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内村鑑三 非戦論の原理(明治四一年)

非戦論の原理  内村鑑三
(明治四一年八月一〇日『聖書の研究』101号)
 毎年夏期は講談会を開くを例とす、しかるに今年はこれをなさず、空しく夏を過ごさんことを恐れ、ここに机に対しながら数千の聴衆のわが目前にあるを冥想し、この演説文を草す。
  学者の態度
 私は今日は非戦論の原理について申し上げたく思います。しかし本論に入るに先立ちて私は一言諸君に申し上げておかなければならないことがあります。すなわち、私が非戦主義をいだくのは、私がことごとくその真理なるを証明しつくしたからではないということ、そのことであります。世の中のたいていの人は自己の奉ずる主義主張といえばここに一点の懐疑、一点の批難の加うべきもののないものであるように思います。しかしこれ真理を愛する学者の持つべき心の態度ではありません、学者は懐疑を許します、批難を歓迎します、そうして主張と批難とをくらべて見まして、二者いずれか真理の多いほうを取ります、ゆえに彼の提供する説は完全の真理ではありません。かかる真理を提供し得る者は人間の中に一人も無いはずであります。わが奉持する真理は完全の真理なりと称する者は神にあらざれば狂人であります、われら人間はより大なる真理を供するまでであります、しかして他人の批評をまって、さらに大なる真理に達するまでであります。
 私は今は非戦論をいだきます。私は非戦論は道理として最も正しく、道徳として最も高く、政略として最も慧(かしこ)き主義であると思います。しかしかく思いまするとて非戦論に多くの批難すべき点が無いとは言いません。その反対の主戦論にもまた多くの採るべきところがあります。少なくとも同情を寄すべき点があります。私は非戦論を証明しつくしたとは言いません、これを宇宙進化の理から考えて見ましても、また実際にこれを行うの点から考えてみましても、これに多くの批難すべき点のあることを認めます。私はより大なる真理として非戦論を採るのであります。絶対の真理としてこれをいだくのではありません。しかしてもし諸君の中に、かかる信念はこれ半信半疑の信念であって聞くに足らずと言われる方がありますならば、その方は公平を愛する学者の精神をもたない方と認めますから、私の講演中は今より直ちにこの場を退かれんことを願います。
  戦争の悪事なること
 さて、戦争の悪いことであることは誰でも承知しております。いかに戦争好きの人でも、戦争は善いことであると言い得る人は一人もありません。戦争に対する普通の弁護は「戦争は戦争を止めることである」とのことであります。漢字の武は戈(ほこ)を止めるという意であるとのことであります。平和のための戦争であって戦争のための戦争ではないと誰でも言うことであります。ゆえに私はここに戦争の悪いことを述ぶるの必要はありません。そのことは世界一般に知られております。あたかも売淫制度の悪いことが一般に知られていると同然であります。誰も貸座敷は善いものであると言う者はありません。ただ、悪いけれどもやむを得ないと言うまでであります。人類一般がその悪事なるを認める一点においては、戦争は売淫とすこしも異なりません。ゆえに道徳の立場から見て、私はもちろん戦争をにくみます。しかしどれだけにくむか、それが問題であるのであります。憎悪(にくみ)にも強いのと弱いのとがあります。にくんでも恕しておく憎悪があります。これを排除せざればやまない憎悪があります。貸座敷は悪いものであるけれども、のこしておいてさほど害がないという憎悪と、貸座敷をのこしておけばわが家庭も社会もついには国家までも滅びてしまうという激烈の憎悪であります。そうして戦争に対する私の憎悪は、前のぬるい憎悪ではなくして、後のあつい憎悪であります。