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報徳記巻三【3】烏山飢民撫育【4】鮎を贈る

報徳記  巻之三

【3】先生烏山の飢民を撫育し国家再興の基本を立つ
 
 于時(ときに)天保七丙申(ひのえさる)年大(おほい)に飢(き)す。
諸国の民飢渇に苦しみ、草根(さうこん)を食(くら)ひ、木皮(もくひ)を食(くら)ふといへども、食既に尽(つ)きて四方に離散す。
往(ゆ)く処(ところ)食(しよく)を得るの道なく、道路に叫び哀(かなし)めども、人も亦(また)是(こ)の如くなれば、慈(じ)ある者と雖も之を救ふことあたはず、遂に途(みち)に餓ヒョウ(がへう)累々(るゐるゐ)たるに至れり。
野州(やしう)烏山(からすやま)領中の民(たみ)も亦(また)飢渇に苦しみ、群起(ぐんき)して城下市中の富家(ふけ)を破却(はきやく)し、動揺すること夥(おびただ)し。
城中の群臣之を聞き、若し彼等城内に乱入することあらんも計り難し。
然らば是非に及ばず、大砲(たいほう)を以て之を払(はら)ふに如ずと、大砲(たいほう)を備えて之を待つ。
代官郡(こほり)奉行(ぶぎやう)をして之を諭(さと)し、その動揺(どうえう)を鎮静(ちんせい)せしむ。
是より先(さき)、菅谷某(ぼう)二宮先生に至りて救荒(きうくわう)の道を請ひ、実情(じつじやう)を以て小田原侯に言上(ごんじやう)し、先生も烏山侯より依頼の条(でう)を以て聞(ぶん)す。
小田原侯深く之を憐み、烏山は親族也(なり)、之を救ふの道有れば、夫(そ)れ我に代(かは)りて撫育(ぶいく)せよと命ず。
是(ここ)に於て先生其の価(あたひ)二千余(よ)金の米粟(べいぞく)を烏山に送り、十余里の間、運輸の米粟(べいぞく)絡繹(らくえき)たり。
諸人目を驚かさゞるものなし。
菩提寺(ぼだいでら)天性寺(てんしやうじ)境内(けいだい)に於て十一棟の小屋を補理(ほり)し、領中の飢民を集め、粥を炊(かし)ぎて之を撫育(ぶいく)す。
其の処置(しょち)規則皆先生の深慮に出(いで)たれば私曲(しきよく)の憂(うれひ)なく、均(ひと)しからざるの憂なく、昼夜(ちうや)火の元を厳(げん)にし、小屋(こや)の汚穢(をわい)を去り、疫疾(えきしつ)の憂を防ぎ、厚く之を養ふ。
円応(えんおう)和尚嘗(かつ)て先生に見(まみ)えしより終(つひ)に其の志願を遂(とぐ)るを以て大いに喜び、自ら飢民(きみん)の安危(あんき)を計り、日となく夜となく撫恤(ぶじゅつ)に心力(しんりょく)を尽(つく)せり。
是(これ)を以て、必死(ひっし)を免れ難き数千人の飢民、一人の過ちなく生命(せいめい)を全くすることを得たり。
先生の仁術に依らずんば何を以て此の大飢を無事に凌(しの)ぐことを得んやと、上下之を感嘆す。

