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報徳記巻二【1】墾田役夫賞す【2】円蔵教諭

報徳記 巻之二
【1】 先生墾田役夫を賞す
 或時(あるとき)物井邑(ものゐむら)の荒蕪(くわうぶ)を開くこと数十町歩(ちやうぶ)、此(こ)の地の荒野に帰すること七八十年、大木(たいぼく)繁茂(はんも)し、恰(あたか)も山林の如し。邑民(いふみん)のみの力に及ばず。是(こゝ)に於(おい)て他邦(たほう)の者をも雇ひ、荊棘(けいきょく)を払ひ、高木を伐(き)り、之を開く。数月にして成る。此(こ)の時に当(あた)り、先生朝(あした)には役夫(えきふ)の未だ出でざるに出で之を待つて之を指揮し、夕(ゆうべ)には役夫の帰るを待つて然後(しかるのち)陣屋に帰る。役夫を使ふこと恰(あたか)も手足の心に随ふが如し。
是故(これゆゑ)に役夫五拾人なれば百人の働(はたらき)をなし、百人なれば二百人の用を為(な)す、人皆其の功の迅速なることを感ず。是(これ)民に先立つて艱苦を尽し、其(その)ものゝ知愚を計(はか)り、知あるものは諸人の先(さき)となし、愚なるものをして分に応じて働かしめ、力を尽す者は之を賞し、怠る者は之を励ます。昔名将の士卒(しそつ)を令することも実(じつ)に此(こ)の如くなるべしと人々目を驚かせり。
先生と共に此(こ)の場に出で、指揮する吏(り)三四輩(はい)あり。時(とき)に役夫一人衆に抽(ぬきんで)て勉力(べんりよく)流汗(りゆうかん)力を極(きは)む。
小田原の吏(り)之を見て大いに感じ、彼(かれ)諸人に勝(すぐ)れ、斯(かく)の如き力を尽すこと豈(あに)奇特(きとく)に非(あら)ずや。定(さだ)めて先生此の者を賞し、必ず衆役夫(しゆうえきふ)の励みとなさん、早く賞せよかしと心に之(これ)を待ちたりしに、先生両三度此(この)ものゝ処(ところ)に至り、その働(はたらき)を見ると雖も一言(ごん)の賞詞(しやうし)なし、吏(り)甚だ之を疑ひ惑へり。
 暫(しばらく)ありて先生又此(こゝ)に来(きた)り、声を励(はげ)まして曰く、
汝(なんぢ)我を欺(あざむ)かんとして此(こ)の如きの働きを為す、甚(はなは)だ不届也(ふとどきなり)と云(い)ふべし。我此処(こゝ)に来(きた)れば力を極め、流汗(りうかん)して他に抽(ぬき)んづるの働(はたらき)をなす。我此(この)場を去らば定めて怠るべし。人力(じんりよく)各(おのおの)其の限(かぎり)あり、此(こ)の如く働き、終日力を尽さば、汝(なんぢ)一日にして斃(たふ)れんこと疑(うたがひ)なし。若し斯(かく)の如くして終日筋骨の続く者ならば、我(われ)終日爰(こゝ)に在りて之(これ)を試さん、汝(なんぢ)能(よ)く為(な)さんか と問ふ。
役夫(えきふ)大(おほ)いに驚き、地に伏(ふ)して答えず。先生曰く、
汝(なんぢ)の如(ごと)き不直(ふちよく)の者あれば衆人(しゆうじん)怠りを生ずるの基(もとゐ)なり。人を欺(あざむ)き事を為さんとする者は我之(これ)を容(い)れず、速(すみやか)に去れ、二度(ふたたび)来ること勿(なか)れと云ふ。
邑(むら)の里正(しやうや)二人進み出でて其(その)罪を謝せしむ。役夫大(おほ)いに其(そ)の過(あやまち)を謝(しや)し慈愛を請(こ)ふ。先生之を許しぬ。人皆其の見る処(ところ)明かにして、衆人の見る処と異なるを驚嘆せり。
時(とき)に役夫一人年すでに六十、日々此の場に来りて開墾す。終日木根(ぼくこん)を掘つて止まず。人休めども休まず。人之(これ)に休めよと云へば、老人答えて曰く、壮者(さうしや)は休むと雖も終日の働き余(あまり)あり。予(われ)既に年老い力衰へたり。若し壮者と共に休まば何の用を為さんやと。