私は私の全心全性を傾けてこれを嫌います。あたかも故ビクトリア女皇がこれを嫌い給いしようにこれを嫌います。伝え聞くところによりますと、彼女は老年にすすむに従い、戦争を嫌い給うことますますはなはだしく、「朕は朕の在世中、ふたたび戦争の宣告に署名せざるべし」とまで言い張り給うこともあるそうです。しかるに英国の憲法により、民の欲するところは皇帝もまたこれを可とせざるべからざるところにより、やむを得ず、かの最も不幸なる戦争南阿戦争[ボーア戦争]の宣告に署名し給いしより、彼女の心、常に安からず、ついに彼女の崩御を数年早めたとのことであります。憎悪はもちろん感情でありまして、道理をもって量るものではありません。しかしながら感情にも、高いのと低いのと、鋭いのと鈍いのとがあります。深い道徳は鋭い感情を作ります。女皇陛下の戦争に対する憎悪はヒステリー的であるとばかりは言えません。彼女は最も常識に富み給う婦人でありました。彼女の戦争を嫌い給いしは、彼女と同時代人なりし哲学者スペンサーが非常にこれを嫌いしと同一の原因にもとづくのであると思います。道理の問題は別にしまして、小さき私も今は非常に戦争を嫌います。私は今は英国非戦主義第一等の政治家なりしジョン・ブライトとともに言います、「人類の罪悪を一括せしもの、これ戦争なり」と。 
 戦争と天然
しかし人は言います。戦争は広く天然に行われるところ、戦争は天然の法則であってまた進化の理であると。なるほど、戦争は広く天然界に行われます。優勝劣敗の理は天然界いたるところに行われます。私は天然界における戦争の実在と、またある点から言えばその利益とを認めます。しかしながらここに一つ注意しておくべきことがあります。それは天然の法則は戦争にのみ限らないことであります。天然界には戦争とともに協同一致も行われます。愛憐犠牲も行われます。万物が進化して今日にいたったのは戦争のみによりません。優勝劣敗を戦争にのみ限るはごく浅薄なる天然観であります。獅子はなるほど鹿や兎を食います。獅子と鹿と相対すれば勝利はもちろん獅子に帰します。されど鹿には獅子にないものがあります。群居の性があります。したがって多少和合一致、相互共済の性があります。ゆえに戦争においては鹿は獅子に負けますが、繁殖においては獅子は鹿に負けます。ゆえにインド、アフリカの地方において、獅子が絶えても鹿の絶えない所がたくさんあります。獅子はその牙と爪の鋭いために鹿に勝ちますが、その猛烈なる呑噬(どんぜい)の性をもつために、ついに弱い鹿に負けます。天然界を修羅のちまたと見るは大なるまちがいであります。天然界は修羅のちまたではありません、やはり愛と正義とが最後の勝利を占める家庭の一種であります。
広く天然界をその大体について観察してごらんなさい。その中で最も高い、最も貴い、最も美(うる)わしい物は、強い、猛(たけ)しい、厖大なる者ではありません。もし力の一点から言えば、最も強い者は王蛇(おうじゃ:大蛇)と鱷魚(ガクギョ:ワニ)とであります。しかし、誰が大蛇とワニとが、この世界の主人公であると言いますか、詩人ワーズワスの歌うた牝鹿は弱くかつ脆(もろ)くありますが、しかし遥かに大蛇とワニ以上の動物であります。ワシは一番強い鳥でありますが、鳥類の王はワシではありません。木蔭涼しき所に五色の錦繍(にしき)を水面に映す翡翠(カワセミ)は遥かにワシ以上の鳥であります。もし力の一点から言いまするならば、原始の人はゴリラ・チンパンジー等の猿猴(えんこう)類に遥かに劣ったる動物でありました。しかるにこの弱い人類が終に世界の主人公となったのであります。もし戦闘的の優勝劣敗が天然界を支配する唯一最大の勢力でありまするならば、この世界は今や全く大蛇、ワニ、ワシ、ゴリラ等に属しておったでありましょう。しかるにそうではなくして、獅子や虎は絶ゆるも、その餌物(えもの)となりし鹿や兎は繁殖し、ワシは山深く巌(いわ)高き所にその巣を作るに代えて、カワセミは里に下りて水辺を翔(かけ)り、ゴリラ・チンパンジーはわずかに熱帯地方の森林にその種族を保存するに代えて、人は全世界をおおうて、いたる所に文明を進めつつあるのを見て、天然界は決して強者必盛、弱者必滅の世界でないことが最も明白に分かります。主戦論はこれを天然界の事実に訴えてその説を維持することは出来ません。天然を深く学んでその、戦争の奨励者でなくて、かえって平和の宣伝者であることが明らかに分かります。