是(ここ)に於て領中興復の道を依頼せんとし、侯(こう)の直書(ぢきしよ)且(かつ)大夫(たいふ)以下小吏(せうり)に至る迄連印の依頼書を以て再び先生に請ふ。
先生曰く、
下民(かみん)の露命旦夕(たんせき)に迫れり。
我(われ)救荒の施(ほどこ)さずんば、数千人の民(たみ)罪なくして死亡に陥(おちい)らん。
之を見るに忍びず。
君臣の懇望(こんもう)に任せ、之を救助せり。
国家再興の道、豈(あに)我が知る所ならんや 
と、固辞して受けず。
烏山の君臣再三請ひて止(やま)ず。
先生曰く、
夫(そ)れ国を興さんとする事誠に大業(だいげふ)なり。
天命に安(やす)んじ、衰貧の時に随ひ、天理自然の分度(ぶんど)を守り、其(そ)の艱難(かんなん)に素(そ)して艱難に行ひ、下民(かみん)の安堵(あんど)を見て然る後共に安堵し、未だ一民と雖も困苦を免れざる時は、人君(じんくん)以下一藩皆以て安堵の思を為さず。
民(たみ)の憂(うれひ)に先立ちて憂ひ、民の楽(たのしみ)に後(おく)れて楽み、民を恵(めぐ)む事、子を育(いく)するが如くならざれば、何を以て衰国を興(おこす)ことを得ん。
各(おのおの)の求むる所は左(さ)に非(あら)ず。
君(きみ)の用度(ようど)足らず一藩の恩禄其の十が三をも米粟(べいぞく)を受くる事を得ず。
此の不足を補はんとして他の財を借り、年々君の増借(ぞうしやく)利倍(りばい)幾万金となり、如何(いかん)ともすべからざるに至り、領民に上金せしめて之を補はんとし、猶(なほ)足らず。
今年(ことし)に来歳(らいさい)の貢税を命じて出(だ)さしむ。
下(しも)の艱難既に極り、遂に凶歳となりて飢亡に瀕(ひん)せるに非ずや。
是(こ)の如くにして歳月を送らば、国(くに)の亡ぶるに至らざれば止まず。
天地間大小各(かく)其の分限あり。
其の分に応(おう)じ、其の用度を制せんに何の不足といふ事あらんや。
若し分限を破り、徒(いたづら)に財宝(ざいほう)を費し、不足而己(のみ)を憂ふる時は百万石(ごく)を得るとも何ぞ足る事あらん。
五石十石のものだも一家を保ち、永く此の世に立てり。
然るに烏山三万石ありて用足らざるものは如何(いか)ん。
夫(そ)れ三万石なるものは何(なに)の名ぞや。
米粟(べいぞく)の三万石を出(いだ)せる土地と云ふことにあらずや。
三万石の米粟(べいぞく)の中に居(ゐ)て米金(べいきん)なきを憂ひ、下民(かみん)の飢渇を憂ふる時は、天下何ものか足るものあらん。
譬(たとへ)ば米飯(べいはん)の中に坐して飢(うゑ)を呼び歎くが如し。
豈(あに)坐する所悉く食物(しよくもつ)なることを知らんや。
今三万石の中に居(を)り、米金(べいきん)なきことを憂ふ。
何を以て之に異ならん。
唯(たゞ)用財節(きまり)なく、国(くに)の分度を知らざるが故なり。
其の本原(ほんげん)を明(あきらか)にし、当時(たうじ)の命に安(やす)んじ、国家(こくか)再盛の時至るまでは此の艱難を常とするの覚悟(かくご)あらざれば国(くに)の衰廃を挙(あ)ぐることあたはず。
其の本立たずして徒(いたづら)に我をして其の不足を補はしめんとならば、我何を以て之に応(おう)ずることを得んや。
何(なん)となれば、旧来(きうらい)の負債我之を倒(たふ)すことあたはず。
他領の貢税を取りて、烏山の不足を補ふことあたはず。
今各(おのおの)の求る所、一として我之を能(よく)せず。
我が道を以て興復せんとならば、別に道あるにあらず。
此の地の廃亡(はいぼう)を挙(あ)げたる道を移さん而己(のみ)。
此の道他(た)なし、唯(たゞ)烏山は烏山の分を守り、艱難の地に安んじ、国民を恵み、其の廃亡を興さん而己(のみ)。
然して各(おのおの)の欲する処(ところ)に異なれば、仮令(たとひ)我が方法を授けたりとも安(いづく)んぞ其の成功を遂(とぐ)ることを得ん。
之を止(や)むるには如(しか)ざるなり
と云ふ。

