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沖縄自治研究会

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政党政治の始動と沖縄民主同盟の設立 上

報告2『政党政治の始動と沖縄民主同盟の設立』
日時 平成16年7月10日
元沖縄民主同盟青年部長 上原 信夫 


○上原信夫  座ったままで結構でございますか。
 先ほどご説明のありましたこの私の年譜みたいなものは、これは向こうに座っておられます眞板さんがつくったものでございますので。


○司会(江上能義)  そうですか。眞板さん、どうもありがとうございます。


○上原信夫  一体、上原信夫という人間はどんなやつだろうかということで、皆さん大変興味を持っておられるようですが、何しろ私は沖縄を離れたのは1950年の比較的春の早い時期でございますから、何年たったのでしょう。数えると60年近いですね。
 昔々の話をやりましても、若い人たちにとってはなかなか、1950年なんてということになると思うんですが、私もそのころは皆さん方と同じように青年でございました。
 さて、長い長い時間のお話をわずかの1~2時間でもってまとめて話すということになると、大変これはよっぽどの天才でなければできないことでございますが、私みたいな頭の悪いやつは思い出し思い出し話したら大変だと思っておりましたら、ちょうど島袋純先生からこういう内容を話せという下書きをいただきましたので、私はそれに従って、一応私の思い出の糸をたぐってみたわけでございます。
 先ほど照屋先生から、大変なつかしい私の思い出をそれをたぐらせてくれるようなきっかけをつくってくれてありがとう。 
 さて、私は沖縄に帰ってまいりましたのは、1946年の春です。何月だったかよく覚えてないんですけど、何しろ春でございました。宮古のほうから密航船に乗って馬天港の沖のほうを通ったら、沖縄という島が真っ白なんですね。艦砲射撃を受けて岩が砕けたその白さが、印象的で、もう沖縄は、琉球という名前では呼べないのか、と非常に寂しかった。古代、ヤマトの邪馬台という国の名前は文字を「卑弥呼」の使者の手落ちから邪馬台が問題になって、今日になっても解決していないけれども、琉球というのはまさに文字を知っている連中がつけた名前であった。それは「瑠璃色の球」を海に浮かべたように、緑輝く島の美しさを称した一種の感動がそもそもの由来だったのではなかったかと思います。私は1944年夏頃、南下する輸送船上から昔のままの沖縄を眺めた。まさに瑠璃の如く光輝いていたことを思い出す。
(テープ1本目 A面終了)
……ですね。馬天港の沖から船底に隠れていろと言うので隠れて、はい出して見たら真っ白。こんなひどいことになっているのかということで腹を立て出したら、突然アメリカの監視艇に見つかって馬天港に連れていかれてということが、10年近い間留守にしておりました沖縄へ帰ってきた私の初体験談でございます。
 その宮古にも、実は去年の12月に帰っていきまして、宮古の人たちが「上原信夫58年ぶりに宮古に帰る」なんて新聞やテレビで騒いでくれて、大変私は感動したんでございますが、この宮古で私はこの年譜に載っていますけれども、1945年6~7月ごろだったと思うんですが、私は死刑を宣告されて打ち首というようなことになったんです。それに抵抗して、兵隊たちと私の戦友たちの協力によって私は宮古の農民の人たちに守られて、生きて沖縄に帰ってくることができました。これが、私の沖縄の戦後の始まりでございます。そして、沖縄に上陸するなりアメリカにとっつかまってという形ですが。
 なぜ私が、若年22~23歳で沖縄の戦後政治問題について関わることになったかということは、私の過去の歴史が関係ある。それでひと言だけ申し上げておきたいことは、私は沖縄を離れたのは1938年4月、14歳だったのか、満で数えると幾つだったのかよくわからないんですけれども、中国の満州というところに行ったんです。13、14歳ごろですね。
 そこで、いわゆる日本人が言う馬賊、または匪族という中国人たちから、「日本帝国主義の中国侵略戦に反対する」ビラを貰う。その中で朝鮮の兄弟たちよ、琉球の兄弟たちよということで呼ばれたことがあるんです。その内容は、現在、日本帝国はわが国に侵略して、我々中国人民をひどい目に遭わせていると。だが、日本の貧農たち、労働者たちに対しては満州に行けば働く場所があるということで、「五族協和」という義名の下でだまして連れてきて、職を与えられて働いてはいるけれども、我々の兄弟、朝鮮の兄弟、琉球の兄弟たちは日本国内において差別され平等な権利も与えられていない。これを、私は14歳のお正月明けに初めてわかってがたがた震えながら、そうか、俺たちを兄弟と呼ぶ人は一体誰だ。そうすると、俺たちは朝鮮の人民とも兄弟なんだと。中国の人民とも兄弟なんだと。その中国を侵略したのは日本帝国主義者だということを知り、私は幼心に未知の世界が開き翌日から全くひっくり返ってしまうような感動と衝撃を感じました。それから私の世界観は一歩一歩と変わって生長し、日本帝国主義に対する心からの抵抗と反抗を少しずつ積み重ねていった。後日分かったのは、その馬賊、または匪族というおじさんたちは、実は「反満抗日軍」という中国人民解放軍だったのです。
 紀元2600年というのをご存知ですか。いわゆる日本建国の歴史を紀元2600年と宣言して、1941年に大祝賀行事があって、大変な宣伝活動をしたんです。私がちょうど関東軍の歩兵学校に強制的に入れられた年ですけれども。