 歴史における戦争
しかるに人はさらに言います。もし天然は平和を教ゆるとするも、人類の歴史は戦争の必要を説いてやまない、戦争なくして興った国はない、人類の歴史は実に戦争の歴史であると。
なるほど戦争によって国は興りました。しかしその亡ぶるのもまた戦争によります。戦争はもともと破壊性のものであります。ゆえに他を破壊しておきながら、己れは破壊をまぬがれんとするは、できるようでできません。キリスト教の聖書では「剣をとる者は剣にて亡ぶべし」と教え、仏教の教典では「呪詛諸毒薬、還着於本人(じゅそどくやく・げんじゃくおほんにん:呪いや毒薬は本人に帰る)」と説いております。これは神の法律(おきて)であると同時にまた天然の法則であります。そうして歴史あって以来この法則にもれた人も国も無いと思います。和漢西洋いずれの国の歴史を見ましても、この法則の働きはありありとあらわれております。
そうしてその理由はさぐるに難くありません。戦争は勢力の消耗であります。勝つも負けると同じく勢力の消耗であります。負くれば失いし勢力を補わんとし、勝てばさらに進んで消耗の途を設けんとす。人も国も戦争の方面に発達膨張して、ついに立つあたわざるにいたります。古きはアッシリア、バビロニア、マケドニア、ローマの亡びたのも全くこれがためであります。新しきはスペイン、フランスの衰えたのも全くこれがためであります。国費の大部分は戦争の方面に注がれ、才能の大部分もまた同一の方面に使用され、人物という人物、天才という天才が生産的でなくして消費的の軍事一方に引かれて、国はその根本において衰え、はなはだしきにいたってはついに亡ぶるにいたります。国の宝は第一にその人物であります。そうして戦時にありてはこれを戦場に消費し、平時にありてはこれを兵営の中に囲いおきて国は発達せんとするも得ません。誠にギリシャの亡びたのは全く連続せる戦争の結果による人物欠乏がその最大原因であったとのことであります。一時は大詩人、大哲学者、大美術家、大政治家を続出して止まざりしギリシャが今日のごとくに衰えしは全く戦争によりて人物を消耗し尽くしたからであると言います。実にそうであろうと思います。ローマの滅亡もまた同一の理由をもって説明することができます。一時は世界のなかばを握りしスペインが三百年後の今日、世界の三等国とまで下りましたのも、全く引き続く戦争によって国の第一の宝たる人材を消費し去ったからであります。フランスが今やその第一等の国の地位を失わんとしつつあるのもまた同一の原因によるのであると思います。国民の精華はことごとく軍人となり、その屑(くず)のみが残って教師となり、文人となり、美術家となり、実業家となるのであります。それで国の衰えないわけはありません。社会の道徳の日々衰えいくは決してあやしむに足りません。徳性涵養の任に当たる教育家、宗教家のほとんどすべてが国民のカスであるからであります。聖賢君子のなすべき業が小人愚物にゆだねらるるからであります。軍人たるは貴くして宗教家たるは卑しき国に道徳が盛んになりようはずはありません。戦争によって国威は顕揚されますが、それと同時に国力は減退します。そうして顕揚が虚栄となり、減退が空乏となって、ついに亡国となるのであります。