小田原の吏(り)之を見て、彼(か)の老人日々木の根而巳(のみ)に心を用ゐるは、開発の労人と共にするを厭へばなり。日毎(ひごと)の働き他の役夫の三分が一にも至らず。先生何の故に斯(かく)の如き無益の老人を退けざるや、明知(めいち)の一失なりと云ひて竊(ひそか)に之を嘲(あざけ)る。後数日にして開墾成就せり。邑民(いふみん)の労を慰(ゐ)し、他邦(たはう)の役夫を帰村せしむ。時に此の老人夫を陣屋に呼び、先生自らこれに問ひて曰く、汝(なんぢ)の生国(しやうごく)何(いづ)れぞや。
老人答えて曰く、某(それがし)常陸国(ひたちのくに)笠間領某村の農民なり、家貧なれども我が子既に長ぜり。耕田の事は彼に任じ、少しく貧を補はんが為に君(きみ)の開墾し給ふを聞きて此の地に至れり、君(きみ)此(こ)の老人を捨て玉はず、壮者と共に役(えき)を命ず、又(また)諸人と等しく賃銀を給ふ、其(そ)の恵み感ずるに余りありと云(い)ふ。先生是(こゝ)に於(おい)て金拾(じふ)五両を与(あた)へて曰く、
汝(なんぢ)衆人に抽(ぬき)んでて丹精(たんせい)の働(はたらき)を為したるが故に聊(いささ)か賞美(しやうび)として之(これ)を与(あた)ふる也(なり)と。
老人大いに驚き、金を頂き、謹(つつし)みてこれを戻し、色を変(へん)じて曰く、
君(きみ)の恩恵(おんけい)身に余れりと雖も、某(それがし)何を以て此の賞に当(あた)らんや。前にも申せし如く、老夫の力(ちから)役夫(えきふ)に当(あた)るに足らず、然るを等しく賃金を給ふ。是(これ)をも身に余(あま)れりとせり。
今其(そ)の実(じつ)なくして大金の賞を得ること、某(それがし)身を置くに処なし。
何ぞ是を本意(ほんい)とせんや。某(それがし)決して賞に応ぜずと云(い)ふ。
先生曰く、汝(なんぢ)辞することなかれ。我此(こ)の地を再復せんが為に多くの役夫(えきふ)を用う。豈(あに)其(そ)の人々の事実を察せずして猥(みだり)に事を行はんや。汝数月の働きを見るに、曽(かつ)て己(おのれ)の功の顕(あらは)れんことを欲せず。衆皆起こし易(やす)き地を選(えら)み、争ひて其の開田の多少(たせう)を示さんとす。汝(なんぢ)独(ひとり)衆人悪(い)む処の木根(ぼくこん)を穿(うが)ち、力を尽して怠らず。人休めども休まず。之(これ)を問へば労力足らざるが故に休まずと、終日(しうじつ)力を労して其の労力も顕(あらは)れざるに似たり。汝諸人の嫌ふ所に力を尽して木根(ぼくこん)を穿(うが)つこと数を知らず。平易の開墾に比すれば其(そ)の労倍せり。此の故に開田大いに速かなるを得たり。是(これ)全く汝正実(せいじつ)の為す所也(なり)。之(これ)をも賞せずして、諸人と共に同視(どうし)せば、爾来(じらい)何を以て土功(どこう)を挙(あげ)んや。汝家貧なるが為めに他邦に出で労力すと云へり。然(しかれ)ども目前与ふる所の金だも辞す、其(そ)の廉直他人の及ぶ所にあらず。今与ふる所の財は、天汝の正実(せいじつ)を憐み下し玉ふものなりと思ひ、速(すみやか)に持ち帰りて貧苦を免れ、老(らう)を養ふの一端(たん)ともせば、我も亦(また)之を悦ぶなりと教へ再び之を与ふ。是(こゝ)に於(おい)て老人先生の言(げん)に感動し、流涕(りうてい)衣(い)を沽(うるお)し、合掌拝伏(はいふく)して証辞(しやうじ)を尽くすこと能(あた)はず。再三金を戴(いただ)いて故郷に帰れり。
