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沖縄自治研究会

沖縄自治研究会

1990年代の自治構想

報告1『1990年代の自治構想』
2004年6月12日(土)
琉球大学教育学部助教授 島袋 純 

○島袋純  沖縄自治研究会の前期定例会、第3回の定例会になります。きょうは90年代の沖縄の自治と、自治拡充の戦略ということで、私のほうから概括的な話と、それから吉元さんのほうから具体的なお話をしていただけると思います。

 それで最初に、資料がいっぱいあるので資料の確認をしたいと思います。左側から順番に並べてあったんですが、私の、まずレジュメ1枚のやつ、レジュメですね。それから、きょうの私の発表の原本と言いますか、昨年度出した本の1章になっているんですが、「第7章、沖縄のガバナンスの行方、国際都市形成構想から新沖縄振興計画へ」という論文ですね。これは以前にもお配りしたことがあるかと思いますが、それです。きょうはこれで私のほうからは報告させていただきます。
 
 それから、次に吉元さんにつくっていただいたレジュメです。これは1ページ~7ページまで右側にページ数が打ってあります。この40年、4つの節目にかかわったということですね。それから次に、「復帰措置に関する建議書」、屋良建議書と言われているものですね。復帰措置にかかわる建議書、これは102ページから104ページまでです。復帰措置に関する建議書については、基本的にこの中身について具体的に細かい議論をするということではないんですけれども、吉元さんのほうのレジュメに書かれていましたので用意しましたが、後で熟読していただきたいと思います。これの本質について吉元さんから説明があります。それから次に、琉球諸島特別自治制度、これが1998年の自治労が出した沖縄の特別自治制度の構想です。それから最後に、沖縄特別県政構想、これは自治労沖縄県本部が81年に出した構想です。
 
 きょうの時間の割り振りは、私のほうが50分ぐらい、なるべく短く話をしたいと思います。それから吉元さんのほうはなるべく長く、3時ぐらいから2時間、あるいは3時間、質疑応答は、交流会のほうで回してでもいいですから、なるべく話をしていただいて、それで録音することを許可いただいていますので、質問も交流会まで質問を録音していきたいんですけれども、可能な限り延ばしていろんな証言を聞き取るということで、我々も頑張っていきたいという感じですね。
 
 じゃあ、最初、私のほうから報告を始めたいと思います。きょうは質疑応答のほうはコーディネートを仲地先生にお願いしていますが、とりあえず遅れるということでしたので、私で、今自分の自己紹介を兼ねながら司会もさせていただいていますが、最初の報告者としての役割に移りたいと思います。
 
 最初のレジュメなんですが、90年代の沖縄の自治と、自治拡充の戦略、これが統一的なテーマなんですが、私のほうはとりあえず研究者としての視座、自分なりに考えた、より客観的な情勢で、なぜ90年代に沖縄の自治が動いたかということに関してお話をしたいと思います。
 
 これは最初に、このペーパー、178ページのほうで書いてあるんですが、やはり90年代の沖縄の自治の特徴というものは、冷戦の終結によってインパクトを受けた、「グローバリゼーション」に向かって始まる。それから、もしかしたら基地の整理縮小が始まるかもしれないという展望ですね。世界的に全面的な対決型から対話と協調、それから軍事的にも基本的には対抗するソ連の勢力がなくなって、協調路線と言いますか、それが目に見えるようになってきたんですが、したがって90年代に入ると、その国際政治のキーワードというのは「グローバリゼーション」という言葉になってきますよね。
 
 それで、グローバリゼーションといった過程が、経済的なさまざまな相互依存関係の進化だけではなくて、軍事的な協調関係ですとか、それから人権というテーマがグローバル化していく、あるいは市民社会がグローバル化していくという大きな流れと言いますか、さまざまな面でのグローバリゼーションというのは展開したのではないかなと思います。
 
 それで、基本的にグローバリゼーションの時代、地方政府は実を言うと、さまざまな国外からのいろんな圧力、あるいは交流、あるいはいろんな相互関係、そういったものが国外から直接、その関係を結ぶようになってくるという流れがあるのではないかなと思います。すなわち、国境の障壁と緊張関係が低下して、それで物とか人とか、いろんな文物、影響が相互交流を開始するということなんですが、その中で日本の大方の地域的なリーダーは、まず一番として中央の財政援助が減っていかないように要求していくこと。これを「財政資源の量的な維持あるいは確保」というふうに言って、僕は名称をつけましたが、まずにその戦略を維持していくということです。
 
