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「報徳秘稿」 【301】~

【326】一 衣氏(衣笠兵太夫)唯(ただ)善を好(こ)のみ、大嶋の年賦金を不責(せめず)して屋根をふきやらんと云(いう)。あやまり也。

【410】天道は自然にして、人道は作為なり。これを枯葉庭に落ちるに譬う。日に落ちるもの、天道にして、これを掃うもの人道なり。掃えば則ち落つ。是れ自然に非ず。落ちれば則ちこれを掃う。是れ作為に非ずや。宜しく毎朝一たびこれを掃うべし。然りと雖も、一葉落ちる毎に、起て帚を執る。是れ落葉の役する所と為るなり。亦愚ならずや。唯だ天道に委して人道を忽せにせざれば可。人を教るも亦然り。愚人と雖も必ずこれを教うべし。従わざるも、亦憤うる莫れ。又棄つる莫れ。人を教えて従わず。これを憤るは不智なり。これを棄つる不仁なり。不仁不智、君子の為さざるなり。仁智己に備わる。此れを君子の盛徳と為す。
(訳)天道は自然で、人道は作為である。枯葉が庭に落ちるのにたとえると、毎日落ちるのは天道で、これを掃くのが人道だ。掃くそばから落ちる。これが自然というものではないか。落ちるから又掃く。これが作為というものではないか。だから毎朝一度はこれを掃くがよい。けれども、一葉落ちるごとに、庭に立ち出てホウキをとるのは、これは落葉のために使われるものであって、愚かな話だ。ただ天道にまかせきりで人道をゆるがせにするようなことがなければ良いのだ。人を教えるにも同じことがいえる。愚かな者でも、必ず教えるべきだ。従わなくても、怒ってはならない。また捨ててもならない。人を教えても従わないとき、それを怒るのは不智というものだ。これを捨てるのは不仁というものだ。不仁と不智とは君子のとらぬところであって、仁智が身に備わるのを君子の盛徳とするのだ


【448】一 衣氏曰(いわく)、円次・房次(下館領灰塚村)に教諭して、彼等悉(ことごと)く感服せしゆへ、先生に行(いき)て謝り申せと云(いい)し也、と。先生曰(いわく)、子供に手習を教(おしえ)る、一度にて覚へず。

【458】一 灰塚の過去帳・水帳を調(しらべ)るは、円次・房次(2人とも仕法に非協力的だった)が間違より動ざるを以て、無拠(よんどころなく)元へ返りて調(しらべ)る也。平と不平との違、平なれば調(しらべ)るに及ばず不平にて分らざればこそ、正鵠(せいこく)を失すれば、反(かえ)って諸(こ)れを其(そ)の身に求むと。
 鍬をぶつさして不動(うごかざ)れば、跡へ戻て興す也。

【466】一人の生れ生るるは網の目の如し。父母合うて我が身となる。我が身亦他に合うて子を生ず。網の結び目也。

【501】 天朝、至尊の一天四海の君として、一国をだに有せず、僅々の天領をもって安んじたまう。大なるかな。これ神国の極道なり。異域の聖教賢伝、何をかなさん。西竺の仏経、何ぞ用いん。この道を押し広むるときは、世のなか無為、仁義の化(か)行われ、風雨時に順い、五穀豊熟、天下安穏なるべし。面々、匹夫匹婦に至るまでこの道を守るときは、国家安泰なるべし。人この大道なることを知ることなく、ただ至尊の不幸・衰微と愁悲す。あやまらずや。たとい至尊自ら譲りたまうにあらずとも、これ神国の神化の然らしむるなる自然にして、大道に当たれり。如何となれば、皇太神以来世々の皇帝、御丹誠を尽くしたまい安穏に治めたまい、これを臣下に附与して、自ら小禄を受けて玉体を安んじたまう。天地万世、滅びたまうということなし。このごとく天朝の赫々たる明道、神道の極と称すべきを知るものなく、世に和学者と称するもの、またこれを知らず。われ、この理を記さんと思えども、いまだ筆を立てず。天地開闢、草木禽獣・人倫を生ずる順序を、眼前の理をもって明弁し、天朝の万国に冠たる上国なることを記し、もって至尊の大道、神道というもの、これに限ることを明記すべし。