小田原の吏(り)、邑民(いふみん)共に始めて老人の常人にあらざるを知り、先生の善人を賞すること厚くして、其(そ)の意中の明敏(めいびん)なることを驚歎せりと云ふ。


報徳記  巻之二
【1】 先生墾田役夫を賞す
 ある時、物井村邑の荒地を開くこと数十町歩(土地面積の単位。約0.99ヘクタール。1町は10段、3,000坪)、この地の荒野に帰すること7,80年、大木が繁り、あたかも山林のようであった。村民だけの力では及ばないため、他国の者をも雇い、いばらを払い、高木を伐って、これを開いた。数月にして完成した。
この時に当って、先生は朝には人夫がまだ来ないうちに出て、これを待って指揮し、夕べには人夫が帰るのを待ってその後に陣屋に帰った。
人夫を使うことはあたかも手足を心のままに使うようであった。
このため人夫が50人であれば100人の働きを行い、100人であれば200人の用を行った。人々はその功の迅速であることに感嘆した。
これというのも民に先だって艱苦を尽し、その者が知恵があるか愚かかを計って、知恵のある者は人々の先とし、愚かな者はその分に応じて働かせ、力を尽した者はこれに褒美を与え、怠る者はこれを激励した。昔の名将が士卒に号令することも実にこのようであったであろうと人々は目を驚かせた。先生と共にこの場に出て、指揮する役人が3,4人いた。ある時に人夫の一人が衆にぬきんでて力を尽し汗を流し力を極めていた。
小田原藩の役人はこれを見て大いに感じいって、彼は諸人より優れた働きをしている。このように力を尽すことはなんと感心な行いではないか。
さだめて先生はこの者を褒めて、必ず多くの人夫の励みとなされよう、早く褒められればよいがと心にこれを待っていたが、先生が2度3度この者のところに来たが、その働きを見ても一言の褒め言葉もなかった。役人は大変これをいぶかんで当惑した。
しばらくして先生はまたここに来て、大きな声で叱責された。
「お前は私をあざむこうとしてこのような働きをなす、はなはだ不届きであると言うべきだ。私がここに来れば力をきわめ、汗を流し他にぬきんでた働きをなす。
私がこの場を去ればきっと怠ることであろう。人の力はおのおのその限りがある。このように働いて、終日力を尽すならば、お前は一日で倒れてしまうことは疑いない。
もしこのようにして一日中、筋骨が続く者であれば、私が一日中ここに在ってこれを試してみよう。お前はよく行えるか」 と問うた。
人夫は大いに驚いて、地にふして答えなかった。先生は言った。
「お前のような正直でない者がいると人々が怠惰を生ずるのもととなる。人を欺いて事をなそうとする者は私はこれを容赦しない、速やかに去って、再び来るな。」と言った。
村の庄屋が2人進み出てその罪を謝罪させた。人夫は大いにその過ちを謝って慈愛をこうた。先生はこれを許された。
人は皆先生の見るところが明らかであって、人の見るところと異なることを驚嘆した。
 時に人夫が一人、年はすでに60歳の者がいて、日々この場に来て開墾していた。
一日中、木の根を掘って止まなかった。人が休んでも休まない。
人がこれに休んだらというと、老人は答えて言った。
「壮年の者は休んでも一日の働きが余りがあります。私は既に年老いて力が衰えている。
もし壮年の者と一緒に休むならば何の用をなしましょうか」と。
小田原藩の役人はこれを見て、かの老人は日々木の根だけに心を用いるは、開発の苦労を人と一緒にするのを嫌がっているからだ。日々の働きも他の人夫の3分の1にも及ばない。先生はなぜこのような無益の老人を退けないのか、明知の一失であると言ってひそかにこれを嘲笑した。その後数日で開墾は成就した。村民の労苦をねぎら、他国の人夫を帰村させた。この時にこの年老いた人夫を陣屋に呼んで、先生自らこれに質問した。