 第二に、中央政府が独占的に、伝統的に管理してきた、国境をまたぐ地域間の資本、あるいは資源の移動と、それから交流を地域が主体的に、自分たちの地域の活性化に活用できるような新戦略、新開発戦略を検討し始めるということですね。これは「貿易とか通商に関する地域主体の統制もしくは規制緩和」、そういったことです。
 それから三番目に、このような資源を有効に活用するための力、権力、つまりより大きな地域権力の獲得を模索してきたという流れがあったのではないかなというふうに思います。これは特に私の専門でありますヨーロッパの研究からは、非常にこういった大きな特徴が見受けられるのではないかなというふうに思います。
 
 日本においても例えば北海道ですとか、北方圏交流とかいうテーマにして、そういったことを言っていますし、それから今度11月にお呼びすると思うんですが、シュフィールド大学の日本政治の研究者、グレン・フック(Glenn Hook)さんが九州をケースとして、僕と同じようなことをおっしゃっていました。
 
 それで、こういった流れの中で、いろんなさまざまな政治の、地域においての政治的な課題が浮上してくるということだと思います。それで大田県政も、実を言うとこの3つの戦略が基礎にあったのではないかというふうに私は分析しました。大田県政というのは、よく基地の問題ですとか、あるいは人権の問題ですとか、平和主義的な運動ですとか、そういったことが注目を浴びるわけですが、基本的にはその新しい冷戦後の世界の流れの中で、地域的な自治をどう確立するか、あるいは地域開発をどういうふうにして行っていくか、これが大きな大田県政の問題設定であったのではないかというふうに、私は思います。
 
 当然、大田氏は沖縄戦の研究家でもありますし、それから基地の問題に関する、非常にご自身の思い入れがありますので、それは否定できないとは思いますが、基本的にグローバリゼーション、あるいは90年代に新しく出現した世界の状況において、沖縄をどう発展させていくか、そのために大田県政というものは、基本的に県政の方向を大きく向けていくのかというふう戦略を立てていたと思います。
 
 それで、大田さんが知事に就任して、最初に取り組んだ仕事というものは、実を言うと沖縄振興開発計画、これが3次振興開発計画になると思いますが、これを最終段階で詰め上げるという作業だったと思います。このとき、これは189ページあたりに第3次振興開発計画から、それから2002年に至る計画まですべて書き込んでいるんですが、この時期に、沖縄振興開発体制の限界を非常に感じたのではないか、特に隣に吉元さんがいらっしゃるので、そのあたり詳しく後で教えていただきたいのですが、特にこれはこの前の比嘉幹郎先生もおっしゃっていたんですけれども、基地の問題を書こうとすれば、とにかく沖縄開発庁が拒否すると。それを西銘県政でも載せようとしたけれども、拒否されたということがあったんですが、特に大田県政はやはり革新県政として、基地問題というのは一つの自分の目玉にして当選してきたわけですから。それで、それをどうにか取り組みたいという意識があったと思います。
 
 ところが、やはりこの基地の問題を沖縄振興開発に入れることは、まかりならないということで拒否される。そして、沖縄におきましては、その拒否にあったしても、財政的な中央への依存関係というのは非常に強くありましたので、文句は言えないと。非常に沖縄振興開発体制の問題点というものを痛感したんじゃないかなというふうに思います。
 
 それで、次にやったことはどういうことかというと、すぐ「国際都市形成構想」が着手されているんですね。3次振興開発計画ができあがるか、できあがらないかという時期から、すぐ「国際都市形成構想」というのはもう92年から着手されているわけです。これが県独自の案が必ずしも採用されることがないという、沖縄振興開発計画の限界を克服する試みであったのではないかなというふうに私はとらえました。
 
 そして、そのため、これには基地返還アクションプログラムというものが大前提となっていて、国際都市形成構想と基地返還アクションプログラム、これはセットで大田県政は考え、そして沖縄の新たな振興開発の枠組みにしていきたかったのではないかというふうに思いました。それで、このアクションプログラムは、結局は実現可能性のない政治的アドバルーンと中央政府がみなすことによって、だんだんと背後に捨て去られていくような雰囲気があったんですが、基本的に大田県政としましては、これは、基本的に国際都市形成構想の前提条件だったのではないかなというふうに思います。
 