【516】凡て事には本末あり。農は本也、余は末也。譬ば法華経を村中、男女・老若、押
しなべてよみいたらば、三年も持つまじ。護摩を焼くとて家を残らず焼き尽くすとも、亦何の益かあらん。食あつて後、神仏も有難し。食を以て命を養ひ、然る後其の憂る処を除くが為にこそ薬を呑むべし。然らば、村中残らず行いて差支え無き事を土台となすべし。農業出精を土台として、然る後仁義礼智の薬をもるべし。之を本立って道生ずと云うなり。

【566】先生下館の大夫(たいふ)に告(つげ)て曰(いわく)、天に寒暑あり、世に治乱あり、国に盛衰あり。是(これ)自然の数也。国の盛衰は国政の得失にあり。国政非なる時は民窮し、荒蕪生じ、貢税減ず。夫(そ)れ、国は乱世なれば、存亡朝夕を期せずといへども、治世には亡滅の期なし。治平の久(ひさし)き、永く国を領するもの、其(その)衰廃の時に当(あたり)て、何ぞ之を修復せざるべけんや。譬(たとえ)ば一身の衣着(きる)すら新(あらた)なるに典せば、洗濯の苦なけれども、永く之(これ)を衣(き)るには、時々洗濯せざるを得ず。又、垢付(あかつく)ときは自ら洗はんと思ふ心生ず。是(これ)自然なり。然らば一身の衣(ころも)すら永く用(もちい)るには洗濯せずんばあるべからず。況(いわん)や国家に於(おいて)てをや。下館の如(ごと)き、戉戌(つちのえいぬ)(天保9)年に至て衰廃極り、君臣挙(あげ)て興復の法を乞(こ)はれたり。予が法とて別に奇術なし。如何(いか)なる請託(せいたく)ありとも、荒地の中より貢(みつぎ)を取立ることもならず。又、他領より貢(みつぎ)を取ることは、尚(なお)ならず。又、借財を他より断ると云(いう)にも至らず。然らば、借財は返し、荒地は貢(みつぎ)を免じ起し返す外なし。若(もし)借財は返すべきもの、荒地は起すべく、貢(みつぎ)より外一銭も出べきなきことを知らば、之(これ)を為すに大道あり。夫(それ)、下館二万石領して不足を称するは、分を不知(しらざる)がゆへ也。下館闔封(こうふう)(全領)外茫々(ぼうぼう)たる蒼海(そうかい)にて、二万石が一天四海の君と思召(おぼしめさ)ば、何ぞ他に求(もとむ)るを得ん。他に求(もとむ)るを得ざれば、二万石を以て国用を制するより外なし。是を分を知(しる)と云(いう)。苟(いやしく)も此(この)分知り、二万石を度となす時は、借財は何万両ありとも返済すべく、荒地何千丁ありとも改(あらため)開くべし。夫(そ)れ法界、碗の欠たるにても無賃にて直しくれるものなく、屋根屋に、汝が葺(ふき)たる屋根也、唯(ただ)破れを繕(つくろ)へと責むとも、決して賃銭なふして補ふものなし。予(よが)道は一粒一銭も受けず、無賃にて廃国を修復すべし。上下感激して頻(しきり)に求めらるるにより、十ヶ年の貢税を平均して分度となし、借財の利足の為に拾ヶ村を除き、全く残れる処を以て国用を制す。故に藩臣の禄俸、下館弐(に)割八分、江戸壱(いち)割九分三厘の減少を掛(かけ)たり。此(こ)の度確立して今に至らば、一国興復は勿論、他邦にも及すべし。然(しかる)に分度破れて、荏苒(じんぜん)(歳月が過ぎるにもかかわらず何もしないでいること)として今に至れり。