「お前の生れた国はどこか。」
老人は答えて言った。
「私は常陸国(茨城県)笠間領の某村の農民です。家は貧乏ですが私の子どもは既に成長しました。田を耕す事は子供に任せ、少しでも貧を補うためにあなた様の開墾されているとうのを聞いてこの地に来ました。あなた様はこの老人を捨てられることなく、壮年の者と共に仕事を命じられました。また他の人と等しい賃銀をくださいました。その恵みは感動するに余りあります。」と言った。
先生はここにおいて金15両を与えて言った。
「お前は人々にぬきんでて心をこめた働きをしたために、いささか褒美としてこれを与えるのである。」と。
老人は大変に驚いて、金を頂いてから、謹んでこれを戻し、顔色を変えて言った。
「あなた様の恩恵は身に余ることですが、私がどうしてこの褒美に当りましょうか。
前にも申したように、老夫の力は人夫一人に当るに足りません。それであるのに等しく賃金を給わる、これをも身に余ることだと存じます。今その実がないのに大金の褒美を得れば、それがしは身を置くところがありません。どうしてこれを本来の望みといたしましょうか。私は決して褒美に応じることはできません」と言った。
先生は言った。
「辞退してはいけない。私はこの地を再復するために多くの人夫を用いている。
どうしてその人々の事実を察しないでみだりに事を行なおうか。お前はの数月の働きを見るに、かって自分の功績が顕われることを欲することなく、人々が皆起こしやすい地を選んで、争ってその開田が多いかを示そうとしている。お前独り人々が嫌うところの木の根を穿つのに力を尽して怠ることがなかった。人が休んでも休まず、これを問うと労力が足らないから休まないのだと、一日中、力を労しながらその労力も顕われないようであった。お前は人々が嫌うところに力を尽して木の根をうがつこと、その数を知らないほどだ。平易の開墾に比べれば、その労力は倍するであろう。そのお陰で開田が大いに速やかに進んだのだ。これは全くお前の誠実のなすところである。
これをも賞しないで、諸人とともに同視するならば、今後どうして土工の功績を挙げることができよう。お前は家が貧しいために他国に出で労力すると言った。
しかし目前に与えるところの金でさえ辞退する、その廉直さは他人の及ぶところではない。今与えるところのお金は、天がお前の誠実さを憐れまれてと思い、速やかに持ち帰って貧苦を免れ、老いを養うの一端ともするならば、私もまたこれを喜ぶのだ」と教えて再びこれを与えた。そこで老人は先生の言葉に感動し、涙を流して衣をうるおし、合掌し拝伏してお礼を言うことができなかった。再三金をおしいただいて故郷に帰った。
小田原藩の役人と村民はともに始めて老人の常人ではなかったことを知って、先生が善人を賞することが厚く、その心の中が明敏であることを驚嘆したという。

報徳記 巻之二
【2】先生横田村里正円蔵を教諭す

 横田村衰貧尤(もっと)も甚(はなはだ)しく民戸(みんこ)中古(ちゆうこ)の半(なかば)を存(ぞん)す。古田(こでん)荒蕪(くわうぶ)して原野(げんや)の如し。
貧民今日(こんにち)の活計(くわつけい)術(じゅつ)尽(つく)るに至る。
先生之(これ)を恵み、之(これ)を撫(ぶ)すること百計皆悉(ことごと)く至誠ならざるはなし。
里正(しやうや)円蔵なるもの、其(そ)の先(さき)由緒ある家筋にて連綿として此(こ)の横田村に相続すること幾百年たるを知らず。