 それで、それを可能とする組織づくりというものが、「沖縄政策協議会」になるわけです。国際都市形成構想の実施、アクションプログラムの実施、こういったものを実施するための、最終的な担保手段が「沖縄政策協議会」だったのではないかなというふうに思います。
 
 それで、この沖縄政策協議会、非常におもしろいシステムなんですが、県知事と関係閣僚が入るという点です。そして中央において、基地問題に関しては、県のかかわる重要な事項、あるいは国の根幹にかかわるような事項でもあるんですが、そういういったものさえも議論できる場、こういったのは初の試み、おそらく日本の歴史上初めてだと思いますが、このような制度ができあがり、大田県政はおそらくその中で、さまざまな国際都市形成構想やさまざまな事業を実施、実現していくと同時に、最終的には私の考えでは、特別自治制度の導入、これもこの沖縄政策協議会を通して、実際には実現していこうと思っていたのではないかなというふうに思います。
 
 ですから沖縄政策協議会、まずこれをつくって、それからさまざまな大田県政の実施のプラン、これを具体的に実施していくと、そういう仕組みだったのではないかなというふうに思います。
 
 それで第2番目に、沖縄の財政的な援助、基本的にこれをどう維持するかということで、非常に大きな問題設定があったわけですが、格差是正という題目は、西銘県政ではほとんど機能しなくなるわけですね。伊江長官が92年の当時だったと思いますが、もう明言しているんですが、「中央ではもう沖縄はいいんじゃないかという雰囲気である」と。彼が沖縄開発庁長官のときに、既にもう格差是正という、これまでの公共投資の実績に基づいて、もう沖縄はいいんじゃないかというような雰囲気が漂っているということです。これは92年、93年ぐらいの中央での雰囲気だったそうです。
 
 それで、新たに、この財政の量的な維持を図るための大義名分と言いますか、題目と言いますか、それが必要になってくる。そこで登場してきたのが、例の国際都市形成構想、私は、これは基本的にも今までの保守の題目、名目、つまり、保守の沖縄に、財政援助の量的維持を図るための大義名分と言いますか、「格差是正」、これが根拠として機能しなくなってきた段階において新しい何か、正当化の根拠、それを探していたけど、うまく見つからなかったのではないでしょうか。
 
 そのときに、95年の少女暴行事件が起こり、それから以前から用意してあった国際都市形成構想、これが新しい財政援助の量的な維持を確保する正当化の根拠として持ってこられて、そしてこれに多くの沖縄の人は、特に財界、もう全くもろ手を挙げて賛成して飛びついたということです。これが大田県政と自民党との、ある程度の何ですかね、協調関係があった時期がくるんですが、96年、97年ごろです。これがその蜜月時代のそういった理由ではないかなというふうに思います。ですから、96年を境に、財政援助の量的な維持を図るための根拠が、格差是正から国際都市形成構想へと大きく転換するということだと思います。
 
 その国際都市形成構想の具体的な実施のための手段として、沖縄政策協議会というものが立ち上げられ、しかもこの政策協議会に特に経済界とか、保守とか、非常に大きな期待を抱いたということですね。ところが、問題は例の名護市へのヘリポート移設の時期に、大田県政が吉元さんを失った後、移設拒否ということになりまして、それを明確にすることによりまして、沖縄政策協議会を開催しない、開催しなければ国際都市形成構想の具体的な中身については一切詰められない、補助金がおりてこない、財政援助が打ち切られる、打ち切られると言うか、ストップするわけですね。逆に、沖縄政策協議会が基本的に中央政府にとっては脅しの場に、脅しの措置として使われてしまうということで、これだけ期待が大きかったのに、沖縄政策協議会が開催拒否という憂き目にあってしまいました。
 
 そこで、沖縄の保守陣営、あるいは経済界というのは、ほんとうに行き詰まったと言うか、震撼したと言うか、震え上がったと言いますか、どうにかしないといけない、大田さんをどうにかおろさないといけないと感じたと思います。そして沖縄政策協議会をもう一度開催しないといけない、そういう方向になったというふうに思います。ですから、沖縄政策協議会は1年以上も開催されなかったですね。稲嶺県政になったと同時に開催されて、国際都市形成構想はまだ生きているんですが、その実現のためにいろんな財政援助が早速開始するということになりましたよね。そういった流れだったと思います。
 
