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報徳記巻之七【4】相馬郡村に発業す

報徳記  巻之七 

【4】相馬領郡村の歎願に応じ良法を発業す

相馬領中僅(わず)かに三四の邑(むら)に良法開業に及び、邑民(いふみん)の疾苦を除き永安の道を与(あた)ふ。
誰(たれ)か恩沢の厚きに感激せざらんや。
諸郷(しょごう)村々其(そ)の正業を見、其(そ)の教諭を聞き、此の仕法に依(よ)つて数十年の艱苦を免れんことを欲し、互ひに旧弊(きうへい)を革(あらた)め業(げふ)を励み、誠意米金を積み良法発業を歎願せり。
宇多郷(うたがう)に於(おい)ては赤木立谷(たちたに)両邑(りやういふ)中(なか)の郷(がう)にて二十二ヶ村小高郷(おだかがう)に於て十二ヶ村北標葉郷(きたしめはがう)にて高瀬村互(たがひ)に其(そ)の後(おく)れんことを恐る。
池田大夫(たいふ)此の事情を以て開業を先生に請ふ。
先生曰く、
夫(そ)れ大業を成(な)さんとして速やかならんことを欲して、一時に数十ヶ村に手を下す時は、撫恤(ぶじゆつ)教導(けうだう)共に周(あま)からずして、下民(かみん)の望みに満つることあたはず。
遂(つひ)に事を廃するに至らざるを得ず。
君(きみ)仁沢を下すこと厚き時は、下民(かみん)誰か悦服(えつふく)せざるものあらんや。
早く仕法(しほふ)の仁沢を得んと欲し、歎願すること是(これ)人情の然らしむる所なり。
若し其の願ひに応じ一時に事を発せば、事業の廃する事是より始まらん。
故に固く執(と)りて其の求めに応ぜず。
開業の邑(むら)を恵み、其(そ)の不足を補ひ、其(そ)の憂ひを除き、大小貧富を論ぜず邑民(いふみん)一人の困苦なきに至らば、其(そ)の邑(むら)始めて仕法成就せりといふべし。
然る後に他邑(たいふ)に推(お)し及ぼすべし。
夫(そ)れ水は必ず卑下(ひか)に流る、穴に満ちて然る後に進む。
卑地(ひち)未だ満たずして其(そ)の前に流るゝの理なし。
是れ水の自然にして疑ふべからざるものにあらずや。
今国君(こくくん)仁を下して開業の貧村未だ全く困苦を免るゝにあらず。
困窮を免れざる者、何ぞ水の卑地(ひち)に満たざるに異ならんや。
仁沢(じんたく)未だ満たずして他村に発することを急とせば、自然の理に差(たが)ひ遂(つひ)に仁術無量の仕法を以て、目前撫育(ぶいく)而已(のみ)の小道に陥り、人民も亦(また)大いに其(そ)の望みを失はん。
下民(かみん)望むを失ふ時は何をもって大業成就することを得んや。
是の故に一邑(いふ)全く旧復(きうふく)に及びて、然る後に其の二に及び、其の二全く富(と)みて然る後其(そ)の三に及び、幾百千邑(いふ)と雖も其(そ)の順路是の如し。
是れ迂遠(うゑん)なるが如しといへども天地間の万事(ばんじ)是より順なるはなく、是より速やかなるはなし。
仮令(たとひ)百千里の道を速やかに行かんと欲すといへども、一歩より発するの外に道なきが如し。
如何(いか)ほど速やかならんことを求むと雖も、一歩に二歩を重ぬることあたはず強(しひ)て重ねんとする時は倒れん而已(のみ)。
況(いはん)や百歩を一歩に走るの道あらんや。
幾万町の廃田を起さんとするも一鍬(いつしう)より手を下し、二三と順を以て進むなり。
万物の理(り)定(さだま)りありて知力の及ぶ所にあらず。
語(ご)に言はずや
速やかならんと欲する勿れ 小利を視る勿れと。
何ぞ国家(こくか)の衰廃を挙げんとして此の理に随はず、早く成就するの道あらんや。
諸郷(しょがう)村々一時に仕法を歎願せば、教ふるに道を以てし、諭(さと)すに勧農を以てし、其の所行(しょぎやう)郡中に抜出(ばつしゆつ)するに至らば速やかに良法を下すべし。
阜大(ふだい)の仁沢(じんたく)を布(し)くこと数十百邑(いふ)同時の及ぶところに非ずと教示して、容易に其の求めに応ずることなかれ。
是れ則ち大業(たいげふ)成就の道也(なり)
 と云て更に発業(はつげふ)を許さず。