天然におけるがごとく、歴史においても、これを狭く見ずして広く見てごらんなさい。短く見ずして永く見てごらんなさい。戦争が決して国を興し国を保つの途(みち)でないことが明らかにわかります。戦争で興った国で亡びない国は未だかつてありません。ただ時日の問題であります。
世に剣をもって興らず、またこれをもって維持されない一つの国があります。それはユダヤ国であります。牧人アブラハムの家より出て、連綿として四千年後の今日にいたります。その王政時代において、またそのマカビー家執権の時にあたって、武をもって隣国を圧したことがありましたけれども、それは国民としては至ってわずかの間でありました。ユダヤ人は主として無抵抗主義の民であります。迫害せらるるのが彼らの特性であります。ユダヤ人の歴史は戦争史ではなくして迫害史であります。遠くは紀元前三百年頃、シリア王アンチオカス・エビフハネスの虐待凌辱(りょうじょく)するところとなりし以来、近くはロシア国キシネフにおいて彼らの多数が虐殺されしまで、ユダヤ人に迫害の絶えたことはありません。しかるに彼らはこれに対して一剣を磨(みが)かずでありまして、彼らはただあしらわるるがままに己れが身をまかしました。もし腕力の勝敗が民の興亡を決するものでありますならば、ユダヤ人はすでにすでにこの世より絶たれたのであります。しかし事実はどうでありますか。
アブラハムが始めてカルデヤを出た時には未だアッシリアも起らず、バビロニヤも立たず、エジプトは隆盛の極にあり、ギリシャもローマも未だ時の胎内にあった時でありました。しかるに世紀は変わり、紀元は改まりて、これらの国民は栄えては衰え、興きては亡びましたけれども常に変わらないのは賤視(いやし)めれたる無抵抗主義のユダヤ人であります。ローマは亡びてもユダヤは亡びませんでした。欧州に国は興り、国は衰えましたけれども依然たるはやはりユダヤ人であります。そうしてその数今や一千一百万以上、世界各国至る所に散在し、その財権を握り、その思想を左右しその哲学と美術に貢献し、実に敬すべき恐るべき一大勢力であります。世界第一等の人物を産出すること多き、ユダヤ人のごときはありません。哲学者としてはスピノザを出し、音楽家としてはメンデルスゾーンを出し、政治家としてはディズレーリを出し、新聞記者としてはブローヴィッツを出し、その他数え来れば数限りはありません。もし文明世界よりユダヤ人を除いたならばその最良最善最美のものは無くなります。民として継続することの長きことユダヤ人に及ぶものはありません、世界第一等の人物を産出することの多き、ユダヤ人に及ぶものはありません。すべての点において(もちろん軍事を除き)勢力の充溢することユダヤ人に及ぶものはありません。ユダヤ人はロシア人が亡びた後もなお存(のこ)ります。ユダヤ人はイギリス人、フランス人、ドイツ人が消え去った後にもなお栄えます。そうしてこの民が特に無抵抗主義であることを知って、民は戦争に由て存在するものでないことが最も明らかになります。
人は申しましょう。ユダヤ人の努力は大なりといえども彼らに国土なるものはない。ゆえに彼らは亡国の民であると。
誠にそのとおりであります。ユダヤ人に定限されたる国土はありません。しかしそれがすなわち彼らが強い理由(わけ)であります。彼らは世界を己れが国土となす者であります。彼らは国土獲得(ランドグラッピング)という異邦人の誤謬より夙(つと)に脱しました。彼らは国土を見ること空気を見るごとく、これを一国民の専有物として見ません。ユダヤ人は国土専有の念を絶ってより世界的の民となったのであります。戦争の廃(や)まる時は土地獲得の野心の絶ゆる時であります。ユダヤ人にその割拠する国土の無いのはその弱点ではなくしてかえってその強所であります。