細民(さいみん)と共に衰貧(すゐひん)せりといへども、未だ活計道なきが如きに至らず。
性(せい)才智あるにあらざれども、質直(しつちよく)にして私曲(しきよく)なし。
斯(かく)の如(ごと)き旧家(きうか)なるが故に、従来の家頗(すこぶ)る破損(はそん)し、且(かつ)傾きしかば、新(あらた)に家作(かさく)を計れども家貧にして作ることを得ず。
多年、心を用ゐ漸(やうや)く材木を求め作らんとするに、入費(にふひ)二十金足らずして其(そ)の望みを果すこと能(あた)はず。
 是(こゝ)に於(おい)てこれを先生に乞(こ)ふ。先生諭(さと)して曰(いは)く、
嗚呼(あゝ)汝(なんぢ)の邑(むら)衰廃貧困既に極(きは)まれり。
里正(しやうや)たるものこれが為に痛歎して身を顧(かへりみ)るに暇(いとま)なからんとす。
何の暇(いとま)ありて己れの家作(かさく)安居(あんきよ)を計るや、過(あやま)てりと云ふべし。
夫(そ)れ里正(しやうや)の任たるや一村(そん)の長となり、邑(いふ)民を進退し、能(よ)く之(これ)を治め、曲れるものは厚く教へて直からしめ、邪(よこしま)なるものは之を戒めて正しからしめ、惰農(だのう)なるもの之(これ)を励まし、貧なるものは之を恵み、身に便(たよ)りなきものをば之を憐み、細民(さいみん)をして法度(はつと)を守り、汚俗に流れず、専ら勤農(きんのう)して貢(みつぎ)を納(をさ)め、一村の憂(うれひ)なからしむるもの之(こ)れ里正(しやうや)の任(にん)なり。
汝(なんぢ)祖先以来代々里正(しやうや)となり、一邑(むら)の盛衰安危皆汝(なんぢ)の身にあり。
而(しか)して下民(かみん)怠惰に流れ、衰貧極り、或(あるひ)は潰(つぶ)れ、或(あるひ)は離散し、土地荒蕪(くわうぶ)し、戸数漸(やうや)く数十軒のみ。
是(これ)も亦(また)極貧にして永続の道なく、貢税減少し、地頭(ぢたう)の用足らず。
野州広しといへども、斯(かく)の如(ごと)く亡村に等しき村も少なかるべし。
今汝(なんぢ)之をこれ憂(うれひ)となさずんば何を以て里正(しやうや)の任に勝(たへ)んや。
一邑(むら)能(よ)く治(おさま)り、土地開け、細民(さいみん)優(ゆた)かならば、其(そ)の功(こう)里正(しやうや)に帰(き)す。土地荒蕪(くわうぶ)し、細民潰(つぶ)れ、貧困迫り、人気(にんき)乱(みだ)るゝ時は、里正(しやうや)の罪にあらずして誰にか帰せんや。
地頭(ぢたう)之を憂ひ、数年の力を尽し、旧復の方法を下し玉(たま)ふといへども其(その)験(しる)しなく、遂(つひ)に小田原へ歎願せられ、小田原侯より興復の道を尽されしも、弥々(いよいよ)衰弊(すゐへい)に流れ、引立(ひきたて)の色顕(あら)はれず。
我れ命を奉じ出張せしより以来、廃(すた)れたるを興(おこ)し、民を恵み、昼となく夜となく肝胆を砕き再復の道を施し、上(かみ)君命を辱(はずか)しめず、下(しも)邑(いふ)民を安んぜんとするの外(ほか)、他事(たじ)なきことは汝(なんぢ)も亦(また)明(あきら)かに知る所なり。
君公の下民を憐(あはれ)み玉(たま)ふ高恩は斯(かく)の如(ごと)くにして、邑(むら)の里正(しやうや)たる汝(なんぢ)漠然と与(あづ)からざるものの如(ごと)くなるは又(また)何の心ぞや。
