になっただけなんじゃないすかね。
 イースト・ウエスト・センターに対するノース・サウス・センターなんかも、もうトラウマになっちゃっいましたしね。

江上:ということは、こういうやり方で、沖縄の産業振興を、工場設置を興そうとしても、先生としては、結果的にうまくいかないんじゃないかという風に、最初から危惧はされていたんですね。

下河辺:そうですね。むしろ、現実的に動いているのは観光だけでしたから、200万という目標が達成されて、300万観光くらいまでいったわけですから、そしたら、いまの沖縄県は、500万観光って言って、それが拡大することを言っているんですね。ところが、どういう観光で拡大するかっていう具体性が、あんまりないから、500万までいくのは容易じゃないんじゃないですかね。だから、知事は航空運賃を補助金つけて安くすれば来るなんていう、話になっちゃったんじゃないですかね。


●沖縄と北海道の振興開発計画策定方式の相違

江上:それで、同じ沖縄振興開発特別措置法の第4条「振興開発計画の決定および変更について」ですが、「沖縄県知事が振興開発計画の案を作成し、内閣総理大臣に提出するものとする」と規定されています。それで、「内閣総理大臣は沖縄振興開発審議会の議を経るとともに・・・」と続いて、「内閣総理大臣は振興開発計画を決定したら、これを沖縄県知事に通知するものとする」とあります。それで、振興開発計画の案を作成するのは、あくまでも沖縄県知事だという風になっています。これは北海道開発庁とはぜんぜん違いますよね。北海道開発庁については、こういう規定はもちろんありませんので、非常に対照的です。これは下河辺先生から言わせると当然だということですか。沖縄県側にそれだけ振興開発計画を作る主体性を与えた、ということになりますか。

下河辺:一応、第一次振計ということを沖縄県が、独自に作って、政府に持ってきたっていう経緯から始まったんですね。そして、やっぱり、沖縄県独自に作ったものを政府が、受け取って、それを基本に政府の計画を作るっていうルールがまずできたから、法律作るときにそれをその通り書いたわけですよね。北海道のように、拓殖っていうか、国が入植っていうところから始まった、北海道とは違うっていうことは言ってましたね。

江上:そうですね。事情が違うっていうことと、それと沖縄の場合は、そういった沖縄自らが振興開発計画を国に持ってきて、これを実現してくれといった復帰当時の経緯がこういう形になったということですか。

下河辺:そうですね。

江上:それはやっぱり、二次振計でも、三次振計でも同じですか。

下河辺:それはそのままつなげていますから。

江上:そうですか。ということは、国としては沖縄県側から振興開発計画を持ってきて、二次振計も三次振計も、ほぼその通り受け取って実行したんですか。

下河辺:そうですね。その通りっていうわけには、財政の都合があるからできないわけです。だから、県と相談して補助金を配りながら、計画の基礎になってきたことは確かですね。

江上:もちろん、計画自体の調整も必要なとことあったでしょうね。

下河辺:それはありますよね。

江上:でも、基本的にはやっぱり、沖縄県側が作ってきた計画を尊重しながら、実施してきたということですね。ということは、ある意味では、最初の一次振計もそうですけども、一次振計もほとんど沖縄側が作っているわけですから、二次振計、三次振計も沖縄側が作ったんですから、これがうまくいったかどうかという責任は、ほぼ沖縄県側にあるということになるんですか。

下河辺:いや、政府だってあるわけです。政府がそれを飲み込んで沖縄対策を国としてもやってきたわけですから、だから、一番、国も県も困ったのは、日本の企業誘致がうまくいかなかったこと、ですね。