 次に経済の自由化、これは195ページあたりからですが、一国二制度ということが非常によく言われたんですが、このときは香港モデルですとか、あるいはシンガポールモデルとかいろんなことが言われましたが、特に沖縄において関税ですとか、貿易ですとか、通商ですとか、そのフレームワークを自由化する、沖縄で特別にいろんな貿易、通商関係のさまざまな障壁を極端に低くしていこうという議論になりました。これは全島フリートレードゾーン構想ということで、97年度中、大議論があったと思います。新聞でもありましたし、それから日常的にも、私も幼なじみや高校の同級生などかとこれについてかなり激論した覚えがあります。
 
 それで、基本的にこういった貿易通商に関する自由化、あるいは地域の統制力、地域が率先してそれを管理し、あるいは自由化していくということですね。これはどういう意味を持っていたのかということなんですが、これは明らかにグローバリゼーション、特に経済の自由化というものを念頭において、さらに大田県政の場合は、アジア地域における貿易量の増大、それをかなり明白にターゲットを明らかにした上で取り組んできたのではないかなというのが見受けられます。
 
 国際都市形成構想の最初のころの非常に大きな特徴が、やはり地域的な経済の統合、相互依存の進展、それに伴って沖縄を、簡単に言えば、香港的なところに位置づけて、その中で経済発展を図っていくという方向、これが非常に大きく見受けられると思います。ところが、非常に大きな問題は経済の自由化になりますと、経済の自由化の中で、負け組になりかねないような依存的な企業、あるいは経済的な部分というのが沖縄には非常に大きいわけです。ある意味、経済の自由化は、競争が激化して、その競争で勝ち残っていく自信がなければ非常に怖い、これも怖い話なわけですね。97年のやっぱり「全県フリー・トレード・ゾーン」の議論が起こったときに、経済的に弱い部分、農業ですとか、あるいは建設業とか、政府依存的な産業の部分は、非常に恐怖心があったのではないかなと思います。
 
 これが、やはり自分たちの既得の権益を保護してもらう、そのための仕組みをどうにか残したいという方々が、非常に全県フリー・トレード・ゾーンの反対勢力の中核を占めたんじゃないかなというふうに思います。だから、いろんなところの連合体と言いますか、いろんな業種、いろんな団体の反対が大きくなってきて、次第にフリー・トレード・ゾーンはクール・ダウンと言うか、グレード・ダウンしていかざるを得なくなってくると思います。
 
 それで、全県フリー・トレード・ゾーンの議論は、現在、結局は金融特区、金融情報特区、そこぐらいまでレベル・ダウンしまして、本当に極小化されてしまって、名護市の一角に金融特区をつくる、あるいは中城湾ですとか、そういうところにフリートレードゾーンと言うんでしょうかね、そういったのをつくると。どうも中身を見ると、税の免除ぐらいにしか見えないような、非常に小さく極小化された構想になってしまったということです。基本的に、これはやはり稲嶺県政を支持していた団体、あるいは勢力陣営と言いますか、そういったものの意向が強く反映したような仕組みになっているのではないかなというふうに思います。
 
 大田県政の経済の自由化、特にこれはグローバリゼーションの中で新しく沖縄の経済をどうやって、どうにか活性化していくという方向性を持っていたと思うんですが、にもかかわらず、そういったことに対する恐怖心、それから極小化された金融特区、あるいは金融情報特区というふうに言ってしまって、基本的にこれまでの80年代、90年代の構造的な依存的非競争的な仕組み、これを温存するということになりました。だから、財政的な量を維持する、それから弱い産業部分を競争にさらさないという部分、そういったものはすべて残っていったのではないかというふうに思います。
 
 それで、3番目のテーマなんですが、これは特別自治制度構想というのがあります。これは大田県政の終盤で非常に力を入れようと思っていた矢先、確か、多分吉元さんが副知事再任に同意を得られずに県庁から去ってしまい、宙に浮いてしまって、ほとんど日の目を見ることがなかった構想ではないかなと思います。99年に、もう一人の副知事の東門さんがスコットランドで、私が研究しているところに来られて、「本当はあの後自治制度をやりたかったんだよ」ということで、長いこと話されていました。スコットランドに来たのも、こういったスコットランドの自治を勉強するために来たんだということをおっしゃっていましたが、沖縄の特別自治制度の構想があったようです。
 