 そのときに、私はちょうど17歳だったのかな。少年の浅薄な知識でも、ちょっとおかしいと。中国という国は日本の高天原から神武天皇の時代を経て数えていくと、中国では、もうまもなく秦の始皇帝が天下を統一して、1斤、2斤って米や酒をはかって売る度量衝制が確立され土地の測量をして税金を取るという段階になっているのに、何で日本はまだ神代の時代でなければいけなかったのだろうかということを仲間に話したら、私は数日後に教官室に呼ばれ、3回程気絶するぐらいぶん殴られて、今、杖をついている。骨が割れたのもそれでございます。
 そういう形で、私はもうその前からそういうような大変よからぬ非国民的な、天皇制に疑問を抱いていた少年でございます。だから、宮古島でもって死刑を宣告されたというのはアメリカの艦載戦闘機のグラマンを2機も撃墜した後でそういうような死刑に宣告させられたという。そういう一つの私の生い立ちが沖縄に帰ってきて、当時の沖縄の状況に憤慨して沖縄で最初の社会的、政治的な活動を私はやりました。青年団体をつくったり、青年文庫をつくったりいろいろ敗戦の中から立ち上がる沖縄の同胞のお手伝いを少しでもやってやろうということをやっている中で、私は一体沖縄戦とはどうだったんだろうかと。どんな状況にあったんだろうかということで、禁止地区であった南部一帯を、私は米軍の禁止令等を問題にしないで、食うものもない沖縄南方の戦跡を、一人でくまなく視察して歩いた。視察という言葉は上品でございますけれども、1週間か2週間見て回った。その中で夜寝る家もない、もちろん一般住民もまだ十分に帰ってない時代でございますから、私は野良で寝る。そうしますと、夜中寝ているそばで何かがあたり手に触る。それを抱えて見てみると頭蓋骨である。翌朝起きてみたら、その周辺にいっぱい死骸や頭蓋骨がある。死んだ人たちの骨がある。そういうのを私は一体だれがこうしたんだと。だれのためにウチナンチュがこういうようなひどい目に遭わされなければいけないんだというようなことを、独り言でもって遺骨の霊とともども語り合いながら1~2週間過ごして、もうふらふらだから、やんばるに帰ろうと北の方に向かって歩き出したら、私の後をつけているジープから3人の米軍が降り逮捕された。2~3時間くらい走ってカマボコ兵舎のある所で降ろされ、そこで三日三晩訊問された後、日本軍の敗残兵として刑務所に入れられた。約、三ヶ月。
 そこで、私の今後の行くべき道は何かということがわかってきた。これが私は山城善光や桑江朝幸、仲宗根源和たちと一緒に民主同盟をつくるきっかけになったわけでございます。
 革命に参加するということは、多くの人々の経験からしますというと、例えば私の友人の中には河上肇先生の貧乏物語を読んで感動して、それで革命にはせ参じたとか、小林多喜の蟹工船を読んで感動を覚えてどうのというようなことが普通の道順だと思うんですけれども、私は自分の肉体を通して、肉体の経験を通じて日本の帝国主義というのを知り、天皇制というものを知った。それが、沖縄戦というもの、沖縄でどういうひどい目に遭わされたんだろうかということを実際にその遺骨と共に寝たりしながら、私は一体帝国主義とは何ぞやと。今回の日本とアメリカの戦争というのは一体何だったんだと。だれがやったんだと。その責任はだれが取るべきであるかというようなことを、この遺骨の霊と共に私は何日か夜通し話し合った。それが私の生齧りの帝国主義論に私なりの新たな基礎を、新しいものを自分の中で構築してくきっかけにもなったんです。ご協力下さった戦死者の皆さんのご冥福を祈ります。
 私もいい年をしておりますから、大きな声を出して大変緊張してるように見えるかもしれないんだけれども、精神年齢極めて若いのでございますから、結構楽しく気楽に話しているつもりでございます。私の一生というのはそういうものだったんです。
 外国の監獄にぶち込まれても、結構のんびりとして楽しく過ごしてきた。それが、今度は何がもとになっているかということも、私は1~2週間、沖縄の戦跡を回って、あの骸骨を抱いて頭をなでながら彼らと話した。それが私の力になっている。今でもそうです。だから、化け物みたいに100歳ぐらいまで生きたらどうしようかと笑われているんですけど、それは後の問題として。
 それで、たくさん話はあって、あした夜が明けるまで語っても語り終わらないので困ったもんだと思っているんですよ。そこで、話の進め方として、私はこの島袋先生の指示に従ってこういうのをつくったんですけれども、これに基づいてやってもたくさん話は広がりすぎますので、先ほど照屋先生が話をされましたそれと関連する部分がこれにありますので、ちょうど皆さん方が照屋先生の話を聞いて感動している、その感動が冷めないうちにそれに関連するものを拾い上げながらちょっと話をしたいと思います。
 中心になっていたのは大宜味朝徳先生のお話ですが、私が思い出深い……。
 戦後、一番最初に石川に石川中央ホテルというのがあったんです。ホテルといったらすばらしい建物だろうと思うんですが、それは戦前ある比較的裕福な農家の家で屋根瓦が残っている。天井板もあったか。何しろ瓦が爆撃で銃撃されてないんです。それで雨が降っても雨漏りしないんです。壁板は一部もないんです。後でいろいろとものが補修され段々立派になってきたんだけれども。床はありました。米軍のベニヤ板を張ったんでしょうね。大体そのホテルが一番大きい部屋が一番座というんですか、これが廊下を含めて約10畳ぐらいだった。あと6~8畳ぐらいのが二つ、4畳ぐらいの一つ。このぐらいの建物を石川中央ホテルと言っていたんでございます。社長さんは確か、伊波さんとか言ったと思う。
 これをもって、戦後の沖縄というものがどういう状態になっていたかということを想像してみたらいいと思います。
 戦前の生まれがおられますか。1945年前に生まれた方、いない。私1人だけですか。