ユダヤ人に関すると同じことが支那人(中国人)に関しても言われます。中国人はユダヤ人ほど偉大の民ではありません。しかしこれに似て戦争嫌いの民であります。そうしてその結果として繁殖力非常に強く、これまたややもすれば世界を横領せんとする民であります。列強は武力をもって中国の国土を分割することができます。しかし中国人を征服することはできません。いな、中国を取るの危険は終に中国人に取らるるの危険があります。横浜、上海、香港等において、日本人は名義を貴び、イギリス人は権利を求めつつある間に、中国人は徐々として実力を得つつあります。中国人は国旗のために戦いません、実利のために戦います。ゆえに剣を用いずしてソロバンを用います。賤しむべしと言えば賤しむべしであります。慧(かしこ)し言えば慧くあります。いずれにしろソロバンは剣よりも強い武器であります。剣をもってする者のたおれし後々までもソロバンをもってする者は存(のこ)ります。
かくて人類の歴史は戦争の利益を教えません、その害毒を伝えます。国は戦争をもって亡びます、民は戦争を廃(や)めて栄えます。世界は徐々と戦争嫌いの民の手に渡りつつあります。
 戦争廃止の必要
かく言うも人は言いましょう。説明はまことに立派であり、しかし事実はやはり事実である、戦争を今やめることはできない。軍備拡張は列強目下の最大問題である。詩人の夢想は午睡(ひるね)のたすけとなるが、実際問題を解決するに足りないと。
もしそうならばやむを得ません、私どもは沈黙を守りましょう。しかしたとい私どもは黙りまするも、神と天然とは黙りません。神の律法(おきて)と天然の法則とは、政治家の評議にかかわらず行われます。「エホバもまた知恵あるべし」と聖書にしるしてあります(イザヤ書三一章二節)、実際問題は実際政治家の評議によって解決されません。彼らは実際いかなる大問題を解決しましたか。彼らは戦争を議決してその後始末に困っているではありませんか。夢想家は詩人ではなくしてかえって彼ら政治家であります。神を知らず、天然を学ばない彼らは、間違いより間違いへと陥りつつあります。
戦争は廃(や)まります、必ず廃まります。これは私ども非戦論者が非戦論を唱うるからではありません。神がこれを命じ、天然がこれを要求しますゆえに、終に必ず廃まります。もし進化の理が今日ただちに無に帰するものならばいざ知らず、宇宙と人類とがその今日まで取り来たりし経路に由りて進みますならば、戦争は終に必ず廃まります。
人類が進むにしたがって戦争の害はますます増してその益は益々減じて来ます、したがって戦争は勝つも負けるも大なる損害たるにいたります。戦争はその代価を償わずその目的に達せざるにいたります。そうしてその時にいたれば国民はいやでも戦争を廃めます。そうしてかかる時は時々刻々と近づきつつあります。列強目下の軍備増大のごときも、かかる時機の到来を示すの外ありません。列強は今や餓死するか戦争するかの境に達しつつあります。戦えば敵の手にたおれ、戦わざれば債主の手にたおれんとしつつあります。ここにおいてか国民は生きんと欲すれば戦争を廃むるより外に手段の無き域に達しつつあります。そうして国民に生存欲の絶えざる限りは、彼らは余儀なくせられて戦争をやめます。
かかる場合に臨んで最も慧(かしこ)き国民は最も早く戦争を止める国民であります。そうして最も愚かなる国民は最後まで戦争とその準備とを継続する国民であります。国力を益なき戦争のために消費しつくして、彼らはまさに開けんとする平和的競争裡(り)に入って、憐れなる敗北を取らざるを得ません。獅子や虎のごとくに勢力の大部分を牙や爪に消費せずして、哲学者や慈善家のごとくに、これを脳と心とにたくわえおかなければなりません。これをなさずして目下の勢いに駆られ、万事を犠牲に供して戦争の準備をなすがごとき、これを愚の極といわざるを得ません。



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