今又再興するには、此(この)本を極め分度を定めざることを得ず。何となれば分度を立ずして此(この)法を施す時は、必(かならず)聚斂(しゅうれん)(厳しく租税を取り立てること)に陥る。伝に曰(いわく)、其聚斂(しゅうれん)の臣あらんよりは寧(むしろ)盗臣あれ、と云(いへ)り。盗臣の君財を盗むは、庫中(こちゅう)の財を失するに過ず。聚斂(しゅうれん)は民を亡す。一民を失へば一民の貢(みつぎ)永年欠け、一村を亡ぜば一村の貢永年欠べし。是(これ)可悪(にくむべき)の甚しきもの也。譬(たとえ)ば五所宮村の如き<下館領の隣邑小宮山氏の菜邑>古へ、検地して高四百石とす。宝暦の改(あらため)、貢税二百俵に過ず。是二百石の高相当なり。然るを四百石とするも聚斂(しゅうれん)の臣の所為(しょい)なり。何ぞ君の責を受(うけ)るとも、正当に二百石又百五十石とも検地する時は、必ず衰亡の憂なし。元来二百石の地を四百石となすを以て衰亡極り、貢税半(なかば)を減じ、君臣とも永久の憂(うれい)となる。聚斂(しゅうれん)の可恐(おそるべし)、如此(このごとし)。苟(いやしく)も我(わが)道分度を不立(たたざる)時は、此(この)聚斂(しゅうれん)に陥る。故に容易に施すことを不得。此(この)道一村に施すときは一国中進むこと、譬(たとえ)ば一束(たば)の薪(たきぎ)中一本を打込ば、一束(たば)薪(たきぎ)中厳を加(くわう)るが如し。或(ある)人粟蒔(あわまく)の時節を問れ、茶碗へ一盃入(いれ)て人のさはらざる処へ置けば、時来れば必ずこぼるるもの也。是可蒔(まくべき)の春也と云(いえ)り。又、米の如(ごと)き、已(すで)に米となり俵にありといへども、八十八夜には必(かならず)倍す、一俵にして二升も増すもの也。是生(しょうぜ)んと欲する気を含めば也。土用を越せば、必ず一俵にして二升も減ず。是最早(もはや)生(しょうず)ることならぬと云(いう)、力を落せば也。此(この)道も亦如此(このごとし)。一村に施し仁政を唱(となう)るときは、一国中進(すすん)で必(かならず)貢(みつぎ)を増す。之を人気進んだりとか、又時候宜(よろ)しとか称して分内に入る時は、又大(おおい)に此(この)道を施(ほどこす)の用出る所なし。苟(いやしくも)此(この)道遍(あまね)く行うこと不能(あたわ)して廃する時は、一国中迚(とて)も仁政に浴するあたはずと脱力す。脱力する時は必ず産粟減じ、衰亡の根となる。其(その)聚斂(しゅうれん)に陥ること、豈(あに)恐れざるべけんや。然らば今又此道再興すとならば、先(ま)づ其(その)本を糺(ただ)し分度を明(あきらか)にするときは、又藩臣の禄俸の減少にかかはる。故に止(とめ)るに不如(しか)。吾若(もし)下館に事(つかへ)て立身せんとにもあらば、分を不定(さだめず)して此(この)道を施し、上下の気に入んことを為(なさ)んか。吾は不然(しからず)。立身すべき望(のぞみ)なく、又一粒一銭の利を得べきにあらず。唯(ただ)君臣の御頼(おたのみ)に由(よ)るのみ。何ぞ諂(へつらい)て聚斂(しゅうれん)を為し、上下の害を引(ひか)ん。故に告(つげ)るに道を以てす。