○司会(江上能義) わたしは1946年生まれですが、仲地先生が1945年生まれです。                


○上原信夫  そんな大きい年ですか。少し話が通じるような年頃の方がおります。安心しました。
 そのころ一番最初に私が、沖縄の先ほどの大宜味朝徳さんとか新垣金造とか、それから吉元英真か、奥平巌とか、その他あと政治運動をやった人たちもおりますけれども、いわゆる商人ですね。政商ですな。戦争のどさくさ紛れに金もうけをする人たちもいっぱいおります。その人たちは、南から北から自分の仕事を見つけるために石川に寄ってくる。石川に寄ってきて、石川の石川中央ホテルで、一番の高級ホテルにお泊まりになる。そこで、一番親しく、一番長いこと話をしたのは大宜味朝徳先生でした。
 この方は、私と共通点が一つあった。何かというと、私は満州帝国というところで大日本帝国の植民地における日本帝国主義者のひどい目に遭わされていた中国人、朝鮮人の生活を私は少年時代からじかに見ている。そして、彼らと親しくなり仲間になった。私も14、15歳のときに匪賊にでもなってやろうと、馬賊か匪賊になって日本軍をやっつけてやろうと思った。そういう経験がある。
 そうすると、大宜味朝徳先生は南洋群島で日本の植民地のほうで生活した経験がある。内容がちょっと違う。彼は南洋で土地も何十町とか買った主地さんというお話も聞きました。だが、彼にはまたウチナンチュとしての共通点があった。彼が一番最初にウチナーから行ったところは、埼玉ですか、栃木ですか。ある政治家を頼って行っているんですよね。
あの頃は沖縄には政友会とか民政会というのがあって、そのだれかをつてに行って、そして行ってみたら、政治家になろうという希望があったみたいですね。勉強して政治家になろうと思ったと。ところが、沖縄人の生活をのぞいて見たら、これは捨てておけないということで新聞を発行したりしますね。そういう中で、今度は移民をしている人たちは一体どうなんだろうかということで南洋に関心を持って、そして南洋に行って一旗挙げようと行かれたと。
 あの人の心がけというのは、そういう点ではウチナー魂、ウチナンチュ根性があったと思うんですよ。その点は高く評価すべきであると、私はあのとき思った。
 だから、彼が「信夫君、ちょっと来い」。何しろ親子の年の差がありますからね。それで、時間をつくってくれて、いろいろと満州の話をした。あそこでウチナーというのはいるかと。いや、沖縄人というのは私と彼らしか知らないですということになると、そうか、一体支那人はどういう生活をしていたか、朝鮮人の人はどういう生活をしていたんだと。彼らと仲良くなりまして、私は馬賊になろうと思ったんですと言ったらびっくりしまして、こんな子供とつき合っていたら大変だと思ったと。
 それでも熱心に聞きました。そして、もう時間がちょっとあるたびごとに、信夫君ちょっと。そして、どこかからか何かよく知らないけど芋や食物を持ってこられて、おまえ食べろと、半分分けて彼が半分食べた。それで私は朝飯か晩飯か知らないけれども終わり。そういう生活だった。
 そのときでも、もう既に民主同盟組織化の動きというのは始まっているわけですから、事務局で決定した民主同盟の組織活動を我々はやろうということで、どんどん具体的な運動を進めている。その中で、大宜味さんも我々の仲間みたいにちゃんと受け答えは、仲間内の話をやったんです。
 そこでおもしろいのは、彼の独立論とそれから仲宗根源和の独立論というのは、最初、同じようなものかと思ったんですね。しかし、だんだん違ってきて私はこの中にもちょっと書いてありますけれども、大宜味朝徳さんはいわゆる米国の信託統治論による独立志向だったんですよ。そして、彼は経験者としての立場から熱心に移民の問題を吹聴した。
 仲宗根源和の独立論の中で、私と違うところはほとんどないと言ってもいいぐらいだったけど、移民の問題についてだけ具体的な方法論で大きな開きがあった。これは、仲宗根さんと私の議論する場合の次元の問題でしたが。
 今ここで話のついでだから申し上げておきますと、独立というのは一体できるのかどうかという問題があるわけですね。これは、先ほどお話の中にありましたように、古い年配の人たちは、さて、沖縄は独立できるのか。いや、しなければいけないじゃないかと。だったら、独立すれば経済的に成り立つ可能性はあるのか。人間の素養と言いますか、教養と言いますか、文化と言いますか、ずばり、人民の政治能力そういうものはどうなんだという議論を、民主同盟の独立論の話の中に大宜味さんも中に入ってやります。その中心になるのは、仲宗根源和、山城善光。
 宮里栄輝先生はときどき参加されることはあったんですけど、常時この石川ホテルで泊まれるような身分の人たち。ということは、遠いところに行かなければ自分の家がないとか、あるいは非常に条件の悪い生活条件のある人たちはそこで泊まり込んでいく。
 そこで、独立論の主な討論の舞台は、確か石川ホテルだったと思います。その中で先ほど言ったように、大宜味さんと仲宗根さんは独立論の中で移民問題を非常に重要視したんだけど、私は重要視しなかったんではなくて重要視するけれども、ちょうど大宜味さんらが南洋から帰ってくるとほぼ同じ時期に今帰仁の大城さん、恩納の当山さんなどというような、かつて南洋移民の農場や工場あたりで、沖縄出身の農民たちの運動を組織して指導していた中心的な人たちで、向こうで日本の監獄にも入った経験のある人たちも帰ってきているわけなんです。
 だから、移民とは一体どうだったんですかということを聞くと、結局、教養のある者はなるべく偉い地位につこうと思って一生懸命職をあさっている。いい地位につく。だが、教養のない者はどうだ。小学校ぐらいしか出た者でも一定の何かをできるのはいいんだけれども、沖縄から昔行った移民の中には十分に教育を受けてない人たちがいっぱいいる。そうすると、最初から鍬、鎌をかついで、向こうの土地の人と同じような経営か、少しましな経営から始めて農民になっていくと。
 だから、日本の植民地支配者から搾取をされて、ひどい目に遭わされて、結局、ていのいい農民、農奴であったというようなことを聞かされているというと、一体沖縄が独立した場合に移民を外国に送ったら同じようなことになるじゃないかと。金武の当山先生たちのやった移民問題も含めて我々は教訓としなければいけないと思ったんですが、これから沖縄から移民を送る場合には皆さん方どうぞ気を遣ってもらいたい。
 少なくとも高校程度の、農業専門学校程度の教育はウチナーで受けさせる。国費でもって、国費でなかったならば県の費用でもって教育を受けさせる。そのぐらいの知識を持って行って、自分たちは独立した新しい農業経営でもれるような、外国でもやれるようなものでなければ移民の資格を与えないということをやってもらいたいということを、私は当時よく仲宗根さんたちに食ってかかったもんです。そういうようなことが、同じ独立論の中でも非常に際だっていた問題で移民問題が一つであったということ。
 さて、そういういろいろな具体的な問題は話していくと広がってどうしようもないですから、私の意見としては、もうほどほどに私の話を打ち切って、渡してありますから、皆さん方が興味を持たれる問題についてどなたからでもいいからどんどん問題を出して、それに対して私が直接お答えすると。こういうような対談の方式に変えたほうがいいんじゃないかなと。
 と申しますのは、年齢と時代がすっかり変わっていますからね。本の上で勉強されて、その論文の中からいろいろなものを学んでおられる皆さん方が、じゃあのときに一体大宜味朝徳さんはどうだったんだろうかということを思い出して、天国から呼び出そうと思っても来てくれないんですよ。しかし、私は少なくともその人たちと一緒に貴重な時間を過ごした経験がありますから、まだ地獄に行ってないんだから、行った後では間に合わないから、私は少なくともこれは島袋先生の指示に従って書いたものですが、これからあのときだれはどうだったんだと。
 先ほどの瀬長亀次郎の問題であり、人民党は一体独立派だったのか、何だったのか。解放軍は一体だれだったんだというようなことも含めて、きっと皆さん方興味を持たれるものいっぱいあると思う。それに対してお答えしたほうがいいんじゃないかな。