江上:そうですね。

下河辺:それで、観光だけがうまくいったっていうことは、なんか国も県も同じ認識でいるんじゃないすか。


●県内工業団地の現状

江上:ひき続いて、第一次振興開発計画、いわゆる一次振計の中身に入りますけども、まず第1に、一次振計作成時点での10年後の数値目標は、その当時60%弱の県民所得を80%くらいにする、そして第二次産業の比率を当時、18.1%だったものをこれを29.7%に引き上げる。特に製造業の比率を復帰の時点で9.3%だったものをこれを18.6%、ちょうど2倍に引き上げるというような数値目標を決めました。それから、新全総の工場の地方分散、すなわち、企業誘致という手法が沖縄にも適用されました。72年10月に沖縄は「工業再配置促進法施行令」によって、工業誘致地域に指定されました。工業等開発地区として、糸満、南風原、読谷、具志川を含めて、11ヵ所が指定を受けました。糸満工業団地と中城港湾新港地区工業団地が整備されたんですけども、先生も再三指摘されましたように、うまくいかなかったわけです。特に、工場誘致は相当強い願望だったっということが、この計画から見てもわかりますけども、ほとんどうまくいかなかった。私、糸満の近くに住んでいましたけども、糸満の工業団地は、いまほとんど住宅地になっていますね。工場としては地元企業のリューセロなどが少し、そこに入っていますが。

眞板:まさひろという泡盛の会社も入っています。

江上:泡盛の会社も。地元の会社がいくつくらい入っていた? 地元の。

眞板:地元の企業ばっかりです。

江上:地元の団地がいくつか入っている。あとは、ほとんど住宅街になりま
したね。

眞板:そうですね。

江上:新興住宅街になりました。中城港湾の方は、いま工場団地を造ってやっているでしょう。

眞板:そうですね。最近ですと、台湾の企業が沖縄でオートバイを組み立てて、メイド・イン・ジャパンで輸出できるということで、そういうのが入っている。

江上:いまは、糸満よりもむしろ中城港湾の方が活発だね。

眞板:はい。

江上:ですよね。そういうような状況になって、期待が大きかったんですけ
れども、そういった工場を立地するだけの諸条件が整わなかったということですね。これについて、先生、何かコメントがおありでしょうか。

下河辺:いやあ、まさにこういうことで、新全総としてのやったわけですけども、なかなかうまくいかなくて、工業ではもともとの地元の産業の砂糖とビールっていうようなことをどうしようってことさえも、ままならないままになったんじゃないすかね。

江上:砂糖とビールですか。

下河辺:そうですね。沖縄ビールっていうのは、沖縄にとってはひとつの産業でしたからね。

江上:オリオンビールは復帰前からずっとあったんですよね。

眞板:そのはずですが、途中でキリンビール、あれ、キリンビールの技術指導でできたという風に聞いてはいますけど。

江上:そのあと、キリンビールから離れたんですか?

眞板:資本的にはいまアサヒビールですけど。


●沖縄開発庁の一次振計の自己評価について

江上:いまはアサヒビールだね。そういうことで、「沖縄開発庁二十年史」などで、第一次振計についての自己評価を沖縄開発庁がやっているんですけれども、ひとつは社会資本が確実に整備されたということを言っています。一次産業については、野菜、花卉、畜産等作目の多様化の方向に歩みながら、着実な伸びを示した。二次振計はもう再三言っていますように、新規工業の立地はほとんど進まなかった。ただ、地元企業は、相応の検討ぶりをみせたと。つまり、地元企業はそれなりに頑張ったと記しています。でも、特に本土からの新しい工業の立地がほとんど進まなかった。建設業は、公共投資の増大等により大幅に伸びた。第三次産業として、観光客が年々、増加し、観光関連産業を中心に比較的順調な伸びを示した。1971年に観光客は20万人、観光収入は145億円だったものが、その10年後、1981年には観光客数は200万近く、193万人になったと記しています。10年間で10倍近く伸びている。観光収入はそれに応じて、大きく飛躍して1971億円にまでなったと記しています。そして、一人当たり県民所得の対全国格差ですけども、72年度の約57%から、一次振計が終わる81年度は、70.7%まで縮小した、つまり、相当県民所得は上がったということを言っています。こういう沖縄開発庁の評価について、先生はどう思われますか。

下河辺:いやあ、まさにこの通りで、第二次産業が計画的に行かなかったっていうことが、問題として残っただけですよね。第一次産業については、コメを作るっていうことの是非論っていうのが、ちょっとまだ検討課題じゃないですかね。