菅谷某(すがやぼう)を始め的然たる明教(めいけう)を感じ、弥々(いよいよ)上下同心協力此の道を行はんとす。
唯(たゞ)先生之を指揮せよと請(こ)ふ。
先生止む事を得ず、烏山分度の基礎を定めんとして曰く、
然らば先づ天分(てんぶん)の基本を明(あきらか)にすべし。 
語(ご)に曰く、
故(ふるき)を温(たづねて)新きを知ると云へり。
烏山領中の租税、豊凶十年を調べ、之を平均し、其の天命のある処(ところ)を察し、向後(かうご)の分度を定むべし。
各(かく)古帳簿(こちやうぶ)を持ち来りて速(すみやか)に調(しら)ぶべし。
我亦(また)其の至当(しとう)を示さん
 と云ふ。
大夫(たいふ)以下大いに悦び、直(たゞち)に烏山に帰り、再び桜町に至る。
先生烏山の有司(ゆうし)数十人を陣屋に居らしめ、飲食衣服に至るまで心を尽(つく)し之を給(きう)し、数月(すうげつ)にして豊凶十年の調べ成る。
而(しか)して衰時天命のある処(ところ)、自然の分度を確立して曰く、
向後(かうご)君臣共に之を守らば、必ず廃衰(はいすゐ)再復せん事(こと)疑(うたがひ)なし。
凡(およ)そ世の盛衰存亡興廃一として此(これ)より生ぜざるはなし。
早く烏山に帰り、群臣と共に之を決せよ 
と教ふ。
大夫(たいふ)以下烏山に至り之を評議し、数日(すうじつ)にして一決す。
是(こゝ)に於て再三先生に興復の道を請ふ。
先生再び米財を出し、烏山領邑の廃地を興さしむ。
下民(かみん)飢渇を免れ、大いに感激して開墾に力を尽し、一両年にして旧来(きうらい)の廃地を開く事二百二十四町(ちやう)、出粟(しゅつぞく)二千苞(へう)に及べり。
先生曰く、
烏山何万(まん)の廃田、幾万の借債ありと雖も、分外の産粟(さんぞく)年々二千を得ば旧復(きうふく)の道難きにあらず。
唯(たゞ)上下其(そ)の分度を守るの有無に由れり 
と、
人々先生の仁心大智(だいち)を驚歎せざるはなし。