○司会(江上能義)  それでは私から。
 沖縄民主同盟の設立にかかわられて、今話しましてちょっといろいろな意見が出ましたけれども、照屋先生の話からすると、独立論というのは当時、あんまり支持されていなかった。大半の人は独立論には関心がなくあまり支持されないままに終わっちゃったんじゃないかと言うんですけれども、そういった沖縄民主同盟に実際加わってどういう反応があったのか。
 それと、中心人物だった仲宗根源和さんとか山城善光さんというのはどういう人だったのか。それについて話してもらえますか。


○上原信夫  そうですね。
 まず、この人物像というのがはっきりしてこないと話は通じないと思います。
 先ほどの仲宗根源和というのは、日本共産党のある時代の三役の1人だったんです。この人は本部出身ですね。それから、山城善光というのはヤンバルの大宜味の出身。彼と私とは特別な関係があった。
 この2人とも沖縄における共産主義運動の初期の段階から直接、間接関与していた。そして、仲宗根は監獄に1回か2回ぐらい、山城善光が10回前後ぐらいというような人。 
 しかし、終戦間際になったときに、山城善光は過去を顧みてどうのこうのということを彼が『ヤンバルの火』の中に書いてありますけれども、それも一応ちょっと思い返してみてください。
 それからもう1人、桑江朝幸さんという方。この人は非常に善良なる方で非常にまじめな。この人は近衛兵に沖縄からとられるぐらいの、善良なる「臣民」であったということですね。
 あと、大宜味朝徳さんであり、そのほかに私と一緒に会ったのは瀬長亀次郎。年齢は私よりずっと上で、約20歳も先輩です。それに、兼次佐一等々。
 民主同盟の初期の段階において、私は人民党の研究会にも瀬長亀次郎さんと一緒に常時参加していた。そういうことで、大体の人の顔はそろいましたかね。
 さて、独立論の問題について大宜味朝徳さんの話。大宜味朝徳さんの独立論の中の根拠になるものというのは、沖縄の戦前における差別、これは同じように仲宗根の独立論の中にもある。山城善光もしかり。この独立論について、あまり初期の段階でもって明確な意思表示しなかった、例えば先ほどの新垣金造とか、吉元英真さんとかこういう人たちは、少し復帰運動の可能性の傾きがあったんじゃないかという疑問を抱くような傾向を見せました。それについて議論をしたことがあります。
 それで、その独立論の基本になったのは何かというと、やはり大宜味さんだけの問題だけではないし多くの人たちが一体戦前の沖縄とは何だったんだ、という問題ですね。戦前におけるところの日本の沖縄は、一体沖縄県として3府43県の中の一つとしてちゃんと位置づけされていたのかどうかということ。いや、植民地であった、いや、半植民地であったという議論が出てくる。そうすると、その具体的なあらわれとして、沖縄には高等学校が一つもなかったとか、日本全国北海道から九州まで国鉄があるではないかと。その国鉄の線路が1本も置かれなかったのは沖縄県だけないじゃないかと。こういうこと。
 そうすると国鉄がある、都市から都市へあるいは島には国鉄の船が走っている。沖縄には国鉄の船が一隻もなかった。そこで新垣金造という人が、結局、大阪商船が沖縄を食ったんだと。大阪商船がいかに沖縄を絞ったかということを、皆さんご存じでございますか。
 沖縄のサトウの時期というのは、収穫の時期は年1回ですね。その間に沖縄のサトウ農民というのは収入がない。どうするか。借りるんです。金のない農民は食べ物がない、米のないサトウ農民の人たちというのは、たまにそうめんが手に入ればいいわけですね。それを見込んで大阪高般ではそうめんを前もって売り掛けする。それを今度は倍ぐらいの値段で計算して、サトウをつくったらサトウ代からさっ引いていく。
 そういうような話をして、そして沖縄で働く場所のない若い青年たちが沖縄では食えないからヤマトに行こうと思っても、そうすると今度は大阪商船の運賃が高い、行けない。どうするんだということで、新垣金造が運賃を安くしろという運動をしたんだそうです。彼は県会議員だったんですね。彼は平安名島の出身です。
 そして、仲宗根源和さんが、上原君、新垣君は「一銭金造」と言って戦前は有名だったんだぞと言う。一銭金造、何の一銭金造かと思ったら、仲宗根源和曰く、彼は農民の青年たちがヤマトに出稼ぎに行きたい、運賃が足りない、船に乗るまでに何とか友達や親戚からそろえても足りない。そこで、船には乗れないでまた来年まで頑張ってというようなことを目の前で見ているから、彼は五銭ぐらいの運賃を安くしてもらおうという運動から始めたらしいんですよ。
 署名運動やってあちこち演説会やったりした。そのときに結局五銭は安くしてくれなかった。一銭は安くしてくれた。大阪商船がまけたんです。それで、一銭金造さんということでもって有名になって、県会議員も何回も出たという話。このぐらい沖縄はいじめられていたんだぞということなんですよ。