 それで、この特別自治制度構想なんですが、基本的に、簡単に結論を申しますと、こういった国際都市形成構想、それから国際都市形成構想の一番重要な中身であります、全県フリー・トレード・ゾーン、こういったものを管理する、権限をすべて引き受ける、非常に特別に強い自治政府の構想だったというふうに思います。ですから、後でまた文書を紹介しますが、吉元さんの発言の中では、要するに今の沖縄担当部局、沖縄担当大臣と言っていいかもしれませんが、その権限をすべて新しい自治政府が、沖縄の自治政府が持つと、引き受けるとあります。そうすることによって、国際都市形成構想を推進していくんだというふうに議会で答弁されているようです。
 
 そういうことがありますので、これがなければ特別県政、特別に強い自治権を持った県政がなければ、国際都市形成構想は完成しないということに、こういう図式だったのではないかなというふうに思います。これが特別自治制度の、結論を先に言ってしまいましたが、その辺に至る過程としましては、政策協議会の中でいろいろ国際都市形成構想が議論されていきましたが、それの具体的な中身、96年当時、梶山官房長官、自民党のそのころの実力者です。彼が沖縄担当大臣を兼職するわけです。覚えていらっしゃいますか。官房長官が沖縄担当大臣を新たに新設して、それに就任するわけです。
 
 この沖縄担当大臣、何がどう違っていたかと言うと、これは基地問題、あるいは安保の問題、あるいは日本の国すべての問題だと言ってもいいかもしれませんが、そういった、今までは沖縄開発庁長官が取り扱うことのできなかった安全保障の問題まで含めた沖縄にかかわることを議論できる大臣だということです。ですから、単に開発庁長官、このときは開発庁長官もいるんです。別にいるわけですが、担当大臣を設けたのは、開発庁長官ではなし得なかった、外務省、防衛庁、そういったものとのコーディネート、それまで含めて担当大臣というものが設置されたわけですね。ですから、その後も官房長官がこれを引き継ぎますが、政府のナンバー2が歴任するような重要なポストになりました。
 
 結局、2001年、沖縄開発庁は廃止されて、内閣府の中に統合されて沖縄担当大臣というものが設置されるわけですが、実を言うと、沖縄開発庁長官、沖縄開発庁の体制よりも沖縄担当大臣、沖縄担当部局、この体制のほうが権限は強いわけですね。これはなぜかと言うと、先ほど申しましたように、梶山さんが担当していた沖縄担当大臣の権限をすべて引き継いでいるからです。それにプラス沖縄開発庁長官の権限もすべて引き継いでいるからだわけです。
 
 これは、上に特命担当大臣、これは沖縄担当大臣ということになりますが、この中に参事官とか、この部分に跡地利用企画官とかあるんですが、防衛施設庁からの役人も出向しているわけです。ですから、今までの開発庁と違って、防衛庁とか外務省の出向者もいるような、非常に力のある構成になっていました。
 
 これはちょっと4年前ぐらい前の改正当時だったんですが、その後、沖縄担当大臣、実力者と言えない政治家がやるようになってしまって、沖縄に対する政府の思い入れというのが大体わかるようになってしまって、今ではどれだけ力が強いのか弱いのか、ちょっと怪しいところもあるんですが、当初は沖縄担当部局、これは沖縄担当大臣が開発庁と統合してできたときは、かなり強力な布陣だったということができると思います。
 
 それで、その沖縄担当部局の役割というものが201ページの左側、200と201ですね。201ページのほうにあります。内閣府におきまして政策統括官、これは沖縄担当と書いていますが、これが安達さんという有名な方がやっていましたね。新沖縄振興計画ではこういった図式の中でできました。この中には、旧沖縄開発庁の役割がすべて引き継がれているんですが、それと同時に、先ほど申し上げましたように、よりもうちょっと広い、自由貿易地域の問題ですとか、あるいは基地の跡地利用の問題も含んだようなことで、当初、沖縄振興開発計画が考えることのできるような体制があったということです。
 
 その後、また何か先祖返りのように基地問題とか、外交問題、なかなかどうもやっているように見えないんですが、結局、振興開発体制が復活して、やはりさっき言った基地返還アクションプログラム、これがかなり後ろに追いやられてしまいましたので、基本的に、これに対して制度的には整っても、実際に現実化して、現実にこれに着手するというような方向は、今の自民党県政と、それから自公政権ですが、その間ではあんまり起こっているようには見受けられないということです。
 
 これで、そのページの図左側で見てよくわかるんですが、沖縄県の役割は非常に小さいです。沖縄県・市町村と、ほとんど同格で書いてあるんですよね。沖縄の人間からとって見れば、沖縄振興開発計画は沖縄県の役割は大きそうなんですが、内閣府にとってみればあまり大きくないという図式が、どうも正々堂々とホームページに載っているので、これはそういう認識であると公言していると言っていいんじゃないかなというふうに思います。
 