江上:昔は、沖縄でもかなりコメを作っていたんですね。

下河辺:そう。

江上:いまはもう、コメはほとんど作られていませんね。

下河辺:いや、復帰のときのテーマは、コメを作ることだったわけですからね。それをやったんだけども、買うほうが安いですからね。

江上:復帰のときには最初、コメを作ろうとしたんですね。

下河辺:したんです。そいで、土地改良の事業が、さんご礁を潰しちゃうっていうトラブルがあったわけですね。農地を作るたんびに、土壌が海に流れて、さんごの上にかぶさっちゃうんですね。

江上:それで、途中でやらなくなったんですか。

下河辺:そうです。で、あんまり農地開発はやらないでおこうっていう環境派の連中が強かったんじゃないすかね。

江上:それで、コメ以外の野菜とかを作ろうとしたんですか。

下河辺:小さな規模のものはやったんすね。

江上:それで、第二次産業が大きな課題だったんですけども、それ以外に第一次振計の残された課題として、沖縄開発庁はまだ十分に達成されていない課題として、交通施設、道路網の整備、水資源、エネルギー、製造業のウエイトが低い、それから財政支出に大きく依存している、沖縄のもつ地理的自然的特性が生かされていない、というようなことを指摘して、そのために二次振計が必要であると、いう結論にになっています。残された課題について、先生は、その通りだと思われますか。

下河辺:いやあ、これは表現がこんな風なら、いつでもどこでも同じこと言って大丈夫なんで、あんまり提案した理由になんないすよね。おそらく、この交通施設っていうのは、鉄道のことを言ってんでしょうかね。那覇から名護までの鉄道がビジョンだったわけです。だけど、採算がとれないんですよね。それで、補助金で造るなんていう、話になっていたから、なかなか実らなかったんじゃないすか。そして、むしろ沖縄は自動車の方をいいという意見で、鉄道を熱心にやった連中も、東京にはいっぱいいましたけども、結局できなくて、自動車の沖縄になっていますよね。


●モノレールについての評価

江上:モノレールはいま走っていますけど、あのモノレール計画は割りと早く出ましたよね。

下河辺:そうですね。

江上:あれは西銘県政のときに出てきてますね。あれはどうですか。

下河辺:その、空港と街をつなぐっていうことの道具を道路でやるっていうこと以上に、モノレールでやるっていうことに展開していったっていうことがありましたね。特に道路を拡張できなかったっていうか、米軍基地があって、飛行場に続く道路の拡幅っていうのが、あれ以上無理だっていう話になって、モノレールになっていったわけですけどもね。

江上:これはやはり、沖縄にとって造ってよかったんでしょうか。

下河辺:造らなきゃ、だめなんじゃないすか。

江上:でも、やっぱり、採算がとれるかどうかについてずいぶん、心配もありましたよね。

下河辺:そうです。だけど、ああいうインフラっていうのは採算を超えて、やっておくことが県民にとって便利なんじゃないすかね。

江上:最近、私もモノレールに乗りましたけど、空港から那覇の中心街に行くには便利になりましたね。

下河辺:そうですよ。

江上:空港から那覇の中心街に会議で行くときは非常に便利になりました。観光客は首里に行くのに便利になりましたね。それで、いまのところ、予想以上に利用客は多いみたいですね。