両大夫(たいふ)先生の的論を感じ此(こ)の理(り)を以て邑民(いふみん)を諭(さと)すといへども、数度の歎願止む時なく貧民脱力の憂ひを生ぜんことを恐る。
後(のち)再び先生に事情を尽して開業を請(こ)ふ。
先生曰く、
領中民情(みんじやう)是(こ)の如く切(せつ)なるに至りて、久しく発せずんば誠意を失ふの憂ひなしと云ふ可(べか)らず。是に於(おい)て其(そ)の善邑(ぜんいふ)を選(えら)み仕法を下(くだ)さしむ。
宇多郷(うたがう)赤木(あかぎ)立谷(たちたに)両村(りやうそん)願ひに応じ仕法を発し、之に次(つ)ぐに北標葉郷(きたしめはがう)高瀬村(たかせむら)を以(もつ)てす。
小高郷(こたかがう)歎願十二邑(いふ)をして中にも誠意勤業諸村に抽(ぬき)んでたる村を選出せしむ。
諸村封書(ふうしょ)にして出(いだ)せり。
村上村(むらかみむら)第一たり。
是(これ)に於(おい)て同邑(どういふ)に仕法を発す。
其の次は中の郷(がう)二十二ヶ村に命ずるに小高郷(こたかがう)選邑(せんいふ)の旨を以てす。
深野村随一(ずゐいち)たり。
即ち此の邑(むら)に発業(はつげふ)し大いに仁沢(じんたく)を施し下民(かみん)の疾苦(しつく)を除き、永安の道を示し教(をし)ふるに篤実勤業(きんげふ)仁譲(じんじやう)の道を以てす。
于時(ときに)弘化(こうくわ)四未(ひつじ)の春三月なり。
仕法の仁術を得たりし村々感動憤発して旧弊(きうへい)を除き日々(にちにち)未明より夜半に至るまで勤業(きんげふ)怠らず。
遠近(ゑんきん)の諸村益々(ますます)之を慕ひ互(たがひ)に業を励(はげ)み良法を希望すること旱年(かんねん)に雨を望むが如し。
百年来の怠惰無頼(ぶらい)の汚俗流弊(りうへい)此(こ)の時に一洗(せん)し始めて農事勤倹の尊き所以を弁(わきま)へたり。
人々良法の験(しるし)顕然たることを驚歎せりと云(い)ふ