 今は、これは今のですから、沖縄振興開発の制度が沖縄担当大臣、それから内閣府沖縄担当部局によって実施され、しかも今言ったこの左の図の中で形成されるというような仕組みです。基本的にこれに近いような権限をすべて新しい沖縄の政府が持つと、そうしなければ沖縄の国際都市形成構想は実施できないと先ほど申し上げましたが、私はそういうことを吉元さんは考えられていたのではないかというふうに思いました。
 
 それが202ページに書いてあります。これは吉元さんのホームページからの引用です。ちょっと重要なので読んでみたいと思います。「97年7月の沖縄県議会本会議(特別県政)で、21世紀の沖縄のグランドデザインについて質問があり、副知事として答弁を求められました。『副知事はかつて自治労の運動をし、81年に特別県政構想をつくったが、今回の国際都市形成構想、全県自由貿易地域ができあがっていくときの受け皿となる行政は、県、あるいは国なのか』、という趣旨の質問がありました。これに対し、新たな県政の枠組みはどうあるべきかについて検討していく必要がある、全県フリートレードゾーンを実施する手段として構想を再検討したいと答弁しました。
 
 すべての権限を国から移譲してもらい、沖縄県みずからが行うのが分権であり、自治であると明確に認識していたからです。その後、経済の自立的発展のための特別措置の法的制度、その場合の行政のあり方など、特別県政についての議論が求められることとなった。議会で議論していた98年2月に、自治労本部と沖縄県本部が協同研究した21世紀に向けた沖縄政策提言を発表し、大田昌秀沖縄県知事に提出しました。これは81年に自治労県本部が提起した特別県政構想を下敷きにし、21世紀の沖縄のグランドデザインを実施するために、行政自治のあり方はどうあるべきかをまとめたものです。
 
 これまでの特別県政構想から、現時点での現実的な戦略として、琉球諸島特別自治制構想をまとめ、枠組みとしては現在の鹿児島県、奄美諸島を含めた構想です」ということですね。
 
 最後はちょっと鹿児島のほうからすれば問題があるかもしれませんが、私が先ほど言いましたように、沖縄担当部局が、あるいは沖縄担当大臣の権限を沖縄県が引き継ぐといった論拠はここにあるわけですね。議会での答弁、議会の議事録で明確にわかると思います。
 
 それで、引き続いてもう一つ重要な点ですが、現行制度だけでは全く不十分ということと、それからアジア太平洋という規模で、国境を越える経済圏への参入、次の203ページの真ん中あたりに書いているんですが、この言葉、つまり何かと言いますと、先ほど言いましたように、グローバリゼーション、あるいは地域的な経済統合の深化ですね。それに伴って沖縄を位置づける、その中でやはりどうしても特別な権力を持った自治制度、特別な自治の仕組みが必要になってくると、そういう明白な認識であったのではないかなというふうに思います。
 
 それで、吉元さんの具体的な琉球政府、琉球諸島、特別自治政府の仕組みなんですが、それは203ページの右側のほうに引き続き書いています。ここも読んでみましょうね。「琉球諸島特別自治政府は法案要綱作成の前提として、以下のことを述べています。

 1.独立論はとっていませんが、将来的な展望としては持ち続けたいとしている。
 2.日本国憲法の枠内において構想され、第95条に定める一つの地方公共団体に適用される特別法は、住民投票で過半数の同意を得なければ制定されないという規定が適用される。
 3.特別法の基本的性格は、沖縄の特殊性と分権制度一般の先行的性格の両面を持っているということです。

 琉球政府、琉球諸島特別自治政府は基本枠組みとして、
 1.県を中心とした自治政府を構想しており、立法、行政とも県レベルの権限が強調されている。かつて琉球政府、琉球立法院の権能をまず沖縄に確立することにあると考えているからです。
 2.広範な立法を保障する沖縄の立法が、国の立法に対抗するためには、立法院的な方向性が必要。群島政府及び市町村は、琉球立法院を制定した自治政府条例に基づいて事務を執行する。中央政府との関係では係争処理に関する委員会を設置する。