 そういうことを私は話を聞きながら、先輩たちの時代というのはこんなもんだったのかと。そこで、なぜあんたたちは立ち上がって、国鉄の船を出せ、快速船を出して沖縄の農産物を関西、関東に送ったらいいじゃないかと。これをどうしてやらないんだと言ったら、結局、主になって政治的な指導をしている政治家というのは皆ヤマトから来た人たちが多いと。県庁にお願いに行くと、課長以上はみんなヤマトンチュだと。ウチナンチュが腹を  立てておれたちが涙を流して訴えても、「そうか、よし考えておこう、いいよ、考えておこう」というふうに追い返される。これが何十年間の日本の沖縄支配だったということを、彼らは本当に悲憤慷慨して言ったもんなんですよ。
 そこで、私はそのころ考えたのは、徳田球一のことだよ、「仲宗根先生、あんたはどうしてそういうことを先頭に立って戦わなかったんだ」と言ったら、我々は結局日本が解放されない限り、日本国民が解放されない限り、我々ウチナンチュは解放されないんだと思ったと言うんです。
 皆さん、考えてください。ヤマトにはそのころ、ろくに食えないような労働者が一杯いる。いわゆる部落民といって差別された階級がいた。その人たちも含めて解放されない限り、我が馬鹿にされている琉球人は解放されないんだと、彼らは思った。だから、日本の革命を成功させること。これが彼らの最高の願望であり、目標であったということなんです。
 そこで、戦後になって沖縄人の東京にある青年同盟ですか、それは徳球たちも含めて、沖縄は今こそ自分たちの力で自立の道を見つけるべきであるというような激励の手紙が沖縄に来るような時代であったんですね。
 徳田球一も監獄から出て活動して大変多忙であるにもかかわらず、仲宗根源和に2回手紙を送っているんですよ。その仲宗根源和は、いいところだけを我々に見せて聞かせてくれた。あと見せない部分があった。その手紙には裏と表があった。これをちょっとあんたたちの歴史の参考になるから申し上げておきますけれども。
 日本共産党が第二次世界大戦でもって日本が負けた後、徳田球一たちが監獄から18年間の刑から解放されて出てきた。そのとき志賀義雄さんは言った。「連合国軍は我々を解放してくれた。連合国軍は解放軍である」と言った。沖縄でもそれを真似して言った人がいるんですよね。だれだかわかりますか。知らない。人民党の瀬長亀次郎さんはそう言ったんです。
 監獄に18年間ぶっこまれていた人たちが、その感動で、連合軍は勝ったから、日本帝国を、ドイツのヒットラーをぶったたいたから、ぶっつぶしたから、俺たちは解放されたんだというその感動は理解できますよね。
 瀬長亀次郎さんは、「私は解放されました、アメリカ軍は連合国軍で解放軍でございます」感謝を申し上げていると言ったというのは、一つの外交辞令だったんでしょうね。あの人は琉球政府にいたんですからね。
 琉球政府にはこういう方がおりました。又吉康和さんという方がおりました。ご存知の方おりますか。この方は、「民政府批判は、軍制府批判に通ずる」という通達を出したり、沖縄の「自治尚早論」というのを唱えましたね。沖縄人に自治能力はないと。しかも、アメリカ軍の占領下のもとで自治論を説くなんてとんでもないということ。これに対して、仲宗根源和も反対したし。一方においてはそういう方がおられました。
 では、独立論の問題はもう1回あれしますと、昔の日本の労働運動、革命運動に参加した沖縄の先輩たちは、ヤマトの開放なくして沖縄の解放は勝ち取れないと。ヤマトの開放を勝ち取ってはじめて沖縄の解放が勝ち取れるんだという、この信念は一貫したものであった。考えてみると、当時は「全国の労働者団結せよ!」「万国の無差階級団結せよ!」の時代だったからね。
 だが、解放後はそうでなかったという。先ほど言ったちょっと触れましたけれども、沖縄は今まさに自分たちの頭の上に乗っかっていた大日本帝国天皇制というのをぶちはらってしまった、叩き落としてしまったと。今度こそ自由じゃないかと。今こそ立ち上がって琉球は自分の独立を主張すべき、機会が与えられたんだということを非常に感動をもって受けとめていた。
 恐らくその石川ホテルに集まった多くの先輩たちの中で、この議論が始まると疑問を持ちながらも、疑問というのは、沖縄は本当に独立したら食っていけるんだろうかと。今でも飯も食えないのにという思いがあるにもかかわらず、過去を振り返ってみると、今度はかっかと燃えてきちゃって独立すべきであるぞと。この気持ちはわかるはずです。
 それから、先ほど言ったように徳球から、徳田球一という人の名前を知っていますか。徳田球一から仲宗根源和に手紙が2回来た。その2回のうちの中に公に彼が言うのは、この機会に沖縄は沖縄の独自の立場から沖縄の未来についてどうすべきであるということを考えるべきであるということなんだよね。全く賛成だと、こうなるわけですよ。
 だが、もう一つ彼が言わないのがある。裏側のもう一面がある。これは、日本共産党は敗戦後、再建された時の中央委員の80何%がみんな転向した人なんです。
 転向ってご存知でございますか。戦中「治安維持法」で逮捕された佐野学とか鍋山貞親などが天皇制を擁護して反共の立場に立つと転向声明を発表した。それが一種の流行病みたいになり、監獄に入っている者は勿論、大学の先生たちも含めてみんな総転向したんです。