いやしくも汝(なんぢ)誠(まこと)の心あらば上(かみ)君(きみ)の仁沢を弁(わきま)へ、旧来(きうらい)里正(しやうや)として民を憐れみ撫育(ぶいく)するの行ひなく、亡村にも等しき衰廃にも陥りし過(あやまち)を悔い、己(おのれ)の家産をも減じ、節倹を尽し、細民に先立ち貧苦を甘んじ、有余(いうよ)を生じ、荒地を開き、細民(さいみん)の飢寒をも救ひ、一邑(いう)再復の道に力を尽し、君(きみ)の憂労を安んじ、里正(しやうや)の本意(ほんい)を達せんとこそ願ふべきに、何ぞや祖先以来の家を廃し、新(あらた)に家作(かさく)を為し、一身(しん)の安居(あんきよ)のみを計(はか)り、猶(なほ)不足の財を借りて望みを遂(とげ)んとするは過(あやまち)の上の過(あやまち)にはあらずや。
若し君より汝(なんぢ)の行(おこなひ)を見玉(みたま)はゞ、何ぞ忠義の心となし給(たま)はん。
邑民(いふみん)之を見ば誰か怨みを生ぜざらん。誰か其(そ)の不可を誹(そし)らざらんや。
上(かみ)より不忠の咎(とが)めあり、邑民(いふみん)皆怨み誹(そし)らば、仮令(たとひ)如何(いか)なる美屋(びおく)を作るといへども何を以て其(そ)の家に安居(あんきよ)することを得んや。
今汝の作る家覆(くつがへ)らば、居住(きよじゆう)なきが故に巳(や)むことを得ざるなり。
仮令(たとひ)旧家(きうか)にて損じ傾くといへども倒るゝにはあらず、何(なに)の居住しがたきことあらん。細民(さいみん)の家を見よ、一日も風雨を支ふることあたはざるものあり。豈(あに)汝(なんぢ)の家の類(たぐ)ひならんや。然れども我に不足の金を借らんと求めざれば、我其(その)不可を教ふるに暇(いとま)あらず。我に求むるが故に其(その)過(あやまち)を諭(さと)すなり。
汝我が言を是(ぜ)なりとせば速(すみや)かにそれ之(これ)を止めよ。
而(しか)して我に借らずして、仮(かり)に20金を借りたりとして、今より5年の間に返金せよ。
若(も)し家作(かさく)を止め、平生(へいぜい)の処(ところ)にて返金を難(かた)しとする時は、多分の費用を以て家を作り、其(そ)の後の返金は弥々(いよいよ)難き事必(ひつ)せり。返金の能はざるを知りて借るは是れ我を欺(あざむ)くなり。家を作りて猶(なほ)返金容易(たやす)からば、作らずして返金する何の難(かた)きことあらん。試(こゝろみ)に借らずして返納のみせよ。
然(さ)する時は汝自(みづ)から邑民(いふみん)を救ひ、廃蕪を興(おこ)すこと能(あた)はずと雖(いへど)も、我興(おこ)し与ふるが故に、汝(なんぢ)力を添えて興(おこ)すに当(あた)れり。
里正(しやうや)たるものは細民に先立ち艱難を嘗(な)むべきの任(にん)なるが故に、細民安(やすん)ずる事を得ば、其(その)後に汝(なんぢ)の望みも為し与(あた)ふべし。
然れば邑民(いふみん)の怨望(ゑんぼう)何(なん)に由(よ)つて生ぜん。
誰(たれ)か汝の行(おこなひ)を非(ひ)とせんや。
若し此(この)言に随はずんば人望を失ひ怨言(ゑんげん)起り、一家を保つことも難(かたか)るべしと。
円蔵大いに感激し、速(すみやか)に家作(かさく)を止め、先生の教(をしへ)に随ひ、借らずして毎年返金を納め、猶(なほ)業(げふ)を勤(つと)めて利足をも納め、加之(しかのみならず)邸内の竹木を伐(き)り、之を鬻(ひさぎ)て価(か)を納(をさ)む。後、横田村全く興復し、細民恩沢(おんたく)に浴し、一民も居住(きよぢゆう)を安(やす)んぜざるものなきに至り、采邑(さいいふ)四千石中に最第一の家を作り、之を円蔵に与(あた)ふ。入費百有余金、里正(しやうや)大いに悦(よろこ)び、邑民(いふみん)も亦(また)共に悦びて聊(いささ)かも怨望の心なきものは、始め円蔵借らざるの返金を立たる殊勝の行ひあるが故なり。
先生又新(あらた)に家を作り、円蔵の子弟二人に与へ、分家二軒を立つ。円蔵感歎すること限なし。