 これはやはり、一番簡単に言えば琉球政府の復活と言ってもいいかもしれませんね。要するに98年の主席公選制をとった琉球政府、USCARが牧港に移ってしまって、ほとんど口出しをしなくなったときの琉球政府ですね。そういったイメージ、それから沖縄の人からすれば、それから中央との関係で言えば、沖縄担当大臣、あるいは沖縄担当部局の権限をすべて引き継ぐということですね。そういった方向に見えます。

 ここで一つ、この論文のペーパーの中には書いていないんですが、この琉球諸島特別自治制、これは、私はちょっと気がついたことがあるんですよね。ちょっと余計なことかもしれませんが、この違いについてお話ししたいと思います。吉元さんの構想と自治労の構想と、実を言うと違うものです。この中身の違いですね。吉元さんは、同じものとしてこちらから吉元構想というものを発表したというふうにおっしゃっているんですが、どうも両者を比較して読むと違います。自治労が96~98年あたりに考えていたのに、日本全体の現在の地方自治法にとってかわる「自治基本法」というのがあるんですよ。「自治基本法」の提案があります。実を言うと、その枠組みに非常に近いシステムではないかなというふうに思います。

 すなわち、今の地方自治法、事細かい自治の組織、手続き、あるいは定数ですとか、いろんなことに関して細かい自治体の組織法になっているわけですね。自治労、あるいは自治総研が考えたのは、自治についてはもっと大まかな枠法でいいんじゃないかということです。自治基本法という枠法をつくって、それで自治基本条例を県がつくる、市町村がつくる、これによって自分たちの具体的な組織の中身について、すべて自分たちで自由につくっていいという仕組みに変えていったほうがいい。そういう提言をしました。

 日本には自治基本法というのは、実を言うとまだなくて、現在でも地方自治法が適用されて、全国画一全く同じ制度、人口によっては定数が違うということとかありますが、そういった現行地方自治法制度は日本の画一的な地方自治制度ということを裏づけているわけです。ところが自治労が考えたのは、自治基本法を制定し、それを枠法として緩やかな枠法にすることによって、自由自在に各自治体が、県が、市町村が、独自の仕組みをつくっていけるようにしたらいいのではないかということを、その当時、提言しておりました。

 僕は、この自治労の琉球諸島特別自治政府を見てみますと、どうもこれは琉球諸島における地方自治体の自治基本法、要するに国の法律、全国にわたってはおそらく全国レベルの自治基本法、これで対応する、しかし、沖縄においては琉球諸島特別自治法、あるいは琉球諸島自治基本法、そういったのを設定し、その中でどうも県は県の自治基本条例をつくり、市町村は市町村の自治基本条例をつくりと、そういう戦略のように見えます。これが非常にわかりにくい構成になっているんですよ。

 3ページの資料を見ていただきたいんですが、琉球諸島自治政府の定義としてあるんですが、琉球諸島自治政府は、当該地域に生活の本拠を有する人々の直接投票により決定に従い、地域の歴史的形成、または広域により以下の各号の名称及び領域を有するものとすることと、最後に段落ですね、そういったことが書かれています。

 県、琉球諸島自治政府の一つとして、県(仮称)と書いていますが、県、それから群島または群、それから市町村、この3つのレベルの政府を想定していると。だから、日本で言えば、地方公共団体は以下のとおりです。県・市町村と、そういった感じで書くことがあるんですが、どうもこの琉球諸島自治政府というのは、それにとってかわるようなもので、琉球諸島自治政府は、県・群島・市町村、3つあると、そういう構成ではないかなというふうに思います。

 それで、吉元さんの琉球諸島自治政府は、要するに県レベルが琉球諸島自治政府そのものであって、琉球諸島自治政府がつくる条例によって、市町村の成立が、内容が決まるという構造になっています。しかし、自治労の案では、どうも琉球諸島自治政府基本法に、これは国法なわけで、それに根拠をもって市町村もつくられる。条例ではなくて、国法の琉球諸島自治基本法によるわけです。吉本構想のように県レベルにつくられた琉球諸島自治政府の自治条例に基づいて市町村がつくられるのではなくて、どうも琉球諸島自治政府基本法、それに基づいて市町村がつくられるという構造になっているのではないかなというふうに思います。

 ですから、非常にこれはわかりにくい、特殊な構造になっているように見えるんですよね。そこが非常にわかりにくいところで、これをつくった辻山先生ですとか、自治労の、あるいは自治総研の研究員の先生方にちょっと真意を聞いてみたいところですが、どうもそういうふうに見えます。吉元さんがおっしゃっていた構想は、同じ琉球諸島自治政府という名称を使うんですが、基本的には琉球政府の後継者、あるいは81年の特別県政構想、に近いような気がします。