○司会(江上能義)  刑務所に入っているときに転向したんですか?


○上原信夫  獄していた殆どの人、勿論、徳田、志賀義雄。一部は別として。


○司会(江上能義) それが戦後、日本共産党の幹部になっているということですか?


○上原信夫  それが戦争が終わって、徳球たちが監獄から出てきた。その時迎えに集まった人たちは、約100人ぐらい。日本人は何名かといったら沖縄人を含めて約10何名なんだ。あと80何名かは朝鮮人だったんです。いかに戦後のあの状況の中で、本当に日本の解放を願っていたのは一体だれだったんだと。我が沖縄人と朝鮮の人たちだった。だから、徳球が出てくると、徳球や志賀義雄が監獄から出てくると言ったら、赤旗を持って先頭になってやって来たのが朝鮮の人たちだった。100人のうち80名以上ですよ。そのときに、監獄の中にぶっこまれていたその朝鮮出身の共産党の指導者、鉄海さんも一緒に出てきた。
 こういうような時代を経て日本におけるところの、日本の未来社会について戦後の日本の現状に基づいてどうするんだということは、これはもう皆さん方はいろいろな歴史の本でも結構勉強されていますから言わないことにして、我が沖縄においては、そういう日本共産党や沖縄人、県人会、青年同盟などからの励ましの声もあって、やっぱり沖縄はこの際独立を考えないとまた機会を逃すぞということで考えていた。
 そうしますと、我々が演説会でその問題をやりますと、集まった人たちはもちろんもともとそういうことに興味を持たれていたので、一体戦後の沖縄はどうするんだと、どうなっていくんであろうかということを心配しておられる方たちが集まってくるわけですから。そこでこうこうであると、だから我々は独自の立場でもって沖縄問題を考えないといけないんだ。自分たちで解決するしかないんだぞと言うと、そうだそうだとみんな共鳴したものです。


○司会(江上能義) 会場では盛り上がったんですか。


○上原信夫  盛り上がったんです。


○司会(江上能義) あんまり支持者がいなかったんじゃないかといわれていますが。そこに集まっている人は関心があったということですか。


○上原信夫  集まった人たちは盛り上がった。
 なぜかというと、その問題の提起の仕方がある。具体的な例の挙げ方が、先ほどのサトウの問題にある大阪商船の問題等ですよ。沖縄には鉄道のレール1本置かれなかったと、高等学校が一つもなかったと。税金はしこたま取られて、沖縄のほうが全国で一番高い税金を取られているわけですよ。一体それをどのぐらい還元したんだというその資料も何もないから。おおよそのことでして、そういうことを今度は山城善光たちが話すわけですよ。特に具体的な統計問題になると、桑江朝幸はずば抜けていた。
 そうすると、俺たちはみんな奪い取られてしまって、ちっとも返してくれないじゃないかと。そこで今度は、だったら我々は日本に賠償金を要求すべきであるという声も出てくるわけ。
 そして、明治以来全国で一番高い税金を取られたんだから、その分も含めて、今度の戦争の犠牲者の問題や、家、財産もみんな焼かれてしまった。この分も含めて日本政府は責任を持って賠償金を支払わなければいけない。我々は、琉球共和国をつくることによって、対等な立場で戦えるじゃないか。そこへ今度は連合国を引っ張り込もうよと。将来は国際連盟に加入して連盟の力を引っ張り出そう。代表を呼んで談判しようじゃないかというような話になっていくと、みんなそうだそうだと。非常に盛り上がりましたね。