報徳記  巻之三
 【3】先生烏山の飢民を撫育し国家再興の基本を立つ
 
 天保7年(1836)大飢饉となった。諸国の民は飢渇に苦しんで、草の根を食べ、木の皮を食べたが、食べ物も既につきて四方に離散した。どこへ行っても食物を得る方法はなく、道路に叫んで悲しんでも、人もまたこのようであったから、情け深い者もこれを救うことができなかった。ついに道に飢え死にの死体が累々と重なるに至った。野州烏山領内の民もまた飢渇に苦しんで、多くの人が立ち上がって城下市中の金持ちの家を打ち壊し、騒動することおびただしかった。城中の群臣はこれを聞いて、もし彼等が城内に乱入するがないとも計り難い。そうであれば是非に及ばない、大砲でこれを打ち払うしかないと、大砲を備えてこれを待った。代官や郡奉行によってこれを諭し、その動揺を鎮静させた。
これより前、菅谷八郎右衛門は二宮先生に至って救荒の道を請い、実情を小田原侯に申し上げ、先生も烏山侯より依頼の趣きをお耳に入れた。小田原侯は深くこれを憐れんで、烏山は親族である、これを救う道が有れば、余に代って慈しみ育てよと命ぜられた。ここにおいて先生は総額2,000余両の米穀を烏山に送って、十余里の間、運輸の米穀を運ぶ列が次々と絶えなかった。人々は目を見張って驚いた。菩提寺の天性寺の境内において11棟の小屋を建築し、領中の飢えた民を集めて、粥を炊いてこれを養った。その処置や規則は皆先生の深慮に出ていたからよこしまで不正の憂いがなく、均しくない憂いがなく、昼となく夜となく火の元を厳しくし、小屋の汚れや穢れを去って、伝染病の心配を防ぎ、厚くこれを養った。円応和尚はかって先生に会見してからついにその志願をとげたことから大いに喜んで、自ら飢えた民の安全か危険を調べて、昼となく夜となく全力で慈しみ憐れんだ。これによって、必ずや飢え死にしたであろう数千人の飢えた民が、一人も過って生命を落とすこともまかった。先生の仁術によらなければどうしてこの大飢饉を無事にしのぐことができたであろう、上下これを感嘆した。
ここにおいて領内の復興の道を依頼しようと、大久保侯の直書かつ家老以下の小役人に至るまで連印した依頼書で再び先生に願い出た。先生は言われた。
「下々の民の露命が今日の夕か明日の朝かというように差し迫り私が救わなければ、数千人の民が罪もなくて死亡に陥ったであろう。これを見るに忍びないので、君臣の懇ろな望みにまかせ、これを救助した。国家を再興する道を、どうして私が知る所であろうか」と、固辞して受けなかった。烏山の君臣は再三願って止まなかった。先生は言われた。
「そもそも国を興す事は誠に大業である。天命に安んじ、衰貧の時に随い、天理自然の分度を守り、その艱難に素して艱難に行い、下々の民の安らかに暮せるようになったのを見てその後に共に安んじ、民が一人でも困苦を免れない時は、君主以下一藩の皆が安らかな思いをなさず、民の憂いに先立って憂い、民の楽しみに後れて楽しみ、民を恵む事は、子を育てるようでなければ、どうして衰国を興すことができよう。おのおの方が求める所はそうではない。君の必要な費用が足らず一藩の俸禄が10分の3をも米穀を受ける事ができず、この不足を補おうとして他から借金し、年々君の借財は増し利息は倍増して幾万両となり、どうにもできなくなって、領民から献金させてこれを補おうとし、なお足りない。今年に来年の租税を命じて出させる。下々の艱難はすでに極まって、ついに凶歳となって飢え死に瀕したのではないか。このようにして歳月を送るならば、国が亡びなければ止まない。天地の間の大小それぞれその分限がある。その分に応じて、その必要な費用を制すれば何の不足があろうか。もし分限を破って、いたずらに財宝を費し、不足だけを憂える時は百万石を得てもどうして足る事があろう。5石や10石の者でさえ一家を保って、永くこの世に存立している。そうであるのに烏山3万石があって費用が足りないというのはどうしてか。そもそも3万石とは何の名か。米穀の3万石を産出するという土地のことではないか。3万石の米穀の中にいて米金がないことを憂い、下々の民が飢渇を憂える時は、天下で足るものがあろうか。譬えば米の飯の中に坐って飢えを嘆き叫ぶようなものだ。どうして坐している所がすべて食物であることを知らないのか。今3万石の中にいて、米金がないことを憂える。どうしてこれと異なろう。ただ支出に節度がなく、国の分度を知らないからである。そのみなもとを明らかにして、現在の天命に安んじ、国家が再び盛んなる時に至るまではこの艱難を常とする覚悟がなければ国の衰廃を挙げることはできない。その本が立たないでいたずらに私にその不足を補わせようとするならば、私がどうしてこれに応ずることができよう。なぜかといえば、旧来の負債を私がこれを踏み倒すことはできない。他領の貢税を取って、烏山の不足を補うことはできない。今おのおのが求める所は、一つとして私がこれをよくすることができない。私の道をもって復興しようとするならば、別に道はない。この地の廃亡を挙げた道を移すだけである。この道は他でもない、ただ烏山は烏山の分を守り、艱難の地に安んじ、国民を恵んで、その廃亡を興すだけである。おのおの欲するところに異なるならば、たとえ私の方法を授けたとしてもどうしてその成功を遂げることができよう。止めたほうがよい。」と言われた。
菅谷を始め藩士達は的確な明らかな教えに感じ入って、いよいよ上下心を同じくして協力してこの道を行います。どうか先生指揮してくださいと請うた。先生は止むを得ず、烏山藩の分度の基礎を定めようと言われた。
「そうであればまず天分の基本を明らかにしなければならない。論語に曰く、故(ふる)きを温(たず)ねて新しきを知ると。烏山領内の租税の豊作及び凶作10年を調べ、これを平均し、その天命のあるところを察して、これからの分度を定めなければならない。おのおの古い帳簿を持って来てすぐに調査しなさい。私がその至当を示そう。」と言われた。
家老以下大変に喜んで、すぐに烏山に帰って、再び桜町に来た。先生は烏山藩の役人数十人を陣屋にいさせて、飲食から衣服に至るまで心を尽して給し、数カ月で豊凶十年の調査が成った。そして衰時の天命のあるところ、自然の分度を確立して言われた。
「この後、君臣共にこれを守るならば、必ず廃衰が再復することは疑いない。およそ世の盛衰・存亡・興廃は一つとしてこの分度から生じないものはない。早く烏山に帰って、群臣と共にこれを決しなさい。」と教えられた。家老以下烏山に来てこれを評議し、数日で一決した。ここにおいて再三先生に復興の道を請うた。先生再び米や資金を出して、烏山領村の廃地を興させた。下々の民は飢渇を免れて、大変に感激して開墾に尽力し、1,2年で旧来の廃地を開く事224町、産出した穀物2,000俵に及んだ。先生は言われた。「烏山藩に何万の廃田、幾万の借金があっても、分度外の生産の穀物が年々2,000俵を得るならば旧来に復する道は難しくはない。ただ上下ともその分度を守るかどうかによるのだ。」と、人々は先生の仁心・大智を驚歎しないものはなかった。