 つまり、81年構想と吉元構想では、明白に市町村と県、あるいは琉球諸島自治政府、県を県としないで、琉球諸島自治政府として、そして、一定の縦の関係、それを設けるという構想に見えます。しかし、1998年のこの自治労の琉球諸島特別自治制度に関しましては、どうも県と市町村は同じ地方公共団体として位置づけられているように見えるわけです。ここが非常に大きな、僕からすれば前から疑問に思っていた点ですね。

 これがおそらく、ですから、吉元さんはこれをそのまま利用するのではなくて、こちらからある程度、自分の県は県の独自の構想を練っていって、81年の自治労の構想、それから琉球政府の実績、そういったものを踏まえながら、名称は琉球諸島自治政府ということで、新たに沖縄の県の特別な制度をつくっていこうと発想していたのではないかというふうに、僕のほうは解釈しています。ここが大きな違いですね。

 それで、きょうは基本的にこういった3つのレベルで国際都市形成構想、これが財政の量的な維持というものを図る大きな大義名分になってしまったということですが、国際都市形成構想と財政維持の話、財政移転の量的な維持の話ですね。それから、全県フリー・トレード・ゾーンに象徴されるような貿易・通商の自由化、それから大きな国際的な、世界的なグローバリゼーションの進展、それから地域的な経済統合の進展の中で、こういった2つを位置づけ、さらにそれを具体的に実施する手段として地域的な、強力な自治政府の存在、その3つがセットになって90年代の大田県政は動いていたのではないかというふうに思います。

 一つ、やはりこれは非常に重要な点なんですが、90年代、実を言うと、先ほど言いましたように、市民活動、市民運動もグローバル化しているんですよね。これは96年の例の沖縄県民の総決起大会もあったんですが、ここにいらっしゃる高里さんですとか、北京の会議に行ってきた帰りにこういったことが非常に起こって、大問題になっているということがわかったということでおっしゃっていましたが、実を言うと、90年代初期から中盤にかけて、一挙に沖縄の市民活動というのは韓国ですとか、アジア諸国等の交流が盛んになります。

 特に今でも韓国との交流は非常に盛んなんですが、それで、どうにか市民が動くことによって、何か政府が変わるんじゃないかなという方向が、96年に盛り上がり、さらに98年ですか、辺野古の例の住民によります住民投票、そういったところまでは非常に大きくあって、市民的な活動も活性化していたと思うのです。しかしながら、基本的にこの芽は、つぶされてしまうのです。従来型の中央による、旧来型の政治、利益還元政治、あるいは一歩こじれてしまえば、プラス・サムの体制のときは仲よく、うまくやっていけるんですが、基地問題のようなゼロサムの関係にあるような政策、それにおきましては非常に植民地の提督のようになってしまうこの沖縄担当大臣という存在、こういった仕組みで兵糧攻めにあって、結局、県政は交代させられてしまうという状況になってしまうんですが、これは基本的にそういった市民の活動、市民の自治の芽生えというのを非常に、沖縄の言葉で「チルダイ」させたというか、やる気を失わせてしまったというか、98年以降、非常に停滞ぎみであるというふうに思います。

 だから、もしかしたらあのときにそういった市民の運動とか活動とか、さらにそっちに乗っかるような形で沖縄の政治が動いていけば、おそらく大きな沖縄の政治の質が転換していたんじゃないかなというふうに、今となったら思います。歴史に「if」というものはあってはいけないということですが、90年代の沖縄の政治に関しましては、非常に豊かなおもしろい可能性を孕んだ動きがあったと思います。

 今申し上げましたような3つの、県政が仕掛けた大きな3つのテーマがあったわけですが、それと同時にもう一つ、最後は市民主体と言いますか、県民主体と言いますか、市民自治と言いますか、それがグローバル化の中でさらに沖縄でも発展し、しかも質的に高まりつつ、もしかしたらあったのではないかということですね。一番重要かと思われる第4番目の事柄に関しましては、これが非常にやる気を失って停滞している、これが自治基本条例を沖縄にどうにか導入して、そして自治を活性化しようという自治研究会の目的でもあるわけです。

 というところで、自治研究会の目的にうまく落としましたので、私の報告を終わりたいと思います。では、引き続き吉元さんに報告していただこうと思います。


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