報徳記  巻之七 
 【4】相馬領郡村の歎願に応じ良法を発業す
 相馬領内にわずかに3,4の村に仕法を開業し、村民の悩み苦しみを除いて永安の道を与えた。恩恵の厚いことに感激しない者があろうか。諸郷の村々はその事業の正しさを見て、その教えを聞いて、この仕法によって数十年の艱難辛苦を免れようと欲して、互いに古くからの弊害をあらためて仕事に励んで、誠意をもって米金を積んで仕法を開始することを歎願した。
宇多郷では赤木・立谷両村、中の郷では22村、小高郷では12村、北標葉郷では高瀬村。互いに遅れることを恐れた。池田家老はこの事情を先生に説明し開業を求めた。先生は言われた。
「そもそも大業をなそうとして速やかならんことを欲して、一時に数十ヶ村に手を下す時には、慈しみ憐れみや教え導き共に十分にいきわたらないで、村民の望みを満たすことができない。ついに事業を廃するに至らざるを得ない。君主が仁恵を下すことが厚い時は、人民が喜んで服さない者があろうか。早く仕法の仁恵を得ようと欲して、歎願することは人情の然らしめる所である。もしその願いに応じて一時に事業を開始すれば、事業が廃する事はこれから始まるであろう。だから固くとってその求めに応じない。開業した村を恵んで、その不足を補って、その憂いを除いて、大小や貧富を論じないで一人の村民も困苦することがないようになれば、その村は始めて仕法が成就したというべきであろう。その後に他村に推し及ぼすがいい。そもそも水は必ず低いところに流れる、穴に満ちてその後に進んでいく。低い地がまだ満たないでその前に流れるという理はない。これが水の自然であって疑うことができないものではないか。今、国の君主が仁を下して、開業の貧村がまだ全く困苦を免れてはいない。困窮を免れない者は、水が低い地を満たさなのとどうして異なろうか。仁恵がまだ満たさないうちに他村に開始することを急とするならば、自然の理にたがい、ついに無量の仁を行う方法である仕法を、目の前の恵み育てることだけの小道に陥らせ、人民もまた非常にその望みを失うであろう。人民が望みを失う時はどうして大業を成就することができようか。このために一村が全く旧復して、その後にその二に及んで、その二が全く富んでその後にその三に及んで、幾百千村であってもその順路はこのようである。これは迂遠なようであるが、天地間のすべての事はこれより順であることはなく、これより速やかなことはない。たとえ百千里の道を速やかに行かんと欲しても、一歩から踏み出すほかに道はないようなものだ。どれほど速やかなことを求めても、1歩に2歩を重ねることはできない。しいて重ねようとする時は倒れるだけである。まして百歩を1歩で走る方法があろうか。幾万町の廃田を起すときも一鍬から手をおろし、2,3と順に進むのである。万物の理は定まりがあって知力の及ぶ所ではない。論語に言うではないか、『速やかならんと欲するなかれ 小利を視るなかれ』と。国家の衰廃を挙げようとしてこの理に随わないで、早く成就する方法があろうか。諸郷の村々が一時に仕法を歎願するときは、道を以て教え、勧農を以て諭し、その行うところが郡中に抜ん出ているようであれば速やかに良法を実施するがよい。莫大の仁恵を実施することは数十百村に同時に及ぶところではないと教え示して、容易にその求めに応じてはならない。これが大業を成就する道である。」と言われて更に開業することを許されなかった。両家老は尊徳先生の的確な論議に感動してこの理で村民を諭したが、歎願は繰り返し止む時がなく貧民が力を失う憂いを生ずることを恐れた。後に再び先生に事情を尽して開業を求めた。先生は言われた。
領内の民情がこのように切実になって、久しく開業しなければ誠意を失う憂いがないというべきではない。ここにそのよい村を選んで仕法を実施した。宇多郷の赤木・立谷の両村が願いに応じて仕法を開業し、これに次いで北標葉郷の高瀬村を選んだ。小高郷の歎願した12村の中に誠意・勤業が諸村にぬきんでていた村を選出させた。諸村が封書で出させた。村上村が第一であった。ここに同村に仕法を開始した。その次は中の郷22村に小高郷によい村を選ぶことを命じた。深野村が随一だった。そこでこの村に開業し非常に仁恵を施して人民の悩み苦しみを除いて、永安の道を示し、篤実勤業仁譲の道を教えた。
 時に弘化4年(1847)の春3月だった。仕法の仁術を得た村々は感動し憤発して昔からの弊害を除いて、日々朝早くから夜半に至るまで仕事に勤めることを怠らなかった。遠近の諸村はますますこれを慕って互いに仕事を励んで仕法を希望することは日照りに雨を望むようであった。百年来の怠惰や無頼のよくない風俗や以前からの悪弊はこの時に一洗して始めて農業に勤めることや節倹の尊い理由が理解できた。人々は良法のしるしが明らかであることを驚歎したという。


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