【579】世の中、虚言にても間に合うよう也。是はその相手も虚なれば也。虚と虚ゆえに障りなし。問屋場人足の如し。若し実に対する時は必ず合わざる也。譬えば百文の銭を一文取り九十五文迄は違いなし。九十六文目に至れば不足あり。一房の縄を一尺切れば十九ヒロまでは不足なし。20ヒロ目に至て不足生ず。是必然、虚言虚行の実に対するべからざる、かくの如し。

【591】『師冕(しべん)見ゆ、階に及ぶ、子曰く、階なりと。席に及ぶ。子曰く、席なりと。皆坐す。子之に告げて曰く、某(なにがし)は斯(ここ)に在り、某は斯に在りありと。師冕出づ。子張問いて曰く、師と言うの道かと。子曰く、然り、固(もと)より師を相(たす)くるの道なり』と宣う。予が教える道、まず分限を調べ、汝の家株田畑反別何町歩、この作益金年何程、内借金何程引き、残金何程。是汝が一年暮らすべき天命自然の分数也と云う。是又心盲その道を知らずして困窮するものを助るの道なり。

【632】夫れ、天地の間に体を現し生々するもの、有情の鳥獣・虫魚は論なし。無情の草木に至るまで終日終夜、食を求め、相共に相奪うて止まず、父子兄弟といえども譲ることなし。蛇の蛙における、猫の鼠における、甚だ悪(にく)むべきが如し。然りといえども、是れ天性の自然、かくの如くせざれば、性を全うする事能(あた)わざる故なり。人倫といえども、芒々たる太古、神聖未だ出たまわず、人道未だ立たざるの前、何ぞ是れに異ならんや。天照大神天降らせたまい、己を推して人に譲り、相助けて相養うの道を立させたまえてより、鍬を作って耕し、鎌を作って刈り取り、宮室を作って風雨雪霜を支え、衣類を製して寒暑を凌ぎ、鍋釜を作って火食し、府庫を作りて蓄積をなし、夫れよりして相続き、代々の神聖出させたまい、万事万物備えざる事なき事、この如く今日に至る。実に極楽浄土と云うべし。是れ、只一の譲より致し来るなり。然るに、禽獣の道、太古より数千万歳相続いて絶えず。然りと雖も、今日に至りて明日の為に食を蓄うることだも能(あた)わず。是れ何ぞなれば、譲の一字を知らざればなり。故に父子ありといえども父子の道なく、夫婦ありといえども夫婦の道なく、兄弟ありといえども兄弟の道なく、朋友ありといえども朋友の道なし。又、君臣の道なし。故に疾病・老幼相助けず。常に力を以て相凌ぎ、病ある者は病て死し、老ものは老て窮し、強者は常に伸び、弱きものは常に屈す。是れを人倫に見ば、誰か能く忍ばんや。皆奪を知りて譲をしらず。相生養するの道なければなり。夫れ、人は是れと異なり、太神以来譲道立ち、今日は明日の為に譲り、今月は来月の為に譲り、今年は来年の為に譲り、前代は後代の為に譲り、後世は又後世の為に譲り、世界相続を為す。譬えば昨年の米穀を食して、来年の米穀を作るが如く、受けては譲り受けては譲り、以て人道立つ。この如く譲を以て相続する世界に生じ、譲を以て立る人道に交わり、前聖の恩沢に浴して、衣食住を豊かにし、妻子を私し、而して譲を知らざるもの、何ぞ禽獣と分ん。所謂国賊なる者か。故に予常に曰く、人にして譲を知らざるものは、家を出て穴居すべし。衣服を捨て、はだかにおるべし。火食すべからず。五穀を食すべからず。道を行くべからず。橋を渡るべからず。凡そ、人道作為のもの皆用べからず、と。如何となれば、人道元譲に開け譲に成り、世々代々譲り譲りて、今この如くなればなり。若し前世は後世の為にせず、父兄子弟を育てず、才や不才を養わず、能は不能を憐れまず、富は貧を恵まず、知者は愚者を教えず、貴は賎者を撫でずば、人道これに絶せん。東照神君(徳川家康)曰く、天恩を受けて地に施せ、親恩を受けて子に施せ、仏恩を受けて僧に施せ、と。よくよくこの理を明弁して天道生々・人道相養の徳を報ずべし。按ずるに貝原益翁曰く、本邦の俗、政事を以て仕置きと云う。前代の初聖、後世の為に仕置き、当代の人、又未来世の為に仕置くを云うなるべしと。思い合すべし。

【661】草木は土中に根ざして空中に生ず。一也。故に一粒植て一草一木生ず。土中を離れて生ずる者は、人を始め鳥獣・虫魚、皆半世界に生ずるゆへに、仮に夫婦を作て二人して一子を生ず。

【673】百文の銭、一文とれば九十五文目に至りて不足すること、百間の縄、一尺切れば百間目に至りて不足の事。

【674】譬えば、老子の教えは、木草の根を一々あらわして見するなり。理はしかれども正業に行う時は草木皆枯る。孔子の教えは、ただ草木を説いて、根は知らずも可なりというが如し。仏子の教えは草木を説き、必ず根によりて生育することを説く、糞培を専一に勧めるが如し。

【684】草木土中に根をさして空中に育することを知りて、空中に根ざして土中に育することを知らず。空中に枝葉を発すると、土中に根をはると、道理一般。


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