噫(あゝ)里正(しやうや)一度先生の教(をしへ)に従つて不朽(ふきう)の大幸(たいかう)を得たり。
先生庸夫(ようふ)を導き感発(かんぱつ)せしめ、道を踏み、過(あやまち)を改むるに至って大いに仁恵を施し、諸人をして悉(ことごと)く其(その)処(ところ)を安んぜしむること往々斯(かく)の如し。



報徳記巻の2【2】先生横田村里正円蔵を教諭す

 横田村の衰貧はもっとも甚しく村の戸数も少し昔の半分になっていた。
昔、田だったところが荒れ果てて原野のようであった。貧民はその日の生活を維持する方法も尽きてしまった。先生はこれを恵み、これをいたわり、多くのはかりごとを行うこと皆ことごとく至誠でないことはなかった。庄屋の円蔵という者は、その先祖は由緒のある家筋で、連綿と横田村に相続することは幾百年であるか知れないほどだった。
貧しい民と共に衰貧していたが、まだ生活を立てる方法がないほどではなかった。
その性質は才智があるわけではなかったが、正直で自分の利益ばかり計るということはなかった。このような旧家であるために、従来の家は大変破損し、かつ傾いてきたので、新たに家を作ろうと計画したが、家が貧しくて作ることができなかった。
長い年月、心を用いてようやく材木を求めて作ろうとしたが、必要な資金が20両足らないため、その望みを果すことができなかった。
ここにおいて必要な資金を貸してくれるよう先生にお願いに行った。先生は諭して言った。
「ああ、お前の村は衰廃し貧困はすでに極っている。庄屋たる者はこのために痛切に嘆いて身を顧りみるに忙しいはずだ。何のいとまがあって自分の家を作り心やすらかに生活しようと計るのか。過っているというべきである。そもそも庄屋の任務は一村の長となり、村民を指導し、よくこれを治め、間違っている者は厚く教えて直くし、よこしまな者はこれを戒めて正しくさせ、遊惰な農民は励まし、貧しい者に恵み、身寄り等がない者をを憐んで、貧しい民には法律等を守らせ、よくない風俗に流れないようにし、もっぱら農業に勤めさせ貢物を納めさせ、一村の憂いをなくならせるのが庄屋の任務ではないか。
お前は祖先以来代々庄屋となり、一村の盛衰・安危は皆お前の一身にかかっている。
そして下々の民は怠惰に流れ、衰貧は極り、あるいは潰れ、あるいは離散し、土地は荒廃し、戸数はわずかに数十軒だけとなっている。
これもまた極貧であって永続の道がなく、貢税は減少し、領主の用に足らない。
野州は広いといっても、このように亡村に等しい村も少ないであろう。
今お前はこれを憂慮しなくてどうして庄屋の任にたえようか。
一村よく治まり、土地が開け、貧しい民が豊かであれば、その功績は庄屋に帰する。
土地が荒廃し、貧しい民が潰れ、貧困に迫られ、気風が乱れる時は、庄屋の罪ではなくて誰の罪に帰するのか。領主はこれを憂慮し、数年の間、力を尽して、旧復の方法を施行されたけれどもその効果がなく、ついに小田原藩へ嘆願され、小田原侯が復興の方法を尽されたけれども、いよいよ衰え弱るばかりで、引き立てる気配が顕われない。
私は復興の命を奉じて出張してきて以来、廃れたのを興し、民を恵み、昼となく夜となく肝胆を砕いて再復の道を施し、上には君命を辱しめないように、下には村民を安らかにしようとするほかは、余念がないことはお前もまた明らかに知るところである。
君公が下々の民を憐まれる高恩はこのようであり、村の庄屋であるお前が漠然と関係ないもののようであるのは、またどういう心か。