○司会(江上能義) 話はどんどん大きくなって……。


○上原信夫  どんどん大きくなっていく。そういうことを、あの当時を考えますと、すべてを失った素っ裸になったウチナンチュは、今度こそ、どこの国の植民地にもなるまい。自分たちで、自由で民主的な共和国を創造しようと心ある誰もが考えていた。それが本当の姿であったということですよ。そうだ、俺たちの力で、こんな高い税金を払ってしぼり取られて、食うものもなくて、子供たちもろくろく教育もできなかったんじゃないかと。これを今度は俺たちの手で、同じ税金を払ってやろうじゃないかと。こういうように話は非常に具体的でした。ヤジも具体的に。そうだって。


○司会(江上能義)  ヤギ?


○上原信夫  ヤジ。ヤギは大事なクスイムンですから。
 私は、ヤマトグチを全く一言もしゃべらなかったのが、合計で約30何年間なんですよ。だから、ウチナーグチでしゃべってやろうと思ってやるとこんな子供の言葉しかわからない。そうすると、興奮してきてヤマトグチで大きな声でやってしまうとなると、今度はおかしい。
 そこで、最初から私はこういう挨拶をする。私は中国の方での生活が長いから、だれか通訳に出てください。中国語でやったほうが気楽ですからと。こっちは帰国して中国研究の事務局長になった最初からそういう話のやり方をしてきた。
 全国の各大学の中国問題の研究家が中国研究所に集まって、そこで研究会をもつ。そうすると、私は帰ってきてすぐだから、一生懸命日本語でしゃべっているつもりが知らぬ間に中国語になってくるんですよ。そうすると、早稲田の安藤彦太郎などが、上原君、あんたおかいしいぞと声を掛けるので、そうか、ごめんなさいねとまた言い直して。
 だから、きょうだってヤギとか何とかはまたヤジと。まだこの間違いは小さいほうだね。だから、どうぞそういうふうにどんどん指摘してくださいね。


○司会(江上能義)  設立の結成式は出席者は90名ぐらいだったそうですが。でも、結党大会で山城善光さんとか仲宗根源和さんは演説は上手だったんですか。


○上原信夫  2人の性格から、仲宗根源和はやっぱり日本共産党の何名かの幹部の1人になったことでもわかるとおり、堂々たるもので大したものでした。相手を納得させることにどんどん理詰めでやれる人でした。だから、彼の話はウチナーの労働者も素っ裸になって、着るものも食べるものもないような農民の中に行って話してもよくわかった。
 だが、山城善光さんは情熱家で、感情が高ぶってくると言葉よりも自分の気持ちの方が先に走っていくもんですから、自分の言葉はそれを追っかけていくような状況ですから、気持ちはわかる。あの動作を見ていると見ている人が、善光、熱を出してきたなということでそれはわかるけれども、具体的な問題について今善光さんが言ったことをあなたわかりましたかと相手に聞くと、うん、見ていてわかる。でも、気持ちは全部わかると。こういう情熱家でした。その他に、桑江朝幸さんは、具体的な統計資料などを使って親切に話す人でした。


○司会(江上能義)  その結党大会のときも、沖縄の独立をめぐって盛り上がって、そういう意味では非常に熱のあった時代だったんですね。


○上原信夫  そうですね。


○司会(江上能義)  それに若くして21、22歳で加わられて非常にやりがいがあるというか、上原さんも奮い立った良き時代だったんですか。


○上原信夫  そうですね。私も日本軍に殺されないで、俺、生きて帰ってきてよかったよと。激戦の廃墟の中から立ち上がる我が沖縄の復興の手伝いを少しでもできるんだからという、一つの使命感みたいなのが吹き出てきましたですね。
 だから、ますます元気を出して、食べ物がなくても、寝る場所がなくても沖縄中を回った。頼りにしたのは2本足だけです。あのときはまだ杖つかないで歩けましたからね。
 当時の生活習慣というのがどういうものであったかということは、我々は一つの演説会をもちます。先ほどの大宜味朝徳さんの社会党、瀬長亀次郎さんの人民党、それから私たちの民主同盟というのは、早い時期から共同演説会を随分持ったんです。しかし、それは沖縄県の公文書館の中にある資料の中にも出てこないのもありますから。
 例えば、名護なら名護の警察署から沖縄民政警察庁部長に報告したとか、あるいは那覇警察署に届出てマチグヮーの前で講演会をやったときのそれは警察の速記録を付記してちゃんと報告やっていますけれども、沖縄公文書館を調べないと分からないが警察が報告してない分は結構あるんじゃないかと思うんですよ。
 そういうときに、那覇とか石川一帯ならいいんですけれども、こと名護、それから本部とか、辺土名とか、糸満とかいう不便なところになると、我々は利用する車もないから歩いていく。そうすると、人民党はジープで飛んでくる。