【補注報徳記】上巻141ページ
 烏山侯は当時江戸にあった。菅谷は江戸に出る途中、桜町に立ち寄り、天保7年(1836)9月23日(円応が始めて先生に会って感激したのが9月4日)、円応の案内で先生に始めて面会した。菅谷は先生の明教に驚嘆し、先生の指導によれば必ず目的を達成するとの自信を得た。江戸で烏山侯に説明し、重役の御前会議を経て、仕法依頼を決定した。烏山藩から小田原藩に、先生を借り受けたい旨申し入れたところ、貸すことはできないが、相対(あいたい)で依頼することは差支えないと回答を得た。菅谷は直書を携えて江戸を出発し、11月2日桜町に立ち寄り、正式に仕法を依頼した。先生は藩政の天分調査、分度確立、荒地開発及び借財返済が根本的方策であることを述べ、それを実行する決意があるならば、救急の方策を講じようと承諾され、救助米を即座に提供することを約束された。救助米は11月26日の白米50俵を始め続々と送られた。

報徳記  巻之三

【4】天性寺円応和尚先生に鮎を贈る

天性寺(てんしやうじ)住僧(ぢゆうそう)円応(えんおう)和尚、先生の大徳良法を仰ぎ、菅谷某(すがやぼう)と力を合せて百姓を諭(さと)し、勧農(くわんのう)の道を説き、永安の道は先生の良法に止(とま)れりと、心を尽(つく)して之を導き、領民の安堵(あんど)を求めて他念ある事なし。
此(こ)の故に志を励(はげ)まし、力を仕法に尽(つく)すもの頗(すこぶ)る多きに至れり。
一時(じ)川流(せんりう)に網を張り、自ら川に入りて鮎を取る。
人々之を怪(あやし)み、殺生(せつしやう)は仏の大いに戒むる処(ところ)なり。
然るに菩提寺の僧として自ら此の殺生を為(な)すこと、豈(あに)本心ならん。
和尚(をしやう)発狂(はつきやう)せるもの歟(か)と、大いに嘲(あざけ)り笑ふ。