いやしくもお前に誠の心があるならば上は君の仁沢をわきまえ、昔からの庄屋として民を憐れんでかわいがり大事に育てる行いもなく、亡村にも等しい衰廃にも陥った過ちを後悔して、自分の一家の財産を減じ、節倹を尽して、貧しい人々に先立って貧しさに苦しむことを甘んじ、余分を生じて、荒れ地を開き、貧しい人々の飢えと寒さを救い、一村を再復する道に力を尽し、君の憂労を安らかにし、庄屋の本懐を達しようとこそ願うべきであるのに、何ということか祖先以来の家を廃し、新たに家を作ろうとし、自分だけ安らかに過ごすことだけを計画し、なお足らない分の財産を借りて望みを遂げようとするのは過ちの上の過ちではないか。
もし君からお前の行いを見られるならば、どうして忠義の心となされるであろう。
村人が見れば、誰か怨みを生じないものがあろう。誰がそのよくないことを誹らないであろうか。上(かみ)から不忠の咎めがあり、村人が皆怨んで誹るならば、たとえどのような立派な家屋を作ってもどうしてその家に安らかに住むことができようか。
今、お前の作る家がひっくりかえったのならば、住むところがないからやむを得ない。
たとえ家が古く損傷し傾いていても倒れたのではあるまい、どうして居住できないことがあろうか。貧しい人々の家を見るがよい、一日も風や雨を支えることができない。
どうしてお前の家の類であろうか。
しかし私に不足の金を借ろうと求めなければ、私がその不可なることを教えるいとまがなかった。私に求めたがためにその過ちを諭すのだ。
お前が私の言葉を正しいとするならば速やかに家を作ることを止めよ。
そして私に借らないで、かりに20両を借りたとして、今から5年の間に返金してみよ。
もし家を作るのを止め、つねひごろにおいて返金が難かしいとする時は、多額の費用をもって家を作って、その後の返金はいよいよ難かしい事は必然である。
返金ができないことを知って借りるということは、私を欺こうとするものだ。
家を作ってなお返金が容易であれば、作らないで返金することは何の難かしいことがあろう。試みに借らないで返納のみをするがよい。
そうする時はお前が自から村人を救い、廃れたり荒れたりするところを復興することができなくても、私が復興し与えるために、お前が力を添えて復興するのと同様である。
庄屋は貧しい人々に先立って艱難を嘗めるべき任であるために、貧しい人々を安らかにできれば、その後にお前の望みもなし与えることができよう。
そうであれば村人の怨望も何によって生じよう。誰がお前の行いを非としようか。
もしこの言葉に随わなければ人望を失い、怨み言が起り、一家を保つことも難かしいであろう」と。
円蔵は大変感激して、速やかに家を作ることを止め、先生の教えに随って、借らないで毎年返金を納め、なお家業を勤めて利息も納め、それだけでなく屋敷の内の竹や木を伐って売払った対価を納めた。後に、横田村が全く興復し、貧しい人々が恵みに浴し、一人も居住を安らかにできないことがなくなってから、所領地の4千石中で最第一の家を作って、これを円蔵に与えた。入費百有余両、庄屋は大変喜んで、村人もまた共に喜んですこしも怨望の心がないのは、始め円蔵が借らない返金を立てた感心な行いがあったためである。
先生はまた新たに家を作って、円蔵の子どもたち2人に与え、分家2軒を立てた。
円蔵が感歎することは限りがなかった。
ああ、庄屋は一度先生の教えにしたがって不朽の大幸を得た。
先生が平凡な人々を導いて感発させ、道を踏んで、過ちを改めるに至って大いに仁恵を施し、諸人をしてすべてそのところを安らかにさせることは往々このようであった。


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