○司会(江上能義) 人民党はジープだったんですか。人民党はお金持ちだったんですか。


○上原信夫  お金持ちって……人民党は、瀬長亀次郎さんはウルマ新報者の社長(前任者は島清さん)です。そして、先ほど言った又吉康和さんに彼は非常に大事にされていた。民政府の諮?〇委員を決定するときに戦前からの有名人とか中学校の校長先生とか、元県会議員の生き残りとか、こういう人たちでそろえようとしたんですね。
 だが、2~3名、人数が足りなかったときに、まずその指名権は副知事の又吉康和さんの手にあるので、彼は一人は瀬長亀次郎君、と決定した。そういうことですから、瀬長さんたちは沖縄最新最高の文化的関連の諸手段があるわけですよ。だから、車がある。講演会にも車で来て、それをみんなの目の前でおりられないから少し遠いところに置いてきて歩いてきて、終わったらまたそれに乗って帰る。
 我々は、こういう演説会のときの報告を書いたり何かをやる場合に、こんな紙でも三つ四つに切って貴重品なんですよ。そして彼らは新聞で幾らでも使っている。だのに、私たち民主同が党機関誌『自由沖縄』を発行する場合、私と桑江朝幸と2人は民政府からどのぐらいの距離でしょうか、10何キロメーターか輪転機で使って、使えなくなった余分のこのぐらいの束ですね。それをごみ箱に捨てているはずです。それをお願いに行って、桑江朝幸と2人担いで、ふーふー言いながら担いで越来まで数時間かかかって持っていった覚えがある。
 そういうような時代に、同じ民主同盟と人民党の経済的な裕福さと、政治的自由、民主というのは天地の違いがありましたね。


○照屋寛之  人民党はアメリカさんのことをよく聞いて、紙の配給が多かったというのは。


○上原信夫  民政府との関係があるからですね。


○司会(江上能義)  仲宗根源和さんは、民政府との関係はあまりよくなかったんですか。仲宗根さんは確か、部長をやっていましたが。


○上原信夫  彼は社会部長ですよ。しかしその上が、副主席で総務部長の又吉さん、二人は犬猿の仲でした。
 社会部長だけれども、彼は首にされたから。だから、彼は天幕小屋を石川でもらっていたんです。それもなくなった。
 いかに権力につくことによって権力をうまく利用できる才能を持った者は、そういう困難な時代にどのような生き方をするか。それに盾突いて頭を下げないで頑張ったために、十里の道も二本足でとっとこ、とっとこ、夜も寝ないで歩く。講演会が終わって寝る場所もない。そうすると、お願いした人の家の軒下にでも寝かせてもらうとかいうようなことをしなければいけなかった。
 私が沖縄から逃げた話をちょっと戻しましょうね。ちょうど本部で人民党と私たちの民主同盟と大宜味さんの社会党の3党合同演説会があって、これは軍政府批判の演説会だったんですかね。よくわからない。きっと三党合同の軍政批判だったと思う。
 弁士は、自民党から瀬名が亀次郎と兼次佐一、上地栄と3人、民主同盟からは仲宗根源和と山城善光と私と3人、あと大宜味さんはいつもお1人だったからお1人。孤高の1人でしたから。そして、本部の講演会を終わったら、さあ、我々は名護まで帰るのか、そうすると歩いて帰るとなるとあしたの夜明け10時ごろになってしまうからどうしようかと悩んでいるときに、人民党の方たちは、「おーっ、バイバイ」、ブーッ。そして、それを見ていた兼次佐一が……
(テープ1本目 B面終了)
……仲宗根源和は本部だから、親戚の金持ちの人もいるからそこへ泊まった。私と山城さんは兼次佐一さん宅に泊めてもらった。そして、夜中になって私は廊下のほうに1人で寝ていた。12時か1時頃になって、兼次さん宅を出て名護に向かった。その時、もう私の計画は沖縄を離れることは決定していたもんだから、そこから出て歩いて名護まで夜が明けたときに。
 名護には、照屋規太郎さんの照屋病院というのがありまして、この人は大変優れた医者で、陸軍軍医中尉か大尉かな、忘れたけど軍医もやった人なんだ。これが我々民主同盟の中央委員でもあったから、名護に行くというと警察の目を逃れて彼の家に行けば飯を食うのは心配ない。そして、一番安全な基地みたいだった。万一の場合は彼の病棟でも寝かしてくれる。ある日、突然と警察に追跡され危機一髪というときも照屋病院に助けてもらった。照屋先生と奥さんは、私を重病人でございますと言って氷嚢なんかを頭に乗っけたりしてね。点滴を打ってくれた。そこへ、警察が強引に入り込んで来たので先生は、この患者は重病人だ。君たちの行為は何だ。これは人道的な問題である、私は医者として命をかけてこの重病人を守らなければいけない。と厳然と啖呵を切った。この勇敢な行為に僕はびっくりした。そういう豪傑でした。私のは。
 私は、入院室で一晩ぐっすり寝た後、そこで朝飯とお昼を一緒に食べて、それが沖縄最後の別れになったんだけれども。
 そのときにも、そういうような同じ演説会でもって、50年の初めにおいては各政党間においてそのぐらいの差があった。それは一つの戦後の初期においても誰が権力に近いかによって大きな違いがあったんだということは本も書かれてないかもしれませんね。
 だから、私の経験としてそういうことをお伝えしておきます。


○司会(江上能義)  ずっと話を聞いていたいんですけれども、2時間ぐらいありますので、これから質問も受けたいと思います。ちょっと休憩とったほうがよろしいでしょうか。5分ぐらいコーヒーブレイクをして上原さんにもちょっと休んでいただきたいと思います。


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