或人(あるひと)問ひて曰く、
貴僧自ら殺生(せつしやう)をなす。
何の謂(いは)れかあるや。
円応曰く、
仏経に説く所大いに殺生を禁戒す。
然れども愚僧の行ふ所は仏意(ぶつい)に合(かな)へり。
或人(あるひと)曰く、仏(ほとけ)の戒を破りて其の意(い)に合(かな)へりとは何ぞや。
曰く、
我が君(きみ)凶年に当(あた)り、数千の民命(みんめい)を失はん事を歎(なげ)き玉ひ、二宮先生に救荒(きうくわう)の道を求め、以て数千人を活(いか)せり。
 先生なくんば無罪の人民、空(むな)しく命を失はんこと必(ひつ)せり。
 我此の人の労(らう)を聊(いさゝ)か謝せんとすれども其の道を得ず。
此の鮎を取りて先生に贈らば、先生僧の微志(びし)を賞して之を食し、少(すこ)しく其の気力(きりょく)を補わんか。
彼(か)の大人(たいじん)の気力(きりょく)を補ふ時は、此の国(くに)の民必ず困窮を免(まぬが)るのみにあらず。
君公(くんこう)以下其の心を安(やす)んじ玉ふべし。
然らば其の功徳(くどく)豈(あに)大(だい)ならずや。
此の鮎も大人(だいじん)の腹中(ふくちゅう)に入り、其の元気(げんき)を補ひ、万民(ばんみん)の苦を除く時は、僅々(きんきん)たる生物(せいぶつ)身(み)を殺して成仏(じやうぶつ)せんこと疑ひなし。
是(こ)の如くにして余(あま)り有らば、之を市に鬻(ひさ)ぎ、代銭(だいせん)となし、窮民撫育(ぶいく)の資金に加へん而己(のみ)。
是亦(これまた)広大(くわうだい)の功徳(くどく)にあらずや。
鮎の力、何を以て人の艱苦を救ふことを得ん。
今我に依りて無量の功徳をなし、成仏する事を得。
釈尊(しやくそん)之を見玉はゞ、必ず手を拍(う)ちて歎称(たんしやう)あらん。
元より俗人の知る処(ところ)にあらずと云ふ。
他を省ずして許多(きよた)の鮎を捕り、寺に帰(かへ)り、僕(ぼく)に此の鮎を荷(にな)わせ、自ら桜町に至る。
路人(ろじん)之を怪(あやし)み、彼の僧鮎を多分に持ち往(ゆ)くは何事ぞやと誹(そし)る、
円応(ゑんおう)自若(じじゃく)として聞かざるが如し。
桜町に至り、鮎を出して曰く、
野僧(やそう)自ら先生に呈(てい)せんとして此の鮎を取り持ち来れり。
先生それ之を受けよ。
先生其の意を察し、悦び之を食せり。
一二日桜町にありて黙然たり。
卒忽(そつこつ)として暇(いとま)を乞ふ。
先生曰く、
和尚来ること豈(あに)啻(ただ)ならんや。
今一言なくして帰るは何ぞや。

円応謹みて答へて曰く、
初め来る時は我思慮の当否を問わんとす。
先生の目前に在ること二日、胸中既に了然たり。
先生を煩(わずらわ)すに足らず。
烏山の処置既に決せり。
必ず労し玉ふことなかれと云ひて去る。
先生歎じて曰く、
円応烏山に在りて国事を憂ひ、国家の大事を問はんとして此の地に来る。
二日にして言語を待たず、其の事胸中に了然たり。
今(いま)の時に当り、彼の僧の如きものは多く得難し
 と歎賞せり。
和尚烏山に帰り、屡(しばしば)鮎を捕り、残らず市に鬻(ひさぎ)て代銀となし、之を安民仕法入用の財に加へたり。
後諸人も其の意を悟り、得難き知識なりと感ぜりと云ふ