下河辺:そうですね。

江上:それで、ずっとそのまま推移するといいんですけど、ただ、県民としてはいまの空港から首里までのルートをもっと伸ばして欲しいという意見が強いです。

下河辺:そうかもしれないね。

江上:採算の問題があるでしょうけども、できたらやはり公共交通機関とし
てもっと伸ばして県民の役に立つといいですね。

下河辺:そうですね。沖縄は水がないですからね。

江上:水が不足して、つい最近まで水の問題は非常に大きな問題でしたですね。

下河辺:特に、建設工事が多くなったために、水っていうものがとても面倒な問題になったんすよね。

江上:そうですね。

下河辺:セメントで工事するっていうのが、ほこりだらけの空気になりますからね。水をまいていないと、だめなんですよ。


●沖縄のもつ地理的自然的特性について

江上:あとは、課題として、沖縄のもつ地理的自然的特性が生かされていないということを沖縄開発庁が言っているんですけども、これは、具体的にはどういうことでしょうか。

下河辺:これはどういう意味ですかね。

江上:これは国際交流の拠点になっていないっていう意味ですかね。

下河辺:なんか、地理的自然的っていうと、海って感じでしょうかね。

江上:そうですね。

下河辺:だから、海っていうのが生かされていないっていうことは、飛行機と自動車っていう、ことに対して疑問を持っているんじゃないでしょうかね。船による観光でも産業でも考えたらどうかっていう意味なら、まさにそうかもしれませんね。

江上:その点について、開発庁の二十年史にはこのように書いてあります。「我が国の経済社会において、沖縄が東南アジア諸国との接点に位置し、海外交流の歴史的経験を有していながら、人的・物的国際交流は進展しておらず、豊かな太陽エネルギー、広大な海域、多彩な観光資源についても十分に活用されていないなど、沖縄のもつ地理的・自然的特性は十分には発揮されていない」と。

下河辺:ま、そういうことなんでしょうね。

江上:そういうことなんですね。非常にもっと広い意味ですね。先生、おっしゃった、海とかですね、国際交流とかですね、太陽エネルギーとか、そういうことなんですね。

下河辺:そうですね。

江上:これは先生も強調されてきた点ですね。

下河辺:そうです。


●復帰8年でコンクリートジャングルになった沖縄

江上:先日、私が沖縄に行ったときに、県の資料室を見ていたら、先生が1980年に沖縄県で講演された記録が残ってました。それは、第二次沖縄振興開発計画に向けて、西銘県政の比嘉幹郎副知事が司会をなさっていまして、それで、「第二次沖縄振興開発計画はどうあるべきか、先生の意見をお伺いしたい」と始まっています。これは、県庁の職員を前に先生が講演なさった記録です。そのコピーに基づいてお聞きしたいんですが、先生はずいぶん長く講演なさっているので全部を網羅することはできませんけども、私が印象に残ったとこだけ話します。1970年に初めて沖縄に先生が行かれて、それから10年経った1980年、一次振計を経て、沖縄がずいぶん変わったということを最初におっしゃっています。「第一に感じたことは、変わったなあという感じだと思うんです。どんなに変わったかというのは、どうも説明しきれない。複雑な気持ちですけども、少なくとも見た景色としては、昔の琉球という景色がなくて、緑も増えたんだけれども、コンクリートが非常に増えたという感じでした。西表に至るまで、建物がほとんどコンクリートに変わったということは、復帰後まだ8年なんでしょうが、景色としては異常な変化だという気がします」ということを述べられています。このへんに先生の気持ちがこもっているような気がするんですけども。ストレートにはおっしゃっていないんですけども、ちょっと、こういう計画でいいのかなあっていう先生の考えが出ているのではないでしょうか。

下河辺:私、復帰するまで、あれだけ通っていろいろやったのに、復帰したとたんに、沖縄が嫌いで、行かなかったんですよ。7、8年行かなかったんじゃないすかね。それはなぜかって言ったら、もうセメントのジャングルでしかないと、これは沖縄のスラム化って言った方がいいなんて言って、嫌だったんです。そしたら、西銘さんがそんなこと言わないで、前どおりやってくれって言って、で、彼は先輩なもんだから、断れないで、またいつの間にか沖縄のこと、考えるようになったんですけども。
 いつだったかな。13日だから、明日、明後日ですね。宜野湾市長と吉元とふたりが、ここへ来るんですけども、何しに来るのかわかんないんですけど。