報徳記  巻之三
 【4】天性寺円応和尚先生に鮎を贈る
 
 天性寺の住職の円応和尚は、先生の大徳と良法を仰いで、菅谷と力を合せて百姓をさとし、農業に出精する道を説いて、永安の道は先生の良法以外にないと、心を尽してこれを導き、領民の安らかに暮せることを求めて他念がなかった。このため志を励まし、力を仕法に尽す者も大変多くなった。
ある時、川の流れに網を張って、自ら川に入って鮎を取った。人々は怪訝に思った。殺生は仏が大いに戒めるところだ。それであるのに菩提寺の僧が自らこの殺生を行う、正気の沙汰ではない。和尚は発狂したのではないかと、大変に嘲り笑った。
ある人が問うた。「貴僧が自ら殺生を行う。どういう理由があるのですか。」円応は答えた。「お経では、おおいに殺生を禁戒している。しかし愚僧の行う所は仏の御心にかなっている。」と。
ある人は言った。「仏の戒を破ってその御心にかなっているとはどういうことか。」
和尚は言った。「わが君が凶年に当って、数千の民命を失われる事を嘆かれて、二宮先生に救済の方法を求め、数千人の命を救うことができた。先生がなければ無罪の人民が、必ず空しく命を失ってしまったであろう。私はこの人の労をいささかでもお礼したいがその道を得ない。この鮎を取って先生に贈るならば、先生は愚僧の微志を賞してこれを食べ、少しはその気力を補われるであろうか。かの大人の気力を補う時は、この国の民が必ず困窮を免れるだけでなく、君公以下その心を安らかにされることであろう。そうであればその功徳はどんなにか大きいことか。この鮎も大人の腹の中に入り、その元気を補って、万民の苦を除く時は、小さな生き物の身を殺して成仏することは疑いがない。このようにして余りが有れば、これを市場で売払って、代金を困窮した民を恵み育てる資金に加えるだけだ。これもまた広大の功徳ではないか。鮎の力でどうして人の艱苦を救うことができよう。今、私によって無量の功徳を行ない、成仏する事ができる。釈尊がこれを見られるならば、必ず手をうって嘆称されることであろう。もとから俗人が知るところではない。」と言った。他を省みないでたくさんの鮎を捕って、寺に帰って、下僕にこの鮎をになわせ、自ら桜町に来た。通りすがりの人はこれをいぶかって、僧侶が鮎をたくさん持ち行くのはどうしたことかと誹った。円応は落ち着いて聞いていないようであった。桜町に来て、鮎を出して言った。
「野僧自ら先生に差し上げたいとこの鮎を取り持って来ました。先生どうかこれを受けてください。」
先生はその意を察し、喜んでこれを食べられた。和尚は1,2日桜町にあって黙っていた。急にあわただしく暇乞いをした。先生は言われた。
「和尚が来たのは何か大事な用があったのであろう。今一言もなく帰るのはどういうわけか。」
円応は謹んで答えた。「初め来る時は私の思慮の当否を質問しようとしました。先生の目前に在ること2日、胸中既にはっきりとしました。先生をわずらわすに足りません。烏山の処置は既に決しました。必ず心配されることはありません。」と言って去った。先生は嘆じて言われた。
「円応は烏山に在って国事を憂い、国家の大事を問おうとこの地に来た。2日で言語を待たないで、その事の解決が胸中にはっきりとした。今の時節に、かの僧のような者は多く得がたい。」と嘆称された。和尚は烏山に帰って、しばしば鮎を捕って、残らず市に売払って代金とし、これを民を安らかにする仕法に必要な資金に加えた。後に人々もその意思を悟って、得難い僧侶であると感動したという。



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