江上:ああ、そうですか。

眞板:伊波さんが。

江上:伊波さんが来るんですか。

下河辺:ええ。

江上:革新市長の伊波さんが来るんですか。

下河辺:ええ。

江上:伊波さんと吉元さんが

下河辺:ええ。

江上:革新系のお二人ですね。

下河辺:ええ。それで、何しに来るのか。何か頼みにくるんでしょうね。

江上:そりゃあ、なんか。

下河辺:何か企んでしょうね。

江上:企んでしょうね。企んでいるなんて言っちゃあ失礼かもしれない(笑)。 伊波さんが下河辺先生のところに会いに来る用件というのは何でしょうね。

下河辺:なんか13日の夕方来るそうです。

江上:そうですか。なるほど、それは楽しみというか(笑)。
 先生が最初に沖縄に行かれたのは1970年ですが、私が琉球大学に赴任したのが1977年です。先生の7年後ですけど、私も沖縄の第一印象として、やたらとコンクリートが多いなと感じました。昔の琉球の建物が非常に少なくなっていて、沖縄の街が美しいという感じがあまりしなかったですね。琉球大学そのものも拡大に追いつかずに、プレハブの建物が多かったです(笑) 私の研究室もプレハブでした。講義室もプレハブという始末でした。スペースが狭かったからしょうがなかったんですが。

下河辺:コンクリートにした理由が、台風が年中来るたんびに、屋根が飛ぶっていうことが問題だから、コンクリートにしたっていう理屈になってんですね。

江上:そうですね。

下河辺:だけど、それはとても疑問で、風が吹いて屋根が飛べばいいじゃないのと。翌日には、もうちゃんと直して暮らしているよって言ったんだけども。そういうことをやる経験と能力が、若者になくなったんですね。だから、屋根が飛ぶと、なんか建設業に仕事をだすようなことになったから、ちょっと、やっぱり、壊れない家っていうテーマになっちゃったんでしょうね。

江上:赤瓦の屋根で覆われた沖縄独特の建物が非常に少なくなりましたね。

下河辺:なくなっちゃったでしょ。

江上:なくなっちゃいましたね。でも、あの赤瓦の屋根は台風には強いはずですけどね。

下河辺:強い。

江上:あの屋根は大きくかぶさっていて。

下河辺:そうそう

江上:だから伝統的な沖縄の家は台風に弱いっていうのは、私、解せないん
ですけどねえ。

下河辺:弱いっていうかな。あの瓦でも、修理が簡単っていう意味なんですよね。

江上:修理が簡単なんですか。

下河辺:壊れないって意味じゃないんです。

江上:コンクリートのブロックの家の方が修理が簡単なんですか。

下河辺:いやいや、昔の琉球の家

江上:昔の家の方が修理が簡単なんですか。

下河辺:簡単。だから、壊れないっていうテーマよりも、修理簡単っていうテーマでやったわけですよね。それが修理可能っていうんじゃなくて、壊れないっていうテーマにしたら、壊れたりするからちょっと混乱してるんじゃないすか。

江上:なるほど。風景としては、コンクリートの塊りっていうのはあんまりいい風景ではないですね。

下河辺:まあ、せっかくの沖縄、無責任な遊び人の私にとっては、つまんないですねえ。食い物も東京並みの食い物が一番いいなんていう、話を聞くとがっかりするんすね。飛行場降りて車に乗って、ホテルへ行って、東京と同じめし食って、海に行かないで、宿の中のプールで泳いでいるってのは、つまんない沖縄ですね。

江上:そうでしょうね。先生から見ると特にそうでしょうね。でも一応、先生はおそらくこの当時、沖縄に対してお世辞をこめてでしょうけども、「いま来てますと、非常に大きく変化し、発展してきてるなあという気がいたします」と言っていますけど(笑)

下河辺:これは本当を言ってんですよ。良い方か悪い方かは言わなかったんですよ。

江上:それは言わなかった(笑)。

下河辺:変わっちゃったっていうのは、ある意味で嫌味なんです。

江上:嫌味なんですね。読みながら、私はここで笑っちゃったんですけども。

眞板:先生が一番最初に行かれたころは、沖縄の伝統的な家屋、赤い瓦を葺いた家とか、那覇市内にかなり多かったんですか。


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